楽しく遍路

四国遍路のアルバム

竜串 小才角 大浦 大月へんろ道 月山神社 赤泊の浜 旧善根宿西田家 民宿はたご

2025-01-08 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年(2010)11月13日  第五日目  

宿
天気は薄曇り。歩くにはちょうどいい天気です。
7:00 定刻に出発しました。今日の楽しみは、・・
・大月へんろ道を歩くこと。・・私たちは、平成16年(2004)春、 完成間近の大月へんろ道を、土地の人に案内していただいて、一部歩いているのです。さて、どんな風に完成しているのでしょうか。楽しみです。
・月山神社に参拝すること。・・(まだ一巡もしていないのに)二度目の参拝になります。今回は、御神体の所まで、登ってみるつもりです。大師堂の天井絵も、時間をかけてゆっくりと見ます。→(H16春1) 


お接待の柿
楽しみはまだあります。
・赤泊の西田さんにお目に掛かり、出来れば納め札の俵など、見せていただくこと。・・西田さんは、赤泊の旧善根宿・西田家のご当代です。遍路たちが残した納め札は、なんと12000枚にも及ぶと言います。とはいえ、この段階では、私たちは西田さんのご住所も電話も知りません。
・民宿「はたご」に宿をとり、「はたごのおかみ」をハンドルネームとする、民宿「はたご」の女将さんにお目にかかること。・・私・楽しく遍路は、「掬水へんろ館」の談話室を通して、「はたごのおかみ」さんとの交信があり、ぜひ直にお目に掛かり、お礼なども言いたかったのです。
写真は、お接待に戴いた柿です。


標識
この標識は、東海岸の以布利から県道347号を歩いて、西海岸に降りてきたときに見る標識です。
左方向は県道27号で、中の浜を経て足摺岬に出ます。昨日歩いた道です。右方向は国道321号(サニーロード)で、あしずり港を経て竜串、さらには宿毛に出る道です。昨日は、清水-竜串間は、タクシーでした。
さて今日は、竜串の宿を出て、途中、月山神社に詣り、出来れば西田さんにお目にかかり、大月町弘見の民宿「はたご」まで歩きます。ルートは、国道321号を歩いて大浦集落。そこから「大月へんろ道」に入り月山神社参拝。姫ノ井でふたたび国道321号に戻って民宿「はたご」、となります。



ただ一つ、心配がありました。山道を含む30キロ弱という距離は、ひたすら歩くだけなら歩ける距離だとは思うのですが、私たちは、あちらこちらで立ち止まります。ましてや西田さんにお会いできた時のことなどを考慮すると、かなりきつい距離です。
そこで(昨日は計算間違いでのタクシー利用だったのですが)今日は計算ずくで、一部(下川口から小才角まで)バスを利用することにしました。二度目のコースなので、乗り物利用に関して、かなり「寛容」になっていたのでした。
なお、この判断は、正解でした。こうして捻出した時間があったおかげで、私たちは大月へんろ道と月山神社を大いに楽しみ、西田さんとの出会いを楽しむことができたのでした。


海洋館
国道321号沿いにある、「足摺り海洋館SATOUMI」です。SATOUMIは、おそらくは「里海」なのでしょう。平成10年(1998)、九州大学の柳哲雄教授によって提唱された海の概念で、・・人手が加わることにより生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域・・を指すのだそうです。
里海という言葉を私は、平成16年(2004)春に訪れた柏島で、初めて知りました。柏島でも、「里海づくり」を進めていたからです。例えば、間伐材を利用した「魚礁作り」が進んでいました。間伐材は、三原村から運ばれたとのことでした。その魚礁には、大月小学校の子どもたちが書いた、お魚さんたちへの励ましの言葉がつけられていたそうです。山村と力を合わせての、海づくりです。


鼻の先の鳥居
名もない鼻の先に、鳥居が建っています。
どのような神を祀っているのでしょうか。この沖に弁天島があるので、あるいはこの鳥居は、弁天島に在る神社の、遙拝所なのかもしれません。


