快読日記

日々の読書記録

「平安ガールフレンズ」酒井順子

2021年03月04日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
2月15日(月)

「平安ガールフレンズ」酒井順子(角川書店 2019年)を読了。

清少納言・紫式部を筆頭に、菅原孝標女・和泉式部・藤原道綱母などの書き手がここまで身近に感じられることってなかなかなかったかも。

平安文学の知識の充実っぷりはもちろん、彼女らを現代に生きる我々の側にひっぱりこむ力に興奮します。
分析力もすばらしいし歯切れがいい!スカッとします。

たしかに、
千年経とうが文明の利器が進化しようが、わたしたちはおんなじことで喜んだり悩んだりしてる、ガールフレンズなのであるなあとグッときました。

「マナーはいらない 小説の書きかた講座」三浦しをん

2020年12月29日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
12月4日(金)

「マナーはいらない 小説の書きかた講座」三浦しをん(集英社 2020年)を読了。

音楽にはすごくうといんですが、
「 関ジャム」で音楽家が創作裏話みたいなやつを解説するのを見るのが好きです。
おお、そうやってこの名曲が作られたのか、っていう。
音楽に限らず、料理でもなんでもものづくりの話っておもしろいですよね。
で、その小説版がこの本です。

他人の作品を(ほぼ)一切出さない潔さもいい!

「やりなおし高校国語」出口汪

2020年07月20日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
7月20日(月)

「やりなおし高校国語」出口汪(ちくま新書 2015年) を読了。

「こころ」「舞姫」、「水の東西」、中原中也の「サーカス」など、高校国語定番作品の“授業”。

個性とか“ありのままの自分”とかいう素敵な価値観が蔓延する昨今ですが、
そうした“自分なりのとらえ方でいいのよ”みたいなやり方を蹴散らし、きっちり正確な読解に導くこの講義には目が覚める思いです。
そうだ、読解力があれば「正解」にたどり着けるんだ!評論作品はもちろん文学作品の解読にも「正解」はあるんだ!と思いました。
「鑑賞」はその上にしか成立しない。

特に「こころ」。
Kと先生、二人が死を選んだそれぞれの理由と、それを真っ正面から読み解く出口先生に圧倒されます。
Kは失恋、先生は罪悪感が自殺の原因、と思っている人にはぜひおすすめしたいです。
(でも、鯨統一郎とかおもしろくてつい読んじゃいます。)


根底にあるのは、
その時代を生きる人たちにはその時代なりの価値観や考え方があって、
その中には今の我々とは相容れないものや、理解しづらいものや、予想外のものも多いということ。
それを知ることが教養であり、我々の今の価値観だって100年後の人から見たら理解不能と言われる可能性も充分あるわけです。
過去のものを読むときは特にそこらへんを肝に銘じたいと思いました。

読了『百人一首がよくわかる』橋本治

2016年10月06日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
10月5日(水)

『百人一首がよくわかる』(橋本治/講談社)を読了。

「桃尻語」の現代語訳もよくできていておもしろかったが、何より「藤原定家の100首の並べ方の解説」がすごい。
っていうか、「なぜ定家はこの100首を選び、この順番に並べたか」、これがこの本のたぶんメインだ。

それは、第1首と第2首があたかも紅白歌合戦のペアみたいに対になっている、という見立てで、わたしは初めて知った。(不勉強なだけか)
百人一首は紅白50組の対戦(?)になっている。
(つまり、第3首と第4首、第5首と第6首…というふうに続く)
その2首は例えば「忍ぶ恋」つながりだったり、「挨拶の歌」つながりだったり、わかりやすいペアもあれば、なんでこの組み合わせ?もある。
そこを繊細かつ鮮やかに推理してみせたかと思うと、第95首・慈円の歌には「「慈円なら他にいくらでもいい歌があるのに、なんでこんな歌を選んだんだ?」という人もいます。きっと定家は、選びたかったんでしょう」(211p)なんていうコメントがついていて、笑ってしまった。

読了『日本語大好き キンダイチ先生、言葉の達人に会いに行く』金田一秀穂

2016年10月01日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
10月1日(土)

金田一秀穂の対談集『日本語大好き』(文藝春秋)を読んだ。
220ページほどの本なのに、相手が13人もいるので、例えば三谷幸喜などは「もっと読みたい!」というところで終わってしまうけど、それもまたよし、かもしれない。

