野老の里

奥武蔵をメインに日帰りの山歩きを中心としたブログです

武蔵野の記憶 狭山丘陵から小手指へ

2015年07月01日 | 武蔵野の記憶
(山口観音本堂)

当ブログで3年ほど前、小手指ヶ原から狭山丘陵まで歩いたことがあった。その際、日没間際であったため、狭山不動尊と山口観音という二つの寺はちょっと触れた程度になってしまった。当時の記事にも「日を改めて再訪したい」と記していたのだが、なかなか再訪できずにいた。ここのところ母親の体調が最悪の状態を脱したこともあり、近場のスポットを訪れる暇ができた。そこで今回は逆コースでまずは狭山不動尊と山口観音にお参りし、前回は訪れなかった堀口天満天神社を経て、小手指駅へと歩くことにした。

今日は小手指駅へ戻ってくる予定なので、小手指駅から池袋行きに乗り、西所沢駅で乗り換えて西武球場前駅へ行くことにした。西所沢駅に着くと異様に西武狭山線が混んでいる。そういえば今日はライオンズの試合がある日だったな。西武球場前駅を降りるとここも酷い混雑。試合開始前なので、ゲートが開くのを待っているのだろうか。駅前の陸橋を上がり、旧ユネスコ村(現在はゆり園)へと向かう。陸橋を渡っても緩やかな登り坂が続く。ゆり園も魅力的なのだが、今日はスルー。更に登っていくと左手に道標がある。道を入ると狭山不動尊の裏口(丁子門側)に出る。

狭山不動尊こと狭山山不動寺は昭和50年に建立された天台宗のお寺だ。えっ、そんなに新しいの?と思うほど落ち着いた雰囲気がある。まずはこのフェンスで囲った丁子門、随分と古そうだ。案内板によると芝増上寺にあった徳川家崇源院霊牌所、つまり徳川秀忠の正室であるお江の埋葬地にあった門を移築したものなのだ。国指定の重要文化財にもなっているような門が何故所沢の片田舎にあるのか。実は狭山不動尊の開基は西武グループのオーナーであった堤義明氏。義明氏の父、堤康次郎氏が戦争により被災した芝増上寺周辺に東京プリンスホテルを建てる際、焼け残った門を買い取り保存することになった。現在もプリンスホテル内に残されている門もあるが、丁子門・勅額門・御成門は康次郎氏を継いだ義明氏によって狭山丘陵に移築されることになった。

(丁子門)

丁子門の脇から入ると本堂裏に出る。なお、この本堂は二代目。かつては京都東本願寺から移築された建物(火事により焼失)が使われ、学生の頃そこで護摩行を受けたことがあった。もう少し味のある建物だったように記憶しているが、全体的な形はあまり変わっていないようにも感じる。本堂横にある第一多宝塔は大阪の高槻市にある畠山神社から移築したもの。もはや何でもありという感じだ。本堂の前には不動寺総門がある。こちらは毛利家の江戸屋敷から移築したもの。確かに山門というよりは時代劇に出てくる大名屋敷の門みたいだ。本堂を正面から見て左にあるのが弁天堂。滋賀県彦根市の清凉寺から移築されたとのこと。なお、本堂以外はどれも開山より早い時期に移築されている。寺が無いのにどうやって移築したのかというと、かつてこの辺りにあったユネスコ村の施設として保存されていたのだ。

(第一多宝塔)

 
(総門)


(本堂)


(弁天堂)

弁天堂の横には羅漢堂に山門、そして唐金灯籠がある。羅漢堂は井上馨の屋敷内に建立してあったもので、山門は生糸商人田中平八郎邸から移築し、羅漢堂の周りにある灯篭は台徳院(徳川秀忠)霊廟から移転したものだ。う~ん、もはやカオス。羅漢堂の前には大黒堂があり、こちらは奈良極楽寺にあった歌塚堂に大黒天を祀ったものだ。裏手の駐車場に通ずる門は桜井門で、奈良十津川の桜井寺から移築された。大黒堂の左手前には第二多宝塔があり、兵庫県東條町の椅鹿寺から移築されたという。なんでこんなに関連性の無いものをそろえたのだろう?