海底館
海底館では、らせん階段を下り、水面下7メートルの海中を見ることが出来るのだそうです。さながら天然の水族館といったところでしょうか。
ところで、「海洋館」「海底館」のどちらにも入館できず、(お大師さんではありませんが)「見残した」ことを悔いている方は、いらっしゃいませんか。
そんな方へのお勧めのブログがあります。本ブログがブックマークしている「あきしの風~波多之國めぐり」です。「カテゴリー」から「海洋館」「海底館」をクリックしてみてください。竜串の海を楽しめること、受け合いです。


下川口トンネル
下川口トンネルを皮切りに、小才角(こさいつの)までの8キロ余りには、7本のトンネルがあります。バブル初期の1980年代後半に建設されたトンネル群です。
 下川口トンネル 982メートル  昭和59年(1984)竣工
 片粕トンネル  982メートル  昭和59年(1984)竣工
 歯朶トンネル  649メートル  昭和58年(1983)竣工


宗呂川河口
 貝ノ川トンネル 956メートル  昭和61年(1986)竣工
 叶崎トンネル  154メートル  ?
 西叶崎トンネル  90メートル  昭和62年(1987)竣工
 脇ノ川トンネル 708メートル  昭和62年(1987)竣工
これらトンネルの掘削で、この辺の陸路交通事情は、劇的に改善されたことでしょう。


下川口浦
此所でバスを待ちました。高知西南交通のバスだったと思います。
画面右に見えるコンクリートの大橋(大津大橋)は、この先で、片粕トンネルに入ります。
なお、バスで通過してしまった区間については、→(H16春1)をご覧ください。トンネルの多い区間ですが、叶崎灯台など、見るべき所が多くあります。


するめいか
小才角で下車したのは、この「スルメ」狙いもあったからでした。
前回、するめ売りのおばさんたちが、・・ホレ、食べえ。・・と言って、いっぱい食べさせてくれたスルメ「一日干し」は 本当に美味しかったのです。食べさせてくれたのは、この先に食堂があるかどうか、私たちが尋ねたからだったのですが。つまり私たちの空腹をおばさんたちが忖度してくださり、・・ホレ、食べえ・・と言ってくださったのでしたが。
私たちは今回もまた、少し試食し、宅配便で自宅と友人宅に送りました。


作業
理屈は分かりませんが、・・太平洋の潮風が、うまみを熟成させる・・のだそうです。
天候の状況によっては、干して4時間ほどで、もう食べ頃になる、とのことでした。


さんご採取発祥記念像
説明板に、次の様に記してあります。
・・ここ月灘沖を含めた渭南(いなん)海岸には、徳川時代から多数のサンゴがあることがわかっていました。一人の漁師が’宝石サンゴ’を釣り上げた偶然が、日本サンゴ史の始まりといわれています。
・・土佐藩では厳重に採集を禁止し、その所在を口にすることを禁じました。このことは今なお残る童唄、
  お月さんももいろ だれがいうた あまがいうた
  あまのくち ひきさけ (小才角で唄い継がれてきた唄)
に、うかがい知ることができます。この唄は口止めされた漁師や子どもたちによって唄い継がれてきたもので、小才角はこの唄の故郷であります。(後略・明治維新後、さんご漁が盛んとなるが、やがて採り尽くされ、衰退した事が記されている)。


中国の渭南
(国土地理院地図には記されていませんが)、珊瑚が育つこの辺の海は、「月灘」と呼ばれているようです。月山神社の「お月さん」(月夜見尊)が護る珊瑚の海、それが月灘なのでしょう。像の少女は、(『美味しんぼ』からの連想ですが)「珊瑚の精」でしょうか。素敵な像です。
渭南海岸の「渭南」は、中国の古代地名に由来するとも言われています。中国の「渭南」は、陝西省を東流する黄河の支流・渭水の南岸地域を言いますが、高知の「渭南」は、さしずめ、中村平野を東流する渡川(四万十川)の支流・中筋川の南、といったところでしょうか。因みに歴代王朝の都となった長安(現・西安)は、渭南にあります。渭南とは、そういう土地なのです。
なお写真は、平成16年(2004)撮影の中国渭南地方の一齣です。見にくいですが、写真最奥部に、古くは秦の都があった咸陽市が見え、その手前に、渭水が流れています。


大浦へ
大浦集落が見えてきました。大月へんろ道は、奧の山中を行きます。


標識
ここで国道321号と別れ、左方向、大浦に向かいます。321号とは、大月へんろ道を経た後、ふたたび姫ノ井で出会います。
標識の表示は、大浦0.7キロ、月山神社4キロとなっています。ただし月山神社4キロは、車道の距離でしょう。


