ばりん3g

マイクラ補足 兼 心理学のつぶやき

「動機づけは個人で完結するものではない」勉強しなさい、と注意するだけではダメな理由。

2023-10-14 | 動機付け理論

「勉強をしろ!」という語気の強い発言は、特に受験勉強の関係でよく見る。

そうでなくても、例えば宿題を理由に口うるさく言う人もいる。

時期を選ばず、「早ければ早いほどいい」「お前以外はみんな努力している」「お前はそんなもんじゃないだろ」とまくしたてる。

 

見ていて、あまり気分のいいものではない。

それは脅しだ。

圧を用いて行動を強いているに過ぎない。

動機付けの観点からすれば、これらの発言は勉強させるには不十分であるといえる。

 

 

勉強をさせたいのであれば、まず動機が必要だ。

つまり、勉強をする理由が必要だ

それが具体的であればあるほど、効力は増す。複数持っていても罰は当たらない。

「大学に受かるため」であれば、大学でやりたいことやできること、どんなキャンパスライフを送りたいかを言葉にする。知識を得るでも、サークル活動でも、ちやほやされたいでも、何でもいい、具体性が欲しい。

「就活で優位でありたいから」であれば、どの職に就きたいかを言葉にする。その職がどういったことをするのか、実態をおさえておくとよりいいだろう。

「やりたいことをやるため」であれば、やりたいことがどういったものかを言葉にする。今すぐにできるのであれば、やってみて、実感をおさえるのは有効である。

 

具体的な言葉にする理由は、自分が次に何をすればいいかがわかるから。

闇雲に勉強をするのはつらい。

自分がいま進歩しているのかどうかがわからないのが、一番つらい。

何のために苦労しているのかがわからないのだから、投げ出したくなる。

だから、苦労するに足る理由が必要だ。

理由があれば、目標も進捗もわかる。

目標を達成するために、効率よく勉強することもできる。

だから、動機づけは学業成績に深くかかわるのだ(Froiland & Worrell 2016)。

 

それと、

その理由は絶対的なものじゃない。

人間は変化していく生き物。都度、やりたいこともできることも変わっていく。

だから、1つの理由にすがるのはあまり好ましくない。

1つの理由に縋らざるを得ない状況は好ましくない、ともいえる。

 

ちなみに、

「とりあえず大学に入っておく」「世間体的に入っておかないとまずいから」でも構わないが、それらはひどく脆い。

それは脅しに従っているに過ぎず、具体性のかけらもない。

すぐに、何のために苦労しているのかがわからなくなる。

それでも圧をかけてくるようであれば、それは圧をかけてくる相手をめいっぱい恨んでいい。

 

 

もうひとつ。

勉強をさせるために効果的な方法がある。

それは周囲からの支援だ

 

勉強している人への励ましや理解は有効だ。

「勉強がつらい」という声を否定しない。「勉強が楽しい」と無理に言わせることもしない。その努力に対し下手に茶々を入れることなく、時々励ましの言葉を入れるのが好ましい。差し入れは大歓迎。

 

支援を惜しまないというのであれば、支援する人自身も勉強するのはどうだろう。

お互いの勉強する姿を見て、焚きつけられる。お互いに励ましあう。お互いのつらさを共有する。究極は、同じ課題を一緒にこなす、そして達成感を味わう。勉強する人のような立ち振る舞いだが、理論上、これが効く。

下手な励ましより、一緒に勉強する友人が何よりの励ましになるのは、こういうことでもある。

 

もういっそのこと、動機について、勉強する理由について一緒に吟味するのはどうだろう?

なぜ大学に行きたいのか? どうしてこの職に就きたいのか? やりたいことは何で、できることはなにか? これを一緒に、まじめに考える。

「まじめ」というのは、なにもその人の支えになるとかではない。その人が言葉にしたことを決してあしらうことなく聞き入る、ということである。

 

 

動機づけは個人で完結するものではない。周囲の影響を多大に受ける

「勉強をしろ!」と圧的に、どこか無関心を含んだ焚きつけでは不十分。

勉強をする理由を具体的な言葉にするのが先決であり、

それを軽くあしらわず、受け入れてくれる周囲が必要となる。

 

でもね、たぶんこれをしてくれる人はそういないと思う。

めんどくさいのだ。支援することで得られる利益が明確じゃないからだ。

焚きつけてやった感を味わいたいだけ、というのも大きいのだろう。

 

 

 

参考文献

西村 多久磨, 櫻井 茂男, 中学生における自律的学習動機づけと学業適応との関連, 心理学研究, 2013, 84 巻, 4 号, p. 365-375, 公開日 2013/12/25, Online ISSN 1884-1082, Print ISSN 0021-5236, https://doi.org/10.4992/jjpsy.84.365, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/84/4/84_365/_article/-char/ja,

西村 多久磨, 河村 茂雄, 櫻井 茂男, 自律的な学習動機づけとメタ認知的方略が学業成績を予測するプロセス, 教育心理学研究, 2011, 59 巻, 1 号, p. 77-87, 公開日 2011/09/07, Online ISSN 2186-3075, Print ISSN 0021-5015, https://doi.org/10.5926/jjep.59.77, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_77/_article/-char/ja,

Froiland, J.M. and Worrell, F.C. (2016), INTRINSIC MOTIVATION, LEARNING GOALS, ENGAGEMENT, AND ACHIEVEMENT IN A DIVERSE HIGH SCHOOL. Psychol. Schs., 53: 321-336.


