聖金曜日の昨日、
こんなドラマがNHKーBSで、やっていたので
大注目して見ていました。
山口県内では
とっくのとうに放送されたそうですが。
NHKドラマ GOTAISETSU
タイトルは愛の代替語「御大切」 テレビドラマ「ゴタイセツ」放送へ - クリスチャントゥデイ
見ていて、思ったことが2つ。
1.キリスト教用語の難しさ。
たとえば上記で取り上げてある
「愛」でもそうだし、
代表的な「神」という言葉もそうなんだけど、
日本での一般的な「愛」や「神」という言葉と
キリスト教が本来求めている「愛」や「神」という概念とは
全く違うと言うこと。
それを明治時代の人は安易に
日本にそれまであった「愛」や「神」にと言う言葉に置き換えたので
キリスト教は結婚式に用いられても
それ以上に発展の使用が無くなってしまった
その要因の1つだと思う。
ザビエル時代の、
↑にあるような、「愛」→「御大切」、「神」→「天主」という発想こそが
本当は必要だった
と言う気がする。
(最近、キリスト教用語の「主」という言葉も
一般には馴染みがないよな~、とつくづく思っているんだけど)
思ったこと、その2。
ドラマだから、盛り上がる場面が必要なのは分かるのだが、
あの新米神父は
結局、救われていなかった、と言うことではないのか?
で、実の母親の告解を通して、真の救いを得た
という話だと思う。
だとしたら、
カソリックは救いの確信がない人を神父に雇うのか?
いくら秘蹟のやり方が上手い人だとしても
教会運営が上手いとしても
自分が信じているかどうかの確信がないのに
秘蹟を与えたり、
告解を受けたりするのか?
(プロテスタントでも、そういう団体が実際あるのを、知ってはいるんだけど)
勉強が出来る、やり方が分かる、精通している
だけでは
「門前の小僧習わぬ経を読む」とか
「神仏造ってなんとやら」と同じで、
外面は、体面はどれだけ繕えても
自分がどうであるか、またはどうありたいかが分からないのなら、
他人にとっては大迷惑になりかねず、
ましてやそれが宗教指導者の位置に存在するとなれば
一般の「迷える仔羊」たちは、さらに迷うしか無くなるわけで。。。。。
まぁ、ドラマだから、
少し割り引いて考えますか。。。。。。
こんなドラマがNHKーBSで、やっていたので
大注目して見ていました。
山口県内では
とっくのとうに放送されたそうですが。
NHKドラマ GOTAISETSU
タイトルは愛の代替語「御大切」 テレビドラマ「ゴタイセツ」放送へ - クリスチャントゥデイ
日本に初めて来た宣教師フランシスコ・ザビエルが、「愛」の代替語として用いたとされる「御大切(ごたいせつ)」をタイトルにした、家族愛を描くテレビドラマ「GOTAISETSU」がこのほど完成し、23日に山口県で先行放送される。NHK山口放送局が初めて制作したドラマで、ザビエルが日本で初めて教会を建てた地である山口市各所でロケが行われた。
タイトルとなった「GOTAISETSU」には、ザビエルが日本にキリストを伝えに来た当時、「愛」という言葉がなく、代わりに用いた「御大切」という言葉が選ばれた。家庭内暴力や親殺しなど、家族にまつわる悲しいニュースが絶えない現代に、450年以上前にザビエルが伝えた言葉「御大切」をヒントに、「家族とは何か」「愛とは何か」を問い直す。
幼い頃に母・澤内涼子から捨てられた苦い記憶を持ち、家族に愛を見出せなかった赤木楓が、普遍的な愛を求めて信仰の道に入り、新任神父としてザビエル教会に着任する。神父としての勤めを果たす中、涼子と楓にとって優しく、大切な「一つの奇跡」が起こり、「御大切」の言葉から家族や身近な人への愛を見いだすという、同市のシンボルにもなっているザビエル教会を舞台にした母と子の感動のストーリーが描かれている。
主役・楓を演じる柏原崇は、95年に日本アカデミー賞新人賞を受賞し、若手ながら映画・ドラマで活躍中の実力派。母・涼子を演じるのは、女優として幅広い役を演じてきた松田美由紀。楓を幼い頃から見守るキーパーソンとなる平野神父は、ベテランの平泉成が演じる。
山口県では23日午後11時から先行放送(再放送は28日午後5時10分から)され、中国地方では来年1月18日午後8時から放送される。放送は共に、NHK総合・デジタル総合で。
舞台となる山口カトリック教会・山口ザビエル記念聖堂は「ザビエル教会」の通称で知られている。1951年にザビエル来訪400年を記念して建てられたが、91年に焼失してしまい、その後全国2万人もの人々から激励と支援が送られ、98年4月に現在の新聖堂が完成した。
[2007-12-20]
見ていて、思ったことが2つ。
1.キリスト教用語の難しさ。
たとえば上記で取り上げてある
「愛」でもそうだし、
代表的な「神」という言葉もそうなんだけど、
日本での一般的な「愛」や「神」という言葉と
キリスト教が本来求めている「愛」や「神」という概念とは
全く違うと言うこと。
それを明治時代の人は安易に
日本にそれまであった「愛」や「神」にと言う言葉に置き換えたので
キリスト教は結婚式に用いられても
それ以上に発展の使用が無くなってしまった
その要因の1つだと思う。
ザビエル時代の、
↑にあるような、「愛」→「御大切」、「神」→「天主」という発想こそが
本当は必要だった
と言う気がする。
(最近、キリスト教用語の「主」という言葉も
一般には馴染みがないよな~、とつくづく思っているんだけど)
思ったこと、その2。
ドラマだから、盛り上がる場面が必要なのは分かるのだが、
あの新米神父は
結局、救われていなかった、と言うことではないのか?
で、実の母親の告解を通して、真の救いを得た
という話だと思う。
だとしたら、
カソリックは救いの確信がない人を神父に雇うのか?
いくら秘蹟のやり方が上手い人だとしても
教会運営が上手いとしても
自分が信じているかどうかの確信がないのに
秘蹟を与えたり、
告解を受けたりするのか?
(プロテスタントでも、そういう団体が実際あるのを、知ってはいるんだけど)
勉強が出来る、やり方が分かる、精通している
だけでは
「門前の小僧習わぬ経を読む」とか
「神仏造ってなんとやら」と同じで、
外面は、体面はどれだけ繕えても
自分がどうであるか、またはどうありたいかが分からないのなら、
他人にとっては大迷惑になりかねず、
ましてやそれが宗教指導者の位置に存在するとなれば
一般の「迷える仔羊」たちは、さらに迷うしか無くなるわけで。。。。。
まぁ、ドラマだから、
少し割り引いて考えますか。。。。。。
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