ばりん3g

マイクラ補足 兼 心理学のつぶやき

やる気が出る環境と、それを構築する3つの要素とは。

2021-08-24 | 旧記事群

2019年に発表された論文は、内発的動機付けの発生には『自律』『能力の自認』『貢献・関係性』が深くかかわっており、これらの欲求を満たした場合内発的動機づけが高まるだろうとした。

また外発的動機づけはプレッシャーを生み出し、これらの欲求の満たし具合と負の相関にあるとの事。

 

ーーー「周りもやっているからやりなさい」「やる気を出してやりなさい」

やる気のない子に対して、重要な物事への取り組みを促すのは悪いことじゃない。

ただ、なぜやる気が出ていないのかを知らないと、的外れなことを言うだけになるぞ。

 

金銭的な余裕を確保するために稼ぐ手段や環境を整えるように、

幸福を得るために対人関係や集団での立場を構築するように、

内発的動機づけ、つまりやる気にも発揮させるための条件が必要となってくる。勝手に沸き上がってくるものではない。

自身への尊重や自我の確保、そして決定権。

物事を円滑に進められるだけの能力と、それに対する自認と自信。

物事に関与している、貢献できているという社会的充足。

これらがそろったときにやる気というものは初めて発生し、またこれらの充足率によってやる気はその強さを増していく。

やる気が生み出される環境は同時に、楽しさと物事にかかわることの価値を生み出す。自分が自発的に、物事への貢献のために、能力を発揮できる。数学の問題から議論までに通じる快感であり、正の強化である。

 

ただ物事の重要性を喝破しても、やらなければ恐ろしいことが待っていると脅しても、やる気は起こらない。外発的動機づけといって、周りからの統制された指示に一応は従うが、そこにやる気も何もない。

貢献の度合いを無視され、強制的にやらされる。たとえ能力があって問題を解決できたとしても、対象に残るのは関われなかったことからくる不快感などだ。

どうも人間は物事をきちんとコントロールできているかどうか、物事を自分の期待通りに動かせられるかどうかに快感を感じているらしい。

この快感が欠落したときには「確かに成功はしたけれども……」という、感情論で成功を否定したくなるような不快感が沸き上がるそうだ。

 

自分が自発的に、物事への貢献のために、能力を発揮できる。

やる気を発揮できる環境を整えるのは難しいことだ。

木工を楽しむためにまずは工具を作るような、数学の問題を解くためにまず公式から求めるような、そんな難しさだ。

だがそんな環境が整えば物事を楽しみながら、そして円滑に進められることだろう。

 

 

参考文献

C.K.John Wang,Woon Chia Liu et al. (2019) Competence, autonomy, and relatedness in the classroom: understanding students’ motivational processes using the self-determination theory.


成長マインドセットで能力が上がるわけではない、が……

2021-08-23 | 旧記事群

2018年に発表された論文によると、成長マインドセットは能力や成績の向上には関与しないが、批判的な意見への受け入れを促しているとのこと。

成長マインドセットは能力や成績を向上させる手段や道具ではないけど、考え方ではあるから物事の受け入れ方や認知のしように影響してそう作用するのでは、という見解だと。

 

成長マインドセットとは、考え方。

努力・経験を積めばそれ相応に能力も上がり、自分を変えていけるという肯定的な、考え方。

世間や特定の業界では良いモノとして扱われ、人間の成長に不可欠な要素だと信じられていた、考え方。

一部では過度なまでに焦点が当てられ、「やれば、できる」という惹かれやすいキャッチコピーまで作られた、考え方。

それ自体は別に悪くもなんともない、だから伝搬するには別に構わないんだ。

ただこれには『考え方』特有の問題が付きまとうんだ。

 

成長マインドセットとは、考え方。

それ自体が能力を向上させる手段でも、成功までのチャートでも、計算や問題を解く公式でも、やる気のない子どもを矯正する算段でもない。

ただの気の持ちよう、こうでありたいという思い込みに過ぎない。物事を進める手段や道具や資産ではないのだ。

どれだけ変わりたいと、行動したいと願っても行動できるだけの環境や条件が整っていなければ、願望は願望として謳われるだけとなる。

志は素晴らしいのにかなえるだけの何もかもが足りず潰えた例は嫌というほどあるし、おそらく嫌になるほど経験してきたはずだ。大なり小なり。

 

