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清洲城のさくら

2008年04月06日 | 旅ゴコロ
【清洲城のさくらは見ごろです。】
ススキ、菜の花、さくらと季節が混在しているのもまた、見事!でした。


【清洲城検索知識。】

●清洲城とは、
清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場=旧西春日井郡清洲町)にあった城。清須城とも表記される。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。

●歴史
応永12年(1405年)尾張・遠江・越前守護の斯波義重によって築城。当初は尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清須(=清洲)に移転する事で尾張国の中心地となった。一時期、織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に織田宗家の居城としてあり、尾張守護代織田家の本城として機能した。

織田信秀が古渡城に拠点を移すと宗家の織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須に居城したが、永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。

天正10年(1582年)本能寺の変で信長が斃れると清洲会議の舞台となり次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄の手によって二重の堀をめぐらし大天守・小天守・書院等の造営が行われている。小田原合戦で信雄が羽柴秀吉に逆らい除封され、羽柴秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城した。

慶長14年(1609年)徳川家康によって清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転(清須越し)し、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用された。特に名古屋城御深井丸西北櫓は清須城天守の資材を元に作られたため「清須櫓」と呼ばれる。慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了した事により廃城となる。

●清須城と清洲城
地域や城郭の名称として「キヨス」を表記する際「清洲」を使う場合と「清須」を使う場合があるが、どちらも正しく、同じ地域や城を示している。伊勢神宮領を記録した14世紀中頃の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」として記載されているのが最古の記載としているが諸説ある(「清須市」も参照)。信長公記では、清洲。三河物語では清須と記載されている。


●現在の清洲城

織田信長公像(清洲公園)
清洲城(公園側)
現在再建されている清洲城は旧・清洲町の町制100周年を記念して平成元年(1989年)に再建されたものだが、資料がほとんど残っていない為外観は想定して作られている。また城跡も開発の犠牲で大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。その為現在の清洲城も実際の位置とは別の位置にある清須市清洲地域文化広場内に建設されている。東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。御深井丸西北櫓は現存し重要文化財に指定されている。尾張旭市の良福寺山門は裏門を移築されたものといわれ、指定文化財になっている。 また、清洲城の障壁画は総見寺に移されて現存し、現在それは愛知県指定絵画になっている。


参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





【清須市】








●お花見には、

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