加賀美幸子、谷川俊太郎、外山滋比古、出口汪がとくにおもしろかった。
意外な人選だった(でも読めば納得)のは料理の土井善晴。
自分と相手(金田一)、相互のテーマ(料理と言葉)がどうつながるかをしっかりと深く、かつわかりやすく語っていて、そのクレバーっぷりが伝わる。
聞き手が何を求めているかにピタリとはまることをしゃべる人って、実はそう多くないんじゃないか。
内館牧子なんかは「しゃべりたいことをしゃべっている」見本みたいなインタビューだった。
彼女が指摘する「日本語の乱れ」というのがとにかく恣意的でうんざりする。
日本語が(どこの言葉でも同じだと思うけど)、大昔からおびただしく生まれては消える新語や造語、言い間違いや書き間違い、日本人の生活や精神の変化などが起こすダイナミックなうねりの中で変化したりしなかったりしながら生きているっていう当たり前の認識がないみたいだ。

それはともかく、
各対談の終わりについた金田一秀穂のコメントもよかった。
谷川俊太郎との対話の中で「私もやはり「金田一」という名前に囚われているんです。この名前には、いろんな意味がくっついてしまっている」(51p)という発言があって、胸を突かれる思いだった。
この人に誰かがロングインタビューをしてくれたら絶対に読むわ。

読書中『名俳句1000』佐川和夫 編

2016年06月19日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
6月18日(土)

木曜日にやっている「プレバト」の俳句があんまりおもしろい(梅沢富美男の〈トランクの下の水たまりにも虹〉に感動)ので、積ん読だった『名俳句1000』(佐川和夫 編/彩図社)を引っ張り出し、「夏の部」を読み始める。

松尾芭蕉と与謝蕪村って、1世紀離れてたのか、知らなかった。
というか、俳句に限らずとにかく無知だ。

気を取り直して、好きな句をひとつ見つける。

〈涼しさや投出す足に月の影〉
西村定雅(1744〜1826)


夜『白鵬のメンタル』(内藤堅志/講談社+α新書)をちょっと読む。
白鵬の〈流れ〉を意識した思考法を、プロ野球選手に試して(試したわけではないだろうけど)よい結果が出た話。
ブルペンで投げてるときとマウンドとで、自分はフォームが違う、マウンドでもランナーがいるときといないときで変わってしまう、と選手自身が気づき、〈流れ〉(つまりルーティン)をトレーナーと一緒に作っていく過程に感動する。
これはきっと、千代の富士がいつも言ってる「自分の型」につながっているんではないか! と思いついて興奮するが、さしあたってそれをわたしの生活の何に生かすかとんと見当がつかず、そのまま寝る。

「長い夜の牧歌」天野忠

2015年11月09日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《☆☆ 11/4読了 書肆山田 1987年刊 【詩集】 あまの・ただし》

「考えごと-PROLOGUE


ねながら
人生について考えていたら
額に
蠅がとまった。

長いこと休んでいて
それから
パッと
元気よく飛び立った。

どうやら考えがまとまったらしい。

俺はまだだ。」


「老いについての50片」という副題にあるように、ひとことでいうと“おじいさんの詩集”です。

天野忠って、生まれたときからおじいさんみたいです。
一度深夜のテレビで「あーあ」が朗読されているのを聞いて大好きになったんですが、読むと皮膚からじんわりおじいさんエキスが染み込んでくる。

陰鬱でちょっと愚痴っぽいかと思えば、クスッと笑わせるとぼけたかんじもあって、そこらへんがポイントです。

/「長い夜の牧歌」天野忠

「教科書では教えてくれない日本の名作」出口汪

2015年01月12日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《☆☆ 2014/12/17読了 ソフトバンク新書 2009年刊 【近代日本文学】 でぐち・ひろし(1955~)》

対話形式で読む、出口先生の日本近代文学講座。
とくに芥川龍之介「地獄変」の謎解きがおもしろかった。
いわゆる文学批評・評論と、学校(予備校も含めて)で教える「国語・現代文」は別物と思われがちだけど、“本物でなければならない”という点で実はまったく同じものであって(または、同じでなければならなくて)、ごまかさず誠実にテキストを読み込み、正確に分析できれば、いい読解につながるのだなあと思いました。

