It turns out having a big heart isn't as nice as it sounds. ーOtto Anderson in A Man Called Otto
'Where must we go...
we who wander this Wasteland
in search of better lives?'
The First History Man
Mad Max Fury Road
we who wander this Wasteland
in search of better lives?'
The First History Man
Mad Max Fury Road
英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その13)
13. エリザベス朝の舞台と観衆
エリザベス朝演劇は舞台装置や照明といった技巧を用い、観衆を幻想の中に導く演出ではなく、むしろ中世から続く伝統的なしきたりによるところが大きい。ローズ座のオーナーであったフィリップ・ヘンスロウの現金出納帳には大工に作らせた小道具の数々が綿密に記録されている。それにはテーブル、椅子、剣、キューピッドの弓矢だけでなく、太陽や月、岩、山、虹などが描かれたバックドロップ(背景)用のキャンバスなどもあった。イギリスの舞台芸術学者、ティー・ジェー・キングはヘンスロウの記録に加えて、ベッド、カーペット、クッション、首吊り台、カーテン、防弾壁、王冠、テント、天蓋、祭壇、棺、死体、馬車、洞穴、木、花などもしばしば小道具の在庫にあったと指摘する。いずれにせよ、舞台の造作はイタリア演劇の流れを汲むリニア・パースペクティブではなく、イギリス中世演劇からのマンションに近いものであった。リニア・パースペクティブは舞台両袖から奥に向かって、斜線形に遠近感を出しながらバックドロップを描いていく手法であり、マンションは舞台上のどこでも設置可能な小型の造作である。
シーン・チェンジは役者が台詞の中で示唆する場合のほか、プラカードに次のシーンの場所が書かれてあるものを舞台で提示するなどの方法が取られた。この点において、何人かの舞台芸術学者は舞台に造作がなく、シーン・チェンジがドラマ的に重要な場合のみ役者から伝えられたとしている。なぜならば、シェイクスピア戯曲のうち8割がたはステージだけででき、ステージは中立を保っておいたほうが好都合だからである。
芝居は昼の公演だけであったので、夜のシーンにはろうそくやたいまつを使って、観衆に夜のシーンであることを伝えた。シェイクスピア作の「ヘンリー5世」には、コーラスが冒頭のモノローグで「これから始まる物語では現実的にものごとをとらえるのではなく、想像力を使って観てほしい」と訴えている。このことからもわかるように、エリザベス朝演劇は想像力を豊かに使って観る必要があったのだ。
チケットは席の良し悪しによって値段が付けられ、全席の3分の1を占めるピットと呼ばれる立見席には1ペニーで入ることができた。さらにもう1ペニー払えば座席へ、もう1ペニーでクッション付きの座席へという具合だ。ギャラリーと呼ばれる屋根付きの座席には6ペニーの値がついていたが、ロンドン市民の平均月収は約50ペニーであったのでギャラリーには裕福な商人や貴族が入ったことになる。新しい芝居が封切りになるとチケットの値段は倍になるのが常であった。観衆の中にはすりから売春婦、暴力団までいたため、シアターそのものの評判は決して良くなく、新教徒たちからの糾弾の的でもあった。こういった観衆の観劇態度は私語を慎まず、しゃべりあい、野次を飛ばし、食べて飲んでとマナーが悪かった言われているが、シアターによってさまざまである。たとえば、レッドブル座は観衆の迷惑行為で有名であったが、格式の高いフォーチュン座の観衆はお行儀が良かったと言われている。
1567年から1642年にかけてロンドンの人口は10万人から40万人に膨れ上がり、大量の中流階級が生まれた。全人口の1割から2割は定期的に観劇に出かけていたことから、演劇は人気の高い娯楽であったと言える。エリザベス1世が統治していた時代は市内のどこかで毎日観劇することができたものの、次のジェームズ1世の時代には日曜公演は市議会によって禁止されてしまった。