ただ、成長マインドセットはとは、考え方。

自分は努力次第で変われる、成長できるという肯定的な考え方には変わりない。

肯定的な考え方や気分は、現実的な判断や認知能力の維持に関係があるとされている。悲観的な気分で認知や判断基準が歪むという現象の逆説、と捉えたほうが分かりやすい。

悲観的な気分で認知が歪むことがないように、特に批判的な意見を歪んだ形で捉えることがないように成長マインドセットは効き、またそれにより批判的な意見をそのままの形で受け入れられるようになるのだ。

 

成長マインドセットとは、考え方。

それ自体は便利な道具でも能力アップの魔法でもないが、物事のとらえ方や認知のしように深くかかわっている。街中で喧伝されているように、成績を残すためには有利になるかもしれないものだ。

ただ、成長マインドセットそのものが成功にかかわっているわけではないので要注意。そこの認識が歪んでいたら、マインドセットでもどうしようもない。

 

 

参考文献

Maria Cutumisu (2018) The association between feedback-seeking and performance is moderated by growth mindset in a digital assessment game.


幸福は人間を「他人を放っておくもの」に変えるのか?

2021-08-21 | 旧記事群

1988年に発表された論文は、「満足した牛」という一連の主張に対し「幸福は人間を活性化させ、社会にも良い効果をもたらす」という批評をだしている。

 

「満足な牛よりも、不満足なソクラテスであれ」

現代でもときどき見かける、功利主義を語る1つの主張。

この主張を直訳すると、目先の幸福を追い満足を得るよりも長期的な問題に頭を悩ますほうが質の高い幸福を得れる、というものになる。

主張の詳細はその言葉以上に『停滞』と『無知』を貶し批判する内容となっている、らしい。満足な牛とは目先の利益を追うことしかできない無知である、などの説明もあるとのこと。

 

この類の主張に「幸福は人を満足な牛に変え、社会的なつながりを弱めてしまう」というものがある。人間が目先の利益に満足しちゃって、他人のために動くことをしなくなるのでは、と訴えたいのだろう。

この主張にも言葉以上の意味が込められていそうだが、いったん愚直に、言葉通りにとらえ、そして疑問を投げかけよう。

人間は幸福になると、社会貢献の度合いが弱くなるのだろうか?

 

答えは、ほぼ、ノーだ。

幸福度は健康や精神衛生の基盤となり、また健康に対する現実的な意識を維持するために必要となるステータスだ。幸福度が高ければ、対象の健康に少なくない効果をもたらす。

また幸福度はとってもめんどくさい相互関係を経て認知能力の維持と是正にもかかわってくる。細かく言えば、高い幸福度が維持できるような環境そのものが認知能力の維持是正に必要になってくるのだ。

認知能力の維持と是正は、あたまがいたくなるぐらいの相互関係を経てあらゆるステータスの維持と向上につながってくる。わかりやすいのは成績と対人関係だ。認知能力を保てるだけの環境がある限り、それらの活動は促されるはずだ。

そして認知能力の是正と精神衛生の度合いはストレスの緩衝材としても機能する。簡単には歪まない認知と心持と、それを支持する環境があぁだこぉしてその通りに機能するのだ。

他にも幸福度と金銭的余裕の相関からくる『おすそ分け』ともいえる現象もあったりするが、長くなるのでこの辺りで。

 

高い幸福度は社会貢献につながる可能性が高い

そうなるための相互関係はありえんぐらいにぐっちゃぐちゃだが、結果的にはそうと言える状況になるのだ。

その、ありえんぐらいにぐっちゃぐちゃな相互関係は今もなお調べられている。相互関係への理解は私たちが高い幸福度を得るためには必要不可欠だ、知っておいて損はないだろう。

 

ーーー気を付けてほしいんだけど。

幸福度はあらゆるステータスと相互関係にあるけど、因果関係であることは少ない。

何故そうなるのかを調べ始めたとき、君はもう立派なソクラテスだ。

 

 

参考文献

Ruut Veenhoven (1988) The utility of happiness.