「こいつは簡単に阻害できる」自発的な行動がいかに難しいかを心理学的に解説。

2023-08-28 | 動機付け理論

自発的な行動、特に目的的行動の文脈の内発的動機付けや知的好奇心など、自分自身で目標を立てそれに従い行動することはかなり難しいとされる。

「かなり難しいとされる」と曖昧な表現をしたのは、自発的な行動の成功率や維持率を直接計ることがほぼ不可能なため、直接的な証拠を提示できないことに由来する。

代わりに研究者らは「どうすれば自発的な行動を妨げられるのか」に焦点を当て研究を行った。そしてその研究成果から組み立てられた環境の現実における再現性の高さや普遍性から、「かなり難しいとされる」と表現するに至った。

 

…つまり、私たちの身の回りにおいてそれを阻害する要素が多いから、自発的な行動は起こしにくいし続けにくいかもね、ってことが言いたいのだ。

 

 

内発的動機付けについて掘り下げた認知評価理論というお話がある。これを引用する限り、内発的動機付けは身の回りの環境によって、身の回りの環境を本人がどう解釈したかによって変化するという。

①環境が統制的かどうか。周りがあれこれ指示したり、禁止や圧力をかけたりして、自分の思うように行動できないと内発的動機付けは低下する。

②環境が本人の意思を尊重したり、励ましたりするか。「なんでそれやってるの? 意味あるのそれ?」みたいな本人の意思全否定や、「90点取れるなら100点も行けたでしょ?」とかのまったく励まさない姿勢は、内発的以前に意欲をごっそり削っていく。

③環境が本人の能力を否定しているかどうか。先ほどの「90点取れるなら」に近い文脈。「無理無理絶対できるわけないよ」みたいな。こちらは本人が陥ったときに追い打ちをかけるようなイメージか。

 

 

また、認知評価理論では内発的動機付けを低下させる要因をいくつかピックアップしている。

 

一番有名なのは報酬関係か、アンダーマイニング効果とかなんとかいわれているやつ。

報酬が内発的動機付けを下げるのはあくまでも報酬の獲得を目的として認知している場合であり、報酬そのものは内発的動機付けを下げるわけではない。「私はお金を得るために頑張っている!」っていうような状態は内発的動機付けとは言えないな。

「私はお金を得るために頑張っている!」状態に移行させないようにすれば、例えばなんの予兆もなくご褒美をポンと渡すとかであれば問題なかったりする。

 

周囲による評価も内発的動機付けを下げることがある。

正確には、これも評価の獲得を目的として認知するような場合、それを下げてしまう。

最初はお絵描き楽しくて、それだけでいつまでも楽しくやっていたのに、気が付いたらいいねとかコメントとかを気にするようになって、自分の描きたいものを見失ってしまった…みたいなエピソードをたまに聞くと思うが、それはまさしくこれが原因。

また、評価の獲得を目的にしたとき、そもそも動機づけの維持が難しいというのもある。

学校の成績で例えれば、自分がいくら頭が良くても、周りがもっと頭が良ければ相対的に評価されなくなって、やる気をなくす…という現象が頻発するのだ。

第三者による監視も似たような理由で低下させる。私たちは過剰に人の目を気にするのだ。

 

時間制限もまた、内発的動機付けを下げる。

取り組む時間の制限、つまり期限は否応なしにその期間までの完成を目標に掲げられる。

目的的行動が手段的行動にすげかわるという意味で、内発的動機付けが低下するのだ。

 

競争に関する話題はちょっとややこしい。

少なくとも、勝敗という相対的評価への依存という観点からすれば、内発的動機付けは低下するものと考えられる。

勝ったら気分高揚するし、負けたら気分ダダ下がり。そして勝つか負けるかは自分の能力と相手の能力で決定される。

一般の動機付けとしても、安定するかは怪しい。一部の動機付け論者は競争を「百害あって一利なし」って切り捨ててる。

 

 

内発的動機付けは、行動そのものが目的だったり、探究活動であったり、目標をすべて自分で決めていたりと、行動に関するほぼすべての意思決定が自身で完結しているか自身の範疇にあるものだ。

