ばりん3g

マイクラ補足 兼 心理学のつぶやき

年齢によって充実感を感じる事柄に差があるのか?

2022-09-10 | 旧記事群

最近、友人にこんなことを聞かれた。

「発達段階別の充実感の内容の違いについて調べてほしい」

「例えば、幼少期はひたすら欲求充足されるのが充実だとか、児童期はちょっとした困難に立ち向かうことが充実だとか、青年期は長期目標を据えて行動するのが充実につながるだとか」

「上記はただの例えでしかないから、実際はどの発達段階でも充実感の構造は同なのか」

「あるいは、年齢によって充実感を感じる事象に差があるのかが知りたい」

今回はこの疑問に答えていく。

 

 

前提として、人間は生まれつき『自律性』『能力』『関連性』といった心理的欲求の充足を求めている

欲求はそれぞれ、自律性は自身に対する意思決定権の強さを、能力は主に自己効力感をどれだけ感じているかを、関連性は自身の行動などにどれだけの人が関わり反応を返してくれるか、を指す。

これらの欲求は性別・社会的地位・文化と民族・体格・認知能力・精神衛生そして年齢などを問わず在るものであり、立ち位置としては空腹を満たすことと同義となる。

そして、心理的欲求の充足は対象に充実感をもたらす。

なので、ひたすらに欲求充足されることも、ちょっと困難に立ち向かうことも、長期目標を据えて行動することも、それ自体は年齢を問わず充実感をもたらすものとなる。困難に立ち向かうことは特に能力を、長期目標を据えることは特に自律性の充足となる。

 

が、対象が具体的になにをもってして欲求充足とするかは、対象ごとに違ってくる。

空腹を満たすときに、なにを食べるかが対象によって異なるように。

では、この欲求充足のためになにを求めるか、その傾向は年齢によって修飾されるのかだが……。

筆者は見当がつかない。

 

欲求充足の具体的な形式とは、主に対象の興味関心により定まる

興味関心は、対象自身の能力・性格や対象が身を置く環境が相互作用しながら形成され、また変化していくもの。性別・社会的地位・文化と民族・体格・認知能力・精神衛生そして年齢(正確に言えばその年齢層を取り巻く動向)なども、この形成に携わる。

また、興味関心から形成された欲求の具体的な形式がどれだけ充足されているかも、同じような要素が絡み合い、算出される。

これだけ形成に携わる要素が多いと、1つの要素を軸にして計ることが不可能になる。不確定性原理だ。少なくとも思春期においては、欲求充足の度合いの推移は一律ではなく、自律性・能力・関連性ともに4つのパターンがあるとしている。

欲求充足の具体的な形式は、筆者の知る限り、年齢で明確に区別できるものではない。

 

 

疑問への返答は以下に記載する。

心理的欲求は生まれつきのものであり、欲求充足は年齢を問わず充実感をもたらす

欲求の具体的な形式は興味関心により定まり、興味関心は年齢でくくれるほど単純ではない

私の知る限り、年齢は欲求を特別操作するものではない

 

 

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参考文献

Catherine F.Ratelle and Stéphane Duchesne. (2014) Trajectories of psychological need satisfaction from early to late adolescence as a predictor of adjustment in school.

Jacquelynne S. Eccles. (2004) Schools, Academic Motivation, and Stage-Environment Fit.

Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-determination theory and the facilitation of intrinsic motivation, social development, and well-being. American Psychologist, 55(1), 68–78.


それでも支配的な教育を続ける理由

2022-09-03 | 旧記事群

「総合的な学業成績で見た場合、問いかけなどの手段を用いて生徒に意思決定の機会を与えるような自律支援的な教育は、板書をひたすらに写すだけのような支配的な教育よりも優位である」

上記は約20年前から確認されている事実であり、現在もそれを証明・補足する文献が多数存在する。

現在、この知見への反応は支持的なものが大半である。

2015年の教員へのアンケートでは、グループワークを提供する教員は小学校で8割、高校で5割程度という結果が得られたという。小学校においては、観察や実験・プレゼンテーションなどを提供する教員が多数派にあるという。

