今日は普段と違った話。
憲法記念日になると毎年護憲・改憲と騒がしくなっています。
ボクは現状に応じて変えるのは差支えないと考えていますが、ただ国民の側に改憲を論じれるほどの知識があるのか疑問に思う所もあります。
まずは改憲を論ずる前に、中学あるいは高校の段階で一年を通して憲法を学ぶという機会が必要でしょう。
個人的には道徳の時間を教科にするのであれば、憲法を一教科としたほうが良い。
道徳と法はそれぞれ補完する関係にあって、どちらかを強化すれば良いというものではありません。
こういう話をすると「いや、公民の授業で憲法を学んだじゃないか」という意見もあるでしょう。
じゃあ、中学校の公民で習った憲法ってどんなものでしたか?大半の人が覚えているのは「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」でしょう。
確かに上記の三原則は大日本帝国憲法(旧憲法)との大きな違いです。しかし、旧憲法の時から続いている部分もあります。
それは憲法の目的は国民の自由を保障するものだということです。
「いや、それは間違っている、大日本帝国憲法のときは人権侵害が酷かったじゃないか」と思われるかもしれません。
しかしそれは旧憲法では国民の自由を保障する手続きが不十分だったからにすぎません。
伊藤博文は旧憲法に国民の権利を保障する条文を入れることに尽力した人でした。
明治の元老たちは官僚たちとは異なり、国民が教育によって十分に成長した暁には国民の権利をより保障すべきだと考えていた節があります。
いずれにせよ旧憲法も国民の自由を不十分ながらも保障するものでした。
刑法や民法も同時期に起草されたものでしたが、その刑法や民法と同じように旧憲法の考えは現在も通用するものになっています。それは何故なのか?
憲法を考えるうえで国と国民との関係はどのようになっているのかを考えることが必要です。
福祉あるいは国防や警察といったものは国が国民に与えるサービスと云えます。
育なんとか社の公民教科書が「国は国民を保護するものだ」というのはそういった側面を強調したものと云えましょう。
ですが、よく国と国民との関係を考えると国が国民に給付をするという関係だけとは限りません。
むしろ近代国家が誕生して以降、国の主な機能は国民の自由を制約することにあったと云えます。
国民の自由を制約するというのにも様々な面があり、刑法を定めて警察が犯罪を取り締まるというのが典型ですが、
それ以外にも賭博契約や売春契約のような反社会的な契約の履行に国家が助力しないという形で契約の自由を制約することもあります。
また日本国憲法(新憲法)下以降で実現したような労働基準法のように自然人でない企業の活動の自由を制約することもあります。
国が国民の自由を制約することを主な機能としたのは資本主義経済の発展と無縁ではありません。
国民の経済活動を自由にすることで国を豊かにしていくには、国民の自由の制約は最低限のものでなくてはならない。
したがって国民の自由を広く認めて、国は最低限の規制を掛けていこうと考えた。高校の政経教科書などには夜警国家と定義される考えです。
福祉を重視するようになったのは第二次世界大戦などを経た後で、その頃から規制が多くなっていきます。
何故福祉国家へ移っていったのかは世界史や日本史、そして政治経済の教科書などを見てほしいのですが、
生存権や労働権などの社会権は従来の自由を規制して、社会的弱者に自由な生活ができることを保障するものです。
これは自由の意味合いが変化したとも云えるし、また元々あった考えである、互いに相容れない自由ないし権利がぶつかり合った場合にどのようなバランスを取るかというルールを定めたものだとも云えます。
旧憲法と新憲法の連続性はあまり意識されませんが、国会が法律を作る上ではやはり意識されています。
法律とは何でもかんでも定めているものではなく、国民の自由を制約する、つまり国民の権利義務を定める場合に必要とされるものです。
国民の権利義務に直接かかわらないルールについては政府が国会の議決を経ずに定められることになっています。