(羅漢堂山門)


(羅漢堂と唐金灯篭)


(大黒堂)


(桜井門)


(第二多宝塔)

さてそろそろ山口観音へと向かおうか。総門の前のスロープを下りていくと御成門がある。これは台徳院の霊廟に建立されていたもので、彫刻等の細工は一見の価値がある。ただ大分色は褪せてしまっている。御成門から石段を下ると勅額門。こちらは確りと台徳院と書かれた額が掲げられ、霊廟のために建立されたものであることがわかる。なお、御成門・勅額門ともに国指定の重要文化財である。勅額門の脇には銀杏の木があり、太田道灌が城砦を構えていた城山城址から移植されたものだそうだ。
 
(御成門)


(勅額門)


(右に御神木 左の門は勅額門)

勅額門の前の車道を上がっていくと朱に塗られた塔が上の方に見えている。あれが山口観音だ。正式には吾庵山金乗院放光寺で、千手観音を本尊としていることから山口観音と呼ばれている。近年は珍寺として知られているが、創建は奈良時代と古く、また開基は行基とされる古刹なのだ。麓にある山門は至極真っ当なもので、二体の仁王像が迎えてくれる。石段を上がると観音茶屋があり、参拝客であろうオバチャン達が中で寛いでいた。こういう茶屋が維持できるくらい参拝客が多いということなのだろう。道路を渡って境内に入るとまずは白い霊馬の像が安置された霊馬堂がある。この白馬は新田義貞の鎌倉攻めに供し、余生を山口観音で過ごしたという。新田義貞といえば小手指ヶ原を散策したときにも登場した人物である。それだけこの寺が古いという証でもあろう。

(山口観音 山門)


(霊馬堂)


(白馬の像)

 
(大木に馬の彫刻)

短い石段を上がると本堂がある。一見すると狭山不動尊と比べて実に重厚な建物である。…が近づいてみるとちょっと変わった所がある。まずは賽銭箱の脇にあるブッダタワー(萬燈という)。以前兄と台湾旅行に行った際、こういったブッダタワー(しかも規模はもっと大きい)をあちこちで見かけた。古刹なのだが、どこかアジア風(といっても日本もアジアの一部だが)の雰囲気がある。さて本堂の周りには回廊が巡らされているのは一般的なのだが、ここにはチベット仏教などでよく見かけるマニ車(プレイグベル)が設けられている。マニ車は経文が刻印されていて、回すとお経を読んだのと同じ功徳があるとされる。煩悩の数と同じく108個あるというので回して行こう。

(萬燈)


(おびんずる様)


(プレイグベル)

本堂を時計回りに回っていくと中華風の建物が見える。ふむ、興味深いが後回しにしよう。本堂裏手に回ると弘法大師絵伝が十二葉掛けられている。山口観音は現在、真言宗のお寺で開祖は空海だ。空海といえば小説などでも超人的な能力を持った人物として描かれているのだが、絵伝ではどうだろうか。誕生の次は都で遊学とある。この時代の都は奈良の平城京だ。3番目は室戸岬での苦行。このとき口に明星が飛び込んできたとされている。4、5番目は唐への留学。この辺りで密教の奥義を伝授される。6番目は説明板が壊れてしまっている(唐で三鈷を投げるシーン。これが高野山の発見につながる 平成30年1月4日付記)。

(誕生)


(都へ遊学)


(室戸岬での苦行)

 
(唐へ留学)


これだけ説明がない唐で三鈷を投げるシーン)

7番目は高雄山時代。帰国して奈良へ戻ってきた訳だ。8番目では嵯峨天皇の病気を平癒し、9番目ではついに高野山が開創される。10番目では香川県にある満濃池を修築する。唐で土木技術を学んできたことが活かされたのだ。11番目では東寺が下賜され、真言密教の道場とした。最後は御入定、つまり即身仏となったことが描かれている。絵伝もある意味マニ車みたいなもので、字が読めない者に対し絵で伝える意味があったと考えられる。

(高雄山時代)


(嵯峨天皇平癒)


(高野山開山)


(満濃池修築)


(東寺を下賜)


(御入定)

