ばりん3g

マイクラ補足 兼 心理学のつぶやき

サクナヒメと農業:ゲームを用いた学習と自己決定理論から導く稲作へのやる気

2022-03-26 | 旧記事群

※画像は実際に私が携わった水田

私は地元で(まがいなりにも)稲作をしている。

また農業だ自然だと論議する場も経験したことがある。

その類の人々との交流も少なからず持っている。

ゆえに私のところには、時々「耕作放棄地の活用案を求む」といった問いや議論のお誘いが降ってくる。

農家でも農学専攻でもないのに、不思議な話である。

 

で、経緯はおいておくが、先日もその類の問いを投げかけられた。

「若者に稲作への興味を植え付けるにはどうすればいい?」

「稲作に興味を持っている人の、そのやる気の維持には何が必要だ?」

年代層問わず農業従事者が減少傾向にある現状、従事者を増やすための策についてはいつかは問われるだろうなと思っていた。

「……私に問うのは、いわゆる人選ミスというものでは?」と心うちで思いつつも、その問いに答えることにしよう。

 

なお今回は「やる気を出すためにはどうすれば」という純粋なものとして問いを定義する。農業関連の雇用とか教育とかは詳しくないので。

 

 

 

Q:若者に農業への興味を植え付けるにはどうすればいい?

A:天穂のサクナヒメを遊んでもらう。

いくらかの考察のうえ、私はそう返した。

 

なぜ私がそう返したのか。

私がおこなった考察とは。

ひとつひとつ、説明していこう。

 

 

 

『天穂のサクナヒメ』とは手作業での稲作を忠実に再現した和風アクションRPGのこと。

機械や化学肥料などが普及する前の、時代劇の背景になっているような昔ながらの稲作をシミュレートできる作品だ。

シミュレートの出来は「攻略wikiは農林水産省発行のお米のつくり方Q&A」とうたわれるほど。現実での試行が転用できるぐらいリアル志向なんだよこのゲーム。

その完成度と話題性から"令和の米騒動"とまで言われた代物だ。

 

 

 

言い忘れていたが、このブログ記事のプレイ画像はすべて私が遊んだ時のものである。一応、ゲームクリアもしている。

記事を書くぐらいなので、そこはしっかりやらせていただきました。

 

「とても良かった」ことを延々と垂れるのはまたの機会にして。

今回の策は、そのリアル志向の稲作のシミュレートに焦点をあてたものとなる。

 

今回の策で主張したいことは2つ。

「稲作とはなにをすることなのかをはっきりさせる」ことと、

「ゲームが持つやる気に訴える要素」だ。

 

 

 

目標を設定するということは、私たちがやる気を起こすうえで重要なものとなってくる。

基本的に、私たちは「なにをすればいいのか」がわかっている時にやる気が起きやすく、そうでないときはやる気が起きづらいのだ。

 

また、自分がどんな判断を下せばいいのか、自分の能力はそこで活きるのか、自分の活動で周りが揺さぶられるか、というやる気を起こすための3つの要素に対し、目標はそれぞれの判断基準としての役割を果たす。

目標がなければ、自分がどんな判断を下せばいいのかわからないし、

逆に目標があれば、自分の能力が生かせるかどうかの判別がつく、といった感じで。

 

主張の1つ目、稲作とはなにをすることなのかをはっきりさせる。

サクナヒメは「攻略wikiは農林水産省発行のお米のつくり方Q&A」とうたわれるほどにリアル志向であり、その進行は機械化された現代の稲作においてもおおむね通じるものである。

サクナヒメで稲作の大まかな道筋を覚え、現実の稲作における「なにをすればいいのか」への理解を増やすことで、やる気が起こりやすくなるのではないだろうか。

 

 

 

「なにをすればいいのか」への理解を増やすだけなら稲作に関する教育ビデオでも効力を発揮しそうだが、ここで少しひねりを入れる。

サクナヒメは手作業での稲作を忠実に再現した和風アクションRPGだ。

つまり、れっきとしたゲームであり、もしかすると「ゲームが持つやる気に訴える要素」が使えるかもしれないのだ。

 

ゲームはその構造上、私たちのやる気をこれでもかというぐらい煽る[参考]