旧憲法下でも一応国民の権利義務を制約するには法律によらなければなりませんでした(国民の権利は法律の枠内でのみ認められていたので)。
但し旧憲法下では政令による制約も認められていたのが大きな違いでした。ただこの部分は歴史の教科書などにも載っていることだと思います。
憲法が国民の自由を保障するために存在するという考えは古くからあり、上述のように旧憲法下でも意識されていました。
その考えは現在では世界のスタンダードになっています。国民の自由を基礎に置かない憲法は北朝鮮のような少数派です。
世界基準となったのは資本主義経済を各国が導入してきたからという歴史的な背景も紹介してきました。
さて最近朝日新聞や毎日新聞といったリベラルな新聞社が立憲主義を唱えるようになってきました。護憲派の動きも同様です。
立憲主義とは憲法によって国家権力の行使を制約するという考え方で、今まで見てきたことを反対側から見ている関係となっています。
ボクは立憲主義の考えは重要だと思っていますが、ある言葉をスローガンとするよりも国家・法律・憲法が元々持っている機能を考えていくことのほうが重要ではないかと考えます。
それを前提とした上で「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」の三原則が新たな意味を持つと云えるのです。
今の子供たちがどの程度憲法を学んでいるのか、ボクにはわかりません。ただボクが学んでいた頃は新憲法の三原則とその中身くらいだったと思います。
国家・法律・憲法の機能を学んだのは大学の法学部に入ってからでした。でもそれだと遅すぎるんですよね。
土台が無くて言葉だけ覚えてもあまり意味が無い。逆に新憲法の考えに反対の人に感化された場合、旧憲法が最低限持っていた機能も否定しかねない。
近年憲法に関してはより過激な主張が目に付くことも多くなってきました。ボクは教育の責任も大きいと思っています。
憲法は歴史的背景を伴って現在の姿となったものです。単純に押し付けだと言っても意味が無い。
憲法を改正することは悪いことではないけれども、現状を大きく変えてしまうにはまだ機は熟していないでしょう。
ただ改正機運が高まったことで、国民の間にも憲法を学ぼうをする姿勢も出てきました。
ボクは改正論議を進めていくのなら、単に憲法の中身だけを知るのではなく、機能や歴史背景も知ってもらいたいものだと思うのです。
憲法記念日になると毎年護憲・改憲と騒がしくなっています。
ボクは現状に応じて変えるのは差支えないと考えていますが、ただ国民の側に改憲を論じれるほどの知識があるのか疑問に思う所もあります。
まずは改憲を論ずる前に、中学あるいは高校の段階で一年を通して憲法を学ぶという機会が必要でしょう。
個人的には道徳の時間を教科にするのであれば、憲法を一教科としたほうが良い。
道徳と法はそれぞれ補完する関係にあって、どちらかを強化すれば良いというものではありません。
こういう話をすると「いや、公民の授業で憲法を学んだじゃないか」という意見もあるでしょう。
じゃあ、中学校の公民で習った憲法ってどんなものでしたか?大半の人が覚えているのは「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」でしょう。
確かに上記の三原則は大日本帝国憲法(旧憲法)との大きな違いです。しかし、旧憲法の時から続いている部分もあります。
それは憲法の目的は国民の自由を保障するものだということです。
「いや、それは間違っている、大日本帝国憲法のときは人権侵害が酷かったじゃないか」と思われるかもしれません。
しかしそれは旧憲法では国民の自由を保障する手続きが不十分だったからにすぎません。
伊藤博文は旧憲法に国民の権利を保障する条文を入れることに尽力した人でした。
明治の元老たちは官僚たちとは異なり、国民が教育によって十分に成長した暁には国民の権利をより保障すべきだと考えていた節があります。
いずれにせよ旧憲法も国民の自由を不十分ながらも保障するものでした。
刑法や民法も同時期に起草されたものでしたが、その刑法や民法と同じように旧憲法の考えは現在も通用するものになっています。それは何故なのか?
