楽しく遍路

四国遍路のアルバム

足摺岬 白山神社 白皇神社 白山洞門 松尾天満宮 女城神社 明神宮 竜宮神社 中浜

2024-12-04 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年 11月11日 三日目のつづき

散策路へ
38番金剛福寺にお参りし、これより足摺岬西海岸を歩いて、宿毛に向かいます。途中、もちろん月山神社にもお詣りします。
写真は、金剛福寺周辺に張り巡らされた、散策路です。


汐の干満手水鉢
「汐の干満手水鉢」と題した説明看板が立っていました。次の様に記されています。
・・突きだした岸壁の近く、岩の上の小さなくぼみに、潮が満ちているときは水がたまり、潮が引いているときは水がなくなるといわれる不思議な石。
金剛福寺七不思議の一だそうですが、正直、どの石がそれなのか分からないまま、「岩の上の小さなくぼみの石」と言えばこれだろうと、上の写真を撮ってみました。



海の干満に応じて水が増減するという「干満石信仰」について、五来重さんは『四国の寺』で、次の様に述べています。
・・山の上の高いところにあるのに、潮の満干がこの岩の水の満干につながっているというのは、(そこが)海洋宗教の聖地であったことを示すものです。
五来さんは、古代日本には(中世の山岳宗教に先行して)、「海洋宗教」が存在したと考えておられます。海洋宗教にあっては、海の彼方に観想される海上他界=「常世」が崇拝されますが、干満石は、如何なる異次元を経てか海に通底し、海と呼吸を一にしているため、引いては、それは「常世」にもつながっていると信じられていました。聖地であったとされる所以です。(なお干満水伝説は、32番禅師峰寺や51番石手寺、40番観自在寺、篠山神社の矢筈池などにも残っています)。


不増不滅の手水鉢
もう一つ、やはり七不思議の一という「不増不滅の手水鉢」の説明看板がたっていました。これも、どの石がそれなのか分からず撮った写真ですが、たぶん、写真の石ではないでしょうか。
その説明は、次の様でした。
・・平安時代中頃、賀登商人と弟子の日円上人が補陀落(お釈迦様の住む浄土)に渡海しようとしたとき、先に弟子の日円上人が渡海してしまったことを悲しみ、賀登上人がこの岩に身を投げ出し、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。


足摺岬の碑
五来さんは、賀登上人が岩に身を投げ出した行為を、「五体投地」である、と説明しています。「五体投地」とは、・・足摺りをし、額突き、もしくは膝突き、・・海の彼方を拝む、日本古来の拝み方です。
おそらく補陀落浄土に近いとされるこの岬では、賀登上人のように、五体投地して(即ち足摺りをして)補陀落浄土を拝む人が、多く見られたのでしょう。・・足摺りをして海の彼方を拝む岬・・この岬が「足摺岬」と呼ばれる所以です。


足摺岬灯台
さて、常世と補陀落浄土ですが、五来さんは次のように話されています。
・・常世が観音の浄土の補陀落世界に変わる。
つまり、海洋宗教において、死後の国とか神々が住まえる不老不死の国などと、様々に観想され信仰された海上他界=「常世」は、奈良時代、海洋宗教が山岳宗教に吸収されるなかで補陀落観音浄土へとその姿を変え、山岳宗教の中に残存した、・・ということでしょうか。(なお五来さんは龍燈伝説にも触れ、これも海洋宗教の痕跡であろう、としています)。→(H24 秋遍路 ④)


亀石
これも七不思議の一つ、亀石です。次の様な説明があります。
・・岬先端にある亀呼場から弘法大師が亀の背に乗って、灯台の前の海中にある不動岩に渡ったといわれています。この亀石は、その亀呼場の方向に向かっています。
この亀石、本途、亀そっくりです。人の手は加わっていないのでしょうか。