そして、その動機付けの表出が自発的な行動である。

この自発的な行動は、周りの不理解や、評価の機会、報酬などの茶々入れで簡単に阻害される。行動の目的がほかにできたり、探究どころではなくなったり、目標が他人に決められたりして。

 

簡単に阻害でき、阻害できる方法が多く、日常にはびこっているため、私は自発的な行動を起こしたり維持したりするのがかなり難しいとした。

 

裏返せば、この阻害要因をしらみつぶしにすれば、自発的な行動は起こりやすく維持しやすくなる。

 

 

 

参考文献

岡田 涼, 内発的動機づけ研究の理論的統合と教師―生徒間の交互作用的視点, 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要, 心理発達科学, 2434-1258, 名古屋大学大学院教育発達科学研究科, 2007-12-28, 54, 49-60, https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224509489024,10.18999/nupsych.54.49

鹿毛 雅治, 内発的動機づけ研究の展望, 教育心理学研究, 1994, 42 巻, 3 号, p. 345-359, 公開日 2013/02/19, Online ISSN 2186-3075, Print ISSN 0021-5015, https://doi.org/10.5926/jjep1953.42.3_345, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/42/3/42_345/_article/-char/ja,

新動機づけ研究の最前線. 上淵寿, 大芦治編著.  京都 : 北大路書房. 2019.8. ISBN 9784762830723 ; (BB28720481) ; https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB28720481


「文脈によっては意味が異なることがある」内発的動機付けをもっと知りたい人に向けた小話。

2023-08-22 | 動機付け理論

ひとえに内発的動機付けといっても、参考文献や文脈によりその意味が異なることがある

代表的なものをいくつが挙げる。

 

 

まず認知的な情報プロセスに焦点をあてたもの。好奇心や探求心といったような"古い動機付け理論"では説明できない活動を説明するための概念としての内発的動機付けがある。

この概念では、新規的で、複雑で、驚きと、曖昧さを持つものを理解したいという欲求が内発的動機付けの根源とされた。

今はこういったものは知的好奇心といったほうが伝わるかもしれない。いま世間で広がっている内発的動機付けとはかなり雰囲気が違うけど、もともと「内発的動機付け」はこういった概念を指すものだったんだ。

この概念は動因低減説に対する痛烈な批判という形でどんどん派生していって…という話は長くなるので割愛。

 

 

次に目的的行動と手段的行動で区別したもの。行動そのものを目的とする内発的動機付けと、ある目的を達成するための分離した行動である外発的動機付け、というわかりやすい二項対立で説明するやつ。

「外発的動機付けと比較している」文脈の内発的動機付けは大体これであることが多い。

それでだいたい、内発的動機付けは長期的にはメリットがたくさんあるけど、これを作るのはとても大変で、短期的には外発的動機付けのほうがいい、みたいな扱い方をされる。まぁ間違いではないけど。

すごい余談だけど、職場において意図的に内発的動機付けを起こすのはほぼ不可能だと思ってもらっていいよ。理由は屁理屈めいたもので、給与という目的がある以上、その行動は絶対に内発的動機付けにはならないんだよね。

 

 

3つ目は因果律の所在を軸としたもの。その行為が自分に帰属しているか、ほかのものに帰属しているかで区別している。

2つ目の考え方と結構近い、というかよく混ぜられて使われてる。厳密にいうなら2つ目はCET寄りで、3つ目はOIT寄りのものだけどね。

自習のような目的も評価もぜんぶ自分で決められるものをやるときは完全に因果が内側にあって、テストのような目的も評価もぜんぶ他人が決めているものをやるときは因果が外側にある、みたいなイメージ。

ここで扱われている内発的動機付けと外発的動機付けは完全な二項対立じゃなくて、いくつかの段階に分けられている。よく使われるたとえが「宿題をイヤイヤやる子もいれば、素直に実直にやる子もいる」というもの。宿題という外に因果があるものに対し、前者は受け入れられずやる気をなくし、後者は価値や目的を見出して因果を自分側に寄せている、という違いがある。

また余談。職場においての内発的動機付けの件だけど、こっちの概念を採用すれば内発的動機づけとまではいかずとも『統合的調整』というところまで追い上げることができる。これは外に因果があるものを完全に自分のものにしている状態で、一見最強に見える動機づけだ。

 

 

4つ目は主観的感覚や知覚に主眼をおいたもの。フロー状態とかがこれにあたる。

研究もかなりミクロな視点に立っているため万人に当てはまるかと言われればわからない。が、この視点のものは内発的動機付けというものをよりリアルに描きだそうとしている。

だから、内発的動機付けに従っているときはこんな感覚だよー、みたいな説明の時に使えるのかもしれない。

 

 