あ、でも、女子高生が聞き手という設定は不要かも(笑)

/「教科書では教えてくれない日本の名作」出口汪

「走らないのになぜ「ご馳走」? NHK 気になることば」NHKアナウンス室

2014年11月09日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《10/28読了 新潮文庫 2014年刊(東京書籍より2008年に刊行された単行本「NHK ますます気になることば」を改題して文庫化) 【日本語】》

「「サバを読む」の「サバ」の正体」の続編。
よくネタがつきないなー。さすが。
ひとつひとつの話題が短いので、ちょっとした時間にぽちぽちと読めてうれしい。
へえ~!とかほぉ~!の嵐なんだけど、読む端からポロポロと忘れちゃうんだよねえ、情けなし。
そんな中でも、誤解してた!ってことが2つほどあったのでメモします。
まず「せいぜいがんばって」って表現は必ずしも皮肉というわけではないんだそうです。
かつて福田元首相がオリンピック(だったかな)に今から出場する人たちにかけた言葉として、その陰気な雰囲気とともに記憶に残っておりますが、そもそも「せいぜい」は「力の限り、精一杯」という意味で、それが「高くてもせいぜい1万円」「長くてもせいぜい3日」みたいな使い方をされて、ちょっとニュアンスが変わってしまった。
ちょうど「適当」のように、同じ言葉で正反対の意味を持ってしまう、こういうこと他にもありそうですね。
あと、以前から気になっていた「お申しつけください」。
「申す」は謙譲語だから「仰せつけください」が正しいのかな、じゃあ「申し出る」は?「申し込む」は?などと思いつつ調べもしなかったのですが、
この本によると「申す」には謙譲の意味を持たないものもあるんだそうです。
だから「申し出る」は自分にも相手にも使っていいらしい。
同じく謙譲語じゃない「申す」の複合語として「申し込む」「申し送る」「申し合わせる」「申し立てる」がある。
でも、よく時代劇で「殿が申された」とかいうのは違いますよね。あれは気になっちゃう。

/「走らないのになぜ「ご馳走」? NHK 気になることば」NHKアナウンス室

「「サバを読む」の「サバ」の正体 NHK 気になることば」NHKアナウンス室 編

2014年10月11日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《10/7読了 新潮文庫 2014年刊(東京書籍から2008年に刊行された「NHK気になることば」を改題して文庫化) 【日本語】》

今上天皇も若い頃使っていた“ヤバい”が、実は歴史ある言葉だったというのは意外と知られていることですが、
“うざい”“はまる(夢中になる)”“へこむ(軽く落ち込む)”といった一見若者言葉っぽいやつも、江戸時代にはすでに原型があるんだそうです。
誤用がそのまま定着したり、方言が混ざったり、日本語がどんどん変わっていくその一方で、数百年も潜伏してた言葉がメジャーになったりするのはわくわくしますね。

この本、よくある「日本語モノ」ではあるけど、ご隠居のグチやお説教とは違います。
そして、何よりネタが豊富!

読みながらすごく感じたのはNHKの立場って大変だなあっていうこと。
毎日“あの言葉遣いはおかしい”という問い合わせ(クレーム)がわんさかくるっていうし、有働さんの脇汗がひどいとか、どうでもいいじゃないかそんなこと!…って言い返せない立場。
この本も、まえがきで梅津アナウンサーがいうように、誤用や誤解・変化を否定するのではなく、こういう理由があるのかもしれませんね(微笑)、みたいな態度で統一されています。すごい。
日本語の間違いや乱れを指摘する本って、人をバカにしたりけんか腰だったりする攻撃的な本であることが多いので(実はそういう本も好きだけど)、こういう本は珍しい。

「読者を叱らない日本語本」なんですね。

/「「サバを読む」の「サバ」の正体 NHK 気になることば」NHKアナウンス室 編

「古典を読んでみましょう」橋本治

2014年09月03日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《8/14読了 ちくまプリマーブック 2014年刊 【日本文学】 はしもと・おさむ(1948~)》

