橙灯望記

真理への道

「牝鹿の脚」の話

2012-04-08 17:13:00 | 日記

谷口雅春先生のご著書に「善と福との実現」というご本があります。

田舎の親元にいたころ、真理への思い胸いっぱいで、いつも手元にご本をもち、沢山のご本を読ませていただいていた中に、このご本がありました。

まだまだ若く、真理への理解も浅いわたしには、「むずかしいご本」、という印象でした。

このなかにある「牝鹿の脚」のお話の意味がわからなかったのです。

読まれたかた多いとおもいますが、主人公のクラーク氏が汽車のなかで、隣の席に座った白い髭の老人に 「牝鹿の脚」 の話を聞きます。

老人は青年のころ、商社に勤務し、また、別会社もつくり、沢山のお金をもうけ、ついに健康を害し、スペリオル湖のロイヤル島で静養をおくる日々をすごします。

健康も恢復してきた頃、日没近く、ボートに乗って漕ぎ出、なんだか眠くなって眠ってしまい、数時間後気がついてみると、はるかに陸地も見えない、水また水の縹渺とした湖面にただよっている自分を発見します。

スぺリオル湖は、時々強風が起こってボートが覆り、溺れた者は決してその死体が発見されることがないことを思い出し、パニックのような恐怖に襲われた彼は、神に祈ります。

「神様、若しあなたが私を救って下さるならば、これ以降の私の生涯の半分を神様の仕事に、人類を救うためにささげます。特に青年を救うために」。

そのとき、空に突然、イエスの降誕の場所を示したベツレヘムの星とはこんなものかと思わせるような、月の大きさの四分の一ほどもある大きな星があらわれ、彼が出発した島の船乗り場へ導きます。

その後、彼は神様との約束どおり、商売の旅ごとに汽車のなかで、神様の導きのまま、その話をするべき誰かひとりに自然に話しだすようになります。

そして、その日はクラーク氏に話してくれます。

「彼はわが脚を牝鹿の脚のごとくならしめ、いと高きところに吾を立たしめ給う」。

そして言います。「高きところに登って行く最もよき道は 主の祈り です」 と。

 

天に在します吾らの父よ  願わくば

み名のあがめられんことを

みくにのきたらんことを

み心の天になるがごとく地にもならしめ給え

吾ら日々の糧を 今日も与えたまえ

吾らにおいめあるものを

吾らの赦したるごとく

吾らのおいめをも赦したまえ

吾らを試みに遭わせず

悪より救い出したまえ

 

「主の祈り」と「牝鹿の脚」のはなし。

クラーク氏は、そのときよく理解ができず、その後9年の歳月を過ごします。

彼は、ワイオーミング州の或る農場で一匹の馬に乗ったとき、「牝鹿の脚」の話を理解します。

彼の乗った馬は俊足であるけれど、数年間市場で馴らされたたため、天与の天分を失い、後脚が前脚の踏んだあとを 二、三インチ狂って踏むため、危険なすべりやすい嵯峨たる岩のこつりつせる山腹をのぼることができない。

そして牝鹿です。

牝鹿は、一度踏み外したら永遠に死の世界へ墜落するような、山腹の峻しい石道を、前足が踏んだあとをしっかり確実に後ろ脚が踏むことによって、安全に山頂に行くことができる。

でも、わたしは、このお話を読んだとき意味がわかりませんでした。

前脚は脚元が見えますので、安全な山の背をしっかりと踏みます。

その同じ場所を後ろ脚が踏めば安全なのです。

牝鹿は、神のつくり給える中でも、最も完全なる物理学的完全さでそれができる。

そこまではわかります。

でもそれと、実際の日常での、真理への生き方の意味をつなげることができなかったのです。

わたしはその後、「善と福との実現」のご本は親元においたまま、「生命の実相」だけを持って、釧路、札幌、と転勤してまいりました。

その間何度か、このお話を思い出したのですが、その度に「やっぱり、わからない…」でした。

最近になって、「牝鹿の前脚は神様、うしろ脚は私達のこと…???」、ふっと考えがよぎりました。

あらためて、教化部でご本を買わせていただき、再度勉強です。

ぜんぜん違いました。

牝鹿の前脚は現在意識で、うしろ脚は潜在意識と書いてあります。

「動物が高所に登るには、前脚とうしろ脚が完全なる相互作用をもっていなければならないと同じように、人間も高き自由なる境涯に上るには、現在意識と潜在意識との間に最も完全な相互作用をもっていなければならない。」

意識の中で、現在意識は全体の5%です。

運命を動かすのは、95%の潜在意識です。

現在意識で願うことに、潜在意識が完全な相互作用をもって動くことができれば、現在意識の望む「思いどおりの人生」ができあがることになります。

でも、どうしたら現在意識の思念と潜在意識とを一致させることができるのでしょうか。

ご本では「主の祈り」と書いてあります。 神様への絶対の信頼と全托。

この真理を理解するのに、クラーク氏は9年でしたが、わたしの場合40年の長い年月がかかりました。

今でも、「ほんとうに解ったか?」 と言われたら、なんと答えるべきでしょうか?