一周してきたので、今度は先ほど見かけた中華風のお堂を見てみよう。どうやら七福神を祀ったお堂のようだ。七福神は日本独自の信仰なので、ちょっとアンバランスな気がしないでもない。隣にもお堂があり、こちらはぽっくりさんが祀られている。空海が入定したとき、振り返って見送った姿の像が安置されていて、これを信仰すると長い病気をすることなく極楽へ行けるという。正面から入ってくると本堂に隠されてわかりにくかったのだが、本堂裏手は水子供養の地蔵が石段にずらりと並べられている。水子供養というのは割と新しい風習でややいかがわしいところもあると言われているのだが、熱心にお参りしている人もいるのでこれ以上は触れないでおこう。

(七福神のお堂)


(ぽっくりさん)

その地蔵群の間に白亜の宝塔がある。東南アジア風と言ったらよいだろうか。中にはビルマ(ミャンマー)から来たという仏像が安置されていた。本堂右奥へ進むと池とお堂がある。お堂は大日堂で仏像が安置されているが、扉は閉ざされている。ガラスケースの中にはタイから来たという仏像が安置されていた。大日堂の奥はコンクリートの龍がのたうつ長い石段がある。ここの石段もいずれは水子供養の地蔵で埋め尽くされるのだろうか。息を切らせて石段を上がると朱白に塗られた千躰観音堂の下に出る。かつて正月に訪れた際、観音堂の中に入り、塔の上まで上がったことがある。中は文字通り数多の観音像が安置され、最上階からは良い眺めが得られた。近年は中の拝観を中止しているようだ。

(ビルマ仏)

  
(大日堂とタイの仏像)


(石段の上に観音堂)

  
(本堂裏手の石段最上部にある東南アジア風のお堂)


(千躰観音堂)

千躰観音堂の下には仏国窟と呼ばれるトンネルが巡らされ、四国八十八ケ所と西国三十三ケ所の霊場巡りがお手軽にできるようになっている。トンネルの中は西国三十三ケ所の本尊と四国八十八ケ所の空海像が整然と並べられている。今日埼玉県は30度を超える気温になるという予報であったが、トンネルの中はとても涼しい。そもそもこの辺りは丘陵の上で風が比較的強く、緑が多くて気温も低い傾向にある。トンネルを出たところで山口観音散策も終了。結構長居してしまった。観音堂脇の駐車スペースから湖畔道路に出る。しかしそのまま車道は進まずに竹林の道を上がっていく。すると雑木林の中に東屋が建っている。実はここも山口観音の境内地であるようだ。右手に進み、墓地の裏手を進むと再び車道に出る。
 
(仏国窟)

 
(西国三十三ケ所粉河寺の千手千眼観音と四国八十八ケ所の弘法大師像)

  
(山口観音境内裏手)

車道を少し進むと狭山湖の堰堤上の広場入口に着く。猛スピードで走り去るクルマに気を付けて渡り、しばらく道なりに行けば狭山湖が見えてくる。古い人造湖とはいえ、この雄大な眺めは心を落ち着かせてくれる。堰堤のスケールも有間ダム(名栗湖)より大きいのではないだろうか。取水塔の向こうには大岳山と御前山の姿が見える。奥多摩辺りの山は詳しくないので、堰堤から見える山並みでわかるのは唯一これだけだ。日曜日ということもあり、散策する人は多い。堰堤の上は風が強いので、陽射しさえ遮れば涼しく過ごせそうだ。堰堤の中ほどにベンチがあるのでそこで一休み。狭山不動尊と山口観音で少しはしゃぎ過ぎたかな。

(狭山湖の広場)


(堰堤南端から)


(取水塔と大岳山)



(南端からの眺め)


(奥多摩辺りの眺めをズームアップ)


(堰堤の広い通路)


(堰堤中央部から)


(所沢駅周辺のタワービル)


(西武園ゆうえんち)




(中央部からの眺め)