大師亀
ところで「七不思議」ですが、実はこれまでにご紹介した(亀呼場を含めた)四不思議の他にも、大師の爪書き石、大師一夜建立ならずの華表、ゆるぎ石、根笹、地獄の穴という、五つの不思議があるのだそうです。
えっ!それでは4+5で九不思議ではないか、などとは言わないでください。ここでは4+5は7。これも不思議のうちなのです。
なお写真は、仁王門から本堂へ向かう途中にある「大師亀」の石像です。平成27年秋に撮った写真です。


白山神社 
金剛福寺に隣接して、白山神社がありました。
白山神社は、白山洞門を故地とする神社です。金剛福寺の守護として、加賀から白山比咩神社(しらやまひめ神社)を勧請。かつては白山洞門上に「白山権現」と称して祀られていましたが、明治期の神仏分離で解体。大正5年(1916)には、白山神社として、現在地に遷されました。洞門上には、(後述しますが)今は「白山本宮」として、小祠が祀られています。祭神は、神仏分離後は、伊邪那岐命、伊邪那美命となっているそうです。


白皇神社
白山神社の鳥居を潜って進むと、拝殿が在りました。
「白皇山」の山号額が掛かっています。どうやらこの神社には、もう一社「白皇神社」が合祭されているようです。
調べてみると白皇神社の故地は、現在地より5キロ北方に在る、標高433㍍の山(白皇山)で、大正5年(1916)、白山神社が白山洞門から遷されるのに合わせて白皇山から遷され、此所に合祀されたとのことでした。


白皇山の山額 
白皇神社の始まりは、白皇山真言修験寺だと言います。
金剛福寺と時を同じうして開かれた真言修験寺でしたが、明治の神仏分離で解体され、白皇神社が、その神道部分のみを継承したのだといいます。その神社が、大正5年(1916)、下に降ろされ、白山神社と合祭されているわけです。


白皇山の神体石
後のことになりますが、平成27年(2015)秋、私は白皇山に登っています。白皇神社(真言修験寺)の跡を訪ね、山頂にあると聞く小祠に詣ろうとしたのです。
ただし、残念ながらそれは果たせませんでした。「頂上付近の神域への立ち入りを固く禁止します。石鎚神社 石鎚本教足摺岬教会」という「警告」に阻まれたからです。(もしかすると山頂の小祠は、石鎚神社なのでしょうか?)。とまれ、その様子は →(H27秋4)に記しています。よろしければご覧ください。


急階段
白山神社の前で通りを渡り、急な階段道を降りて、白山洞門に向かいます。つまり海岸段丘の上から、下へと降りるのです。
この写真は、階段道を降りてから、上方向を撮ったものです。


礫浜
洞門に続く浜が見えてきました。ただし砂浜ではありません。礫が敷き詰められた、礫浜です。


洞門の崖
洞門の脚に当たる、崖の部分です。この崖上に白山本宮はあります。


白山神社
白山本宮への登り口です。ただし、・・遙拝はこの場にて行うように・・との、宮司さんからの注意書きがあります。
・・お願い。 白山洞門上には白山本宮が鎮座しております。参道上部には鎖や手すり等がなく足元が非常に危険ですので、ご参拝の方はこの場所より遙拝願います。  白山神社宮司


参道
その危険な参道です。たしかに鎖も手すりもありません。


白山洞門
足摺岬にはいくつものの海蝕洞(洞門)がありますが、白山洞門は、なかでも最大のものだといいます。


白山洞門全景
平成16年(2004)春に撮った写真です。このブリッジ上に、白山本宮は在ります。


夕焼け
日が暮れてきました。
白山本宮から県道27号に戻り歩いていると、なんと、向こうから千葉さん(前号参照)がやって来ました。昨晩、同宿だった方です。
彼女は、この先のあちこちを見学してから、引き返してきたのです。
・・きっとお二人に会えると思っていましたよ。・・と言います。私たちとの再会を楽しみにしていてくれたようです。
・・お二人が訪ねそうな岬にも、立ち寄ってきました。途中、出会った人たちとも「いっぱい」話をしてきました。こういう歩き方、いいですね!
彼女は「私たちの遍路スタイル」に賛同。早速実行してくれたのです。とてもうれしく思いました。