13. エリザベス朝の舞台と観衆
エリザベス朝演劇は舞台装置や照明といった技巧を用い、観衆を幻想の中に導く演出ではなく、むしろ中世から続く伝統的なしきたりによるところが大きい。ローズ座のオーナーであったフィリップ・ヘンスロウの現金出納帳には大工に作らせた小道具の数々が綿密に記録されている。それにはテーブル、椅子、剣、キューピッドの弓矢だけでなく、太陽や月、岩、山、虹などが描かれたバックドロップ(背景)用のキャンバスなどもあった。イギリスの舞台芸術学者、ティー・ジェー・キングはヘンスロウの記録に加えて、ベッド、カーペット、クッション、首吊り台、カーテン、防弾壁、王冠、テント、天蓋、祭壇、棺、死体、馬車、洞穴、木、花などもしばしば小道具の在庫にあったと指摘する。いずれにせよ、舞台の造作はイタリア演劇の流れを汲むリニア・パースペクティブではなく、イギリス中世演劇からのマンションに近いものであった。リニア・パースペクティブは舞台両袖から奥に向かって、斜線形に遠近感を出しながらバックドロップを描いていく手法であり、マンションは舞台上のどこでも設置可能な小型の造作である。
シーン・チェンジは役者が台詞の中で示唆する場合のほか、プラカードに次のシーンの場所が書かれてあるものを舞台で提示するなどの方法が取られた。この点において、何人かの舞台芸術学者は舞台に造作がなく、シーン・チェンジがドラマ的に重要な場合のみ役者から伝えられたとしている。なぜならば、シェイクスピア戯曲のうち8割がたはステージだけででき、ステージは中立を保っておいたほうが好都合だからである。
芝居は昼の公演だけであったので、夜のシーンにはろうそくやたいまつを使って、観衆に夜のシーンであることを伝えた。シェイクスピア作の「ヘンリー5世」には、コーラスが冒頭のモノローグで「これから始まる物語では現実的にものごとをとらえるのではなく、想像力を使って観てほしい」と訴えている。このことからもわかるように、エリザベス朝演劇は想像力を豊かに使って観る必要があったのだ。
チケットは席の良し悪しによって値段が付けられ、全席の3分の1を占めるピットと呼ばれる立見席には1ペニーで入ることができた。さらにもう1ペニー払えば座席へ、もう1ペニーでクッション付きの座席へという具合だ。ギャラリーと呼ばれる屋根付きの座席には6ペニーの値がついていたが、ロンドン市民の平均月収は約50ペニーであったのでギャラリーには裕福な商人や貴族が入ったことになる。新しい芝居が封切りになるとチケットの値段は倍になるのが常であった。観衆の中にはすりから売春婦、暴力団までいたため、シアターそのものの評判は決して良くなく、新教徒たちからの糾弾の的でもあった。こういった観衆の観劇態度は私語を慎まず、しゃべりあい、野次を飛ばし、食べて飲んでとマナーが悪かった言われているが、シアターによってさまざまである。たとえば、レッドブル座は観衆の迷惑行為で有名であったが、格式の高いフォーチュン座の観衆はお行儀が良かったと言われている。
1567年から1642年にかけてロンドンの人口は10万人から40万人に膨れ上がり、大量の中流階級が生まれた。全人口の1割から2割は定期的に観劇に出かけていたことから、演劇は人気の高い娯楽であったと言える。エリザベス1世が統治していた時代は市内のどこかで毎日観劇することができたものの、次のジェームズ1世の時代には日曜公演は市議会によって禁止されてしまった。
英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その12)
12. グローブ座