標識
写っている車道は、国道321号です。


堤防の道
堤防沿いの道を歩きます。やがてこの道の右側に、才角川(さいつの川)が合流してきます。この川は姫ノ井辺を源流とし、ほぼ国道321号に沿って南西に流れ、大浦で太平洋に注ぎます。


天満神社
写真奥の神社は、天満神社です。社殿の手前に才角川が流れています。左から右へと流れ、やがて河口に達します。
手前の鳥居は、天満神社への参道を示すものですが、参道は一度、才角川に降り、川を渡って対岸に上がるようについています。昔は、この鳥居の場所にも、賽銭箱が置かれていたのではないでしょうか。


大浦集落へ
私は(H16春1)に、つぎのような記事を書いています。
昭和21年の昭和南海地震を覚えている方と出会いました。
・・あの地震は朝方で(12月21日午前4時19分)、津波は来るのが見えたけん、なんとか逃げられた。
・・逃げ場所は決めとっても、そこへ逃げられるか、じゃなあ。
高齢化が進むなか、だんだん避難が難しくなってくる現状を、心配されていました。


元消防分署
前回訪れたときは、シャッターが上がり、消防車が格納されていました。
今回は、消防車が見えません。どうやら消防分署ではなくなったようです。
なお天恢さんに教わったストリートビューで見ると、令和の現在、この建物はなくなっています。


住吉神社
住吉三神と総称される神々がいます。(『日本書紀』の記述では)底筒男命(そこつつのお命)・中筒男命(なかつつのお命)・表筒男命(うわつつのお命)の三神です。今では、商売繁盛、縁結び、子宝、家内安全、恋愛成就など、多方面にわたるご利益をお持ちの神ですが、そもそもの創まりは、海の鎮守、航海の守護神でした。「底」「中」「上」は、海の底、中程、海面を表し、「筒」は「津津」にも通じて、海中を貫く柱や道を表象しているとされています。つまり住吉三神は、海総体の神なのです。
この住吉神社は、大浦湊に鎮座していますから、まずは海上での安全を祈願して、祀られたものでしょう。


大浦集落
大月へんろ道に向かいます。集落を見下ろす墓地の方向が、その見当です。


ワンチャン
素敵な居場所をもらうことが出来ました。ここに居ると、落ち着くのでしょう。


椅子
ここは、近所のお年寄りの居場所です。ここに坐っていて、通りかかる人がいたら、その人とひとしきり、会話を楽しむのでしょう。


案内
丁石が一部残っている、と記されています。


十八丁
早速十八丁石です。一丁は約100.9メートルですから、約1816メートルでしょうか。


大浦集落
土地の人は言います。
・・聞いた話だが、昔、月山神社の祭の日には、大浦の湊は舟で埋まり、道は人でいっぱいだったそうな。
・・○○からも来たというから、すごいわな。
陸路と海路で人がワンサと押しかけ、それは盛大だったのだそうです。○○は、ビックリするような遠方の地名だったのですが、残念ながらメモし忘れており、わからなくなりました。
なお月山神社の例祭日は、陰暦1月23日だそうです。僧・空海が「月影の霊石」の前で、二十三夜月待の密供を修したことに因むとのことです。


へんろ道
祭日には、この道に「蟻の行列」が現出。月山神社(当時は守月山月光院南照寺)へ向かう人たちが、連なり歩いていたことでしょう。


十六丁
路沿いに在る丁石は、気づくかぎり全部、写しておきました。
順次、掲載しますので、ご覧ください。


車道
古いへんろ道を、車道が横切っています。この車道は、月山神社を経て、国道321号に、姫ノ井で合流する道です。
石標が建っていました。大月へんろ道は直進し、坂を登るよう指示しています。前回はまだ建っていなかった石標です。


前回
同じ場所を撮った、前回の写真です。まだ石標は建っていません。
直進の道はまだ歩けないので、私たちはここで左折。多少未練を残しながら、車道を歩きました。
しかし、ややガッカリ気味に歩きはじめた車道でしたが、この道も、なかなかのものでした。海=月灘への展望が開けていたのを覚えています。展望休憩所で、休憩中の郵便配達の人と、しばし楽しい時間を過ごしたのでした。



