あの日を忘れない
3・11東日本大震災・福島原発事故
東日本大震災から4年。メディアでは様々な特集を企画し報道していますが、私もあの日のことを忘れることはできないし忘れてはいけないのです。
2011年3月11Ⅰ日、あの時私と妻は大阪心斎橋の大丸百貨店14階で「日本伝統工芸展」を観覧していました。なにか体がふらつくような気分が悪くなり妻とロビーに出たところ、ロビーの吹き抜け天井につるされたシャンデリアがゆらゆらと揺れビルが揺れています。ロビーに出た多くのお客が床に座り込み、椅子にしがみついています。私たちも椅子にしがみついてしばらく動けませんでした。エレベーターもエスカレーターも止まっています。
幸い電車等は動いて急いで自宅に帰ってから、大震災が発生したことを知りました。
あれから4年被災地の復興は遅れ、避難生活が長期化するなかで生活再建の先が見えず苦しい日常を余儀なくされている多くの人々の心情を思うと心が痛みます。
私は2011年11月所属する大阪の「男声合唱団 昴」の一員として、陸前高田市と大船渡市での支援コンサートに参加しました。震災から8カ月、被災地の様子を目の前に言葉が出ませんでした。支援コンサートなど開いて現地の人たちがどう受け止められるのか。仮設住宅を訪問しながら、どんな言葉を交わしていいものか戸惑いながらの訪問でした。
コンサートは地元中学校の体育館で開催され、寒い夜にもかかわらず仮設住宅や近くの住民の方々が多く参加下さり、約1時間30分のプログラムを終え最後みなさんと手を握り合い励ましの言葉を交わして別れました。翌日は大船渡市の福祉施設でも演奏し皆さんと歌いあい、再開を約束しながら帰りました。
翌年8月にも同じ陸前高田市と大船渡での支援コンサートにも参加し、1年半を経過した被災地の人たちと交流し、徐々に皆さんとの会話も前回より明るくできました。しかし被災現地は1年前とほとんど変わらない悲惨な状況でした。
神戸震災から20年、東日本震災、福島第一原発事故から4年、この事実とその後の状況、特に原発事故が、私たち人間の尊厳と暮らしを奪い台無しにするものかを肝に銘じ、これからの暮らしの在り様を考え、原発のない自然エネルギーへの転換を実現するために考え行動しなければと思います。
3・11東日本大震災・福島原発事故
東日本大震災から4年。メディアでは様々な特集を企画し報道していますが、私もあの日のことを忘れることはできないし忘れてはいけないのです。
2011年3月11Ⅰ日、あの時私と妻は大阪心斎橋の大丸百貨店14階で「日本伝統工芸展」を観覧していました。なにか体がふらつくような気分が悪くなり妻とロビーに出たところ、ロビーの吹き抜け天井につるされたシャンデリアがゆらゆらと揺れビルが揺れています。ロビーに出た多くのお客が床に座り込み、椅子にしがみついています。私たちも椅子にしがみついてしばらく動けませんでした。エレベーターもエスカレーターも止まっています。
幸い電車等は動いて急いで自宅に帰ってから、大震災が発生したことを知りました。
あれから4年被災地の復興は遅れ、避難生活が長期化するなかで生活再建の先が見えず苦しい日常を余儀なくされている多くの人々の心情を思うと心が痛みます。
私は2011年11月所属する大阪の「男声合唱団 昴」の一員として、陸前高田市と大船渡市での支援コンサートに参加しました。震災から8カ月、被災地の様子を目の前に言葉が出ませんでした。支援コンサートなど開いて現地の人たちがどう受け止められるのか。仮設住宅を訪問しながら、どんな言葉を交わしていいものか戸惑いながらの訪問でした。
コンサートは地元中学校の体育館で開催され、寒い夜にもかかわらず仮設住宅や近くの住民の方々が多く参加下さり、約1時間30分のプログラムを終え最後みなさんと手を握り合い励ましの言葉を交わして別れました。翌日は大船渡市の福祉施設でも演奏し皆さんと歌いあい、再開を約束しながら帰りました。
翌年8月にも同じ陸前高田市と大船渡での支援コンサートにも参加し、1年半を経過した被災地の人たちと交流し、徐々に皆さんとの会話も前回より明るくできました。しかし被災現地は1年前とほとんど変わらない悲惨な状況でした。
神戸震災から20年、東日本震災、福島第一原発事故から4年、この事実とその後の状況、特に原発事故が、私たち人間の尊厳と暮らしを奪い台無しにするものかを肝に銘じ、これからの暮らしの在り様を考え、原発のない自然エネルギーへの転換を実現するために考え行動しなければと思います。
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