大学の文化祭という慌しい時季のなか、『ボヌール・デ・ダム百貨店』を読みきることができました。今思えば、この本を読めたのは物語の構成力あるいはゾラの才がなすものなのか、なーんて大げさに考えてみていたりします。
エミール・ゾラのルーゴン・マッカール叢書第11巻目にあたり、1883年に”Au bonheur des Dammes”というタイトルで出版されました。藤原書店版の訳本では、吉田典子さんが訳していますが、巻末のあとがきを見てみると、このフランス語をどうにか日本語にできないか、と苦慮した挙句、結局「ボヌー・ル・デ・ダム」をそのまま使わざるを得なくなったことに、もどかしさを感じる、などとかかれてありました。
百貨店、という言葉がタイトルにある通り、この小説ではボヌール・デ・ダム百貨店を描いた小説になっている。しかし何故、デパートだったのか。そこには、フランスで資本主義と大量消費の影響から生まれたデパートの誕生にあるのかもしれない。
ここでは内容を書くのは留めておきます。というのは、歴史的な描写としてはこの小説を読むのも、前掲した記事、『デパートを発明した夫婦』(http://blog.goo.ne.jp/titanx2/e/256eff238d5096a1a34723a17d1faefb)を参照にしていただくと、ほとんど同じだ。
店主ムーレの言葉も面白い。小説ではデパートは、近代商業の大聖堂であったり、夢の宮殿というような扱いで書かれている。ムーレは、そこの司祭であって、町中の女性たちが、いわば信徒となってデパートに押し寄せていた。そんなムーレに対し、ブルドンクルという取締のひとりは、「パリはもっとも大胆に接吻してくれる男に身を任せるのだ」(p.58)なんていう描写をしている。
給与システムとしての歩合制やゲルトの採用、地方と外国からの受注があり、それを宅配するサービス、商品の描写に至っては、日本物売場の図録を見ることもできる。オリエンタル・サロンにある絨毯の生地を見て、「ドラクロワの絵のよう」なんて例えるところに、ゾラの絵を見る眼も窺わせる。
簡単に言えば、ゾラの大量の調査をしていたために、デパートについては前掲のような話ができる。これが歴史的軸(縦軸)とするならば、そこにアレンジとしてムール(ボヌール店主)とドゥニーズ(田舎娘)の恋愛劇が横軸として織り成してくるのがこの物語だ。ゾラの「実験」は、ここではドゥニーズのシンデレラ・ストーリー的なものとなっている。(ドゥニーズのムーレを愛する気持ちと、それに見合った行動まで最後の最後まで行かないもどかしさみたいなものも読んでいて面白い)
個人的な意見としては、この作品を何故、ハッピーエンドにしたのかという点よりも、この作品にできた登場人物のなかで「不幸になった人々」に焦点を当てることが、19世紀フランス社会を考える上で、大事なような気がする。
そのひとつに、ボヌール・デ・ダムに現れる万引き犯の描写があるといえる。罪人たちを表す心理描写は、実に正確に描かれていると思う。(ここではド・ボーヴ夫人の万引きが取り扱われている)
「この病気の発作は悪化の一途をたどり、ついには彼女の生存に必要不可欠な悦楽となるにいたっていた。それはあらゆる慎重な分別を奪い去り、群衆の面前で、自分の名前と誇りと夫の高い身分とを危険にさらしているだけに、ますます強烈な喜びとなって満足を与えていた」(藤原書店、p.619)
最後に、数少ないゾラの小説のなかのハッピーエンドな物語。ちょっとほかの作品に比べて長いという特徴があるが、僕自身読んでいてそこまで苦痛にならなかったので、オススメしたいと思います。
(図書案内)
ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』吉田典子訳、藤原書店、2004年.
エミール・ゾラのルーゴン・マッカール叢書第11巻目にあたり、1883年に”Au bonheur des Dammes”というタイトルで出版されました。藤原書店版の訳本では、吉田典子さんが訳していますが、巻末のあとがきを見てみると、このフランス語をどうにか日本語にできないか、と苦慮した挙句、結局「ボヌー・ル・デ・ダム」をそのまま使わざるを得なくなったことに、もどかしさを感じる、などとかかれてありました。
百貨店、という言葉がタイトルにある通り、この小説ではボヌール・デ・ダム百貨店を描いた小説になっている。しかし何故、デパートだったのか。そこには、フランスで資本主義と大量消費の影響から生まれたデパートの誕生にあるのかもしれない。
ここでは内容を書くのは留めておきます。というのは、歴史的な描写としてはこの小説を読むのも、前掲した記事、『デパートを発明した夫婦』(http://blog.goo.ne.jp/titanx2/e/256eff238d5096a1a34723a17d1faefb)を参照にしていただくと、ほとんど同じだ。
店主ムーレの言葉も面白い。小説ではデパートは、近代商業の大聖堂であったり、夢の宮殿というような扱いで書かれている。ムーレは、そこの司祭であって、町中の女性たちが、いわば信徒となってデパートに押し寄せていた。そんなムーレに対し、ブルドンクルという取締のひとりは、「パリはもっとも大胆に接吻してくれる男に身を任せるのだ」(p.58)なんていう描写をしている。
給与システムとしての歩合制やゲルトの採用、地方と外国からの受注があり、それを宅配するサービス、商品の描写に至っては、日本物売場の図録を見ることもできる。オリエンタル・サロンにある絨毯の生地を見て、「ドラクロワの絵のよう」なんて例えるところに、ゾラの絵を見る眼も窺わせる。
簡単に言えば、ゾラの大量の調査をしていたために、デパートについては前掲のような話ができる。これが歴史的軸(縦軸)とするならば、そこにアレンジとしてムール(ボヌール店主)とドゥニーズ(田舎娘)の恋愛劇が横軸として織り成してくるのがこの物語だ。ゾラの「実験」は、ここではドゥニーズのシンデレラ・ストーリー的なものとなっている。(ドゥニーズのムーレを愛する気持ちと、それに見合った行動まで最後の最後まで行かないもどかしさみたいなものも読んでいて面白い)
個人的な意見としては、この作品を何故、ハッピーエンドにしたのかという点よりも、この作品にできた登場人物のなかで「不幸になった人々」に焦点を当てることが、19世紀フランス社会を考える上で、大事なような気がする。
そのひとつに、ボヌール・デ・ダムに現れる万引き犯の描写があるといえる。罪人たちを表す心理描写は、実に正確に描かれていると思う。(ここではド・ボーヴ夫人の万引きが取り扱われている)
「この病気の発作は悪化の一途をたどり、ついには彼女の生存に必要不可欠な悦楽となるにいたっていた。それはあらゆる慎重な分別を奪い去り、群衆の面前で、自分の名前と誇りと夫の高い身分とを危険にさらしているだけに、ますます強烈な喜びとなって満足を与えていた」(藤原書店、p.619)
最後に、数少ないゾラの小説のなかのハッピーエンドな物語。ちょっとほかの作品に比べて長いという特徴があるが、僕自身読んでいてそこまで苦痛にならなかったので、オススメしたいと思います。
(図書案内)
ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』吉田典子訳、藤原書店、2004年.