ゲームにより煽られたやる気は、ゲーム内でシミュレートされる稲作にも伝播していく。

興が乗ることで、シミュレートされる稲作への理解はより深まりやすくなるはずである。

 

また、プレイ体験による現実での稲作との強い関連性を導き出す可能性も考えられる。

「種籾選別の次は育苗で、同じ時ぐらいに田起こしもするんだよね。サクナヒメでやったことある!」というような、プレイ体験を想起することで得られるやる気もあるのではと推測する。

 

 

 

この考察は「サクナヒメのプレイ体験が、実際の稲作に対するやる気につながるのか」が詰め切れなかったため、あくまでも推測の域を出ないものである。

また、サクナヒメはあくまでもゲームであり、ゲームと勉強ではその動機に多少の違いが確認されているという点からも、やる気につながるかどうかが不明瞭である。

さらに、サクナヒメでシミュレートされる稲作は最適化されたものであり、現実の稲作とは乖離している点も多く、それがどう影響するかもはかり切れていない。

 

以上の点を踏まえ、

リアル志向な稲作のシミュレートを遊ぶことで稲作の大筋を知り、またプレイ体験も持つことで、稲作へのやる気が起こりやすくなるのでは。

という考察を、今回の問いに対する返答とする。

 

 

参考文献

Christa Krijgsman,Tim Mainhard et al. (2019) Do goal clarification and process feedback positively affect students’ need-based experiences A quasi-experimental study grounded in Self-Determination Theory.

ChristaKrijgsman,TimMainhard et al. (2018) Where to go and how to get there Goal clarification, process feedback and students’ need satisfaction and frustration from lesson to lesson.

Eric Zhi FengLiu,Po-Kuang Chen (2013) The Effect of Game-Based Learning on Students’ Learning Performance in Science Learning – A Case of “Conveyance Go”.

İsmail HakkıErten (2014) Interaction between Academic Motivation and Student Teachers’ Academic Achievement.

Leen Haerens,Christa Krijgsman et al. (2018) How does knowledge about the criteria for an upcoming test relate to adolescents’ situational motivation in physical education A self-determination theory approach.

Luc G. Pelletier,Stéphanie Dion et al. (2006) Why Do People Fail to Adopt Environmental Protective Behaviors Toward a Taxonomy of Environmental Amotivation1.

Sarit Barzilai,Ina Blau (2013) Scaffolding game-based learning Impact on learning achievements, perceived learning, and game experiences.


顔にある特徴を持つ人は、学業において好成績を残す。

2022-03-19 | 旧記事群

「顔が好みだから」なんて理由で恋仲や推しを決めたり、

怪訝な面立ちから「あの人はきっと怖い人だ」と判断したり、

笑い顔を不快に感じ「作り笑顔をするんじゃない」と指摘したり、

無精ひげ生えた人に「だらしない人だ」という印象を抱いたり……。

 

挙げればきりがないほどに、私たちは顔で人を判断しがちだ。

そして私たちは、その判断をもとにその人との接し方を考えている。

笑顔が嘘くさくないだとか、ひげが生えててだらしないだとか。

論的根拠もなく、ただ"顔から感じ取った印象"で動くことは少なくないだろう。

「ただし、イケメンに限る」なんて揶揄は、その最たる例ではないだろうか。

 

 

 

顔から感じ取った印象は、私たちの判断にあらぬ介入をする。

 

その表れの1つに、学業成績への影響が挙げられる。

ディベートなどの審査員に判定が一存されるテストにおいて、顔の幅が相対的に広い人は比較的いい成績を収めたというのだ。

厳密にいうと、学習指導要領でいうところの「総合的な学習」の分野においては、"「頬骨を直線で結んだときの距離/上唇の最上点~眉毛の中央の点」を求めた時の数値の大きさ(fWHR)"と成績に小さいながらも関係があったという。

fWHRの数値が大きい人は男らしくリーダーシップがある人という印象を持たれるらしく、その印象が審査員を揺さぶり、成績が高くつけられたと推測されている。

 

あらぬ介入をする例を、もう1つ。

多数の人に「悪そうな顔」と判断された人は、実際の裁判においても厳罰を下される傾向にあったという。

また、過去に冤罪の判決を受けた人も、多数の人に「悪そうな顔」と判断される傾向にあったという。

このお話にもfWHRの概念は通用する。fWHRの数値が大きい人は攻撃的かつ支配的な人という印象を与えるらしく、それが裁判官の判決に影響したと推測されている。

公平が求められる司法判断においても、印象の影響は無視できないという。

 

