「色も形も色々あるほうが世の中は楽しい」と平凡な感慨を述べてから2カ月になんなんとしている。モーツアルトの中にも凡作はある。「失われた時を求めて」の中にも、否、中には、訳の分からない、意味不明の、捨て去りたい部分が山ほどある。言いたければ、誰かの真似をして、「人生の七分の六は不幸で、惨めで、灰色だ」と言ってもよい。確かに、この世には色々な色と形があるが、この自分にだけはなぜ薔薇色の時間が広がらなかったのか。なぜ自分だけは形の歪んだ生のイメージばかりに取り巻かれているのか。そう拗ねてみるのも一興だろう。黄昏時の名古屋の街を、久し振りに猫洞通から千種駅まで歩いた。風に揺れる野のユリではなく、西日に薄赤く染まった高層ビルの壁を見た。ビルとビルの谷間に雑草の生えた空き地があった。立ち入り禁止の札がなかったので、僕はそこに入り込み、四角く区切られた空を見上げ、ゆっくりと呼吸をした。僕の頭の中には、某公園で見たカップルの姿が残っていた。小春日和だった。僕は木製のベンチに座り、黒いTシャツ一枚になり、5本指の靴下も脱いだ。プルーストを読んだり、ベンチに横たわり、居眠りをしたりしていた。青年はスケボーの練習をしていた。その女友達は肩よりも長い髪を靡かせながら、それを見ていた。その広場は、文字通り広く、防災時のヘリコプターの着陸地点にもなっていた。あったとしても、もう失われた時の中に深く埋もれてしまっているに違いない僕の幸福。僕はただ、目の前の幸福そうなカップルが羨ましく、1時間でいいから彼らが味わっているような幸福な時間が欲しいと思った。同時に、こんなふうに暖かい陽光をのんびりと浴びて、心にほんの少しの寂しさを感じている時間というのも、あるいは、ささやかながらも一つの幸福と言えるのかもしれない、とも思った。頭の上の木からは時折、ドングリの実が落下して音を立てていた。広場全体が雑木林の影に覆われた頃、僕は靴下を履き、地下鉄の方へ歩いて行った。ビルの谷間の空き地で空を見上げていた男が、そんな小さな物語を引き摺っていたとは誰も知るまい。千種駅の近くで、僕は昔風の灯りを見つけた。そこに楕円形を見つけるのは簡単だった。そこに菱形を見つけ出すのは苦しい。こじつけて、何とか菱形にするしかない。菱形は菱形を生み、呼ぶ。楕円は菱形とは馴染まない。その混在を探すことは、この世にないものを探すようなものだ。あれば、希少価値を帯びることになる。人は、自分で思っている以上に幻を必要としているのかもしれない。とりわけ、自分に都合の良い幻だけを。
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