体育館通いの日常。

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乳癌と膝痛のその後と体育館通いのその後

2020-11-28 00:10:30 | 乳癌
長い間更新していません。漸く書いておこうと言う気になりました。
先ず、乳癌ですが、手術したのは37年前の42歳10月です。
当時は泣いて、泣いてどうしようもありませんでした。
娘二人の母なのに、死んでしまいたい思いでした。
後に、長女の中学1年は「お母さんが癌になってしまった」と、校庭で泣いていたそうです。
二女の小学3年はお姉ちゃんやお父さんがいて、時々おばあちゃんや叔母さんが来てくれて、淋しくなく何も覚えてないそうです。

死にたいとは思ったけれど、実際はこんなことで死ぬもんかと思いました。
当時は放射線治療の方は6カ月位入院されていました。私の癌は極々初期で、多分0期やったのだと思います。
手術で癌細胞が飛び散ってしまったかも知れないので、放射線はかけませんが、抗がん剤を飲みましょうと言われました。

乳癌の傷口はいつまでもじくじくして、リンパ節を37個取っているので中々治りません。
乳癌だった右脇は痛くて長い間手が上がりにくかったです。でも、挙げる練習をしないと筋肉が固まってしまうので、毎日毎日
腕を挙げるリハビリをしました。胸に厚い鉄板が入っている感じは、20年くらい続いたでしょうか。腕が抵抗なく挙がるようになる
3年くらいかかりました。

入院生活は楽しかったです。同じ病の方が2人おられて、私が一番若く、半年入院されてる59歳の元郵便局員の方と、私より1週間くらい後で手術された49歳の方と、胃癌で手術された45歳位の方の4人部屋で、色々話をし、よく笑いました。
私はお正月も近いし、子供達も心配なので二カ月で退院し、通院にしました。

2週間毎に通って、処方される抗がん剤は当時の我が家の家計には高価でした。私は初期の癌やしリンパも取っているし薬がなしでもいいのではないかと、勝手に判断しました。傷口はじくじくし、腕も上がりにくかったけれど、3カ月位で通院を辞めました。つまり高価な抗がん剤を医師の許可なく辞めたのです。こうして37年も生きているからラッキーとしか言いようがありません。

そうこうしている内に一緒に入院していた方々も順次退院され、その後20年位時々会って無事を喜びあいました。
乳癌の二人は術後30年近く生きられました。今はお二人ともお亡くなりになりました。

退院してから、ワコールで高価な乳癌用のブラジャーを買い、島根県迄行ってブラに入れるパットを買いました。高価でした。
しかし、高価ながら、所詮は消耗品、長持ちしません。今は、その辺にある端切れを使い自分で作ったパッドを入れています。  

次に、膝痛の件です。
変形性膝関節症と診断され、1年程通院しましたが一向に良くなりません。ヒアルロン酸も打ちましたが、しばらくだけ。 
こういううのは自分で治すしかないと思いました。
色々やってみましたが歩くのが一番です。 最初は毎日2キロ位歩いていましたが、だんだんまどうになり、今は思い付いた時だけになりました。

先日、お腹が重くて重くて、歩くと息切れがします。扨ては何か病気かと、何かの癌かもと病院へ行きました。
MRI、CT、血液検査、心電図、子宮がん検診をしました。結果、どこも異常ありませんと診断されました。
健康体なんだ。これは単なる老化なんだと思います。

今も歩くとお腹が重いです。でも、もっと歩くようにするとマシになるのではと思います。
結局、膝関節症は歩き、健康体操やヨガ、卓球等でなんとかなるのではと思います。 
現在、体育館は週2回卓球だけです。公民館で月2回ヨガを教えています。保健センターで健康体操、福祉センターで健康体操とプールウオークを
地域の公民館で百歳体操に参加しています。なんでも広報に載っているのがあれば参加しています。

60代はまだ70代がある、70代はまだ80代がある、しかし80代になるともう先がありません。もうすぐ80歳になります。

いつまでも歩けて、認知症にならないよう新聞を読み数独をし頭を鍛えるようにしています。

誰もが経験したことがないコロナ禍、いつまで続くかわからない不安、乗り越えていかなくては。近づいてくる死に向かって、穏やかに生きていきたいものです。

今まで生きてきて、ピースボートで北回りと南回り2回でほぼ地球一周出来たことが何よりです。そのお陰で外国に慣れ海外旅行に何回も夫婦で行けたことが大きな財産です。思うに海外は75歳までに行かれた方が良いように思います。齢をとると思わぬ所で転ぶことがあるんです。

子供達も無事素敵な大人になってくれましたし、孫も上は21歳になり幸せです。死ななくて良かったです。

私のつたないブログを毎回読んで頂いた皆さん、どうもありがとうございました。

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