毎日の神想観に、あたらしい祈りのことばが加わりました。

「わたしの生活の今日一日の一瞬一瞬が、神の国の生活でありますように。そして他の人々の生活の一瞬一瞬が、神の国の生活でありえるよう 神よ霊を注ぎたまえ。」(320p)

ところで、神様への全托で、ご本では、アンデルセンの童話「おじいさんの言うことにまちがいはない」によく似た隠元豆の寓話がのっています。

昔々、ジャックという王子があった。

ある日、巨大な鬼が王様を殺して、年老いた妃と小さき王子とを追放した。

年老いた妃と王子は、只一匹の牝牛と少しの地面で、生活のために、激しく働かねばならなかった。

そのうちに金がだんだんなくなり、ついに妃は牝牛を金にかえるために、王子を市場へやった。

市場にいく途中、王子のジャックは羊を連れてくる一人の男にあい、旨くだまされて自分の連れてきた牝牛を羊に換えてしまった。

次には豚を連れてきた男には豚と、その次の男には鵞鳥に、鵞鳥を雌鳥に、次々に換えてしまい、やがてその雌鳥を次には一握りの隠元豆と取換えて帰ってきた。

母の王妃は怒ってその一握りの隠元豆を窓の外に捨ててしまった。

そしてその晩、王妃たちは充分に眠ってしまい、翌朝めを覚まして驚いた。

その隠元豆から芽が出、天にもとどく高さにすくすくと延び、蔓を網の目のように拡げていた。

王子は、その隠元豆の茎を昇っていって空中にある、不思議な大きな大地をみいだした。

そこは、彼の王様を殺した鬼と、その妻が住んでいる世界だった。

鬼が王子を見つけたら、彼を捕らえて殺してしまったかもしれない。

しかし、幸いなことに鬼の妃が、いつかは王様から奪った三つの宝物を、真の持ち主が来て要求したならば返したやろうと考えていた。

王子は鬼の住家へそっと入って行き、父が盗み取られた宝を一つずつ取り返した。

一つは毎日黄金の卵を産む赤い鳥、そして一つは人間が手を触れないでも自然に鳴るインスピレーションの竪琴、三っつめは身に纏うと何処でもゆける魔法の神足通のカーペット。

ここで、彼らは隠元豆を大地にゆだね、そして眠った。

我々は自我の殻を破り、外に飛び出す。

大地は我々を抱擁し育んでくれる。

雨は降るかもしれない。

風は吹くかもしれない。

それは、一見困難なる外界の世界に晒される。

しかし、雨は却って我々を潤してくれるものであり、風は却って我々から害虫を払ってくれるものである。大地とは神様の譬喩だ。風雨はその摂理の象徴である。かくて風雨のはからいによって豆の種子「我々の個生命」は大地のなかに、神の大いなる慈手のなかに抱かれる。(329p)

牝鹿の脚がどう歩むかということは、神様が そのまま に教えてくださっている。

そのままにかえること、そのままに神の生命をわがものとし、神の智慧をわがものとし、神の叡智をそのままに、一挙手一投足をまかせ切ればよい。そのままになるにはそのままの世界と、人間のそのままの生命とが既に完全なることを知らねばならない。

神の完全なるみこころは既に「天」即ち実相の世界に、其処に住める実相の人間に既に成っているのである。それを知ること。それを見る事。観ずること。想念すること。言葉にあらわすこと。(220p)

精神を弛緩し、神に心を集中し、「我をなくならしめ給え」と祈ること。

浮世の煩労を捨て、常に良き言葉を黙然し、それを心の奥底に浸透せしめること。

このご本の最後のページに示された言葉どおりに、毎日を生きてもみよう思う。

このご本に出合えた幸せを、無にしないために。

きっと近いうちに、そのことの意義を、心からの歓びを、このブログに書けるような気がする。