快読日記

読書とともにある日々のはなし

「日本語教室」井上ひさし

2011年04月13日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《4/12読了 新潮新書 2011年刊 【言語 日本語】 いのうえ・ひさし(1934~2010)》

言葉なしでものを考えることはそもそも不可能だし、
自分がどんな状況に置かれても、そこに言葉を当てはめてじっくり見つめてみることで、
苦しみや悲しみ、痛みだって受け止められて、なんとかなるんじゃなかろうか、などとぼんやり思う昨今です。
だから、
語彙が減り、
日本語の微妙なニュアンスを無視して、ざっくりしたカタカナ語を濫用し、
不勉強による誤用の結果、我々の歴史や伝統を次々と手放していくとき、
日本人の言葉は痩せて、思考力も衰え、逆境にあってはキレやすく、心の足腰は弱る。
結果、国は衰退する。

そうしたシミュレーションがもうすでに現実化しているようなこの現状で、
日本人(日本語を「母語」とする人々)に向けた遺書のようなこの本を読むことは、すごく意義があることなんだけど、
今はちょっとしんどくて、気がつくとため息をついてしまっています。

本自体は、講義録だけあって読みやすく、真摯な内容と軽妙な語り口で、オススメですよ。
10代の若者あたりに読んでほしいなあ。

「母語は道具ではない、精神そのものである」(19p)

/「日本語教室」井上ひさし
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「松本人志は夏目漱石である!」峯尾耕平

2010年11月10日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《11/7読了 宝島社新書 2010年刊 【お笑い 近代日本文学】 みねお・こうへい(1979~)》

まず「おっ?」と気になるタイトル。
大当たりか大ハズレか、バクチのにおいが漂います。

目次を開くと、10章に分かれていて、
「萩本欽一は坪内逍遥である!」に始まり、
「志村けんは二葉亭四迷である!」
「横山やすしは国木田独歩である!」
といった具合に、10組のお笑い芸人と近代小説家との組み合わせが並んでいます。
なるほど!と思ったのは「タモリは泉鏡花である!」と「ダチョウ倶楽部は田山花袋である!」の2つ。
前者の2人はどちらもオリジナリティが強烈で、独自の確固たる美意識を持ち、しかも彼らの亜流はほとんど生み出されなかった。
後者にいたっては、リアクション芸(それが芸であるかはさておき)って自然主義そのものじゃん!しかも田山花袋っていうチョイスもピッタリ!というかんじ。

でも、おもしろいのは目次だけでした。
この筆者は、テレビ創世期のお笑いや近代文学を語るにはあまりにも力不足です。
文章も、大学生の下手な卒論みたいにぎこちなく、悪い意味で素人臭い。
彼がどっぷりダウンタウン世代であるということが、松本人志や千原ジュニアを論じるときと、ビートたけしや横山やすしを語るときとの明らかな温度差と知識量の差の原因になっているとしたら、あまりにお粗末としか言いようがない。

ケンコバやジュニアの分析はなかなか読ませるものだったから、やはりここは手を広げすぎず、お笑い論一本でいくべきだったんじゃないかと思います。
あるいは、どうしても松本人志と漱石を重ねて論じたいなら、その組み合わせだけで1冊書きつくす!ってのでもよかったかも。

「日本人の知らない日本語2」蛇蔵&海野凪子

2010年09月09日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《9/8読了 メディアファクトリー 2010年刊 【漫画 日本語】》

「日本語の話」「日本文化・歴史の話」「諸外国の文化の話」「日本語教師という仕事」といったさまざまなテーマがうまくおさまっていて、前作でうっすらあったギクシャク感がなくなっている印象を受けました。

「へえ~」な箇所もたくさん。
例えば、「うれしい」と「楽しい」はどう違うか。
濁音の点「゛」と半濁音の丸「゜」はどうやってできたか。
そうそう、猿を「エテ公」って言うの、忌み詞だったんですね。知らなかった~。
終盤のお国柄の違いの話もすごくおもしろかったです。
ストレートな質問の仕方をする外国人のために「遠回しに聞く」という授業があるというのも驚きました。
実践的日本語を身に着けるってこういうことなんですね。