チャンバレン伯爵の一座の本拠地、ロンドン市北東部のシアター座では土地リースの契約更新を巡って問題が発生していた。ショアディッチ地区と呼ばれる人気のあったこの商業リース地の契約交渉の最中に、借主のジェイムズ・バーベイジは他界し、シアター座の問題解決を息子のカスバートに託した。しかしながら、交渉は決裂し、チャンバレン伯爵の一座の運命は暗礁に乗り上げたかのように見えた。カスバートはこの逆境の中、おもいきった方法で道を切り拓く。それはシアターごと引越しするという大胆な解決策であり、父ジェイムズの跡を継ぎ、自らも大工であったカスバートならではの発想であった。土地リース契約が失効する3日前の1598年12月28日、カスバートは仲間の大工であるピーター・ストリートと12人の作業員をひきつれ、シアター座を一日のうちに解体したのである。解体されたシアター座は荷馬車に載せられ、ロンドン市内を南に向かい、テムズ河にかかるロンドン橋を渡って、サウスワーク地区にやってきた。カスバートは解体したシアター座を8ヶ月のうちに再生し、チャンバレン伯爵の一座の新しい本拠地となるグローブ座を建立した。皮肉にもこの場所は若き日のシェイクスピアがチャンバレン伯爵の一座の前進であるストレンジ伯爵の一座と共に、演劇活動を行っていたローズ座と通りをはさんだまさに目と鼻の先であった。
1567年から1623年の間には通算23個のオープンエアー・シアターが建設された。個々のシアター建築になんらかの差異があるものの、グローブ座をはじめとした当時のシアターには、パブリックとプライベートという二つのタイプがあり、おおまかには前者は屋根の無いオープンエアー構造で、一般客のために設計されたもので、後者は屋根のある構造を持ち、貴族階級の客のためにつくられたものである。一般的にシェイクスピア・シアターと呼んでいるものは前者のオープンエアーであるが、ステージの上半分には屋根があり、ステージ後方よりせり出したその屋根が二本の柱によって支えられるという基本的な構造が見られた。
シアターの全体像としては、高さが平均12メートル、シアターを上部から見ると円形か八角形で、その直径は約24メートルあり、約4メートルの奥行きを持つ三階建てのギャラリーと呼ばれるバルコニー席とボックス席がぐるりと内側にある。オーディトリアムと呼ばれる普通席には舞台に向かって、よこ19メートル、たて8メートルくらいの場所が割り当てられ、このエリアには椅子も屋根も無く立ち見であった。オーディトリアムから一段高くなった舞台の横幅は12メートルだったので、役者が一度に舞台に立てる人数は12人以下であったが、反対に観客数は2千人から3千人くらいの収容能力があった。このことは演じる側と観る側の距離が近く、ライブ感を重視した作りであることがうかがえる。ステージ後方にはミュージシャンズ・ギャラリーと呼ばれる生演奏のバンドが入る場所と役者たちの控え室があった。ステージ後方の壁には二つのドアがあり、役者の入退場に使われる一方、ステージ床にはトラップドアと呼ばれるドアがあり、悪魔の登場、役者の瞬間消滅、あるいは死者の埋葬といったドラマティックな演出に利用された。ミュージシャンズ・ギャラリーの上部、屋根のついたギャラリーの三階には大型の舞台装置が配備され、ここから神の降臨などの演出効果を作り出していた。この屋根の上部にはポールが取り付けられ、芝居があるときはその印として一座の旗がかかげられ、誇らしく風になびいていた。
12. グローブ座
チャンバレン伯爵の一座の本拠地、ロンドン市北東部のシアター座では土地リースの契約更新を巡って問題が発生していた。ショアディッチ地区と呼ばれる人気のあったこの商業リース地の契約交渉の最中に、借主のジェイムズ・バーベイジは他界し、シアター座の問題解決を息子のカスバートに託した。しかしながら、交渉は決裂し、チャンバレン伯爵の一座の運命は暗礁に乗り上げたかのように見えた。カスバートはこの逆境の中、おもいきった方法で道を切り拓く。それはシアターごと引越しするという大胆な解決策であり、父ジェイムズの跡を継ぎ、自らも大工であったカスバートならではの発想であった。土地リース契約が失効する3日前の1598年12月28日、カスバートは仲間の大工であるピーター・ストリートと12人の作業員をひきつれ、シアター座を一日のうちに解体したのである。解体されたシアター座は荷馬車に載せられ、ロンドン市内を南に向かい、テムズ河にかかるロンドン橋を渡って、サウスワーク地区にやってきた。カスバートは解体したシアター座を8ヶ月のうちに再生し、チャンバレン伯爵の一座の新しい本拠地となるグローブ座を建立した。皮肉にもこの場所は若き日のシェイクスピアがチャンバレン伯爵の一座の前進であるストレンジ伯爵の一座と共に、演劇活動を行っていたローズ座と通りをはさんだまさに目と鼻の先であった。