また、教員の9割が「子供が困ったときに相談に乗る」と回答しており、子供の意志を尊重する姿勢が多数派であることが伺える。

また、暗記作業に機械などの代替物が使用できるようになり、単に知識を習得するだけでなく、在る知識をどう活用するかを見極める認知能力が求められるようにもなった。認知能力の鍛錬には自立支援的な教育が不可欠であり、現在、かなりの数の教育機関が自立支援的な教育を展開するか、または目論んでいる。

 

が、自律支援的な教育について周知された現代においても、支配的な教育は完全には潰えない。

支配的な教育はある種の「わかりやすさ」を備えた志向であり、またそれを選択せざるを得ないと認知させる状況が教員にあるからだ。

 

今回は「それでも支配的な教育を止めない理由」について解説する。

 

 

その前に、自立支援的な教育と支配的な教育について定義する。

自律支援的な教育とは、生徒の意思決定に対する欲求に一定の理解を持ち、それを尊重する教育の志向性を指す。

主な特徴として「生徒の視点を理解する」「生徒の思考や感情、そして行動に一定の理解と寛容さを持つ」「生徒の意思決定をサポートする」の3つが挙げられる。

対して支配的な教育とは、教員の意思決定をもって生徒の意思決定を塗りつぶそうとする指向性であり、「生徒が現在持っている行動や意思を完全かつ即座に変えようとする明示的な試み」と言うこともできる。

主な特徴として「教員側の視点のみで事を決める」「生徒の思考や感情、そして行動に介入する」「生徒が特定の行動をするよう強制させる」の3つが挙げられる。

 

2つの志向性の違いを、天動説を信じる生徒への対応を例に挙げる。

自律支援的な教育を支持する教員は、地平線の存在を説明するなどして、生徒自身が誤りに気付けるよう誘導する。同時に、問いかけの中で「ビデオの内容を鵜呑みにしているかも」といった仮説を立てたのならば、映像の加工と鵜呑みの危うさについて語るかもしれない。

支配的な教育を支持する教員は、「違います」と否定する。ついでに「余計な話を持ち込むな」と言うかもしれない。

 

もう1つ、数学の問題にて誤答した生徒への対応を例に挙げる。

自律支援的な教育を支持する教員は、まず「なぜ間違えたのだろう」と生徒に問いかける。もし生徒が誤りに気付けていないのであれば、誤りに下線を引いたり定理や方程式を思いだすよう促す。もし生徒が誤りに気付いたのであれば「なら、正解を書いてみようか」と生徒にペンを走らせるように言うだろう。

支配的な教育を支持する教員は、ペンを奪い上げ、正解を書き上げる。「なぜこんなこともできないのか」と呆れを表すこともあるだろう。

 

 

「生徒が現在持っている行動や意思を完全かつ即座に変えようとする明示的な試み」を選択する要因は3つに大別できる。

それぞれ、学校方針や文化や大衆などの「上からの圧力」、生徒などの「下からの圧力」、教員自身による「内側からの圧力」である。

 

 

「上からの圧力」

1:教員は本質的に強力な社会的権力を持っている。

大前提として、教員は生徒より権威や経験や実績において上の立場である。

こうした権力の上下関係は、自然と強制する/される関係を発生させる。

 

2:教員は責任を負う立場にある。

教員は常に、生徒を育てることと、育てた結果とその理由を保護者など第三者に説明する、という重荷を背負っている。教員は、生徒の出来が悪いと判断されたとき真っ先に咎められる対象なのだ。

この責任は、誰よりも教員自身が一番自覚している。

負った責任感は、「生徒の出来をよくしなければ」という動機の発生につながる。もし出来の基準が特定のテスト成績だった場合、教員はテスト成績を上げる動機を獲得し、生徒にテストのための学習を課すだろう。

 

3:教員が自律支援的な教育を無秩序なものだと誤解している。

生徒の意志や行動を尊重するという指向性は、教育機関が掲げる目標を無視し生徒に好き勝手にさせるものと認識されることがある。

また、支配的な教育は生徒を比較的簡単に統制できるため、教育機関が掲げる目標を達成するための適切な手段であると認識されることもある。
どちらも違う。

自律支援的な教育がなぜ自立支援的であるかは冒頭で述べた通り、そうしたほうが総合的な学習成績において比較的優位であり、これは学力向上という教育機関における一般的な目標の達成につながるものである。

