楽しく遍路

四国遍路のアルバム

45番岩屋寺 三坂峠 46番浄瑠璃寺

2024-09-04 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

 平成22年(2010)7月15日 第五日目のつづき

岩屋寺への移動
前号は、上黒岩岩陰遺跡を見学し、タクシーで45番岩屋寺へ移動するところで終わりました。
今号は、岩屋寺にお参りするところから始まります。その後は、ふたたびバスで国道33号に戻り、そこからは歩いて三坂峠を登ります。目的地は峠の上の宿・桃李庵です。


岩屋寺
岩屋寺で、東京からおいでの青梅さんと出会いました。区切り遍路5日目にして、始めて出会った歩き遍路さんです。彼もまた話に「飢えて」いたらしく、互いに引き寄せられるように、挨拶を交わしていました。
青梅さんがお杖を二本持っておられるので、事情を尋ねると、
・・一番から歩いて来たのですが、途中、足を痛めてしまいました。なんとかならないかと整形外科を訪ねてみましたが、「この状態でまだ歩くつもりですか」とあきれられるばかり。


岩屋寺
・・もう駄目かと断念しかかったのですが、知り合った先達さんに相談すると、「お杖を両手に持ちなさい」と勧められ、試しにやってみたのです。
・・そしたら、うれしいことに、なんとか歩けるんです。
なるほど、ダブルストックがロングトレイルに効果的であるように、お杖も二本にすればよい、ということでしょう。二本にすれば、脚や腰にかかる負担が軽減されるばかりでなく、バランスもとりやすくなり、推力も得られます。


岩屋
加えてお杖には、ストックにはない有り難さがあります。
私たち遍路にとって、お杖はお大師さんです。おそらく青梅さんは、・・お大師さんに両側から支えられている・・との思いから、歩く勇気と新たな元気を、奮い起こすことができたのです。
青梅さんは、素晴らしい助言をいただいたのだと思います。むろんだからと言って、「お杖二本」が常態化してよい、と言うのではありません。四国遍路の基本は、やはり、・・お杖片手に、お大師さんに語りかけながら歩く・・なのでしょうから。


大師堂
連日の雨の中、青梅さんは過酷な遍路旅をつづけてこられました。
しかし、雨には上がってほしいけれど、上がれば上がったで、今度は炎帝が、青梅さんを焼くことになります。梅雨明けは、もう間もなくなのです。(実際、これより2日後の7月17日、梅雨が明けました)。
この後も過酷な日々がつづくのは、確実です。青梅さんの無事な結願を、心から願いました。


下山
さて、お参りを終え、お別れです。青梅さんが下山しました。今夜は久万の宿に泊まるとのことでした。
私はバス時間がまだなので、すこしゆっくりしました。
脚を痛めている青梅さんが歩いて、たかだか疲れている程度の私がバス利用とは、ちょっと恥ずかしくも思いましたが、計画してあったこととて、勘弁したもらいました。


二本のお杖
青梅さんの二本のお杖です。
バスが青梅さんを追い抜くとき最後尾から手を振ると、青梅さんも二本のお杖を振り上げて、応えてくれました。一期一会。忘れられない出会いです。


直瀬川
さて、岩屋寺の記事が青梅さんとの出会い話に終始し、岩屋寺の縁起などにふれることができませんでした。これらについては、→(H16春6) →(H28秋4) に少々記してありますので、こちらをご覧いただければ幸いです。


高野口
バスで河合の「高野口」にやってきました。
高野口で下車したのは、当初は、ここから「千本峠越えの道」を行く計画だったからです。今夜の宿・桃李庵さんの、・・千本峠は、雨の後は特に、止めた方がよい・・との助言を受け入れ、断念したのでしたが、せめて遠望だけでもしてみたいと考え、下車したのでした。
なお、この道は、『えひめの記憶』を読んで知りました。河合から千本峠を越え、高野→槻之沢(けやきの沢)とたどって、土佐街道(松山道)の仰西→高殿(後述)へと出る道です。