万次郎足湯
県道27号沿いに「万次郎足湯」がありました。 平成21年(2009)、つい半年ほど前にオープンしたばかりでした。
すこし急いでいたので入りませんでしたが、ここは白山洞門を眺めるには、「一番」の場所だそうです。足を休めながら、絶景を楽しんでみるのもいいとおもいます。利用料金は無料。タオルは、必要なら100円で販売しています、とのことです。


足摺岬小学校
令和5年度(2023年度)、足摺岬全体で開校している小学校は、下ノ加江小学校(生徒数10名未満)、足摺岬小学校(20名ほど)、清水小学校(200名ほど)の、3校しかないようです。どうやら清水小学校に統合する方針と思われます。
残念ながら以布利、大岐地区に在った幡陽小学校、前号で記した窪津小学校、この後訪ねる予定の松尾小学校、中浜小学校は、すでに休校となっています。「休校」とはいえ、再開の見通しは、おそらくたっていないでしょう。


夕日
今夜の宿は、俳句の季語を名にとった「民宿青岬」。「青岬」は、・・夏の爽やかな海風に包まれた岬・・を表す、夏の季語です。
むろん女将さんは、俳人です。いくつか聞かせてもらった句の中で、とりわけ私たちが好きだったのは、
  さあー どうする 抜けんばかりの 秋の空  
でした。無条件で元気になってしまう、そんな句です。
なお私の知るかぎりでは、季語を名にとった宿には、四万十川河畔の「月白」さんがあります。「月白」(つきしろ)は、・・月の出ようとするとき、空の白んで見える様・・をいう、秋の季語です。こちらの女将さんも、句をつくっておられます。また宿の名は季語ではありませんが、室戸荘の女将さんも俳人です。庭先に投句箱があることに、お気づきの方もいらっしゃるでしょう。


夕食
俳句談義などしながら、楽しく過ごさせていただきました。
調理は女将さんとのこと。売り出し中の(関サバにも引けをとらぬ)「清水サバ」、烏賊の丸煮を美味しくいただきました。

  平成22年 11月12日 四日目

朝焼け
屋上に出て、朝の景色を撮ってみました。雲があり、日の出そのものは見られませんでしたが、きれいな朝焼けを見ることが出来ました。


海側の景色
海側の景色です。昨晩、この岬に日が落ちてゆきました。


山側の景色
ふり返ると、目の前に海が見えているとは思えない、重畳たる山の景色です。


松尾天満宮
松尾天満宮にやって来ました。この神社に設けられている、「廻り舞台」を見学させてもらうためです。前回、見学させてもらったカツオ節工場のおばさんたちに、・・こんなもん(カツオ節なんか)どうでもええけど、アコウの木と天満宮の廻り舞台は、ちゃんと見ときよ、・・と言われながら、「廻り舞台」は見ることが出来なかったです。そのことを青岬の女将さんに話したら、区長さんに連絡を取ってくださり、見せてもらえることになったのでした。


天満宮鳥居
ずいぶん背の高い鳥居です。
社殿が建つ地面と鳥居が立つ地面の間に、段差があるのです。おそらく、その分だけ鳥居を高くして、バランスをとっているのでしょう。


拝殿
土佐清水市のHPは、ここに廻り舞台が生まれた背景を、次の様に記しています。
・・近世演劇の歌舞伎は、江戸時代中期頃全国津々浦々に広がり全盛を迎えましたが、土佐藩では遊芸に関する禁令が出され一般に芝居は法度でした。
・・しかし漁村などでは、藩政中期頃から漁祭りなどの名目で地芝居が行われていたと言われ、松尾浦地区も臼碆沖の漁場に近く紀州印南との往来もあり鰹漁で栄えた事や、この天満宮の位置・境内の広さなどからも当時から地芝居が行われていたことは容易に推察できます。
・・明治以降は急速に各地区でも舞台がつくられるようになり、この天満宮拝殿の廻り舞台もこのような松尾地区の経済的地盤により明治30年(1897)頃建築されたものです。