目標に向かって生徒が動くことを支援するのが自律支援的な教育であり、目標もなく好き勝手にさせるのは無秩序な教室という。

 

 

「下からの圧力」

4:「難しい生徒」の存在

「難しい生徒」とは筆者の造語であり、教員による授業をあの手この手で妨害し、授業に混乱をもたらす生徒のことを指す。

例として、教員の誘導に反抗したり、私語をしたり、授業の文脈とは関係のない話を持ち掛けたり、発言の機会を得ても無反応だったり、あるいは物理的な迷惑行為を行うなどである。

「難しい生徒」に接触した時、教員は対象に学習の動機を持たせようと強制や圧力を用いる傾向にある。

「難しい生徒」自身、授業に動機を見いだせず非協力的な態度をとるという因果もあるのだが……。

生徒の低い動機付けは、教員に支配的な教育を選択させるきっかけになりうるのだ。

 

 

「内側からの圧力」

5:教員が、支配的な教育のほうが生徒の動機を高められると考えている。

強制や圧力は「生徒が現在持っている行動や意思を完全かつ即座に変えようとする明示的な試み」であり、その試みは実際に成ることがある。

この経験をもとに、教員が支配的な教育のほうが学習動機を獲得しやすいと誤解していることがある。

実際は学習動機を失わせ「教員の圧力を避けるため」に生徒自身が課しているにすぎないが、それでも、圧力をかければ生徒が勉強してくれるという上辺の事実に満足し、多用する可能性がある。

 

6:教員が支配的な性格を持っている。

人に強制したり、圧力をかけることをいとわない教員は、支配的な教育を選択する傾向にある。

 

 

以上が、それでも支配的な教育を止めない理由である。

負った責任が、「難しい生徒」が、あるいは教員自身の誤解が、教員に支配的な教育を選択させているのだ。

 

 

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参考文献

JOHNMARSHALL REEVE (2009) Why Teachers Adopt a Controlling Motivating Style Toward Students and How They Can Become More Autonomy Supportive.

OECD (2022) Big Picture Thinking:How to educate the whole person for an interconnected world.

Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-determination theory and the facilitation of intrinsic motivation, social development, and well-being. American Psychologist, 55(1), 68–78.

愛知教育大学 2016年2月 教員の仕事と意識に関する調査 


「経験中心の履歴書」と主張した人の特徴を、教育心理学の観点から考察。

2022-08-27 | 旧記事群

今週の頭ぐらいからか、「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ[1]」なる主張を中心に議論が展開された。私がSNSを視聴した時は、経済格差と学歴の構造を理由とした批判が殆どだったが。

学歴やら経験やらといったお話は教育心理学にも関係があるため、本来なら私も「経験中心の履歴書が一般化したときに発生する災禍」といった真っ当な批判を投稿するべきだろうが、真っ当な批判はすでに成田悠輔さんをはじめとした方々が構築されているのでそちらを参照してほしい。

この記事では、当該議論を違う視点から考察する。

「経験中心」を主張した人が、なぜこのような主張をするに至ったかを、教育心理学の観点から考察していく。

 

まず、「個人が持つ唯一無二の経験。いつからでも、自分の頑張り次第で結果も生み出せて[1]」の文脈より、主張した人にとっての経験は自発的な学習行為であると仮定しよう。

そして「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」の主張から、主張した人は自発的な学習行為を重んじる人であると推測する。

 

自己決定理論[2,3]は前提として「人は生まれつき好奇心旺盛で学習意欲に富んでいる生物」だと仮定しているが、「その生まれつきの特性は外的要因によって簡単に抑制される」とも主張している。

この主張はWHOが定義する健康[4]と相関関係にあり、それらと絡めて簡潔にまとめると、人間は不健康なとき、意欲が続かない生物であるといえる。

人を不健康にするものは幅広く、睡眠習慣[5]や食習慣の乱れ・意思決定の権限が手元にない環境[6]・破綻した人間関係[7]・債務状況[8]など、健康や社会や精神衛生などの観点から観測されたものが相互作用的に働いている。