大宝寺口
ただし、下車はしたものの、残念ながら収穫はありませんでした。
どこが千本峠かもわからぬまま、県道12号(西條-久万線)を下ってゆくと、大宝寺口の標識がありました。朝歩いた参道に直交する道です。
思えば朝から、大宝寺と岩屋寺がつくる大信仰空間の外周を、乗り物利用ではありましたが、回ってきたのでした。たまにはこんな一日もあってよい、そんなことを思い、気を取り直しました。


千本峠・高野への入口・平成28年撮影
(先のことになりますが)私はこの6年後、平成28年(2016)、千本峠→高野への入口を確認。登ろうとしましたが、またもや、土地の人の・・止めときな、もう何年も台風で崩れ・・との忠告を受け、断念することになります。→(H28秋 4)


皇太神宮
土佐街道(松山道)に出たので右折すると、久万伊勢大神宮がありました。扁額は「皇太神宮」となっています。どうやら御師(おし)(伊勢神宮の場合は、おんし)の滞在所から興った神社のようです。
愛媛県神社庁のHPは、次の様に記しています。
・・明治初年神宮教の久万山布教所となり、同15年あらためて伊勢より天照皇大神、豊受大神の分霊を勧請した。同32年9月本教の解散によって、神宮奉斎会久万支部として発足し、昭和21年神宮奉斎会は解散。同27年宗教法人久万伊勢大神宮として新発足した。
 

千本峠?
未練たらしく、千本峠かとも思える辺りを、撮ってみました。


国道33号
土佐街道(松山道)は、すぐに国道33号に合流しました。土佐街道が国道33号に吸収された、とでもいいましょうか。これからは33号を歩いて、三坂峠を越えます。
写真の看板「一里木」は、遍路宿です。青梅さんがお世話になるようでした。私の宿・桃李庵は、三坂峠の上にあります。


採石場
山が削られています。まだ現役の採石場です。予定通りに千本峠越えの道を歩いていたら、私はこの採石場の下に降りてきたと思われます。
この山はまた、大除城(おおよけ城)という山城が在ったことでも知られています。その築城期は不分明ですが、中世、河野氏が一条氏の侵攻に備え築城したとの考えが、もっとも有力のようです。松山への入口に城を構えたわけです。
とすると、この一条氏は、三代・基房の一条氏でしょうか。幡多に根拠を置く一条氏は、基房の時、版図を最大に広げ、伊予南部へも侵入する勢いを示しています。豊後国・大友氏と連携してのことでした。


仰西(こうさい)渠
江戸中期、元禄(1688-1704)の頃、この辺の農民は農業用水の不足に苦しんでいたそうです。いえ、水そのものは久万川を流れているのですが、取水がむずかしく、困っていたのです。
久万川の支流で西明神を流れる天丸川を堰き止めて取水し、数十本の樋をつないで水を引いていたのですが、洪水があれば堰が壊されたり、樋が流されたりしていたようです。その度に作り直さなければならず、その作業は大きな負担になっていたといいます。


暗渠
この窮状を打開せんと立ち上がったのが、山之内彦左衛門光実(仰西)でした。商人だったとのことですが、姓、諱をもつところから察して、由緒ある豪商であったと思われます。馬具を商っていたともいいます。
彦左衛門は、樋をつなぐのではなく、河床の安山岩を掘削して、恒久的な用水路を通すことを考えました。私財を投じて人夫を雇用し、自らも鑿と槌を手に、働いたとのことです。人夫へは、砕いた岩一升と引き換えに、米一升を与えたといいます。野中兼山の「計量場」に通じる手法です。→(H27秋2)


水路
その規模は『えひめの記憶』によると、・・長さ57メートル(うち12メートルは暗渠)幅2.2メートル、深さ1.5メートルで、上手は川水を取り入れ下手は田の用水路に結び、入野村久万町村25町歩の水川を養っている。・・とのことです。
工事期間は3年。その間の散財で、さしもの豪商も倒産していたといいます。