憲法を考えるうえで国と国民との関係はどのようになっているのかを考えることが必要です。
福祉あるいは国防や警察といったものは国が国民に与えるサービスと云えます。
育なんとか社の公民教科書が「国は国民を保護するものだ」というのはそういった側面を強調したものと云えましょう。
ですが、よく国と国民との関係を考えると国が国民に給付をするという関係だけとは限りません。
むしろ近代国家が誕生して以降、国の主な機能は国民の自由を制約することにあったと云えます。
国民の自由を制約するというのにも様々な面があり、刑法を定めて警察が犯罪を取り締まるというのが典型ですが、
それ以外にも賭博契約や売春契約のような反社会的な契約の履行に国家が助力しないという形で契約の自由を制約することもあります。
また日本国憲法(新憲法)下以降で実現したような労働基準法のように自然人でない企業の活動の自由を制約することもあります。
国が国民の自由を制約することを主な機能としたのは資本主義経済の発展と無縁ではありません。
国民の経済活動を自由にすることで国を豊かにしていくには、国民の自由の制約は最低限のものでなくてはならない。
したがって国民の自由を広く認めて、国は最低限の規制を掛けていこうと考えた。高校の政経教科書などには夜警国家と定義される考えです。
福祉を重視するようになったのは第二次世界大戦などを経た後で、その頃から規制が多くなっていきます。
何故福祉国家へ移っていったのかは世界史や日本史、そして政治経済の教科書などを見てほしいのですが、
生存権や労働権などの社会権は従来の自由を規制して、社会的弱者に自由な生活ができることを保障するものです。
これは自由の意味合いが変化したとも云えるし、また元々あった考えである、互いに相容れない自由ないし権利がぶつかり合った場合にどのようなバランスを取るかというルールを定めたものだとも云えます。
旧憲法と新憲法の連続性はあまり意識されませんが、国会が法律を作る上ではやはり意識されています。
法律とは何でもかんでも定めているものではなく、国民の自由を制約する、つまり国民の権利義務を定める場合に必要とされるものです。
国民の権利義務に直接かかわらないルールについては政府が国会の議決を経ずに定められることになっています。
旧憲法下でも一応国民の権利義務を制約するには法律によらなければなりませんでした(国民の権利は法律の枠内でのみ認められていたので)。
但し旧憲法下では政令による制約も認められていたのが大きな違いでした。ただこの部分は歴史の教科書などにも載っていることだと思います。
憲法が国民の自由を保障するために存在するという考えは古くからあり、上述のように旧憲法下でも意識されていました。
その考えは現在では世界のスタンダードになっています。国民の自由を基礎に置かない憲法は北朝鮮のような少数派です。
世界基準となったのは資本主義経済を各国が導入してきたからという歴史的な背景も紹介してきました。
さて最近朝日新聞や毎日新聞といったリベラルな新聞社が立憲主義を唱えるようになってきました。護憲派の動きも同様です。
立憲主義とは憲法によって国家権力の行使を制約するという考え方で、今まで見てきたことを反対側から見ている関係となっています。
ボクは立憲主義の考えは重要だと思っていますが、ある言葉をスローガンとするよりも国家・法律・憲法が元々持っている機能を考えていくことのほうが重要ではないかと考えます。
それを前提とした上で「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」の三原則が新たな意味を持つと云えるのです。
今の子供たちがどの程度憲法を学んでいるのか、ボクにはわかりません。ただボクが学んでいた頃は新憲法の三原則とその中身くらいだったと思います。
国家・法律・憲法の機能を学んだのは大学の法学部に入ってからでした。でもそれだと遅すぎるんですよね。
土台が無くて言葉だけ覚えてもあまり意味が無い。逆に新憲法の考えに反対の人に感化された場合、旧憲法が最低限持っていた機能も否定しかねない。
近年憲法に関してはより過激な主張が目に付くことも多くなってきました。ボクは教育の責任も大きいと思っています。
憲法は歴史的背景を伴って現在の姿となったものです。単純に押し付けだと言っても意味が無い。
憲法を改正することは悪いことではないけれども、現状を大きく変えてしまうにはまだ機は熟していないでしょう。
ただ改正機運が高まったことで、国民の間にも憲法を学ぼうをする姿勢も出てきました。
ボクは改正論議を進めていくのなら、単に憲法の中身だけを知るのではなく、機能や歴史背景も知ってもらいたいものだと思うのです。