これらの要素は意欲減退を招いたり[9]、自発的な学習行為を妨げたり[10]、うつ病を引き起こしたり、あるいは物理的な疾患を招いたりする。

人間は不健康なとき、自発的な学習とかどうこういってられないぐらいに衰弱するのだ。

 

不健康を解消するためにはヒト・モノ・カネといった広域的な資産が必要だ。

規則正しい睡眠と食生活、意思決定の権限が自分にある環境、自律性を認め合える仲間、それを維持できる充分な金銭が人を健康にし、そして自発的な学習行為を促進させるのだ。

これを示唆するのが、反転教室だ。

反転教室[11]とは主に、それまで授業で行っていた基礎学習を宿題として課し、授業では応用的な学習を展開する授業形態のことを指す。

具体的な構造は自発的な学習の促進方法の詰め合わせであり[12]、オンラインサービスによる課題の管理やビデオ授業の閲覧、ディスカッション形式の授業、生徒同士や生徒先生間のコミュニケーションツールの導入などが見受けられる[13]。

反転教室の実態は非常にコストが高い授業であり、先生はディスカッション進行や調整などの技術習得が課せられ、生徒は授業外学習を課せられ、学校はオンラインサービスの維持を課せられる。

これらのコストを解消できるだけの資産、ハイスペックな先生や授業外学習を課されても問題ない身辺整理された生徒やサーバー構えてもへっちゃらな学校がそろって初めて、反転教室はその効果を発揮する[13,14]という。

なお、見込める効果は生徒の自発的な学習行為の強化が主[13]なのだとか。


ここからは完全に私の持論。

自発的な学習行為ができる人は、自発的な学習行為を推進する傾向にある

青山学院大学出身の、英語文献黙読が趣味な私の友人は「起業家育成学校」と口うるさい。私の知り合いの、神奈川大学出身と新潟大学所属で有機農業にお熱なお二方は、方向性はやや違うが「農業を介した自律的な場所の提供」をそれぞれ掲げている。

理由としては、発起人である自分たちもその活動に参加したい、活動の恩恵を受けたいという願望があるからだろう。神奈川大学出身の人は「参加者と提案者の壁をなくしたい、全員が等しく自律性を発揮できる場を」と主張している。

彼らは、自分たちが望む活動を自分で作ろうとするほどに自発的なのだ。

そして、彼ら自身が自発的な学習行為に長けているため、望むものが「自発的な学習行為のためのものづくり」になるのだろう。

 

主張した人は早稲田大学の出身で「「地球をひとつの学校にする」をミッションに掲げるWorld Roadを設立」、「ひとりひとりが自分の軸で生きる境界線のない社会を目指し」ているという[15]。

経験中心を掲げ、両親の教育方針で感謝していることに自己責任と言う[15]この人にとって、自身の活動は自分にとって居心地のいい場所づくりなのだろうか。

 

自発的な学習行為は、健康な生活のための資産があることと高い相関を持つ。

自発的な学習行為ができる人は、自発的な学習行為を推進すると推測する。

自発的な学習行為の推進は決して悪いことではないが、その行為が健康を前提としていることを忘れてはならない。

 

 

参考文献

[1]SAKISIKU 2022年8月24日12:10 「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」女性起業家の発言が10か月経って“炎上” https://sakisiru.jp/34859

[2]Edward L. Deci &Richard M. Ryan (2000) The What and Why of Goal Pursuits Human Needs and the Self-Determination of Behavior.

[3]Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-determination theory and the facilitation of intrinsic motivation, social development, and well-being. American Psychologist, 55(1), 68–78.

[4]公益社団法人 日本WHO協会 世界保健機関(WHO)憲章とは https://japan-who.or.jp/about/who-what/charter/

[5]Louise Beattie,Simon D.Kyle et al. (2014) Social interactions, emotion and sleep:A systematic review and research agenda.

[6]Töres Theorell, Anne Hammarström et al. (2015) A systematic review including meta-analysis of work environment and depressive symptoms.

[7]Annick Cudré-Mauroux,Geneviève Piérart et al. (2020) Partnership with social care professionals as a context for promoting self-determination among people with intellectual disabilities.