仰西渠之碑
山之内彦左衛門は、若い頃から大宝寺に出向いて法話を聞くなど、信仰心が深く、また商売の傍ら、土木工事に関心を持ち、工法、見積もりなどを学んでいたといいます。
そんな彼なればこそ、と言えましょうか。彼は「仰西渠」の他にも、三坂峠の「鍋割の険」(後述)や、(前号で記した久万落合の)「切石」の改修。また久万町に法然寺を建立するなど、いくつもの、今で言う「公共事業」を手掛けています。
なお彦左衛門は、今は「仰西」と呼ばれるのが普通ですが、「仰西」は、彦左衛門晩年の、念仏行者としての号です。


高殿宮バス停
高殿(こうどの)にやって来ました。高殿神社が在るところですが、高野口から始まる「千本峠越えの道」の終点でもあります。なお、バス停の名は高殿宮(こうどの宮)となっていますが、「高殿神社」が、現在の正式名です。


高殿神社(こうどの神社)
祭神は、高御産巣日神(たかみむすひ神)です。天御中主神(あめのみなかぬし神)、神皇産霊神(かみむすひ神)と共に、「造化三神」とされています。
この神は、・・(今はアマテラスが最高神とされているが)元々はタカミムスヒが最高神だったのではないかという説もあり(立正大学「造化三神とアマテラス」)・・と言われるなど、実に興味深い神ではあります。因みに、・・苔のむすまで・・の「むす」は、「たかみむすひ」「かみむすひ」の「むす」から来ています。
当神社へは、「明神右京」なる人物が、日向の高千穂から勧請したと伝わりますが、この「明神右京」は、44番大宝寺の縁起にも登場する人物です。寺-社の信仰上のつながりがうかがえます。


拝殿
寺-社のつながりを見るため、霊場会のHPから、大宝寺の縁起を引用させてもらいました。
・・飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。
なお、明神兄弟が菅草の中で見つけたという十一面観音像は、大和朝廷の時代、百済から聖僧が携えて渡来、この山中に安置したものだった、と伝わります。


工事中
国道33号線三坂峠のトンネル工事です。開通後は「三坂第一トンネル」となります。
トンネル建設の経緯を調べてみると、この写真撮影時点で、トンネル自体は貫通しているようですが、ご覧のように、まだ供用はされていません。
後のことになりますが、「三坂道路」は、平成24年(2012)、全線開通し、国道33号の名を引き継ぎました。「三坂道路」開通で取り残された形の、旧33号の区間は、440号と名前が変わっています。ただし、その前身を懐かしみ、「旧33号」と呼ぶ方が多いようですが。


桃李庵へ
三坂道路との分岐点を過ぎて100㍍余歩くと、桃李庵の案内がありました。ここを右に入ります。桃李庵は、車遍路にも歩き遍路にも、好都合の位置に在ると思われます。



右に入って行きます。


宿 
この頃、桃李庵は、オープンしてまだ間もなく、まだ「協会地図」にも記載されていませんでした。
むろん道案内はしっかりしており、迷うことなく着くことができました。


宿
訪うと、ご夫婦で迎えてくださいました。入浴後、ビールを頼むと、またお二人で運んでくださいます。恐縮。しかし、暖かくてうれしい。
ビールを飲んでいる間、ご主人が話し相手になってくれました。
宿の名前の由来、どんな宿にして行きたいか、千本峠道の話、裏山に道をつけて国道33号(440号)につないだ話、菅直人さんが泊まった話などなど、しかし一番うれしかったのは、宿泊した鯖大師さんの一行に気仙沼さん →(H20秋3) が加わっていて、それをご主人が覚えていてくれたことでした。思わぬ所での気仙沼さんとの「再会」に、私はすっかりうれしくなり、すぐ電話を掛けたりしたものでした。

  平成22年(2010)7月16日 第六日目

お接待
お接待に、ペットボトルのお茶を凍らせて、持たせてくれました。
右のビニール袋は、お楽しみ袋になっていて、各種取り合わせていました。(何が入っていたかは、メモがなくなり、残念ながら今はわかりません)。