 

 

以上の例の通り、顔から感じ取った印象---今回は相対的な顔の幅を取り上げたが---は、私たちの判断にあらぬ介入をする。

これらの介入の厄介な点として、現状本質的な理由が見当たらないことが挙げられる。

つまり、私たちはfWHRを理由に男らしいだの支配的だのと言っているが、そのfWHRと支配性や男らしさに関係性が見いだせない、fWHRがかかわっているという根拠がほとんどないというのだ。

 

攻撃性や支配性との関係性が深い男性ホルモンとfWHRは関係なし。

また数学といった客観的な指標に判定が一存される分野とも関係なし。

仕事の業績や出世といったイメージが幅を利かせそうな領域においても影響は確認されず。

攻撃的かどうかとfWHRにはわずかな相関関係があるが、因果関係とまではいかず、これも怪しいところである。

 

 

 

挙げればきりがないほどに、私たちは顔で人を判断しがちだ。

そして、その判断には特に根拠がない

というか、現状根拠を説明できないものである。

 

しかし、私たちの決めつけてしまう癖は依然としてある。

せめて「だらしない人だ」と思われないよう身だしなみは最低限整えるとして、

決めつけてしまう癖を念頭に置いておくことにしよう。

 

 

参考文献

Brian M.Bird,Valeska S.Cid Jofré et al. (2016) Does the facial width-to-height ratio map onto variability in men's testosterone concentrations.

Edgar E.Kausel,SantiagoVentura et al. (2018) Does facial structure predict academic performance.

John Paul Wilson,Nicholas O. Rule (2015) Facial Trustworthiness Predicts Extreme Criminal-Sentencing Outcomes.

Linke, L., Saribay, S. A., & Kleisner, K. (2016). Perceived trustworthiness is associated with position in a corporate hierarchy. Personality and Individual Differences.

Michael P. Haselhuhn ,Margaret E. Ormiston et al. (2015) Men’s Facial Width-to-Height Ratio Predicts Aggression A Meta-Analysis.

Shawn N. Geniole,Thomas F. Denson et al. (2015) Evidence from Meta-Analyses of the Facial Width-to-Height Ratio as an Evolved Cue of Threat.


サイコパスに感情はあるのか。

2022-03-12 | 旧記事群

サイコパスとひとこと聞いた時、あなたはどんな人となりを思い浮かべるだろうか。

なにを強調し、なにを根拠にするかで主張に差分は生まれるだろうが、おおかた「冷酷で、残酷で、人の痛みに共感できず、むしろすすんで痛みを与えるような」「まるで感情なんてないかのような」振る舞いをすると考えるだろう。

あるいは「道徳やモラルなんて一切なく、ただひたすらに権力や支配欲求を満たすために」振る舞う、だとか。

 

先に言っておくと、それらの思い込みはある程度当たっている。

経験則的にも、統計でみても、サイコパスな人は自身の利益のために合理的に動くことができ、一般的な人であれば道徳やモラルが阻むような行動を容赦なく実行できるという。

わかりやすい例は水素水やシリカ水の販売業者になる。

科学的には無益なものを、口上で付加価値をつけそれなりの額で「科学的には無益なもの」だと知らない人に売りつける。

新しいビジネスモデルだと喧伝し絞れるだけ搾り取る詐欺師の様を、モラルある人は真似ようとはしないだろう。

 

だいたいの人が抱える思い込みのとおり、彼らはまるで感情なんてないかのように動くことができるわけだが、

なぜ彼らは感情なんてないかのように動くことができるのだろうか。

まさか本当に、感情がないからモラル無視の行動ができているのだろうか。

 

 

この疑問を解消するには、まずサイコパスというものを知る必要がある。

 

サイコパスとは脳の特定部位に障害を患うことで発生する性格であり、共感の欠如や衝動性の高さを主な症状として取り上げられるパーソナリティ障害のことを指す。

このうち「共感の欠如」とは、例えば他者の喜怒哀楽に触発され判断を変える、作品に感情移入して心が揺さぶられるなどの、いわゆる共感と呼ばれるプロセスが障害により阻まれることをいう。