なんだか日本語を再発見したような読後感。
なんて繊細で優しく奥深い言語なんだ!と感激してしまいます。

→「日本人の知らない日本語」蛇蔵&海野凪子

「言葉の煎じ薬」呉智英

2010年06月26日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌

《6/25読了 双葉社 2010年刊 【言語】 くれともふさ/ごちえい(1946~)》

呉智英先生がここで批判するのは、若者言葉や俗語・流行語による"日本語の乱れ"(そういう本、最近多いですね)ではなく、
日本語の論理・思考を崩す乱れや「無知な庶民を威嚇したつもりで亜インテリが使う難解な言葉の誤用(13p)」です。
つまり、自分が怒られるわけじゃないから安心して楽しく読めます。
例えば、先生の他の著書でも繰り返し指摘される「すべからく」の誤用は単なるミスや不勉強ではなく、
"亜インテリ"の「押しが効いて、頭良さそうな、かっこいい言い回しを!」という欲や見栄からきているわけで、とても見苦しい。
そんな学者や作家など、言葉を使うプロが次々と俎上に載せられ、こてんぱんです。
それがあまりに良い切れ味なので爽快な一方、つい彼らに同情しそうになりました。
しかし、それはありえない話。
ここで示される間違いはすべて、普通の辞書にちょっとあたればなんてことなく防げるものばかりだからです。
えらい人ほど自分の知識や記憶を過信してるのね、横着しないで調べたらよかったのに~、むふふ。

ところで、学生時代からずっと追いかけている呉智英本ですが、今回感じたのは「この人の文章って、いわゆるツンデレってやつかも」です。
こわもてで、愛想もよくなくて、すごく鋭いんだけど、ときおりこぼす呟きが妙にかわいいんです。
たまらん。
これ、呉智英ファン(の特に女子)の共感を呼べる自信あるんですけど、どうでしょう。


「中島敦『山月記伝説』の真実」島内景二

2010年05月15日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《5/11読了 文春新書 2009年刊 【文学】 しまうち・けいじ(1955~)》

「山月記」といえば「あ~! 高校時代に国語でやったわ~」という人も多いと思います。
そう、エリートの李徴が虎になる話。
今でも高校2年生の教科書の定番ですが、
そもそも当時無名だった作家のこの作品を教科書に掲載した功労者が親友・釘本久春。
彼こそが他ならぬ袁傪で、本作ではそのページの多くを「李徴と袁傪 = 中島と釘本」の関係分析に割いています。
中島敦とはどんな人だったのか、釘本を始めとする友人たちとの関係、丁寧な「山月記」の読解、種本「人虎伝」について、今東光や佐藤春夫による同じネタでの先行作品と「山月記」との相違などなど、かなり濃い「山月記」本です。
終盤、筆者が自分と袁傪とを重ねるところもじんときます。
明晰なだけの論文ではない、こういう人間臭さも本作の魅力です。

巻末に全文掲載された「山月記」を読み返すと、たった33歳で亡くなった無念さ、突き刺さるような悲しみが改めて伝わります。

これがあんまりよかったので、新潮CDでえもりんが朗読してる「山月記」をさっそく購入、通勤途中の車内で大音量で流し、李徴の独白に号泣です。ううっ。

「身もフタもない日本文学史」清水義範

2010年04月20日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《4/19読了 PHP新書 2009年刊 【文学史】 しみず・よしのり(1947~)》

まず、女性が書くエッセイはもれなく清少納言のようなセンス自慢に陥り、男性は知性を自慢し、世の中を叱る兼好になってしまう、という指摘からするどいっ!
自慢の仕方が巧みかストレートかの違いこそあれ、エッセイとはつまるところ「自慢芸」だ、という断言にも大きくうなずきました。

他にも、源氏物語が世界的に見てどんだけすごいか、西鶴や近松といった近世の作家の素晴らしさなど、すんごくおもしろい国語の先生の話(暴走ぎみ)を聞いているようです。

特に爽快なのは近代文学史。
漱石の偉大さを讃えたかと思えば、自然主義や白樺派の作家をひとまとめにして「みんな自分にしか興味がない(171p)」と言い切る小気味良さ。
実篤の作品を「一人よがりの真面目小説(179p)」、小説の神様・志賀直哉の「暗夜行路」も「主人公に魅力がなく、根底に優越感を持っている男の苦悩には説得力がなく、物語は論理的構造を持っていない(180p)」とバッサリです。
一番笑い、かつ感心した名言は「谷崎は変態なのに悩まない(184p)」。
今気付いたけど、これ五七五になってる!