ご夫婦とお別れし、出発です。
宿の裏山を越えます。



昨晩話題となった鯖大師さんの遍路札が掛かっていました。


国道33号
国道33号(三坂道路が開通している今は、この道は国道440号になっています)に降りてきました。
次掲の六部堂の、少し手前です。


六部堂
先に「千本峠越えの道」を『えひめの記憶』の記述から知ったと記しましたが、実は『えひめの記憶』は、もう一本、久万から三坂峠に出る道を紹介しています。「六部堂越えの道」です。コースの概略は、・・河合から有枝川を遡り→明杖(あかづえ)→六部堂越え→川之内→急坂を下り、国道33号の六部堂に至る。・・となっています。
(遍路は、今はほとんど通らないようですが)山歩きの人たちはよく歩いているらしく、「ヤマップ」「ヤマレコ」などには、山行記がいくつも紹介されています。国土地理院の地図で、地名を追うことが出来るので、私もいつか歩いて見たいとは思っています。もちろん、その前に「千本峠」を越えなければならないのですが。


あじさい
「六部」は六十六部の略で、六十六部廻国聖を指しています。法華経を書写し、全国六十六の霊場に納めて歩く、廻国の宗教者です。
この辺が「六部堂」という地名で呼ばれるのは、江戸時代、六十六部廻国供養塔が当所に建てられたことに発する、とも言われています。ただし、その「六十六部廻国供養塔」が誰を供養しているのか、誰によって建てられたかなどについては、(私には)わかっていません。おそらくは大きな不幸があり、その供養にと何方かが全国を廻国。その結願を記念して建てられたものと想像しますが、根拠はありません。
なお、この辺で六部の活動が活発であった背景には、大宝寺の存在があったと思われます。大宝寺は、法華経を奉納する全国六十六納経所の一でもあったそうです。


茶堂風の休憩所
屋根の傾斜や桟の様子から、当地では冬季に積雪があることがうかがわれます。
  三坂越えれば 吹雪がかかり 戻りゃ つま子が泣きかかる
三坂峠の降雪は、昔の馬子唄にもうたわれているくらいですが、にもかかわらず、これを中央の官僚さんたちがなかなか理解してくれず、上京した三坂道路建設陳情団の人たちは苦労したのだそうです。『えひめの記憶』が、そんな苦労話を採録しています。 


三坂峠
三坂峠のバス停です。標高710㍍。久万高原町と松山市の境になっています。
このJR四国バスは、松山-久万高原を結んでいたと記憶します。前号に記した上黒岩遺跡に行くバスは、久万高原-面河を結ぶバスで、JR四国バスト伊予鉄バスの二便が走っていました。
なお、松山から面河への直通便は、横河原を経由するバス便があったと記憶します。(最新の情報をご確認ください)。


境界
これより松山市です。


旧道へ
町境から、旧道へ入ります。
(昨日歩いた)久万の街から峠までの区間では、旧土佐街道の松山道は、ほとんどが国道33号に取り込まれ、消滅していました。しかし、今日歩く峠-松山平野では、旧道が長く残っているのです。
写真奧に・・通行できません・・の看板が見えますが、支柱部分には・・歩行者は通行可能です・・との但し書きがあります。


通行可
こんな大きな看板もありました。


松山方向
三坂峠から見る松山方向です。


旧道
昨日岩屋寺で別れた青梅さんが思い出されました。
今頃どこら辺を歩かれているでしょう。三坂峠の麓、「一里木」さんに泊まられたようですから、もう仰西渠は過ぎているでしょうか。


鍋割り坂
(前述の)山之内仰西さんが改修してくれた、「鍋割坂」です。おかげさまで、楽に歩くことができます。
なお「鍋割坂」の名は、・・自炊用の鍋を背負って歩いていたお遍路さんが足を滑らせ、その鍋を割ってしまったことからくる・・とのことです。そんな難所だったということでしょう。たしかに、此所は急坂です。


四阿
この四阿は、石鎚信仰の一ノ王子社があった場所に建てられている、とのことです。
石鎚山山頂に至るまで、点々と在ったはずの王子社ですが、残念ながら今は、その在った場所さえ不明となっているそうです。→(H28秋5)


