池間漁港から船に乗った。池間大橋の下を潜り、大神島を右手に見、八重干瀬のダイヴィングポイントに向かった。数十分で到着した。若船長(老船長の息子)が手すりに触り、何か白い粉を擦り取った。「塩」と若船長はたった一言発した。文字通り、自然塩だった。朴訥な男だった。船長親子は、島の人間だった。
もう一人の男は、港からずっと舳先にいた。ダイヴィングのインストラクターだ。長い髪を後ろで縛っていた。宮古島出身ではないと答えた。
ダイヴィングポイントに到着してから、船酔いが始まった。ウエットスーツ、ブーツ、フィレを着用し、体慣らしのために水中に入り、シュノーケリングをしようとした。ところが、立ち泳ぎでじたばたしているうちに疲れ果ててしまった。海では、まず、ゆったりと仰向きになり休むコツを覚えるべきだった。船酔い感とこの体力消耗で、私は出鼻をくじかれてしまった。美しい珊瑚礁に群がる魚群を満喫することはできなかった。
船上でしばらく休憩した。気分は依然良くならない。昨夜、居酒屋で食べ過ぎたか。インストラクターは、手が焼ける客を目の前にして終始顔を曇らせたままだった。申し訳ない気持ちで私の心も曇ってしまった。
インストラクターは、潜水器材の説明等を始めた。「大丈夫です。任せてください」と言った。体調さえ良ければ、無論、任せるところだった。私の耳に彼の説明は聞こえていたが、私の心には響かなかった。正直なところ、潜りたくなかったが、成行きで、潜るしかなかった。人生、成行きと諦めか。器具の調節等は、彼が全部してくれるということだった。私はただ、海中で酸素を吸って呼吸をすればよかった。呼吸は、出来た。段々深くなる。説明にあったとおり、水圧で耳が痛くなる。「耳抜き」ということをする。自分の手で鼻をつまんだまま、フンと鼻をかむようにすることだが、これが中々出来なかった。唾を飲み込んでも良かったのだが、焦ってしまって思いつかず、ひたすら「フン」を繰り返したが、何度やっても耳の痛みが解消せず、そのうち右耳の鼓膜が破れたような音が聞こえ、水が耳の奥にまで入り込んできたような感覚を覚えた。こうなると、もう駄目だった。冷静さを失ってしまった。インストラクターに上昇したいと合図を送ると、彼は、私の背面から正面に回り、私の眼を正視した。水中眼鏡越しに見る彼の眼差しは、鋭く真剣だった。私は、だらしなくも上昇したい合図を繰り返した。
船上に上がると、インストラクターは、「鼓膜が破れることはない」と言った。私の右耳は、しかし、その後ずっと変だった。気分は冴えなかった。八重干瀬の海に潜り、熱帯魚を見たことは見た。確かに私の網膜には映ったはずだ。しかし、心のスクリーンには刻まれなかった。ダイヴィングは、高級かつ危険な遊びだ。しかし、一度その醍醐味の虜になると、二度と逃れられなくなるだろう。麻薬のようなスポーツだ。私は、八重干瀬でパラダイスを味わったわけではない。が、その夢のような別世界を垣間見た限りで言えば、そういうことになる。
正午になり、弁当の時間になった。食欲はない。インストラクターが船縁で飯粒を少しばらまいた。小魚が数十匹、あっと言う間にバシャバシャと群がって食いに来た。私の心は、しかし、それを見ても浮かぬままだった。船の中央に小さな個室があった。トイレだった。何事も経験だと思い、ウエットスーツを脱ぎ、トイレに入った。海の水を汲み上げる水洗トイレだった。
私の恐怖感に対して配慮してくれたのか、若船長たちは、船を浅瀬のポイントに移動させた。そこで私もぷかぷかとシュノーケリングをして楽しめたらいいなと思った。再びウエットスーツを着ようとした。インストラクターは、バケツに海水を汲み、私の体とウエットスーツとの間にその水をかけた。一度脱いだ場合、水をかけると着やすくなるそうだ。再び海の中へ。なぜか、しかし、うまくやれない。口の中に塩辛い水が入ってくる。昨日は、問題なくできたのに。意欲が萎えてしまい、すぐ船上に戻った。船酔い感がいつまでもなくならないのだ。私は、インストラクターに、「早めに帰りたい」と情けない声で申し出た。
池間漁港に戻る途中、若船長は、「亀」とか「鳩」とか教えてくれた。亀は見えなかったが、鳩は見えた。小さな木切れの上に乗って鳩が波間に浮かんでいた。私の顔は、それでもまだ「浮かぬ表情」のままだった。
マイグレーションに戻ると、段々、元気が回復してきた。シャワーを浴び、帰ろうとしたら、玄関に老船長が現れた。「きょうは天気がよくて良かったですね」私は、礼を述べた後、「この辺りの畑では、大根とか南瓜とかナスとかは作らないのですか」と尋ねた。老船長は、作ろうと思えば作れるが、みんなサトウキビを作るよ、お金になるから、と答えた。それから、私達は、よもやま話を始めた。