拝殿
松尾天満宮の神楽殿は、拝殿と一体化しています。拝殿の四囲が板戸で閉ざされているのは、そのためです。舞台を保護しているのでしょう。
手前の「広場」は「観客席」です。神社一般では、ここには参道が通り、灯籠が立ち、木が植わっています。なにもないのは、邪魔になるからです。弁当持ってやって来た、ジイチャン、バアチャン、カアチャン、今日ばかりは漁を休んだトオチャン、子どもたちが、ここにムシロを敷いて座り込むのです。


廻り舞台
廻り舞台です。直径5メートルと言います。中央に心棒の頭が見えています。
現在の舞台は、明治30年(1897)に建てたものだといいますが、むろん舞台は、(前述の通り)江戸時代からありました。


奈落
奈落では、心棒に射し込んだ腕木を、人力で回します。大人なら7人、子どもでは14-5人は必要とのことです。


神輿
この建物(舞殿)には、二基の神輿が納められています。
一基はむろん、当天満宮の神輿です。大きな神輿で、男御輿とされています。もう一基は、やや小ぶりで、女御輿です。この神輿は明神宮(後述)の神輿で、以前は明神宮に安置されていましたが、管理上、天満宮に移された、とのことでした。


あこう
松尾は、「アコウ」の自生地としても知られているとのこと。カツオ節工場のおばさんの言に従い、もう一度、きちんと見に来ました。カツオ節工場にも、ちょっとご挨拶をと思い寄ってみましたが、残念、閉まっていました。→(H16春1


松尾集落
土地の人が言いました。・・いい場所は寺に取られてな。
だから俺たちゃ、こんな急斜面に住んでいる、というわけです。「寺」は、もちろん金剛福寺をさしています。辛辣ですが、事実ではあります。松尾集落は、海岸から段丘上へ上がる、急な斜面に形成されています。


集落の中の遍路道
生活の場を、歩かせていただきます。


区長場
地区の集会所「松尾会館」がありました。ここは、「松尾区長場」にもなっています。区長さんの仕事場です。


お接待
区長場は、津呂区長場. 足摺岬区長場. 大浜区長場. 松尾区長場.といったふうに、地区毎にあります。
うれしいことは、いずれの区長場にも「お遍路さん 道案内 お手洗い」のシールが、貼ってあります。もちろん松尾区長場にも、貼ってありました。この後通過する大浜区長場にも、貼ってありました。(後述)


吉福家住宅 
吉福家は、回船業で財をなし、さらに漁業、鰹節製造、金融業と事業を拡大したといいます。この住宅の用材は、すべて自家山からとった選りすぐりの良材。建築は、明治34年(1901)だそうです。
ただ、残念ですが、建物の中には、入ることが出来ませんでした。



かつて松尾は、カツオ漁で栄えた所でした。「松尾」の名は「待つ魚」(まつお)から来ている、との説もあるくらいです。「魚」はむろん、カツオでしょう。
黒潮が最初に日本列島にぶつかるのが、この海域だと言われています。前回泊まった宿のご主人は、・・昔は、よくナブラが沸いたものです。・・と話してくれました。大型の魚(この場合はカツオ)が小魚を追い、上へ上へと追い詰められた小魚で海面が沸き立つ、これがナブラです。まず海鳥が、めざとくこれを見つけて飛来。小魚を狙います。その海鳥が舞うのを見て猟師たぢが船を出し、漁師達はカツオを狙うのだそうです。・・カツオは「食い気」満々じゃから、何かを構わず食いつくけん、入れ食いよ。・・とのことでした。