堰堤の東側はグラウンドになっており、その向こうは遮るもののない景色が広がる。北東に見えるのは所沢駅周辺のタワービル群。南東には西武園ゆうえんちの観覧車が半円だけ見せている。あまりゆっくりもしていられないので、そろそろ小手指駅へ向かって下っていこう。ベンチ向かいの階段を下ると九十九折のスロープになっていて、堰堤の斜面を大きく行ったり来たりする。南端辺りから水路が見下ろせる。柳瀬川だ。砂川堀だ。上流は自然の河川で、下流は人工的に掘削して流れを変えたものであるらしい。小手指駅辺りで出会うことになる。(砂川堀でなく、柳瀬川でした。訂正しお詫びします。しかし、なんで砂川堀だと思ったんだろう。かなり北側を流れているのに…。)



(堰堤東側の眺め)


(花咲く斜面)


砂川堀柳瀬川を見下ろす)


(堰堤の斜面を見上げる)

北端にあるグラウンドの管理棟脇から車道に下り立つ。道なりに進むと水田が見えてきて、その少し先に天満天神社と書かれた看板がある。看板にしたがって分岐を入り、清照寺を見送ると雑木林の中の細い車道になる。さらに進むと緩い斜面に作られた茶畑が見えてくる。茶畑脇を登りきった先が堀口天満天神社だ。立派な拝殿のある神社だが、常駐の社務所は無さそうだ。神社の向かいは雑魚入(ざこいり)樹林地と呼ばれる雑木林で、さいたま緑のトラスト協会の基金で保全されている。案内板を見るとぐるっと回れそうだが、登り返しがきつそうな感じもする。尾根道を少し歩いただけで引き返すことにした。まあこの辺はいつでも来られるし。

(水田)



 
(茶畑)


(堀口天満天神社)


(雑魚入樹林帯)

雑木林の中の細い車道を進むと茶畑が見えてくる。ここを左に入るとまたも分岐だが、どちらを行っても良い。いずれにせよフェンスと生垣に囲まれたソーラー発電所(とことこソーラー北野)の裏手に出る。手持ちの古い地形図によるとこの辺りは窪んだ崖地になっていたようだ。看板を見ると処分場として使われた後にソーラーパネルを設置したらしい。浄水場の脇からは傾斜地に作られた住宅街を只管下る。やがてコンビニと不二家がある交差点に着く。ここは稲荷坂交差点というのか。すると今下ってきた道は稲荷坂というのかもしれない。
(細い車道を歩く)


(とことこソーラー北野)


(稲荷坂辺りだろうか)

交差点を渡り、北野総合運動場へと入る。ここは小手指ヶ原から狭山丘陵へと向かった際に通った所で、今回は運動場の中ほどにある車道から北へと向かう。サッカー場の手前で畑の中の細い車道を進む。北側は緩やかに盛り上がった丘になっている。途中渡る川はあの東川で、この辺りは河岸段丘となっているようだ。車道を横切り、麦畑を過ぎると右手に小さな雑木林が見えてくる。あの木が生い茂る辺りが白旗塚だ。白旗塚近くの雑木林を過ぎると緩やかな下りとなる。砂利道を進むと誓詞橋交差点に出る。このすぐ側を砂川堀が流れているため、白旗塚付近からは下りになっていたのだ。

(東川の河岸段丘 奥に向かって緩やかに登っていて、最上部はちょっとした崖地になっている)


(白旗塚付近)

国道を所沢方面へ進み、道標の立つ分岐から小手指駅方面へと入る。開けた農地でのんびりとした雰囲気が良い。所沢西高校の裏手を抜けると砂川堀の側を通る。分岐を左に入り、雑木林の脇を抜けるとフェンスで囲った砂川堀北野調整池に着く。中に入ることができないので、調整池内は自然が保たれている。フェンスには観察用の穴も開けられている。西武池袋線のガード下はトンネルになっていて、砂川堀の上を通る変わった仕組みになっている。トンネルを抜けて右に行けば小手指駅は近い。短い距離だったが少しは運動不足の解消につながってくれれば、と思う。

(小手指駅前のタワービル)

   
(北野調整池の自然)

DATA:
西武球場前駅~12:33狭山不動尊12:50~12:52山口観音13:21~13:31狭山湖13:56~14:08堀口天満天神社~14:41北野地区~15:12砂川堀北野調整池~小手指駅

地形図 所沢

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