この本を高校時代に、いや、大学時代でもいいから読みたかったなあ。
古典を読む“意義”を理解してるのとしてないのとじゃ大違いだもん。

なるほどー!とうなったところはたくさんありますが、中でも、“何が書かれている文章か”より“何を言いたがっている文章か”を読み取るべき、という指摘には、今まで読んだすべての本を読み直したいとさえ思いました。
(みんながもやもや感じているところをクリアな言葉でスパッと言い当て、導いてくれる。)
古典・現代に関わらず、自分のこの読解力のなさや浅さは、“何が書かれているか”の層でストップしてたことが原因なんだわ!と目が覚めた気がする。
目が覚めた、わかったって言っても、実践できるかどうかは別問題だけど。

「よく考えてみれば分かりますが、掛け詞という表現テクニックは、「論理的つながりなんか問題にしない」という恐ろしい表現方法なのです」(81p)

「古典というものは「そんな考え方があるの?」と教えてくれるようなもの」(132p)

「どんな本でも、初対面の時には「なにが書いてあるのかよくわからない本」です。それに対して、「読者である私に分かるように書いてないからダメな本だ」と言うのはただのわがままです。「一体この人はなにを考えて、なにを書いているのだろう? この本で大切なことはなんだろう?」と考えながら探り探り読んでいくと、《智解》という読解能力も身について、「めんどくさい歴史の本」である『日本書紀』だって、もしかしたらおもしろく読めるようになるのかもしれません」(218p)

/「古典を読んでみましょう」橋本治

「紫式部の欲望」酒井順子

2014年08月31日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《8/3読了 集英社文庫 2014年刊(単行本2011年集英社刊) 【日本の古典 平安文学】 さかい・じゅんこ(1966~)》

30歳を過ぎてから原文で「源氏物語」を読み始め、これって少女漫画なんではないか、という発想から“欲望”というキーワードをつかみ、読み解く源氏論。

筆者が指摘する、作品に込められた紫式部の欲望は「連れ去られたい」「ブスを笑いたい」「頭がいいと思われたい」「待っていてほしい」「秘密をばらしたい」など20。

感心するのはどの欲望も「あー、あるわ」と思わせるもので、それが読者にも筆者にも紫式部の中にもある、という変な連帯感が生まれること。
“女子あるある”のオンパレードと言っても言い過ぎではない。

「源氏物語を書いた時、紫式部は既にそう若くはなかったはずです。自分が若くないからこそ、年をとった人の、年相応ではない行動が我慢ならなかった。そこで登場させたのが、エロババア役の源典侍だったのではないでしょうか。
末摘花や源典侍に関する記述を読むと、女が女を見る目の厳しさを知る私。しかし、その厳しさはもちろん自分も持っているものであって、「言い過ぎ、書き過ぎには気を付けなくては……」と、自戒の念が湧いてくるのでした」(36p)

もし、わたしが男でこの本を読んだら、女ってなんてややこしい生き物なんだろう!と、ちょっとうんざりするかも。
つっぱったり勘ぐったり、かと思えば愛されたいとかぬかしやがって(失礼)、めんどくさい。
そのめんどくさいところを、酒井順子はかなり丁寧に説明してくれて、読者が女であればそれらの“欲望”に必ず心当たりがあるので、紫式部にかなり親近感を持つこと間違いなしです。

駒尺喜美の源氏論もグイグイくる名著でしたが、この酒井本の方がよりベイシックかつ根源的な解釈と言えると思います。

「はじめに」で展開する清少納言との比較からすでにおもしろいもん。

「源氏物語を読むということは、私にとって、作者の欲望と自分の欲望を照らし合わせる作業であり、その符合を見るにつけ、千年前を生きた女性と自分とは同じ生身の人間であるという確信を、強くするのでした」(206p)

/「紫式部の欲望」酒井順子

「平安女子の楽しい!生活」川村裕子

2014年07月19日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《7/15読了 岩波ジュニア新書(岩波書店) 2014年刊 【日本の古典 平安文学】 かわむら・ゆうこ(1956~)》

平安女子(&男子)の日常生活の話。ファッションと恋愛がメイン。

かねてから言われていることですが、当時の和歌のやりとりと現代のメールは確かに似てますね。
日本人は外国人に比べてメール好きというのも、ここらへんにルーツがあるみたい。

役に立ったのは冒頭、住居や装束です。
わかりやすいイラストが多用されていて、ああ!そこが知りたかった!というネタも多くてうれしい。
今まで適当に流していた衣装や調度品の詳しいイメージが少しつかめた気がします。