地図
黒潮がぶつかる最高の漁場、これを「臼碆(うすばえ)沖」と呼んでいるようです。「碆」は、ここでは岩礁と考えていいと思います。大雑把にいえば、碆より大きいのが「鼻」で、鼻より大きいのが「岬」。もっと大きくなれば「半島」でしょうか。ここには、碆も鼻も岬もそろっています。
「臼碆」の名の由来は、土佐清水市のHPによると、次の様です。
・・花崗岩の大絶壁の真下にぽっかり浮かんでいる海上2m、巾3mの岩が臼の形に似ており、そこを中心として黒潮が渦巻く形が臼に似ている事からウスバエと名付けられた。
ちょっと分かりにくいところもありますが、おそらく「ぽっかり浮かんでいる海上2m、巾3mの岩」が、地図左端の「沖臼」なのでしょう。この「碆」に黒潮がぶつかって渦巻き、それが臼に見えたので「臼碆」と呼ぶようになり、やがて、この辺一帯の岩礁地帯をも「臼碆」と呼ぶようになった、ということでしょうか。


女城神社への道
岬や鼻の先に祀られた神社を、女城神社、明神宮、龍宮神社と、順に訪ねてゆきます。
まずは女城神社です。道案内はしっかりとしており、迷う心配はありません。


女城神社
女城神社の祭神は、「生平さま」だと言います。海から来た、安産の神様です。
源平合戦の後の頃、この地に平家所縁の女性が流れ着いたと言います。雌鹿の背に乗ってとも、「うつぼ舟」に乗ってとも伝わります。女性は、漂着した後、女児を残して身罷りますが、女児は、長じて助産師として働くようになったといいます。
助産師となった彼女は、妊婦を一人残らず安産に導き、生まれた子は、誰もが健やかに育ったのだそうです。
村人たちは、そのことを有り難いことと思い、助産師とその母を、安産の神・生平さまとして祀ったのだそうです。「生平さま」の名は、漂着した女性の着衣が、麻を原料とした手編みの衣「生平」(きびら)であったことに由来するとのことです。


恵比寿神社
この小祠は、女城神社の境内社・恵比寿神社です。恵比寿様は商売繁盛、五穀豊穣の神様ですが、元々は豊漁をもたらしてくださる、海の神様です。
この恵比寿様にかんしては、「傷ついた鷲」にまつわる譚が伝わっています。
・・ある土地の漁師が、傷ついた鷲を見つけたので手当てをしてやった。しかし、死んでしまったので、満足な供養もせず放っておいた。


恵比寿神社
・・するとその漁師の家に、次々と不幸が訪れるようになった。漁師は、これは鷲の供養を怠ったからだと知り、恵比寿様を祀って鷲を供養した。
というような譚です。
この「鷲」は、空の彼方からやって来た神だったのでしょう。「海の他界」からやって来た神の社に、「空の他界」から来た神の譚が伝わっているというのも、興味深いものがあります。


岩礁
ウバメガシの枝に隠れて見えにくいですが、神社の下方に、岩礁がテーブル状に広がっています。かなり広い平面です。
北さんと、想像を逞しくして、話しました。
・・これは、さながら海に向けたステージだな。
・・「女城」の女たちが笛を吹き、太鼓を叩いて踊る。
・・海の神様をなぐさめ、客人神を招いたのではないか。
・・客人神は、鯨や鰹を連れてくる。それを男たちが獲るんだ。


岩礁
後で知ったことですが、旧暦3月15日の女城神社の祭礼日には、ここで「磯あそび」がされるのだそうです。
「磯あそび」は、「山あそび」とならんで、「他界」から神霊を迎えるために賑々しく行われる催しです。
HP「神社探訪・狛犬見聞録」は、次の様な記事を載せています。
・・この日(3月15日)は、『民俗』で言われる『磯遊び』の日でもあり、大人は酒肴を子供は弁当を携え、お参りの後は磯に降りてにぎやかな1日であったが、最近は少子化の影響で淋しくなっているものの続いてはいる。
なにも知らずに北さんと交わした会話でしたが、まったくの見当違いでもなかったようです。(後述)