直進します。
すでに遍路札が下がり、案内標識が建っています。すっかりへんろ道の装いが整っています。


励ましの札
やがて、大月へんろ道を特徴づける、地元小学生たちからの「励ましの札」が見えてきました。聞けば、大月小学校の三年生が、毎年、郷土学習の一環でしょうか、札掛けや整備をしてくれているそうです。


励ましの札
いっぱい掛かっています。
天恢さんはこの道を歩いたとき、掛かっている札の全部を、写真に撮ったのだそうです。
帰宅後、大月小学校の子どもたちへ手紙を書き、感謝の気持ちを伝えたと言います。


励ましの札
この札は、月灘小学校の児童のものです。(私が歩いた年より2年前の)平成20年(2008)、大月小学校に統合され閉校となった学校ですが、まだ取り外さず、残してありました。
なお月灘小学校は、学制発布3年後の明治8年(1875年)、重い地元負担に耐えて設立された、才角小学校に発しています。


十五丁


?一丁
上部が欠けていて分かりませんが、まちがいなく、十一丁でしょう。



切り通しになっています。


道標
石標には、月山神社経由延光寺へ、とあり、左に下るよう矢印が刻まれています。
木の道標には、月山神社、左下る、とあります。


九丁


?左遍路路
最上部は読めません。何らかの梵字でしょうか。



路肩を補修してくれました。


五丁



変化にとむ道です。


五丁



危険を感じるような道ではありません。


案内
また、案内はしっかりしており、迷う心配はありません。


四丁


車道へ
車道へ降りると、やがて月山神社です。
神社は、この車道沿いに在ります。


月山神社
月山神社は、伝では、・・白鳳時代、役の行者(役小角)が山中で三日月の霊石を発見。月夜見命(つくよみ命)、倉稲魂命(うかのみたま命)を奉斎したことに始まる、・・とのことです。
しかし史実としては、(これら伝承をうけて)幡多一条氏の初代当主、一条房家(1475─1539)が、守月山(しゅげつさん)月光院南照寺を建立したのが創まり、とされています。この神仏混淆の寺には、月夜見命と、その本地仏である勢至菩薩、そして倉稲魂命が祀られていました。


月山神社
(月夜見命と勢至菩薩に加えて)倉稲魂命(うかのみたま命)が祀られたのは、この神が、秦氏の氏神であったからではないでしょうか。秦氏は、古代、この地方に勢力を伸ばし、「幡多」という地名の興りともなった氏族です。
新しい支配者(一条氏)は、民心掌握のためにも、その地の古来の信仰には、敬意を払うものです。そんな配慮もあって倉稲魂命は祀られた、と考えてみるのですが、どうでしょうか。


月山神社 
なお、前号で書き落としましたが、もし、
・・松尾地区の明神宮は松尾大社から勧請された。
との説が正しいとすれば、この勧請も、秦氏がらみであったかもしれません。というのも、松尾大社は、秦都理(はたのとり)が建立したとされているからです。その祭神・大山咋神(おおやまぐい神)・市杵島姫命(いちきしまひめ命)を、秦氏は篤く信奉していました。


大師堂
平成16年(2004)参拝の時に見た、境内の大師堂説明板には、
・・この建物は安政5年(1858)の建築と推定されている、
・・月山神社が守月山月光院南照寺と称されていた当時からの大師堂である。
ことが記されていました。明治初頭の神仏分離・廃仏毀釈の嵐をくぐってきた大師堂ということです。
今回目にした大師堂説明板には、
・・明治初頭の廃仏毀釈により、寺は大師堂に転用された。
と記されています。「寺は大師堂に転用された」は、少々分かりにくいですが、・・解体された寺は、今は唯一、大師堂に込められている、・・というような意味でしょうか。


大師堂
とまれ、この大師堂は、もし明治初期の神仏分離・廃仏毀釈策が、忠実、厳格に守られていたならば、今、此所にはないはずのものです。よくぞ残って(残して)くれました。
吹き荒れる廃仏毀釈の嵐にもかかわらず、大師堂が存続できたのは、当社に四国88ヵ所番外札所としての歴史があり、多くの遍路が参拝していた事実があったからでしょう。また(前述のように)遠方からも多数の参拝者を集め、盛大に催行されていた例大祭が、空海の二十三夜待ち密供と深く関わているからでもあったでしょう。