この本の効能は"名作が怖くなくなること"。
鴎外作品を「あまり面白くな(172p)」いと言い切ってもいいのね(笑)というかんじです。

「日本人の知らない日本語」蛇蔵 & 海野凪子

2009年10月22日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《10/20読了 メディアファクトリー 2009年刊 【日本語 漫画】 へびぞう(構成・漫画) うみの・なぎこ(原案) 》

日本人に日本語を教えるのだって大仕事なのに、外国人に教えるなんて。
特に驚いたのは、日常会話だけでなく、変体がなや漢字の音訓にまで話が及ぶこと。
過不足もなくて簡潔な、わかりやすい説明でした。

各国から来た生徒のバイタリティにも圧倒されます。
生まれ育った国を出て、他国の言葉や文化・慣習などをイチから覚えるなんて……考えてみると大冒険です。
こういう人たちと接するのは刺激的で楽しそう。
学ぶ意欲に満ちた人にものを教えるというのも幸せな経験ですよね。

でも、日本は現在、そんな貪欲で生命力にあふれた人たちと政治や経済などの場面で競っているんだから、しんどい話です。

そんなもろもろを考えながら読みました。

欲を言うなら、所々目につく漫画家の手書き文字の間違い、あれは何とかしてほしかったかな。

ベストセラーになるほど多くの人に読まれるようなものかと問われると疑問ですが、どんな人たちが読んだのかはちょっと気になります。

「菊池寛のあそび心」菊池寛・菊池夏樹

2009年09月05日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《8/18読了 ぶんか社文庫 2009年刊 【日本のエッセイ】 きくち・かん(1888~1948) きくち・なつき(1946~)》

囲碁・将棋・勝負・競馬・金銭・道徳・交遊の各テーマについて、
菊池寛の文章と孫の夏樹氏の解説みたいなのが収められています。

菊池寛には、実利主義で親分肌でバイタリティあふれる人、というイメージがあります。
夏樹さんもそういうおじいさんが好きみたいで、全体的に明るい雰囲気の本です。

文豪と孫の組み合わせ、というとどうしても夏目漱石・房之介と比較してしまうのですが、
房之介が祖父を「漱石」と呼び、まず「文学者」として静かに向き合っているようであるのに対し、
この夏樹氏が「祖父」と呼ぶ風情は老舗の若旦那が先々代を語るそれのようです。
菊池家って文学者系というより実業家系なのかな。
おもしろい。
タイプは違えどなんだか親しみが湧きます。

「これで古典がよくわかる」橋本治

2009年05月12日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《5/9読了 ちくま文庫 2001年刊(1997年にごま書房より刊行された本を文庫化) 【文学】 はしもと・おさむ(1948~)》

本書の前半は、万葉仮名から平仮名の誕生、和漢混淆文の成立…なんて下手に紹介すると、つまんない古典の授業みたいで読む気が失せますよね…あ~っ!全然違うんです!!
例えば、古典も鎌倉時代以降になると、名詞などで引っ掛かる以外はほとんど辞書なしでスルスル読めます。
これは武士の時代に生まれた「和漢混淆文」のおかげ。
だから古典の入り口に最適なはずなのに、なぜ教科書は今も平安作品中心なのか。
橋本治の明快な答えは、
「都(京都)が一番偉いという"王朝主義"が、大政奉還(つまり王政復古)によって甦ったから」です。
なるほど~。
他にも「暗唱」とは「古典を口の中に移すこと」との指摘に膝を打ち、
まるで現代人のような実朝の魅力や、"枯れたじいさんではなく、狂おしい若者が書きなぐったのが「徒然草」"という解釈など、
読みながらワクワクしてきて、頭の蓋がパカパカ開いていくような1冊でした。

そして、最後には「古典がわかるとはどういうことか」がよくわかります。

古典は、頭だけじゃなくて「体」で「腹」で読むもの。
古典がわかるとは「月がきれい」がわかること…この一言だけでも、もっと古典が読みたくなります。

「人間には使えない蟹語辞典」金田一秀穂

2009年03月06日 | 言語・文芸評論・古典・詩歌
《3/5読了 ポプラ社 2009年刊 【言語】 きんだいち・ひでほ(1953~)》


日本語学者・金田一秀穂は好きなんだけど、結論から言うと、この本はイマイチです。
たとえば「シンプルイズベスト」は孔雀からみたら「ゴージャスイズベスト」、「彼女いない歴×年」もゾウガメなら「彼女いない歴100年」だよ、おもしろいでしょ、うまいでしょ、って言われてもなあ。
そこでキッパリ「おもしろくないよ」と言う人がいなかった結果、こういう本が出ちゃったのかもしれません。

動物ネタとしても言語ネタとしても中途半端だし、
「意味」や「用例」には蛇足の説明が多すぎて笑えない。
章ごとに短く挟まれるみうらじゅんとの対談の方がおもしろい。

好みの問題かな?とも考えたけど、やっぱり違います。
だって何がやりたかったのかちっともわからないもん。
筆者は「生物に隠された新たな言語とコミュニケーションの可能性を探る本」と宣言していますが。
辞典10:対談1の比を逆にするか、イラストの方でもみうらじゅんが参加してたらよかったのに~と思います。