監視哨跡
女城神社のすこし先に、旧日本軍の監視哨跡が残っていました。米軍の土佐湾上陸を警戒してのものだったのでしょう。
・・当時のまま現存するこの種の監視哨は全国的にも珍しく、貴重な戦争遺跡であると言われている。(説明板)・・とのことです。なお「女城」の読みですが、国土地理院地図では「メジ」となっていますが、現地の説明看板などでは、「メジロ」と振っています。また土地の人も、「メジロ」と呼んでいました。



女城鼻の女城神社の次は、明神岬の明神宮です。


松尾小学校
松尾小学校がありました。しかし、(前述しましたが)この学校は、この写真を撮った時点で、すでに休校となっています。
ただ、ちょっと不思議に思ったのは、校庭に雑草が生えていないのです。除草剤なのでしょうか?それとも何かで頻繁に使われている?


  
松尾小学校の所から南へ、明神宮へと向かいます。
だだし、この辺の道については、実はメモと記憶を喪失しており、よくはわかっていません。


古代の湊跡
海近くまで、一度降りてきたようです。
聞けば、ここは古代の湊跡なのだそうです。しかし、それがいつの時代のものかなどは、(私は)わかっていません。


明神岬
明神岬です。この上に明神宮はあります。
ここは(前述の)松尾天満宮に収められている女神輿の実家なのですが、ということは、かつてはこんな急坂を、神輿が上り下りしていたということなのです。そうするだけの担ぎ手がいた、ということでしょう。その担ぎ手が今はいなくなった、それが松尾天満宮に置かれている理由かもしれません。


明神宮
小さな小祠を予想していましたが、違っていました。
明神宮は、松尾大社を勧請したものだそうです。「松尾」の地名は「待つ魚」から来る、と前述しましたが、「松尾大社」から戴いた「松尾」、の方が正解かもしれません。
祭神は、大山咋神と市杵島姫命だそうです。



白みがかっているのは、花崗岩の崖だからです。


洞門
注意してみていると、海食洞門がありました。


明神岬
明神岬を別角度から見たものです。


龍宮神社へ
さて次は龍宮神社です。
遍路道は臼碆の岬をショートカットしますが、私たちは海沿いを走る、県道27号を進み、龍宮神社へと向かいます。


景色
絶景です。


景色
絶景の連続です。足摺岬の魅力は西海岸にある、そんな気がします。


地図 
この辺の案内図がありました。
私たちが訪ねた女城神社と明神宮は、鵜ノ岬と松尾の間にあるのですが、残念、記されておりません。


道標 
道標の一番上は、 足摺岬 8.3キロ  清水漁港 14.5キロ
   二番目には、龍宮神社 400メートル
   一番下は、 黒潮接近地
とあります。


龍宮神社へ
鳥居が建ち、扁額に龍宮神社とあります。
これからの参道は、しばらくは、ウバメガシの原生林を抜ける道です。


龍宮神社
樹林を抜けると、景色が一変しました。写真に収まりきらぬ、大きな景色です。
大いなる存在に拝跪したくなる、そんな感覚にとらわれます。
頂上部に小さく見える赤い鳥居まで登りますが、風が強い日には、止めた方がいいかもしれません。


龍宮神社
赤い鳥居、龍宮神社の鳥居です。
祭神は、海神豊玉彦命(わたつみ・とよたま彦命)と豊玉姫命。父ー娘の二柱です。浦島太郎物語の海神と乙姫さま、と言えばお馴染みでしょうか。
豊玉姫命は、山幸彦として知られる彦火々出見命(ひこほほでみ命)の妻となり、鸕鶿草葺不合命(うがやふきあえず命)を産みます。初代神武天皇の父神です。つまり豊玉姫命は、神武天皇の祖母に当たります。