1567年から1623年の間には通算23個のオープンエアー・シアターが建設された。個々のシアター建築になんらかの差異があるものの、グローブ座をはじめとした当時のシアターには、パブリックとプライベートという二つのタイプがあり、おおまかには前者は屋根の無いオープンエアー構造で、一般客のために設計されたもので、後者は屋根のある構造を持ち、貴族階級の客のためにつくられたものである。一般的にシェイクスピア・シアターと呼んでいるものは前者のオープンエアーであるが、ステージの上半分には屋根があり、ステージ後方よりせり出したその屋根が二本の柱によって支えられるという基本的な構造が見られた。
シアターの全体像としては、高さが平均12メートル、シアターを上部から見ると円形か八角形で、その直径は約24メートルあり、約4メートルの奥行きを持つ三階建てのギャラリーと呼ばれるバルコニー席とボックス席がぐるりと内側にある。オーディトリアムと呼ばれる普通席には舞台に向かって、よこ19メートル、たて8メートルくらいの場所が割り当てられ、このエリアには椅子も屋根も無く立ち見であった。オーディトリアムから一段高くなった舞台の横幅は12メートルだったので、役者が一度に舞台に立てる人数は12人以下であったが、反対に観客数は2千人から3千人くらいの収容能力があった。このことは演じる側と観る側の距離が近く、ライブ感を重視した作りであることがうかがえる。ステージ後方にはミュージシャンズ・ギャラリーと呼ばれる生演奏のバンドが入る場所と役者たちの控え室があった。ステージ後方の壁には二つのドアがあり、役者の入退場に使われる一方、ステージ床にはトラップドアと呼ばれるドアがあり、悪魔の登場、役者の瞬間消滅、あるいは死者の埋葬といったドラマティックな演出に利用された。ミュージシャンズ・ギャラリーの上部、屋根のついたギャラリーの三階には大型の舞台装置が配備され、ここから神の降臨などの演出効果を作り出していた。この屋根の上部にはポールが取り付けられ、芝居があるときはその印として一座の旗がかかげられ、誇らしく風になびいていた。
英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その11)
11. 役者+劇作家+株主=大地主
「ヘンリー5世」の大成功で快進撃を続けていたシェイクスピアは1592年に蔓延したペストによる当局の指導で、ローズ座での公演を一時中断せざるをえなくなった。たちの悪い伝染病による多数の死者が出て、ロンドン経済は壊滅的な被害を被り、長年連れ添ってきたストレインジ伯爵の一座は解散となり、演劇仲間もちりじりになっていった。それでも執筆活動をあきらめなかったシェイクスピアは、後援者のひとりであるウリオサスリー伯爵のために詩を書くなどして食いつないでいた。ウリオサスリーはセント・ジョン大学から16歳で修士を修めた秀才で、エリザベス女王やマーローとも顔見知りの知識人で、シェイクスピアの良き理解者である。ウリオサスリーはシェイクスピアの書いた二つの詩に気前よく1000ポンド払っている。当時、エリザベス女王が観劇に来ると10ポンドおいていったので、ウリオサスリーの気前の良さには驚く。
1594年にペストの流行がおさまって、シアターが再開されたときはストレインジ伯爵の死去もあり、所属劇団をチャンバレン伯爵の一座に改名した。シェイクスピアはリチャード・バーベイジ、ウィリアム・ケンプらと舞台活動を再開させる。演劇一家に生まれたバーベイジは当時の超人気俳優であり、「リチャード3世」をはじめ、「ハムレット」、「リア王」、「オセロ」などで主役を務めた。その一方で、ケンプはアイルランド舞踊の名手で9日間(実際には1ヶ月と言われている)かけて、ロンドンからノーウィックという町までの道のりを、ダンスしたつわものである。チャンバレン伯爵の一座の前身はストレンジ伯爵の一座であったが、再編成を機に本拠地だったローズ座を捨てた。一座はテムズ川を渡り、バーベイジの父ジェイムスが経営するロンドン市北部のシアター座に移ってきた。
