現地人に尋ねなければ知り得ない事がある。観光パンフレットには決して書かれることのない事実がある。4時間ほどの滞在の間に私は一匹も見なかったが、島の小学生は鼠が多いと話してくれた。猫も多いと付け加えた。猫は、私も八代神社境内で1匹目撃した。寺院にも立ち寄った。その墓地巡りをしていたら、一つの墓らしくない墓と出くわした。墓前には新しそうな生花が供えられていた。二十歳の女性の墓だ。碑面には「南無阿弥陀仏」ではなく、「雨の中 愛の地図を持って旅立ちました」いうような言葉が刻まれていた。私の心の中の暗い海に悲しい波が轟いた。何も知らないからこそなのか、私は、その墓石から漂い流れてくる悲劇的な雨音に包まれてしまった。この娑婆では、いつもどこかで誰かが泣き叫んでいるのだ。そして、その「誰か」とは、「私ではない誰かであると同時に私自身であるという存在」であらねばならない。手助けせねばならない人間に対してさえ骨身を惜しむ傲岸な私が、
無関係な墓石の前で、何の手助けも出来なかったことを悔んだ。自己愛の一つの変形だったか。
集落の中の路地は、狭い道と言うよりは、言わば各々の岩穴に辿り着くためだけの隙間と言いたいようなものだった。申し分のない好天の昼日中なのに、なぜか大方の家々の窓は雨戸で閉ざされていた。ふと玄関の扉の、張り紙を見ると、「売り家」とではなく、「無料で差し上げます」と書いてあった。左右の家との間には猫も入れぬような隙間しかなく、家の裏側の日当たりの具合などは外部からは全く見えなかった。
港から時計回りで、「潮騒」のために三島由紀夫が滞在した民家、八代神社、神島灯台、監的哨跡、カルスト地形などを見て回った。弁当を八代神社境内のベンチで食べたが、灯台のベンチの方が日当たりも眺望も良く、後悔した。島巡りを一周した後、私は違う道を辿って、再度神社へ向かった。その海を背にして上る石段は長くて急だった。途中、数回、息を整えねばならなかった。一回目は生活臭漂うコンクリート製の階段を上って行った。映画「潮騒」の洗濯場面にも出てくる道だ。二回目、石段をまっすぐ鳥井の方に向かって一段一段上って行くと、俗界から一段一段離れて行くような感覚が生じた。
小中学生は数えるほどしかいない。船着き場で遊んでいた小学生は、同級生がいないと言った。中学生は親友がいたけど、二人とも島から出て行ったと言った。お転婆そうな小学生の女の子は、自分より年下の女の子を指さして、「この子は最近転校してきたの」と教えてくれた。私が小説「潮騒」の碑の傍で、「潮騒」の話を持ち出しても、4人はまったく反応しなかった。確かに、もう昔の話だ。
「こんな所に住んでいたら、新鮮な魚が食べられるからいいね」
「アレルギーあるから、魚も伊勢エビも牡蠣も食べられない」
意外な答が二人の少年から返ってきた。しかし、考えてみれば、酒の飲めない酒屋の息子とか魚アレルギーの漁師の息子とかがいても、何の不思議もない。はあーあ、平凡な納得での幕切れになってしまった。
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