龍宮神社
この神社を「龍王神社」と呼ぶ、土地の人がいました。
・・「龍宮神社」ではないのですか?・・と尋ねると、
・・私らは「龍王神社」と呼んでいる。・・との応えです。
海中他界「龍宮」を主催するのは、乙姫様とも龍王様とも言われますが、この方にとって「龍宮」は、「龍王宮」すなわち大漁を呼び寄せる龍王が主催する宮なのでしょう。


龍王? 
龍宮神社には、龍王に大漁を祈願する、「漁招き」という催事があるそうです。それを高知新聞が記事にしていますので、以下、引用させていただきます。
・・土佐清水市松尾の竜宮神社で10日(令和6年2月10日)、大漁祈願の「漁招き」が行われた。女性が着物の裾をめくって大事な所を見せ、神様にお願いするというどきっとする習わし。長年受け継ぐ同市以布利地区の女性たちはスカートの裾をめくり、沖に向かって「大漁ーっ!」と声を張り上げた。


 
今はスカートですが、昔は着物でした。着物の裾を(ここが肝心なのだそうですが)、ちょっとだけ捲り上げてみせたのだそうです。つまり、もっと見たけりゃ、魚をいっぱい連れてきなさいと、龍王さんを挑発したわけです。
もちろん漁が大漁となったときには、約束は守らなければなりませんから、もっと大胆に捲り上げて見せたとのことですが、・・。しかし、それは昔の話です。


臼碆崎灯台
初点は昭和36年(1961)3月31日だそうです。


黒潮接近 
黒潮が最接近し岩礁を洗う処は、カツオ・ブリ・サバ・ヒラマサ・トビウオ・グレ・クエ等々、魚の宝庫だといいます。
と聞けば、釣り人もじっとしてはいられないのでしょう。けっこう命懸けと見えますが、怖くはないのでしょうか。


民宿夕日 
前回、宿をお願いした民宿です。懐かしく、ちょっと立ち寄ってみましたが、お留守でした。
この宿の裏手を、旧遍路道が通っています。


昼食
民宿・青岬でいただいた、お接待のオニギリです。民宿・夕日のすこし先、海が見える所で、美味しく戴きました。


大浜区長場
大浜に入りました。
歩いていると、土佐清水市の防災放送が流れ始めました。松尾地区で山火事が発生した、と報じています。消防車のサイレンも聞こえてきました。お世話になった区長さんや青岬の女将さんのことが案じられましたが、きっと、落ちついて対処されているに違いありません。


区長場のお接待
区長場には、やはり「お遍路さん お手洗い 道案内」の掲示がありました。


万次郎絵
大浜の次は中浜。中浜は、ジョン万次郎の生地です。右の大首絵?は、おそらくジョン万次郎さんでしょう。
万次郎の誕生は、文政10年(1827)。貧しい漁師の三男に産まれたと言います。宇佐から仲間と共に漁に出て遭難するのは、天保12年(1841)、14才の時。薩摩藩領であった琉球に上陸するのが、嘉永4年(1851)、24才の時でした。ようやく土佐の地を踏むことが出来たのは、その翌年だったと言います。厳しい尋問が繰り返されたのです。


防空壕
今では貴重な戦争遺跡です。
私には空襲の記憶があります。断片的な記憶ですが、真っ赤な炎の色は、鮮烈な記憶として残っています。いま思うに、あの状況下では、防空壕は無意味でした。


皇大神宮
皇大神宮は、伊勢神宮の内宮です。天照大神を祀っています。
画面左に見える橋は、中ノ浜大橋。県道27号の橋です。この後、あそこまで登ります。


案内
万次郎の生家を探していたら、案内してくださいました。


万次郎生家
復元なったばかりのようでした。


県道27号へ 
川を遡り、県道27号へ上がってゆきます。
この時、防災放送が流れ、山火事の鎮火が知らされました。早期の的確な対処が、為されたようです。



27号へ上がる道です。


県道27号
右から登ってきて、車道を横断して、左に下ってゆきます。清水市街地に至る、岬越えの山道入るのです。
ここは、道を間違えそうな所です。実は、前回、間違えたのです。県道27号を進んでしまい、延々と海沿いの道を歩いたのでした。それかあらぬか、オーイ!と、遠くで女性が手を振っています。道を教えてくれているのです。ありがとう!今回は大丈夫です。