老船長は、標準語に近い言葉で、語った。若い頃は、台湾、オーストラリア等、遠くの海まで漁にでかけた。鰹の一本釣りは宮古島の猟師は上手なので、俺は船長として、彼らを連れて、外国に行き、外国の猟師に教えて漁をした。へえぇ、オーストラリアまで。網では獲らないんですか。網は使わない、一本釣りだ。重いでしょうね。うん、重たい。何キロ位ですか。15キロから20キロ位だ。うわぁ、すごいですね。鰹はナマの餌しか食べない。それをばらまいて、食いつくかどうか調べるんだ。へぇ、ナマしか食べないんですか。最後は、平良港と池間港との間の連絡船の船長をやっていた。そこの池間大橋ができるまでは。じゃ、橋に仕事を取られたんですね。うん、取られたんだ。今は、息子に後を継がせにゃならんから、息子に色々やらせている。いい息子さんですね、目がクリクリっとして。ところで、いつまでダイヴィングはできるんですか。一年中やれるさ。ただ、冬場は、俺は、もずく作りにかかりきりになるから。どうやって作るんですか。この水槽の中で網に母草を吹き付けて、芽が出てきたら、海の底に沈める。3日に一度くらいは様子を見に行って世話をする。もずく以外の藻やごみが網に付着していたら取り除くんだ。シュノーケルでやれるさ。あんたも手伝いにくればいい。刈り取りは、4月5月6月だ。5月の連休は、体験ダイヴィングの客の相手をするけれど。刈り取りって、手で刈り取りするんですか。いや、機械さ。ちょっと、こっち来て、見なさい。これで吸い取るんだ。へえぇ、これで。網は、何年位持ちますか。5年だ。上手に使う人は10年持たすね。網ってどれくらいの大きさですか。幅1m50、長さ20m。それが300枚。それを海の畑に設置して世話をするんだ。あんたも手伝いにくればいい。よく分かるから。網を設置するって、海の底にですか、それとも海面にですか。底だよ。海面に張っちゃ腐ってどろどろになっちゃうよ。へえぇ、底ですか。大変ですね、世話が。台風が来たら、網ごとやられることあるよ。だから、バクチだよ。へえぇ、バクチですか。うん、しかし、俺は、自然とはけんかしない。じっと我慢ですか。大変ですね。もう一つだけ尋ねますが、モズクって、何センチ位ですか。40センチ位だ。へぇ、40センチですか。あんたは、人の話を聞きたがるね。俺の外国での漁の話とか話し出したらきりがないよ。聞きたければ、夜、泡盛を飲みながら、聞けばいいよ。三線も弾くよ。えっ、三線も弾くんですか。すごいですね。ああ、俺は、何でもするよ。俺んとこは、旅館もやってるから。泊まって、モズク手伝って、帰りには、自分で刈り取ったモズクを持って帰るといいよ。持って帰るって、じゃ、アイスボックスが要りますね。いや、一斗缶に入れるから、そこにヤマネコがあるから、そこから送ればいいよ。じゃ、船長、来年の3月4月5月に刈り取りに来ます。いや、4月5月6月だよ。あ、そうでした。じゃ、どうも楽しい話をありがとうございました。お世話になりました。
老船長とは他にも色々話をした。サトウキビは、親を夏に切って植えて、翌年の12月に収穫する。1年半かかる、という話も初耳だった。私は、初めて宮古島人の息吹きに触れることができたような気がした。もし老船長から連絡が来たら、来年の五月にはモズク刈りに行ってしまうだろう。成行きだ。
島西部の砂山ビーチは、絵葉書向きの風光明媚な場所だった。名の通り砂山を裸足で登ると、眼下に紺碧の海が視野に飛び込んできた。あいにく海は荒波だった。ビーチは自然のままで、店もなかった。
宮古島を三角形にたとえると、その底辺の左端に来間島がある。ホテルに戻る前に、立ち寄ることにした。誰もいない名もない海岸に行き、貝殻拾いをして、砂浜に、棒切れで「宮古島」と書いた。青春時代なら、片思いの少女の名を書くところだろう。正面に太陽があった。海に沈むにはまだ時間があった。「わ」のナンバーを付けた車が来た。夕陽を見送りたい気持ちもあったが、何か落ち着かなくなり、ホテルに戻ることにした。
自分の泊まっているホテルのレストランのディナーは、高額だった。隣のホテルに行き、鮨を食べることにした。四分の一の料金だった。若いウエートレスが、「ご旅行ですか」と尋ねてきた。珍しいことだった。普通、ウエートレスは、聞かれたことにしか答えない。私は、少々驚いた。聞くと、地元出身だった。訛りはなかった。働いて2年になるという。私が昼間の船酔いの話をすると、彼女は、親切にも、船酔いに効く飲み物を作りましょうかと言った。私は、軽い驚きと嬉しさとの間で、「お願いします」と頼んだ。彼女は、主任だろうか。下っ端のウエートレスにそんな独断が許されるだろうか。しばらく待っていると、彼女は、レモンとシロップが入った飲み物を持って来てくれた。私は、「名古屋方面に来た時は、僕の家に来ればいいよ。ただで泊めてあげるよ」と言った。「大曽根駅のプラットフォームにある立ち食い店のきしめんは安くてうまいよ」と教えてあげたら、彼女は、透かさずコースターの裏側に大曽根駅の名をメモしていた。
彼女とは他にも色々と話をした。休みの日、地元の人は、どんな遊びをするのか、と尋ねた。彼女は、海にはあまり行かない。居酒屋に飲みに行くことが多い。海に行って釣った魚をその場で刺身にして泡盛をみんなで飲むことはある、と答えた。私は、青年たちが砂浜で車座になり、泡盛を回し飲みする風景を想像した。うらやましい、と思った。
沖縄の言葉についても語り合った。彼女は、「おばあとお母さんは沖縄の言葉で話す。私はよく分からない」と言った。私は、彼女に幾つか沖縄の言葉を教えてもらった。最近は、テレビの影響か、どこに行っても「マジで?」とか「急に振るなよ」とかいう言葉を聞く。私も古い人間になってしまったのだろう、そういう言い回しを聞くと、心が凍りつく。幸いにも宮古島ではそういう言い回しを耳にはさむことはなかった。帰る時、彼女には心からありがとうを言ってレストランを出た。
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