前方
だいぶ降りてきました。 上掲写真と比べてみてください。


段々畑
景色が開けてくると、段々畑が目に入りました。
・・本当は止めたいんよ。だけんど、止めたら、たちまちジャングルじゃろ。道なんか、のーなってしまう。
・・猪、ハクビシン、最近では猿も出てくるようになり、手に負えんが、ここは、引いたらいかんのよ。
前回→(H16春7)、こんな話をしてくれた老農夫は、今、どうしているのでしょうか。


電柵(でんさく)
・・脅し銃鳴らしても、50M離れると、ヘーキな顔しよるけんね。もう、どうでも電線を張るしかないんよ。
でんさく(電気牧柵)は、当時で、500Mが10万円、とのことでした。


田圃
前回より耕作面積が減っているように見えました。
・・若いモンは、モー、ヨーヤランと米作りを止め、(山を)降りてしまった。・・とのことでしたが、やはり若いモンは継いでくれなかったようです。


坂本屋
廃屋同然になっていた遍路宿・坂本屋を、奇しくも前回私たちが歩いた平成16年(2004)、土地の人たちが修理し、休憩所として再開したとのことでした。「坂本屋運営委員会」を組織し、会員(当時およそ20名)が交代で旅人をもてなしている、と聞いています。


休憩所
この休憩所は、前回、お世話になったところです。「お遍路さん道の駅」と銘打ち、石の工作物をいろいろと展示していたのですが、なぜでしょうか、今回は荒れている感じです。



へんろ道は左に登ってゆきます。
下り道のなかの上りなので、つい右に進みたくなります。どうせ合流するだろうと思うからです。
実際、私たちは前回、・・もう登りたくない・・気分で、右に進んでしまったのでした。しかし、やはり左が正解です。たしかに合流はするのですが、右に行くと、網掛石は見られません。また距離も長くなります。


道標
分岐の側に道標が建っています。
  三坂峠 4.5キロ 46番浄瑠璃寺4.0キロ
三坂峠と浄瑠璃寺の、中間を少し過ぎた辺りです。



この辺は、榎の集落です。
この道はやがて、久谷川(くたに川)が造る谷筋の道と合流。そこで平地が、また一段と広くなります。
松山平野に近づいているわけです。


天日干し
こうして豆を乾すほどに、天気は良かったのですが、この数時間後、急変します。凶悪な雷雲が三坂峠に湧きたつのです。
その模様は、次号で記します。


網掛け石
弘法大師が巨岩を運んでおられました。
二つの巨岩を網に入れ、それらをオウク(天秤棒)に振り分けて、運んでおられたそうです。ところが、なぜかオウクが折れてしまい、岩の一つは御坂川の下流に流れ、もう一つが、此所に止まりました。その止まったとされるのが、この岩です。


網目
岩の表面には、網の目状の模様が入っています。大師が掛けた網が、石の重さで石に食い込んだ跡と考えられています。
それでこの石は「網掛石」と呼ばれるのですが、実はもう一つ、可愛らしい呼び名があります。上掲写真をもう一度ご覧いただければおわかりと思いますが、それは「くじら石」です。確かにクジラではありませんか。
なお、オウクが折れて飛んだ先は、オウクボ→大久保という地名になって、今に残るそうです(松山市久谷町大久保)。「協力会地図」58-1の国道33号線上には、「大久保坂」などの記載があります。 


あみかけ大師堂    
そばには「あみかけ大師堂」が建っています。


県道207号へ
榎集会所の前を右に入りました。県道207号に出ます。


三坂峠
ふり返ると、三坂峠の山が見えました。
この時はまだ、雷雲の兆しはありません。


里程標  
松山札の辻から四里を示す里程標(レプリカ)です。
青梅さんが泊まった久万の宿「一里木」さんの前には、七里の里程標がありました。あれから3里歩いたわけです。


札の辻 
新しい里程標の下に、昔のそれが残っていました。「松山札の辻」については、→(H24春1)をご覧ください。


丹波バス停
伊予鉄バス丹波線の終点です。
ただし、この路線は令和3年(2021)4月、廃線となったようです。代替交通として「予約制乗り合いタクシー」が運行されているとのこと。
なお、(不確かですが)、丹波線の始まりは昭和19年で、松山市駅-丹波間を走っていたようです。バス開通以前は、松山市駅-森松間(森松は、御坂川が重信川に合流する辺り)に列車(坊ちゃん列車)が走っており、丹波辺に住む人が松山市内に出るには、徒歩、馬車、自転車などで森松まで行き、森松から列車を利用したそうです。