[8]Maya Clayton,José Liñares-Zegarra et al. (2015) Does debt affect health? Cross country evidence on the debt-health nexus.

[9]Richard M. Ryan &Edward L. Deci (2000) The Darker and Brighter Sides of Human Existence Basic Psychological Needs as a Unifying Concept

[10]Flink, C., Boggiano, A. K., & Barrett, M. (1990). Controlling teaching strategies Undermining children's self-determination and performance. 

[11]J Bergmann,A Sams. (2012) Flip your classroom: Reach every student in every class every day.

[12]Jacqueline O'Flaherty and Craig Phillips. (2015) The use of flipped classrooms in higher education A scoping review.

[13]Zamzami Zainuddin and Siti Hajar Halili (2016) Flipped Classroom Research and Trends from Different Fields of Study.

[14]Sarah J. DeLozier & Matthew G. Rhodes (2017) Flipped Classrooms a Review of Key Ideas and Recommendations for Practice.

[15]GOETHE 2022.04.09 【平原依文】8歳で中国へ単身留学、培われた国際人としての嗜み──連載【起業家の星】Vol.01 https://goetheweb.jp/person/article/20220409-ibun_hirahara01


大前提として、意欲関心は健康な人が扱えるものと定義されている。

2022-08-13 | 旧記事群

WHOは健康の定義を「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」としている。

単に病を患っていないだけでなく、心身共に充足され、幸福に生きる権利を基本的人権として説いている。

ここで説かれている健康は、意欲関心のあり様を主に説く自己決定理論の大前提とほぼ同じ内容である。

自己決定理論は大前提として、意欲関心は健康な人が扱えるものと定義しているのだ。

 

自己決定理論は、人間を「活動的で成長志向で、自身の精神を統一させたく、また自身を社会に適応させようとする前向きな生物である(Deci and Ryan 2000)」と仮定している。

また、人間は自身の成長のための活動や学習に喜びを見出せるよう作られているという。

この仮定は自己決定理論が生得的な心理的欲求と定義している自律性・関連性・能力の充足が幸福感や更なる学習をもたらすこと、生得的な心理的欲求が進化学的に説明できることが裏づけとなっている。

 

生得的な心理的欲求というだけあって、この3つの欲求は人間が生まれた時から備わっている。

自律性は自身の行動に一貫性を持たせようとする生物本来の特性を引き継いだ特性で、自分自身を制御できているときに充足される欲求である。自分がなにをするかを自分で決めれる、生殺与奪の権を握っているときに満たされる。

関連性は社会的生物とされる人間の本能の発展であり、周囲が自分と縁を持てている、交流できていると感じたときに充足される。例えば、自分の意思決定を尊重してくれる友人は対象の関連性を満たし、自分の意思決定を無視し我関せずを貫く人は対象の関連性を満たさない。

能力はオペラント条件付けで説かれる正の強化に近い特性で、自分の行動によって事が動いたときに充足される。自律性と共に自己効力感を構築する要素であり、自分の行動が目に見える結果でもたらされたときにより満たされる。

 

この3つの欲求は「自身の成長のための活動や学習」を強化するものであり、欲求充足という活動の目的にもなりうる。「自身の成長のための活動や学習に喜びを見出せる」仕組みがこの3つの欲求である。

この3つの欲求により強化された「自身の成長のための活動や学習」、もしくは欲求充足のための自発的な活動を内発的動機づけにより起こった行動といい、「自身の成長のための活動や学習」は意欲関心や興味なんて呼ばれている。

意欲関心は3つの欲求により起こされるものではないが、3つの欲求は意欲関心に基づいた行動によって(特に自律性と能力が)充足されるものであり、欲求充足は意欲関心に拍車をかける。

この欲求充足はWHOが定義する健康のうち、特に精神的に満たされた状態のことを指すのだ。

 

意欲関心は人間が生まれながらにして持っている性質であり、その意欲関心を維持するための仕組みが自律性・関連性・能力の3つの欲求である。

この欲求が充足できて初めて意欲関心は充分に発揮される。

その欲求充足はWHOが定義する健康に当てはまり、ゆえに、意欲関心は健康な人が扱えるものと言えるのだ。

 

 

参考文献

Edward L. Deci &Richard M. Ryan (2000) The What and Why of Goal Pursuits Human Needs and the Self-Determination of Behavior.

Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-determination theory and the facilitation of intrinsic motivation, social development, and well-being. American Psychologist, 55(1), 68–78.

Richard M.Ryan and Edward L.Deci (2020) Intrinsic and extrinsic motivation from a self-determination theory perspective:Definitions, theory, practices, and future directions.

公益社団法人 日本WHO協会 世界保健機関(WHO)憲章とは https://japan-who.or.jp/about/who-what/charter/


「私はこれをすべきだ」と「私はこれをする理由がある」は別物だ。

2022-08-06 | 旧記事群

「私はこれをすべきだからやる」

「私はこれをする理由があるからやる」

どちらも対象自身の意思決定の表れである。

ゆえに、この2つは混在されがちだが、実際は天地ほど違う。

 

前者は自分に対する指示や強制に近い文脈だ。

「私はこれを「すべき」だから」と対象は自身に行動を課している。

「すべき」に適切な説明や目的がつくことはなく、「すべき」は主に本人の不安や罪悪感を解消するべく発生する。

言い換えれば「これをしなければ不安だから、罪悪感が生まれるから、やる」となる。行動の理由が明確ではなく、目的も定まらずただやることによって不安を解消するその実態は、他人に「いいからやれ」と強制されているのと同じである。

これ即ち、他人に強制された時とほぼ同じ現象と症状が発生する。「すべき」ことがちゃんとできるか、緊張やプレッシャーに押しつぶされるようになる、目的や理由は二の次になる。

あるいは、「他人からやるべきだと言われたから」というのもあるだろう。

やるべき理由が理解できていないのであれば、それは他人からの指示にただ従う行為と扱われる。

 

後者は一定の理解か納得をもとに動く文脈だ。

「私はこれをする「理由がある」から」と対象はその理由をもとに行動している。

理由は本人が納得できるか、最低でも理解できる目的が手元にあり、対象の志向や目的を阻害しないようある程度「説得」ができている。「私はそれをすることで利益があるからやる」とか、「理屈っぽく考えて、私にとって重要なものだから」とか、落とし所を見つけているイメージだ。

説得できている場合、時に内発的動機づけと相違ない威力を発揮する。単なる「すべき」ではなく、理由と目的が定まっているため、下手に焦ることはない。

あるいは、抱える理由は好奇心や興味関心からくるものであり、理屈つけるのも煩わしくなるぐらいに駆り立てられているのかもしれない。

好奇心や興味関心は生来のものであり、なにかを学び成長したいとする本能の表れである。言い換えれば「成長したい」という理由が突き動かしていることになる。

好奇心が理由の場合、それは紛れもない内発的動機づけである。なんの問題もない、暴れてしまえ。

 

どちらも自分が意思決定しているが、その中身と、もたらすものはまるで違う。

行動する原因(因果)が自己制御的かどうかが異なるからである。

前者は行動とも対象とも噛み合わない自己制御的ではない因果によった文脈だ。因果が自己制御的でない時、私たちは意気消沈するかフラストレーションが溜まる。

後者の一方は対象に噛み合うようある程度咀嚼された、ある程度自己制御的な因果による文脈だ。後者のもう一方は対象の本能の表れであり、あえて言うのであれば自己制御的な因果による文脈だ。因果が自己制御的な時、私たちは意気揚々と、あるいは違和感抱かず行動する。

 

因果が自己制御的か否かでなぜ変わるのかは、話が逸れるので後日取り上げる。

今日は、因果の所在が違うから、たとえ自分が意思決定したものであっても効果の程が違うということだけ覚えていってほしい。

自分が自分にことを強いることは、他人が自分にことを強いることと同義であることも、覚えていってほしい。

 

 

参考文献

Edward L. Deci &Richard M. Ryan (2000) The What and Why of Goal Pursuits Human Needs and the Self-Determination of Behavior.

Maarten Vansteenkiste, Richard M. Ryan et al. (2020) Basic psychological need theory:Advancements, critical themes, and future directions.

Ryan, R. M. (1982). Control and information in the intrapersonal sphere:An extension of cognitive evaluation theory.