チャンバレン伯爵の一座の経営手法は6人のメインの役者たちが株主の会社を設立し、公演の売上金を直接受け取って、配当を分配していたという当時としてはたいへん画期的なものであった。6人のメインの役者たちは財政的に劇団からは独立しており、劇場側には舞台の使用料だけを払っていた。これは劇場主が公演の売上金を先に徴収し、それを役者たちに給料として払っていたアドミラル伯爵の一座とは正反対であった。注目すべきはシェイクスピアがこれ以後、役者と劇作家の活動に専念し、劇団を変えることはなかったという点である。他の劇団と比較しても居心地が格段に良かった点と、自分たちが起業者であるという自負が作品の完成度の高さに反映していたのである。この点からシェイクスピアは劇作家としても一流であっただけでなく、ビジネスマンとしても先見の明があったのかもしれない。一文無しでロンドンへ上京してきた男が、25年後の1602年には故郷のストラトフォードに125エーカー(約15万坪)の土地を購入し、まさに故郷に錦を飾ったのだ。
11. 役者+劇作家+株主=大地主
「ヘンリー5世」の大成功で快進撃を続けていたシェイクスピアは1592年に蔓延したペストによる当局の指導で、ローズ座での公演を一時中断せざるをえなくなった。たちの悪い伝染病による多数の死者が出て、ロンドン経済は壊滅的な被害を被り、長年連れ添ってきたストレインジ伯爵の一座は解散となり、演劇仲間もちりじりになっていった。それでも執筆活動をあきらめなかったシェイクスピアは、後援者のひとりであるウリオサスリー伯爵のために詩を書くなどして食いつないでいた。ウリオサスリーはセント・ジョン大学から16歳で修士を修めた秀才で、エリザベス女王やマーローとも顔見知りの知識人で、シェイクスピアの良き理解者である。ウリオサスリーはシェイクスピアの書いた二つの詩に気前よく1000ポンド払っている。当時、エリザベス女王が観劇に来ると10ポンドおいていったので、ウリオサスリーの気前の良さには驚く。
1594年にペストの流行がおさまって、シアターが再開されたときはストレインジ伯爵の死去もあり、所属劇団をチャンバレン伯爵の一座に改名した。シェイクスピアはリチャード・バーベイジ、ウィリアム・ケンプらと舞台活動を再開させる。演劇一家に生まれたバーベイジは当時の超人気俳優であり、「リチャード3世」をはじめ、「ハムレット」、「リア王」、「オセロ」などで主役を務めた。その一方で、ケンプはアイルランド舞踊の名手で9日間(実際には1ヶ月と言われている)かけて、ロンドンからノーウィックという町までの道のりを、ダンスしたつわものである。チャンバレン伯爵の一座の前身はストレンジ伯爵の一座であったが、再編成を機に本拠地だったローズ座を捨てた。一座はテムズ川を渡り、バーベイジの父ジェイムスが経営するロンドン市北部のシアター座に移ってきた。
チャンバレン伯爵の一座の経営手法は6人のメインの役者たちが株主の会社を設立し、公演の売上金を直接受け取って、配当を分配していたという当時としてはたいへん画期的なものであった。6人のメインの役者たちは財政的に劇団からは独立しており、劇場側には舞台の使用料だけを払っていた。これは劇場主が公演の売上金を先に徴収し、それを役者たちに給料として払っていたアドミラル伯爵の一座とは正反対であった。注目すべきはシェイクスピアがこれ以後、役者と劇作家の活動に専念し、劇団を変えることはなかったという点である。他の劇団と比較しても居心地が格段に良かった点と、自分たちが起業者であるという自負が作品の完成度の高さに反映していたのである。この点からシェイクスピアは劇作家としても一流であっただけでなく、ビジネスマンとしても先見の明があったのかもしれない。一文無しでロンドンへ上京してきた男が、25年後の1602年には故郷のストラトフォードに125エーカー(約15万坪)の土地を購入し、まさに故郷に錦を飾ったのだ。