無縁墓
無縁墓とは、普通、・・継承する親族や縁故者などがいなくなった墓・・を言います。ですから、そのような無縁墓には、「○○家墓」などと、かつてその墓を祀り管理していた人たちの、家名や建立者名などが刻まれています。
ところが、この無縁墓には「無縁墓」と刻まれています。この墓は、管理者がいなくなった「無縁墓」ではないのです。おそらくは、ここに供養されている仏(たち)が「無縁仏」である、というのでしょう。それにしても、比較的新しいのは何故でしょうか。


案内
この案内に従わないと、あらぬ方へ行ってしまいます。
板の下部に小さく、「坂本屋運営委員会」と標示されています。前述の旧遍路宿「坂本屋」を運営している人たちが、その活動範囲を広げ、設置してくださったものです。


出口橋
江戸時代中期の浄瑠璃寺に、尭音(ぎょうおん)という住職がおられたそうです。尭音さんは、毎年のように遍路道が雨で流されるのを見て、橋を架けることを発意。托鉢して喜捨を集め、岩屋寺から浄瑠璃寺にかけて、八本の橋を架けてくださったといいます。出口橋は、そのうちの1本とのことです。
尭音さんはまた、山火事で焼失した浄瑠璃寺の、復興に尽力したことでも知られています。


坂本小学校
「出口橋」の「出口」とは、どこからどこへの「出口」であろうか、・・そんなことを考えていたら、「坂本小学校」がありました。
そうか、そうだったのか。突然、分かった気がしました。
「出口」は久万から松山平野への「出口」で、「坂本」は三「坂」峠の「下」(もと)で「坂本」なのではなかろうか。
勝手に合点してしまったのでしたが、はたして本当は、どうなのでしょうか。


大黒座
久谷町の大黒座は、今は町興しの拠点となっています。しかし、様々に転変を経てきました。 
その始まりは大正時代。酒蔵だったそうです。戦後、しばらく芝居小屋として使われた後、昭和38年(1963)までは映画館。しかし、それ以後は使い道とてなく、40余年が経過。だた、その間、壊されることなく維持されたことが幸いし、平成18年(2006)、久谷の町おこしの拠点として修復され、・・今では歌や芝居、落語の上演など、地域の活性化に貢献している。(松山市観光Webサイト)・・とのことです。


松山平野の始まり
松山平野(道後平野)は、重信川と石手川が造った扇状地・沖積平野です。つまり、二本の大河が造った別々の扇状地が、それぞれ面積を広げてやがて合体。松山平野となった、ということのようです。その広がりは、東西20km、南北17kmだと言います。
なお石手川は、今は平野を南西に流れて、海近くで重信川に合流していますが、元は合流しないで西流し、伊予灘に注いでいたそうです。合流は、江戸時代の瀬替えによる、とのことです、


長珍屋
「ちょうちん屋」と読むようです。浄瑠璃寺門前の宿ですが、元の家業が、提灯屋さんだったようです。私はまだお世話になったことがありません。


46番浄瑠璃寺
浄瑠璃寺は、まこと「ご利益の札所」です。
本尊・薬師如来、脇仏・日光月光菩薩、十二神将のご利益の他に、「仏手石」からは知恵や技能のご利益を、「仏足石」からは健脚や交通安全のご利益を、「仏手花判」からは文筆達成のご利益を、「九横封じの石」からは(不治の病、暴力、淫酒、火傷、水難など)九つの大難を避けるご利益を、樹齢約1,000年のイブキビャクシンからは延命、豊作のご利益を、おびんずる様からは痛みの癒やしや子授けのご利益を、その他、一願弁天、燈ぼさつ、もみ大師などなど・・、各種ご利益をいただくことが出来ます。