以上、内発的動機付けをもっと知りたい人に向けた小話でした。

 

 

補足情報として、内発的動機付けとググったときに出てくる記事は、少なくとも上位4件ぐらいはちゃんとしたこと書いてます

この記事書くときに気になって実際にググったんだけど、思ったよりちゃんとしたこと書いてあってびっくりした。

そしてDeci氏が社会心理学者であることをそこではじめて知ったというね。あなた教育心理学者じゃなかったんだ。

 

 

参考文献

鹿毛 雅治, 内発的動機づけ研究の展望, 教育心理学研究, 1994, 42 巻, 3 号, p. 345-359, 公開日 2013/02/19, Online ISSN 2186-3075, Print ISSN 0021-5015, https://doi.org/10.5926/jjep1953.42.3_345, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/42/3/42_345/_article/-char/ja,


山本五十六「やってみせ」には心理学的な裏付けができる。

2023-08-03 | 動機付け理論

昔々、日本には山本五十六という人物がいたという。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD

私は歴史に疎いので詳細は知らないが、1918年からナショナルジオグラフィックを購買していた海軍大将って事だけ知っている。

 

で、この人はある有名な名言を残している。

「やってみせ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ

 話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず

 やっている 姿を感謝で 見守って 信頼せねば 人は実らず」

よく自己啓発系の記事でお目にかかるこの名言だが、実はここで語られている要素は心理学的に正しいことだったりする。

 

心理学には自律性支援という概念が存在する。平たく言えば指導対象の考えていることや思っていること、やりたいことを否定せず、合理的かつ寛容な受け答えを以て接する指導スタイルのことを指す。

指導対象から質問がきた時には「良い質問ですね!」と返したり、対象が行き詰っている時に「こうしたほうが楽に解けるよ」とさりげなくアドバイスを提供したり、対象が心折れそうなときは「頑張れ頑張れできるできる絶対できる頑張れもっとやれるって(rya」って熱く応援したり。

まぁ、優しくて真摯で強かな教員、と言われてすぐに思いつくような姿でだいたいあってる。

 

自律性支援にもいろいろな定義や構成要素があるが、今回はオーソドックスなReeve & Jang (2006) を用いて名言を分析していく。

1文目の「褒めてやらねば 人は動かじ」は"Praise as informational feedback"に該当。指導対象の上達や習得に応じた誉め言葉は、彼らにとっての報われとして機能する。

2文目の「話し合い」は"time student talking"に該当。指導対象に対して一方的に話すのではなく、彼らに話の主導権を渡し話し合うことは、彼らの意思決定や効力感に正の効果を与える。

2文目の「耳を傾け」は"Time listening"に該当。なにか言いたいことがあるのだけれど口ごもるような、指導対象のちょっとした意思表示に応えることは、彼らに意思表示が難しくないことを証明すると同義である。

2文目の「任せてやらねば 人は育たず」と3文目の「やっている 姿を感謝で 見守って 信頼せねば 人は実らず」は"Time allowing student to work in own way"に該当。指導対象の「これやってみたい!」という意思表示に応え、実行を許可し、見守る姿勢は彼らの意思決定や効力感の向上に必須のプロセスである。

 

とまぁ、大雑把に分析してみたが、どうだろう。個人的には、自律性支援の項目を説明していると解釈できる部分が予想以上に多くてびっくりしている。

指導対象の考えや思いに耳を傾け、これを無下に否定することをせず。また彼らの「やってみたい」という意志に下手に口出しせず、これを見守る。そして、その成果や努力をしっかり誉める。

名言から自律性支援の要素を抽出するとこんな感じ。

わぁ、とってもいいこといってる(小並感)。 

これは伸びるね(確信)。

 

ちなみに、今回の分析では省略したが、一文目の「やってみせ」も正のロールモデル提示を意味し、これもとても重要である。Mayer (2003)の理屈で行けば、お手本の提示は口頭での指示よりも何倍も効率が良いんだ。

また、この名言は"Communicating perspective-taking statements"などの指導対象への支援に関連する項目への言及がない。どこか放任主義というか、彼らの自律さに委ねているところは否めない。この名言をこのまま受け取った場合、彼らが困り顔で助けを求めても、それに応えない状況が生まれかねないので注意してほしい。

 

この名言はいつ生まれたのだろうか。いつ生まれたとしても、山本五十六が存命中には自律性支援はおろか内発的動機付けという概念もなかったはず。だってまだこの時Skinner (1938) をはじめとした行動主義が主流だったんだもの。

そのことを考えた場合、この名言はかなり先進的だった可能性がある。

 

 

参考文献

Reeve, J., & Jang, H. (2006). What teachers say and do to support students' autonomy during a learning activity. Journal of Educational Psychology, 98(1), 209–218. https://doi.org/10.1037/0022-0663.98.1.209