天井絵
大師堂には、美事な天井絵が残っています。・・幕末から明治にかけての、錚々たる絵師たちの手になる・・ものだそうです。
梅原猛さんは、・・もし廃仏毀釈がなかったら、国宝の数はゆうに今の3倍はあっただろう。・・と語っています。つまり廃仏毀釈の嵐は、文化財に対してさえも、容赦なく吹き荒れたということです。そんな中、これらの絵は、きっとお大師さんに護られてでしょう、今日にまで残ることができています。


天井絵
その絵師たちとは、(私は絵金、小龍の他は知りませんが)弘瀬竹友(絵金)、河田小龍、宮田洞雪、柳本洞素、小松洞玉たちだといいます。弘瀬竹友(絵金)は、香美市の絵金美術館で知りました。→(H20春1)に少し記載していますので、よろしければご覧ください。河田小龍は、私は絵師としてより、ジョン万次郎との関わりにおいて、知っていました。小龍は、万次郎の遭難から琉球上陸までを、『漂巽紀略』(全4巻)にまとめて刊行。また吉田東洋の『漂客談奇』執筆にも協力しています。


拝殿の後方
拝殿と大師堂の間を抜けてゆくと、高さ4メートルほどの岩屋に、御神体の月影石が祀られています。
写真左部分の板は、拝殿を護る覆い屋です。キツツキが孔を開けるので、保護しているのだと言います。そういえば、覆い屋にも、いくつか孔があいています。


御神体
登ってみました。
三日月型の霊石です。


出土した御神体
不思議や、道路際にも、三日月型の石があります。
昭和末期、道路工事のとき、地中から発掘されたものとのことです。なぜ埋没されるに至ったか、その経緯はわかっていません。


守月家先祖の墓
山号の「守月山」は(しゅうげつ・山)と読みますが、神主さんの家「守月家」は(もりづき家)と読むようです。
出来れば神主さんにお目にかかりたいと思い、お宅の様子をうかがってみましたが、どうやらお留守のように思え、断念しました。なお後述しますが、神主さんはこの時、この後わたしたちが訪れる、赤泊の集会所にいらしたのでした。残念!わずかの差で、すれちがってしまいました。


案内
次なる目標点、赤泊の浜に向けて、歩きはじめます。
ここは、姫ノ井へ直通する道・・とはいってもグネグネ曲がっていますが・・と、赤泊を経由して姫ノ井にでる道の、分岐です。むろん私たちが行く道は、後者です。



快適なへんろ道となりました。


羊歯の道
羊歯が道を隠そうとしています。


草刈り
しかし、数日前でしょうか、どなたかが羊歯刈りをして下さいました。感謝です。


倒木?
倒れてしまったけれど、ドッコイ、こんなことで参ってたまるか。がんばって新しい枝をのばしています。


案内の石柱
赤泊経由延光寺、とあります。矢印の傾斜で、坂の傾斜が分かるようになっています。


浜へ
前が開けてきました。赤泊の浜は、もうすぐです。


案内
スプレーで行き先を示しています。満ち潮の時は、ここで右に進みなさい、との案内です。
さて、先の話となりますが、このスプレー、もしかすると今夜お世話になる、民宿「はたご」のご夫婦が付けられたものかもしれません。というのも私たちは、夕食時、ご主人の・・妻と二人で吹き付けたことがありました。・・との述懐を、耳にするのです。そして、奥さま・・前述の「はたごのおかみ」さん・・が、今夏、亡くなられていたことも。
  ご冥福をお祈りします。  合掌


赤泊の浜
「赤泊の浜」に着きました。小さな浜です。
にもかかわらず、この浜に名前がつき、その名が国土地理院地図にも記載されているのは、きっと何かの謂われがある浜だからです。


赤泊の浜
調べてみると、「壇ノ浦の戦い」(平安時代末期の寿永4年・文治元年/1185)で敗れた平氏の一流が、この地に落ちのびたという伝承がある、と分かりました。後述する町指定の文化財「赤泊太刀踊り」は、この人たちが伝えたもの、とも言われているそうです。
また戦国時代・天正17年(1589)の小間目(現・古満目)七村地検帳には、「赤泊浦」の記載がみえるとのことでした。


