夜汽車の客

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黒沢 明と勝 新太郎

2019-11-26 17:44:39 | 日記
先日、テレビにあまり関心のない私だが、ふと目にした番組がある。それは今では遠い過去の話になるが、映画「影武者」での主役交代劇のドキュメンタリー番組だった。 久しぶりに時代劇のメガホンをとった黒沢監督が満を持して主役の武田信玄役に勝新太郎を指名した。 勝はよく指名してくれたとばかり、やる気満々で撮影に挑んだ。ところが勝つという人は、典型的な個人主義的な考え方の人だった。一出演者たる勝は監督に先んじて、自分のイメージしたやり方でやろうとした。たとえ監督であろうとも自分の映画に対する信念を貫く。それが俺のやり方だと。これはいかにも無頼の個性派俳優らしい、取りようによれば、与えられた役に心底没頭するという意味においては、見上げた役者根性ともとれる。だが相手は名うての映画人、天皇、黒沢明には通じなかった。スクリーンの隅々まで映画作りのポリシーをいきわたらせようとする黒沢監督にとっては、言語道断な行為であった。 結局は監督の怒りに触れて、勝は降板を余儀なくされた。以上がその当時、黒沢監督の傍で映画製作にかかわったスタッフたちの証言である。
そこで私の手前勝手な感想ではあるが、映画そのものはさすが黒沢の映画だけに、よくできた作品ではある。急遽、代役を託された仲代達也もさすがは名優、立派にこなしていたと思う。だがやはりこの映画は仲代より、勝が演じるべきだったと、詮方ないことながら思ったものだ。 仲代も決して失敗ではないが、勝がやればこの映画に更なる深みと、リアリティを与えられたと推測する。
世間一般の観点からも、経営者と有能な部下との確執はよく起こりがちである。 黒沢さんの立場、状況としての正当性もよく理解できるが、ここは天皇、黒沢であろうとも、一旦譲歩して、勝の言い分を聞いてやるべきじゃなかったかと考える。黒沢さんの映画が好きで、黒沢さんに対し、尊敬の目で見ているからこそそうあるべきだったと今更ながら惜しいことをしたと思う。 








ブログの世界の入り口で

2019-11-24 14:55:34 | 日記
つぃこの間からブログというものを始めた。以来まだ16日しかたっていない入門者である。 そこで手前勝手な感想をいくつか記しておきたい。 まず、ブログ投稿記事の数だが、280万件以上とは驚いた。ひとりいくつもの投稿をしているとしても、相当数のブログ投稿者がいるということだ。 日頃、私の周囲にはブログの話題など耳にすることはほとんどないため、これほどとは思わなかった。 内容はやはり、それぞれの方々の日常の話題、とりとめのない出来事や、ペット、旅行や食べ物の写真などが多い。 これは予期していたことだが、とりとめのない内容に何万ものフォロワーの方がいるのには、これも驚いた。 もはやプロのブロガーと呼んでも通用するほどであろう。 日常生活や仕事や趣味の上でのお付き合いでは、人は(特に一般的市井の日本人の方々)あまり、本音を語ることを差し控える。それが社会生活を円滑に進める上では不可欠であると信じ込んでいる。 それでもそうした人たちも、豊かな感受性を持ち、心に浮かぶ様々な思いのたけを吐露したいという欲求は旺盛なものがあるに違いないと、ブログの新米として感じ入ったしだいである。

行間を読む

2019-11-24 11:37:48 | 日記
小学校で文字の読み書きを習って以来、一体どれくらいの文字を読み、書いたことだろう。近ごろでは文字を書くという行為が、パソコンの普及以来激減し、そのせいか人々の文字を書く能力も衰退の一途をたどっているように見える。 読むという行為も、スマホの便利さのおかげで、新聞の定期購読者が激減しているそうだ。これも世の中便利になったためのbacklashのひとつと言えるだろう。そこで思うに情報がこれだけ氾濫し、かつ安易に得やすくなったために、人によってはあまり考えずに鵜呑みにしてしまう傾向もあろう。 況や種々の情報や見解はその提供者当人の独善性の強いものもある。したがってそれを安易に受け入れるのは、時によってはおよそ真実とは乖離した見方を持ってしまうリスクを冒す結果にもなる。 そこで求められるのは、受け取りての行間を読む能力が必要とされる。それにはたくさんの書物を読み、種々選択の感性を養うことも肝要かと考える。

上野行き急行 八甲田 その5

2019-11-23 16:34:12 | 日記
「この列車は青森駅を定刻に発車致しました。それではこの列車の停車駅と到着時刻をご案内致します。」車掌の型通りの案内放送が済むと、喧噪の青森駅を出た列車はほどなく静寂に包まれ、夜の闇の中、単調な振動を繰り返しながらひた走る。早くも下段の寝台からは寝息が聞こえる。 札幌駅を発っておよそ11時間余り、ほとんど寝てはいない。 かねてからの念願だった単身での旅が実現して、神経は冴えわたり、寝てる暇などないといった心境だった。 学生服にウールの半コート、大きなバッグを抱え、気分だけはもはや、大学生にでもなったかのように、大人の週刊誌など買い求め、親元から離れた自由な身とは、かくも開放的なものかと思ったものだ。隣の寝台の中年男が「学生さんはどこまで?」「東京の学校かい?」 などと尋ねられた私は、途端に大人になったような気恥ずかしい思いをしたのだった。

一陣の風の如く

2019-11-22 17:01:00 | 日記
英語にgive and take という単語がある。日本語にすると “持ちつ持たれつ” とか”相互扶助”といった意味になるだろうか。社会的な意味においては、ままならぬ世を生きて行く上で、欠くべからざる要素である。ただ、すべからく人間は見返りを求めるものである。被災地のボランティアにしても自己の無償の行為に対する世間の然るべき賞賛や評価を内心では期待するはずだ。禅の理念である無においては、施しは受けるが、見返りは求めない。ただひたすら、一心不乱に
物事を遂行する。そこに理屈などない。最近、私的な痴れ事のようなブログを始めた。こんな些細な俗事においても、反応に一喜一憂する我が 俗物性に自身の未熟さを知る。