初対面の相手を貶めようとしないのなら、君は相手から歓迎されるだろう

2021-08-20 | 旧記事群

2018年に発表された論文によると、人間は会話相手からの好意を過小評価する癖があり、また会話相手への好意はきちんと発生することがわかったという。

これはつまり「自分はよく思われてなさそうだけど、相手はいい人そうだ」という考えを、会話に参加した人間どちらも抱いている可能性が高いということ。

明確に嫌われる要素や拗れた性格特性などの特例を除き、対人の場ではこういった思い込みと実際の評価とのギャップが存在しているらしい。

 

人間はびっくりするぐらい、対人関係に臆病だ。

対人関係や集団での状態が生存に直結する社会的な生き物だからか、にしても度が過ぎるほどに対人関係に臆病だ。

あの人に好かれているだろうか。周囲に嫌われていないだろうか。集団ではどのように思われているだろうか。社会になじめているのだろうか。

強弱はあれ、そんなことを私たちは延々と自己評価している。そしてその自己評価をもとに、慎重に慎重に行動するのが基本だ。

時には周囲の批評を真に受け、より深く陥ることもあるだろう。嫌われるのが怖いから、そうすることもあるのだ。

 

だが、それらの問答はあくまでも自己評価の域に過ぎない。

制御できない反芻思考よろしく、あまりあてにならないものだ。

だいたいの人間は、各々が対人関係の自己評価に陥るぐらいには自分に意識の比重が傾いている。

言い方が非常に難しいが、いたずらに他人を貶めるだけの意識と観察を、そもそも向けていないことがほとんどだ。

いたずらに他人を貶めれば周囲からしっぺがえしを食らうのは目に見えてわかるから、わざわざ意識と観察を貶める方向に向ける必要がない、ともいえる。

 

つまりだな、

人間である君は目の前にいる人間に対し、特に理由もないのに傷つけたりはしないだろう?

それは人間である相手も同じ事で、相手も特に理由もないのに君を傷つけたりはしないはずだ。

特例の幅はそれなりに広いが、少なくともカフェでの待ち合わせに応じてくれる相手は、いたずらに君を傷つけたりはしないはずだ。

君がそうであるように、君がそうである限り。

 

ーーー彼は昨日言い放った失言をひどく気にしている素振りだった。

「キミたちになんて言われようと、ボクは黙って頷くほかないんだ……」

君の失言より、君の落ち込み用のほうがよっぽど気になるし、心にくるよ。

 

 

参考文献

Erica J. Boothby, Gus Cooney et al. (2018) The Liking Gap in Conversations: Do People Like Us More Than We Think?


専門家になったからと言って、性格がよくなるわけではないよ。

2021-08-19 | 旧記事群

2011年に発表された論文は、哲学的な専門的知識は哲学で計れる問題のいくつか(自由・道徳的判断など)においてあまり効力を発揮しないことを、いくつかのデータをもって示している。

これはつまり、性格による判断基準の偏りは、その多くが哲学的知識で修正できるものではないことを示唆している。

 

「専門性は判断力を強化するわけではなく、むしろ専門的であるがゆえに判断を誤る」と言われるゆえんの1つだろう。

どれだけ専門性を磨いた正確な案であっても、感情1つで棄却されることもある。

磨こうとしている専門性そのものが、歪んだ認知によって捉えられていることもある。

歪んだ認知が拍車をかけ、成りあがった専門性もある。

感情や欲望の所以を突き止め、それを封じ込めようとする一種の哲学的思想の根幹が感情であることが、なによりの皮肉に思えてならないのだ。

 

ただ、だからと言って専門性を軽視する理由にはならない。

そもそも、会得した人間の性格を矯正することがほとんどの専門性の主目的ではない。専門性を会得したときに人間の性格が矯正されたのであれば、それは専門性を得るための経験が要因になっているだろう。

専門性とは知識そのものであり、適材適所だ。

専門性が適当に発揮されたからこそこのようなブログが存在できているし、専門性が適当に観察されたからこそ、「専門性は一部の判断基準を是正するものではない」とも言えるのだ。

 

……露呈しているのは自覚しているからな。

だから私はこの手の話題を扱いたくないんだ。

 

ーーー彼は「生まれてくることそのものが苦痛だ」と常々言う。

自分の生まれを理由に、生きることがどれだけつらいことかを延々言う。

どれだけ学んでも、苦痛の経験はかき消されないんだなと思えた。

 

 

参考文献

Eric Schulza,Edward T.Cokely et al. (2011) Persistent bias in expert judgments about free will and moral responsibility: A test of the expertise defense.