岬越えの道
岬越えではありますが、海はほとんど見えません。しかし快適な山道です。


唐船島
清水へ降りてきました。
写真は唐船島です。昭和21年(1946)の昭和南海地震による地盤隆起で、この島は、約80センチ隆起したといいます。島裾に残る地震前についた貝類の付着跡と、地震後の汀線の差から算出された数値です。地質学上貴重であることから、国の天然記念物に指定されています。


新旧の汀線
さて、地質学上の興味も然りながら、この島の名は、何に由来した名なのでしょうか。これについて説明石板は、次のように記しています。
・・室町時代、応仁2年(1468)、前の関白・一條教房卿の土佐下向以来、土佐清水港は当時中国に派遣された、遣明船の前進基地となった。清水の豪族・加久見宗孝は土佐守に任命されてこれを統治したことが、大乗院寺社雑事記の記録に見られる。唐船島の近辺には、その名残として御古倉、カジ山、大イカリ谷、小イカリ谷等の地名が残っている。
なお「協力会地図」の42-2 清水高校の側には、「加久見」(かぐみ)の地名も見られます。


万次郎像 
陸と海の境を「地の果て」と見る人には思いもよらないでしょうが、そこは彼方の陸に続く、海の道が始まる所なのです。室戸の青年大師像、中岡慎太郎像、桂浜の坂本竜馬像、足摺岬の中浜万次郎像、そして当地の中浜万次郎像も、みんなが海を向いているのは、海の先の陸を見ているからでしょう。
とまれ、江戸時代初期、「鎖国」が始まるまで、清水湊は、唐船(外国の船)がしばしば来航する湊でした。ここは、海に向けて開かれた地であったのです。


清水サバ
名の知れた関サバに対抗して、愛媛の八幡浜辺りでは「媛サバ」が売り出されています。
そしてここ清水でも、「清水サバ」が売り出し中です。私たちは昨晩、民宿青岬で戴きましたが、関サバ、媛サバに劣らず、美味でした。


飛行機雲
さて、残念ながら時間が押してきました。只今、時刻は16:05です。
しかし私たちが予約し宿は、竜串の民宿とさやさんです。まだこれから、12キロほどは歩かねばなりません。
ゆっくりしすぎたというより、距離計算を間違えたというべきでしょう。


竜串橋
やむおえず、清水でタクシーを頼みました。まあ、なんと速いこと。あっという間に竜串(たつくし)に着きました。
竜串にわざわざふりがなを振ったのは、江戸っ子北さんが、これを「タックシ」と発音するからです。
さて、タックシ橋でタクシーを降り、宿に向かいました。 なお、タクシーに乗った区間は、→(H16春1で歩いているので、よろしければご覧ください。


今日の宿
今日の宿は「民宿とさや」さん。
同宿はなく、ご主人が話し相手になってくれました。がっしりした体格なので、趣味を尋ねてみると、五種競技の選手なのだとのこと。五種とは、フェンシング、水泳、馬術、レーザーラン(射撃とランニング)です。一番の得意は(やはり?)水泳だとか。私たちの岬-鼻-碆巡りの話も聞いてもらって、楽しい時を過ごすことが出来ました。

終わりまでご覧くださいまして、ありがとうございました。
この12月に、5年ぶりの四国遍路を考えていたのですが、来春へ延期となりました。思うように宿の予約が出来なかったからです。コロナ禍をまたいで、宿事情には大きな変化が生じているように感じました。
遍路が延期になっただけでなく、更新まで二回続けて延期とは、なんともだらしないことですが、懲りず、次号の予告をさせていただきます。
次号更新予定は、(4週後は1月1日になるので)一週延ばして、令和7年1月8日といたしました。すこし気が早いですが、来年もよろしくお願いいたします。

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