 

通常であれば、作品内で繰り広げられる「複雑な感情のぶつかり合い」は視聴者の心を大いに揺さぶり、つかんで離さない。恋愛モノや熱血ものなどの人格描写が生々しい作品が受け入れられるのはそういう訳もあるのだが、

サイコパスな人はこの手の描写が難解なため、「複雑な感情のぶつかり合い」が描かれても、ひとり追いつけないような不快感を感じるという。

また、「親友を裏切る」ような行為は"裏切られた側の気持ち"を想像することや今まで共存してきた思い出などの情動的な要素が、その判断を踏みとどまらせることだろう。

だが、サイコパスな人にはそういった情動的な要素が発生しづらいため、理由があれば「親友を裏切って」しまうのだという。

 

さらに言えば、サイコパスは多少の情動であれば切り捨てられる特性も持ち合わせる。

たとえ「愛しているよ」と投げかけられても、サイコパスな人はほとんどの場合目を背けてしまうのだ。

これにより、「複雑な感情のぶつかり合い」や「親友を裏切る」ときにわずかに発生する共感も無下になる。

 

これが、感情なんてないかのように動くことができる訳である。

 

 

サイコパスは共感の欠如を主とする性格である。

が、共感の欠如と感情の欠如は等号で結ばれない

サイコパスが障害を患っているのはあくまでも共感のプロセスを担う部位であり、感情をつかさどる部位が機能不全に陥っているわけではない

事実、サイコパスな人の感情への理解は一般的な人のそれとほぼ同等であり、また一般人と同等もしくはそれ以上の感情の高ぶりも観測されているのだ。

 

サイコパスな人にも喜怒哀楽はある

おいしいものを食べれば幸せな気分になれるし、ホラー描写にビビり夜一人でトイレに行けなくなったり、FPSでうまいこといかず台パンすることだってある。

その様相は、ほとんど一般的なそれと変わりない。

はたから見れば、サイコパスは少し冷静な一般人に見えることだろう。

しかし、対話を重ねるごとに"冷静な"訳を知ることになる。

 

 

サイコパスにも喜怒哀楽はある。

だがらと言って、他人に共感できる訳ではない。

彼らは理由があれば親友をダメにすることだってできるし、その時の表情は"まるで感情なんてないかのよう"なものになるだろう。

 

 

参考文献

Abigail A(2013) Empathic responsiveness in amygdala and anterior cingulate cortex in youths with psychopathic traits.

Brook, Michael Kosson, David S.(2013) Impaired cognitive empathy in criminal psychopathy Evidence from a laboratory measure of empathic accuracy. 

Farah AliInes,Sousa Amorim et al. (2009) Empathy deficits and trait emotional intelligence in psychopathy and Machiavellianism.

Jana L. Mullins-Nelson,Randall T. Salekin et al. (2012) Psychopathy, Empathy, and Perspective -Taking Ability in a Community Sample Implications for the Successful Psychopathy Concept.

Jean Decety1,2, Chenyi Chen et al. (2013) An fMRI study of affective perspective taking in individuals with psychopathy imagining another in pain does not evoke empathy.

Mark R. Dadds,Jennifer L. Allen et al. (2018) Love, eye contact and the developmental origins of empathy v. psychopathy.

Robert Hare,James Blair et al. (2013) What is psychopathy.


運動がなかなか続かない理由を、やる気の視点から解説。

2022-03-05 | 旧記事群

「健康になろう」「体力をつけよう」として運動を始めるが、三日坊主を体現しただけでそれを止めてしまう。

「今度こそ」と意気込んで買ったエクササイズ器具を数日使って物置にしまい、また器具を買っては部屋の隅に押し固めたりして、掃除の日にまとめて捨ててしまう。

そんな経験はないだろうか。

 

健康のため。体力のため。誰が聞いても疑いようがない大義名分を、私たちはなぜか達成できないでいる。

なんなら、私たちはその大義名分を果たそうとしたとき非常に嫌がるはずだ。

なんでこんなことをしなきゃいけないのか、もっと楽な方法はないのか、疲れた・つらい・もう嫌だ、といった具合に。

この"非常に嫌がる"理由と、達成できないわけを、やる気の視点から解説していく。

 

 

