80歳になりました。もう怖いものがありません。日々ボケないよう、歩けなくならないようをモットーに生きています。
乳癌について。私は右乳房を全摘しました。今なら、乳房を残す手術だったと思います。悲しくて悲しくて耐えられない思いを数年抱えました。
その後、痛かった腕が徐々に上げられるようになり、傷も癒えると、元気いっぱいになりました。
乳癌の手術後、悲しんでばかりでは何の得にもならないと、職を探しました。術後2カ月で高校生の受験塾に採用されました。
スムーズに採用されたわけではありません。一度落とされたのですが、どうしてもその塾で働きたいと手紙を書きました。
幸い、採用された方が妊娠され辞退されたとかで、先ず1カ月だけとの条件付きでした。もう、嬉しくて頑張りました。
仕事は、生徒のテキスト作りを主に、生徒募集からあらゆる雑用を四人のスタッフでこなしました。
実に色々なことがありましたが、楽しかったです。15年位続きました。塾全盛期だったし、有名校の生徒と京大と阪大ばかりの学生講師でした。
塾長の本業は医者で、塾は副業でした。常に塾長が傍にいるわけでなく、夕方から夜にかけて来られ、的確な指導をされました。
私は、昼のスタッフとして採用されたので、最初はテキスト作り専門でした。その内生徒数がみるみる増え、夜のスタッフが一人では足りなくなり、5人位になりました。
募集も大掛かりになり、今なら難しいだろうと思うのですが、校門でビラ配りもしました。
スタッフの採用も任されました。
採用されたスタッフが、普段いない塾長の代わりに塾のボスになり、私達をやめさせようとする事件もありました。
結局、私達の言い分が通り、そのやり手の女性は辞めていきました。夜のスタッフで実によく働く凄い方でした。もう塾を乗っ取りそうでした。
沢山の事を勉強させていただきました。
塾長も二足のわらじで、賢い方でしたが、医者なのに自分の癌が手遅れになるまで気づかず、42歳の若さで逝かれました。その時私は50歳でした。
塾の後は才媛の奥様が病院と塾の両方を継がれました。塾長の息子はまだ医学部の学生でしたので、病院は医者を雇われました。
この時のいざこざは種々ありましたが、熟練したスタッフが多かったので、塾は今まで通りスヌーズにいきました。
私は55歳で辞めました。55歳からは自分の人生を楽しんで過ごそうと決めていたからです。
本当に楽しみました。
中学生と小学生だった二人の娘を育てながらの、塾勤務だったので無茶苦茶忙しかった筈ですが、毎日充実していたと思います。
娘達の学費や諸経費が、私の給料でほぼ賄えたことが一番良かったのではないかと思います。給料は当時としてはとても多かったです。
それに、乳癌の事をあれこれ考える暇がなかったことがまた良かったのかもしれません。
私は乳癌を全摘して、死ぬほど悲しみましたが、その後、乳房を残した手術された方に数人会いました。
その時、「残すのも善し悪しよ」としみじみ言われました。再発するリスクが高いのです。残された方達は次々再発し、私より若い方なのにお亡くなりになりました。
医学が進み、再発も防げる時代になったと思うけれど、残した為に再発の心配も、治療も大変だから、今も残すのも「善し悪し」かもしれません。
あんなに死にたいと言ってたのに、今は生きていて本当によかったです。
一緒に悲しんでくれた旦那も、まあ元気だし、今の幸せを噛みしめています。また続き書きますね。
乳癌について。私は右乳房を全摘しました。今なら、乳房を残す手術だったと思います。悲しくて悲しくて耐えられない思いを数年抱えました。
その後、痛かった腕が徐々に上げられるようになり、傷も癒えると、元気いっぱいになりました。
乳癌の手術後、悲しんでばかりでは何の得にもならないと、職を探しました。術後2カ月で高校生の受験塾に採用されました。
スムーズに採用されたわけではありません。一度落とされたのですが、どうしてもその塾で働きたいと手紙を書きました。
幸い、採用された方が妊娠され辞退されたとかで、先ず1カ月だけとの条件付きでした。もう、嬉しくて頑張りました。
仕事は、生徒のテキスト作りを主に、生徒募集からあらゆる雑用を四人のスタッフでこなしました。
実に色々なことがありましたが、楽しかったです。15年位続きました。塾全盛期だったし、有名校の生徒と京大と阪大ばかりの学生講師でした。
塾長の本業は医者で、塾は副業でした。常に塾長が傍にいるわけでなく、夕方から夜にかけて来られ、的確な指導をされました。
私は、昼のスタッフとして採用されたので、最初はテキスト作り専門でした。その内生徒数がみるみる増え、夜のスタッフが一人では足りなくなり、5人位になりました。
募集も大掛かりになり、今なら難しいだろうと思うのですが、校門でビラ配りもしました。
スタッフの採用も任されました。
採用されたスタッフが、普段いない塾長の代わりに塾のボスになり、私達をやめさせようとする事件もありました。
結局、私達の言い分が通り、そのやり手の女性は辞めていきました。夜のスタッフで実によく働く凄い方でした。もう塾を乗っ取りそうでした。
沢山の事を勉強させていただきました。
塾長も二足のわらじで、賢い方でしたが、医者なのに自分の癌が手遅れになるまで気づかず、42歳の若さで逝かれました。その時私は50歳でした。
塾の後は才媛の奥様が病院と塾の両方を継がれました。塾長の息子はまだ医学部の学生でしたので、病院は医者を雇われました。
この時のいざこざは種々ありましたが、熟練したスタッフが多かったので、塾は今まで通りスヌーズにいきました。
私は55歳で辞めました。55歳からは自分の人生を楽しんで過ごそうと決めていたからです。
本当に楽しみました。
中学生と小学生だった二人の娘を育てながらの、塾勤務だったので無茶苦茶忙しかった筈ですが、毎日充実していたと思います。
娘達の学費や諸経費が、私の給料でほぼ賄えたことが一番良かったのではないかと思います。給料は当時としてはとても多かったです。
それに、乳癌の事をあれこれ考える暇がなかったことがまた良かったのかもしれません。
私は乳癌を全摘して、死ぬほど悲しみましたが、その後、乳房を残した手術された方に数人会いました。
その時、「残すのも善し悪しよ」としみじみ言われました。再発するリスクが高いのです。残された方達は次々再発し、私より若い方なのにお亡くなりになりました。
医学が進み、再発も防げる時代になったと思うけれど、残した為に再発の心配も、治療も大変だから、今も残すのも「善し悪し」かもしれません。
あんなに死にたいと言ってたのに、今は生きていて本当によかったです。
一緒に悲しんでくれた旦那も、まあ元気だし、今の幸せを噛みしめています。また続き書きますね。