「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」の美しい文章ではじまる、「源氏物語」を読んだのは、もう随分前になります。
上の段に原文、下の段に口語訳がのっている本を、図書館でなんとなく借りてきて、最初ぼんやり読んでいた私は、あまりの面白さにいつの間にか真剣になってしまいました。
いろいろな訳で読みたいと、与謝野晶子、瀬戸内寂静など訳者をかえてまた読みました。
それほど面白かったのです。
つよく思ったのは、「この物語が、千年の昔書かれたもの…??」でした。
やっと、かな文字ができたころにつくられた物語なのに、なんとも美しくのどかで、あの時、私の頭の中に、学校で学んだ「縄文、弥生」のざんばら髪の人間の、原始文明が浮かびました。
その時代から5百年後の平安時代にこの文化があった。
でもそれは日本のことで、甲骨文字の中国殷王朝が紀元前千6百年前、その前には夏王朝がある、王朝の存在以前の時代などを考えると「人間の文明はもっとずっと古いのかも…?」などと考えました。
7月号の白鳩誌の谷口純子先生のご文章に、「この宇宙は百三十七億年前にでき、地球は四十六億年前、そして人類は三百万年前に登場した。」と書かれています。
「三百万年の命のつながりの中に今の自分がある。」~中略~「親から子へと何十世代も何百世代も命のリレーが行われてきた。」とも書かれています。
わたしも、この命のリレーの中で、幾回も生まれ変わり、沢山の人生を経験してきているはずです。
今の世でも、両親のふかい愛に守られて成長し、社会の中で人生を経験させていただけました。
自分一人が生きてくるのに、どれほど多くの恩恵と守りの努力があって存在できているか、つくづくと有難さが身にしみます。
この頃は、「私って年なのかな…?」などと思うほど、のどかで幸せな毎日です。
「先祖の愛」についての体験です。
もうずいぶん前のことですが、心に煩うことがあって、うつうつとした思いで仏前でいつものように、「甘露の法」を読ませていただいていた時、まっぐにあがっていた線香の煙が、急にスッと直角に曲がってこちらに向かってきました。
「あれっ?」と思っている私の胸にあたってふわふわと散ります。
つぎつぎと煙はこちらにきますから、私は煙にすっぽりと包まれてしまいました。
ゴホッ、とむせながら甘露の法雨を読ませていただきますが、煙から感じるなんとも優しく、あたたかい雰囲気は、まるでその時の私の心の煩いを慰めてくれているようでした。
今も時々、仏前で甘露の法雨を読ませていただきながら、あの時の光景を懐かしく嬉しく思い出します。
私は結婚をしていませんので、いつも一人です。
でも一人であったことは一度も無い。
神様に、先祖に、両親に、こんなにも沢山愛され守られて過ごしています。