赤泊集落へ
浜で昼食をとり、集落へ北上してゆきます。ほぼまっすぐの道です。
両側に尾根筋が延び、進むにつれ、山と山の間隔は狭くなってきますが、山はいずれもが100メートル余の高さなので、閉塞感はかんじません。これまで山道を歩いてきた感覚からすれば、むしろ解放感さえ感じるほどでした。
赤泊の集落まで、約1.3キロ。集落は、両側の山と山が合流する、少し手前にあります。


赤泊音無神社
集落に入ると、音無神社があり、石段の下に祭の幟が立っていました。どうやら秋祭りのようで、神社の隣の集会所には、人の気配がします。
ここで西田さんのことを尋ねることは出来ないものか、などと思案していたところへ、反対に、中から声をかけてくれる人がいました。
・・お遍路さん、上がりませんか。集落のみんなで、祭を祝っているんです。
・・靴を脱ぐのが大変なら、その椅子に座ってください。


赤泊集会所
この方、遍路をよくご存知だ、ピンと来ました。そうなんです。靴を脱ぐのは、けっこう大変なのです。マメでもできていれば、なおさらです。しかし私たちは、喜んで、靴を脱がせてもらうことにしました。
上がって部屋に入ると、席を空けてくださっていて、
・・食べてください。よかったら、御神酒もどうぞ。・・と勧めてくださいます。
浜で昼食をとったばかりでしたが、神様のお裾分けとあれば、これは別腹。酒は駄目な北さんも、御神酒は戴きました。


直会
どこから歩いてきて、どこまで歩くかなど、ひとしきり話した後、北さんが、・・あのー、私たち、赤泊の西田さんにお会いしたいと思っているのですが。・・と言うと、どなたかから、・・この辺は、皆、西田じゃが。西田だれ?・・との応え。
私が、西田さんのお名前を言うと、皆が、・・おお、そりゃ、この人よ。・・と、私たちに声を掛けてくださった方を指さします。
なんと、私たちが探すことなく、旧善根宿・西田家のご当代、西田さんが現れて下さったのでした。


赤泊音無神社
直会は、その後、1時間余もつづいたでしょうか。
いっぱい話しました。
月山神社の神主さんにもお目にかかりたかった、と話すと、・・そりゃ残念じゃった。さっきまで此所に坐っとったんよ。・・とのこと。「赤泊太刀踊り」には八通りの演目があり、真剣をかざして演じられること。此所に居る皆さんも「赤泊太刀踊り」を伝えていること。私たちが住んでいる街のことなどなど、絶え間なく話し続け、合間には、隣の部屋で輪投げを楽しんだりもして、・・終わりに記念写真を撮ってお別れしました。


旧善根宿
直会を終えて、西田さん宅にお邪魔しました。
まずご先祖様を祀る仏壇に手を合わせ、まだ納め札が詰まったままの米俵、納め札を一部取り出して整理したファイル、珍しいと思われる納め札など、見せてもらいました。
旧善根宿西田家には、文政8年(1825)から明治43年(1910)までの、遍路たちが残した納め札が、およそ12000枚、残っているとのことです。



ギッシリと納め札が詰まった米俵が、目前にドンと、重量感をもって在ります。その重量は、月山神社の重さであり、また西田家のご先祖様方が積まれた、善根の重みでもあるのでしょう。そしてまた、民衆が信仰(→ご利益)に寄せる、期待の重さでもありましょう。
こういったことは、知識としては知ってはいても、どこか実感できていなかったのですが、この俵を見て、ストンと腑に落ちてくるものを、私は感じていました。



写真は、俵に詰まっていた状態のままの納め札です。
改めて、和紙の丈夫さを感じます。


納め札とご朱印
 奉納 四国八拾八ヵ所 明治三十四年五月
       北海道石狩国札幌郡山口村 小川アサ代参人 今田嘉助
 奉納 四国八十八ヵ所巡拝 南無大師遍照金剛 同行二人
        神奈川懸鎌倉郡豊田村七百二拾三番地 中村太郎吉 
ご朱印帳は、右が種間寺、左が清滝寺のものです。


