岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

そこそこ愚鈍じゃ

 某公立病院の正面玄関には手指消毒用の液体が置いてあった。僕は汚れた手のまま、汚れていそうなドアを開けて通過した。大勢の患者が椅子に座って順番を待っていた。何もかも、この世では順番だ。火葬場で火葬されるのも順番だ。しかし、死者はもう待つ必要がない。待つのは生きている者だけだ。

 僕は汚れた手のまま、約束の時刻に約束の場所へ到着するように歩いた。僕は或る機械に、自分の氏名等の個人情報が内臓されたプラスチック製のカードを挿入し、一枚の紙片を手に入れていた。その間、僕は不可視の雑菌をばらまき、自分以外の者がばらまいた雑菌を身に付けただろう。

 僕は或る窓口に辿り着き、その紙片をマスクをした病院職員に手渡した。「山際さん、2番の入口から入って中で待っていてください」という指示に対して、僕は素直に従った。トレッドミルという検査を受けるために、僕はそこへ出向いたのだ。

 中に入ってベンチに腰を下ろした。すると、目の前のドアが開き、若い女性が僕を中へ招じ入れた。ここは彼女の部屋ではない。僕は何の幻想も抱かずに中へ入った。「ここに荷物を置いて、上半身裸になって、このベッドに仰向けに寝てください」という指示に対して、僕は素直に従った。「君も一緒に脱がないか」という台詞を言う機会は無かった。彼女はベッドに横たわった僕の裸の上半身に鼻を近づけて、幾つもの電極やテープを張り付けた。僕は両腕を体側に付けていた。彼女が作業をしている間、ほんの少し、僕の手の甲が彼女の体の一部に接触した。僕はその微小な僕自身の皮膚感知機を極限にまで稼働させた。

 僕は電極を付けられながら、彼女の頬、ほつれ毛、睫毛、純粋そうな眼球を盗み見た。彼女の白衣の胸に付けられた名札の文字を読み取った。「玲子」。玲子は僕に言った。「苦しくないですか?」僕は否定した。「ドキドキしませんか?」僕はその言葉にすかさず飛び付いて、「します。美人の前だから」と答えた。その検査室には他にも人がいる気配がしていた。僕は構わず穏やかに言ったのだ。

 10年ほど前にも怪我で某市立病院に入院していた時、眼科の女医に対して、僕はベッドから「和泉雅子に似てますね」と軽口を言ったことがある。女医は付き添いの女房に、「旦那さんはいつもこんな風ですか」と確認していた。その時、僕は頭を打っていたからだ。女房はなぜか「いつもこんな風です」と返答していた。僕は頭を打つ前からノータリンだったのだろうか。
  
 玲子は「そんなことはないです」と自分が美人でないことを否定した。僕はすぐ自分が月並みな愛想しか言えなかったことを少し後悔したが、後悔しなければならないほどの真実が戯れの中にもあったということだろう。

 トレッドミル検査は、僕に喜びを与えた。地面を歩くことと比べるとつまらないが、歩く動作そのものが引き起こす身体的感覚には、やはり快感が伴った。玲子が僕に何か運動をしていますかと尋ねた時、僕はテニスをしていると答えた。その時は、他に二人の臨床技師が側にいたので、今度一度テニスしませんかと誘うことは出来なかった。彼女が僕の体に心電図を測定する器具を取りつけている時、僕は「手が荒れていますね」と言った。彼女の手は白く、綺麗だったが、三、四本、指先だけが荒れていたのだ。僕がこう言うと、側にいたもう一人の年配の女性技師が「チエックがすぐ入るわね」と言った。玲子はなぜか僕に「すみません」と言った。僕は彼女の指の荒れが早く治ることを祈りながら、「働きすぎだね」と言った。

 検査室に入室してからの僕の言動をすべてカーテンの陰で聴き取っていたような青年技師は、測定器が吐き出すデータを読みながらも、数度僕の方に険しい目を向けた。真面目な青年を笑わせるのは並大抵のことではない。僕は、しかし、この無音の不協和音を拵えたことについては今でも後悔していない。自分の鈍感さについて鋭敏に気付くような年寄りはざらにはいない。
 
 

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