結論から言うと、体力のためと大義名分を掲げた時、私たちはその大義名分からやる気が発しているのであり、達成するための行動にやる気を感じているわけではない。

これを最初の例にあてはめると、私たちがやる気を抱くのはあくまでも"体力のため"といった目標に対してであり、"体力のため"にする運動にやる気を抱いていることは少ない、ということになる。

このため、私たちは"体力のため"というやる気を糧に運動をするわけだが、そのやる気は体力の増加という遠回りな結果を拠り所としているため、運動そのものからやる気を得ている人と比較して持続が弱くなる傾向にある。

 

「運動が楽しい」と「運動で体力が伸びてうれしい」では、やる気の出処が違ってくる。

「運動が楽しい」と思っていない私たちは、「運動で体力が伸びてうれしい」となるためには相応の努力が必要なことを知った途端、その努力を放り投げてしまう。

「運動で体力が伸びてうれしい」と思いたい私たちだが、「運動が楽しい」わけではないのでそれを簡単に放り投げることができる。

これが、体力をつけようとしてもやめてしまう理由の1つである。

 

なお、この大義名分から発せられるやる気にはいくつか種類があるが、「体力をつけなきゃいけない気がして……」みたいな漠然とした必要性に駆られて立てたそれは、他人から「運動しろ!」と指示された時のそれとほぼ同義になる。

自分の意志で選択していたとしても、選択した理由が義務的なものであれば、意思の尊重などないに等しい状態となる。

 

 

つまるところ、私たちは運動に対してのやる気が湧かないから、いくら"体力のため"と強く思っていても達成は難しいというわけだが。

では"体力のため"の運動をやりたくなるためにはどうすればいいのかという話だが、分かりやすい答えとしては運動を好きになることが挙げられる。

「運動とは別のところにやる気を抱いていて、運動そのものにやる気を抱けていないなら、その運動にやる気を抱けばいいじゃない!」という愚直で脳筋な考えだが、多分これが一番効果的である。

 

なら、運動を好きになるためにはどうすればいいのか

具体案を挙げるなら、リングフィットアドベンチャーを友達を巻き込んでやることだ。

 

ざっくりと説明するが、人間のやる気は「自身の意思決定がさえぎられることなく反映される」「成長の実感がある」「その成長に周囲が反応してくれる」環境の時に最大限発揮される。

で、この環境はゲームのプレイ時に容易にそろうことが確認されているというか、ゲームが楽しく感じるのはこれがそろっているからなのだが。

 

リングフィットアドベンチャーは運動を主体としたゲームであり、自身の運動に関する意思決定が尊重され、スコアやレベルといった要素で成長を非常にわかりやすく可視化してくれる。

掻き立てられたやる気は好意に変換され、いつしかリングフィットアドベンチャーが、運動が好きになることだろう。

ここにその成長を共有できる友人がいればより盤石となる。

そして誘発された好きが、やる気が、次の"体力のため"の行動につながるはずである。

 

 

 

私たちは運動に対してのやる気が湧かないから、いくら"体力のため"と思っていても運動を拒んでしまう。

"体力のため"に運動がしたいのであれば、目的のために行動するのであれば、その行動を好きになるのが一番わかりやすい策となる。

もちろん、行動を拒む理由には複数あることを留意してほしい。

 

 

参考文献

Christopher P. Niemiec,Richard M. Ryan (2009) Autonomy, competence, and relatedness in the classroom: Applying self-determination theory to educational practice.

Martyn Standage,Joan L. Duda et al. (2013) Students' Motivational Processes and Their Relationship to Teacher Ratings in School Physical Education.

Nikos Ntoumanis,Martyn Standage (2008) Morality in Sport: A Self-Determination Theory Perspective.

Nikos Ntoumanis(2010) Empirical links between achievement goal theory and self-determination theory in sport. 

Tomás García Calvo,Eduardo Cervelló et al. (2013) Using Self-Determination Theory to Explain Sport Persistence and Dropout in Adolescent Athletes.

Wei Peng,Jih-Hsuan Lin et al. (2012) Need Satisfaction Supportive Game Features as Motivational Determinants: An Experimental Study of a Self-Determination Theory Guided Exergame.

Richard M. Ryan, C. Scott Rigby et al. (2006) The Motivational Pull of Video Games: A Self-Determination Theory Approach.