納め札
俵から取り出した納め札の数枚です。
 奉納 四国八十八ヵ所 越後国古志郡長岡山田町 行者 吉五郎 そよ
 奉納 神社仏閣 為二世安楽 天下太平 日月清明 
    四国 秩父 西国 坂東 奥州岩城小名浜中町 願主 吉良エ門 
 奉納 四国八十八ヵ所 南無大師遍照金剛 為聖霊菩提 二世安楽也
    弘化三年今月今日 越中射(水) 氷見町 同行二人
なぜか弘化のものが多い、とのお話でした。左端の一部写っている札にも、弘化の文字が見えます。


納め札
珍しい納め札です。尾張国「傳講中」の遍路札ですが、実に506名の名が記されているといいます。
むろん全員が歩いたのではなく、代参人が歩いたのですが、四国遍路の広がりの幅が察せられます。


道標
西田家でも長居してしまいました。
時刻は 16:00 近く。車で送ろうかと言ってくださいましたが、急げば、ギリギリ大丈夫そうな時刻です。宿の民宿「はたご」へ、少し遅くなる旨、電話をし、歩き始めました。


国道321号
姫の井です。大浦からここまでの約8キロが、「大月へんろ道」でした。


標識
国道321号に出ました。


ヘンロ小屋
平成16年(2004)完成のヘンロ小屋第9号です。
月山神社の三日月があしらわれています。


大月ふるさとセンター
平成16年(2004)春、柏島へ行くとき、ここからバスに乗りました。→(H16春2)


宿毛高校分校
後のことになりますが、この分校は、廃校とります。平成26年(2014)のことでした。


大月小中学校
前回ここを歩いたときは、「大月中学校」でした。町内の中学校をすべて、この一校にまとめて生まれた中学校でした。通学はスクールバスで、高知西南交通が運営していました。
今回、小学校も併設したようです。高校につづいて中学校、そして小学校と、全国で学校の統廃合が進んでいます。


民宿はたご
17:30着 同宿は、お父さんと、その息子さん2人の三人連れで、親子で酒を酌み交わしているところへ、私たちが合流しました。息子たちが父親をたてている、その無理なく自然な様子が何ともうれしいく、いつしか言葉を掛け合っていました。
お父さんは、今は神戸に住んでいるが、赤泊の出だとのこと。所用で帰ってきたのだといいます。
・・赤泊では西田姓が多いと聞きましたが?・・というと、・・ハーイ、私らもニシダです。・・との応えです。まだ親戚はいるけれど、・・昔のように家は大きくないから、・・此所に泊まっているのだそうでした。


民宿はたご
お父さんが休まれ、兄弟との話が続きました。やはり印象深いのは震災の話でした。
・・4階の建物が3階になりました。1階が潰れたのです。1階には寝ておらず、みんな「その時は」助かったけれど、その後も助かる保障はなく、すごい恐怖にとらわれていました。
・・少し恐怖を払うことができた気がしたのは、ご先祖の位牌を腹に納めたときでした。フッフッ、それから妙に腹がすわってしまいましてね、私は金庫を持ち出していたんですよ。後で気づいて驚きましたが、60Kgの金庫だったのです。耐火金庫だから、持ち出す必要なんかなかったんですけど。火事場のバカ力というんでしょうか、アドレナリンの固まりだったのでしょう。


天気予報
兄弟が去った後、私たちはさらに残りました。兄弟との話の合間に、宿のご主人から奥様の訃報を聞いていたからです。きちんとお悔やみを申し上げようと考えました。
奥様は「はたごのおかみ」のハンドルネームで、幡多地方の遍路に関わるいろいろを発信されており、私は、本ブログの作成について、励ましのメールを戴いたこともあったのです。
なお、「はたごのおかみ」さんの発信の一部は、HP「掬水へんろ館」の談話室アーカイブで、今も見ることが出来ます。

さて、令和7年の第1号をご覧いただきまして、ありがとうございました。
私は、この後、5年ぶりの四国遍路に出かけますが、前号のコメント欄で記したように、次号の内容も、これまでと変わることなく、土佐シリーズです。宿毛まで歩いて延光寺に参り、それからJRで引き返して、高岡神社の祭を見学します。更新は、2月5日の予定です。
  今年もよろしくお願いいたします。

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