あちこちにある古典からの引用はすべて現代語訳のみ。
子供たちの興味を喚起することが目的だから、原文が入ると逆効果かもってことだとは理解できるけど、やっぱり入れてほしかった。
ターゲットである女子小中学生にあわせて頻出する過剰な若者言葉も、ちょっと媚びすぎでは…という気がしないでもない。

でも、ものすごくわかりやすく親しみやすいという点は保証します。

/「平安女子の楽しい!生活」川村裕子

「かぐや姫の罪」三橋健

2014年04月12日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《4/6読了 新人物文庫(中経出版) 2013年刊 【竹取物語 日本文学 神道 民俗学】 みつはし・たけし(1939~)》

何かの便乗本みたいな雰囲気の本ですが、意外と(と言ったら失礼か)おもしろかったです。

前半は「竹取物語」講座、といったかんじのわかりやすい古典講義。

そして、かぐや姫を迎えに来た天人たちの「罪の償いが終わったから」という言葉の意味は?という疑問から、「かぐや姫・木花之佐久夜毘売 同一人物説」「かぐや姫と聖母マリアの類似点」に続く後半。

わたしの興味がいまいち神話に向かわず、後半ダレてしまいましたが、前半の「竹取」解説はとてもよかったです。

奇をてらったものではなく、トンデモ系や妄想にも走らないまじめで良心的な本。
簡潔に「竹取」について把握したい人におすすめです。
筆者は、國學院の先生です。

/「かぐや姫の罪」三橋健

「安部公房伝」安部ねり

2013年08月15日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《8/4読了 新潮社 2011年刊 【評伝 安部公房】 あべ・ねり》

一人娘の手による安部公房の評伝。

1/3ほど読んだあたりで中断したままになってたんですが、先日の山口果林本があまりにおもしろかったので、その勢いでこっちの残りも読了。
日本人2人めのノーベル文学賞受賞者になるはずだった安部公房の足跡をたどった伝記資料(なんと祖父母の代から話が始まります)としても、安部文学論としても、充実しています。
筆者ねりさんは、娘であると同時に安部公房研究者でもあり、そこらへんのあたたかさとクールさの混ざり加減がこの本の魅力です。
「安部公房全集」各巻の付録に収録された25人のインタビューがまとめられているのもお得なかんじがします。
さらに、未公表の写真がたくさん収められていて、文学者であり父であり夫であった安部公房とその家族の表情もすごくいい。
進化論をめぐっての父娘の口論も微笑ましい。

でも、ここに書かれたこと以上に「書かれなかった2つのこと」が大きな意味を持っています。
ひとつは癌のこと。
安部公房は自らが癌に冒されていることを徹底的に隠しました。
だからこの本には、癌のガの字も出てこない。
彼の死後も遺志を守り、その事実を伏せた娘と、癌だったことのみならずそれを隠した理由まで書いた愛人、その「愛」の違いを思うとなんだかゾクッとします。

もうひとつは山口果林のこと。
ねりさんは、安部夫妻の関係に亀裂が入った理由として、芸術家同士の競争心のようなものと、それによって真知夫人の夫への尊敬が薄れてしまったことをあげています。
もちろん山口果林の存在は黙殺です。
そして、夫婦が決して没交渉なんかではなかったことを強調している。
父母の死後、娘が必死に互いを繋ぎ止め、わたしたちは紛れもない家族だったんだ!と静かに歯を食いしばっているような気がします。

「ふたりの関係が苦痛なものになっても公房は、極貧だった若い時代、認められ、やっと食べられるようになって喜んだ真知を忘れることはなかった。公房は、かつてのように真知に小説の構想を話し、真知は喜んで『カンガルー・ノート』に使われた「一つ積んでは親のため」という賽の河原の歌のテープを故郷の大分から取り寄せた」(217p)

安部公房は1993年1月に亡くなるのですが、前年の暮れには親子3人で食事までしています。

安部本人も苦しんだでしょうが、彼を囲む女3人の苦悩を思うといたたまれない。
この本こそが、山口果林に火をつけ、暴露本を書かせたに違いない!と邪推する次第です。

「安部公房とわたし」山口果林


/「安部公房伝」安部ねり