「説法石」
これは説法石です。・・おかけください。おしゃかさまが説法され、修行されたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の石が埋め込んであります。・・と説明板にあります。
なお、石と言えば、(前述の)お大師さんが担いでいた網掛石の、もう片方の下流に流れた石ですが、その欠片とされる石が、浄瑠璃寺に保管されているのだそうです。残念ながら、私は見落としているのですが、どこにあったのでしょう。


もう片方の網掛石
私が見落とした網掛石の写真を、上の記事を読まれた天恢さんが、送って下さいました。


九横封じの石
同じく天恢さんがくださった九横封じの石の写真です。


本堂
浄瑠璃寺について、どうしても書いておきたいことがあります。それは、浄瑠璃寺の「きれいなトイレ」のことです。
トイレは普通、「不浄」の場として、境内の見えにくい片隅におかれているものですが、この浄瑠璃寺では違います。浄瑠璃寺のトイレは、いつもきれいに掃除されて、正面の石段(この寺には山門がありません)を登った、すぐ左に在るのです。きれいにして、便利なところに置く。もう「ご不浄」などとは言わせない!いいですね。ありがたいことです。


句碑 
石段脇に句碑がありました。
 永き日や 衛門三郎 浄るり寺  子規
ある春の一日、子規は東京に在って、この句を詠んだといいます。


ハス
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
雨に降られた遍路でしたが、こんな景色が見られるのも、この時期なればこそのことです。浄瑠璃寺弁天池のハスが、きれいに咲いていました。
次号更新は、10月2日の予定です。松山市内の札所を廻り、帰宅の途につきます。

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2 コメント

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まだまだこれからじゃ、岩屋の坂と人生は  (天恢)
2024-09-17 16:34:37
 下界では、スーパーの店頭から突然お米が消えた「令和の米騒動」、このところの自然災害の猛威や南海トラフ地震などへの不安や恐怖感を煽ってコメの買い占め謀ったおぞましい人間の欲望。
 政界では、岸田さんの退任により自民党総裁選が始まった。 派閥の親分衆が消えて、まとめ役や仕切り役がいなくなったのか? 雨後の竹の子みたいに9人も候補者が乱立。 一方、ちょっと影が薄い立憲民主党も代表選、 さぁ~ 日本の舵取り どうなる? 

 さて、今回は「楽しく遍路」さんが平成22(2010)年の夏に歩かれた「45番岩屋寺  三坂峠  46番浄瑠璃寺」までのリライト版をコメントすることになります。 天恢も、翌年2011年6月に、鴇田峠、三坂峠越えで降りしきる雨中での遍路を体験しました。
 雨中の遍路での注意点は、強雨なら整備されてない山道などはたちまち川のようになって流れ、舗装道路でも側溝や下水管から雨水が溢れることもあって、歩行には危険がいっぱいです。  
 もう一つ、久万高原でも体験したのですが、雨中での撮影は晴曇と違って、レンズの曇りや水滴の付着で、せっかくの写真が台無しになることもあります。 そのため撮影枚数も極端に減りますが、どうしても撮りたいスポットがあるのでシャッターチャンスに苦労が絶えません。
 かくも大変な雨中の遍路ですが、一日中雨が降り続くことは少ないです。 三坂峠を下りたところで雨が止みました。 ブログにある坂本屋での思わぬお接待を受けました。 当日は日曜日で、地元有志の方から心温まるお茶や菓子、カレー、貴重な資料まで。 一緒に撮った記念写真はレンズカバーが湿って半開き状態でした。 

 さてさて、今回のタイトルは『まだまだこれからじゃ、岩屋の坂と人生は』です。 直瀬川に架かる橋を渡って45番岩屋寺への参道途中にある茶店の看板に書かれています。 ここ岩屋寺だけでも、古岩屋の岩峰、礫岩峰、重要文化財の大師堂、逼割禅定(せりわり禅定)など見所満載ですが、天恢は何故か?この看板を一番に思い出します。 麓から本堂までの距離が300m、標高差が200mほどの長い急な坂道でも、88箇所札所にはこの参道以上の険しい急坂は多いです。
その理由は、ここ岩屋寺は駐車場の入口から本堂、大師堂まで、全ての参拝者はこの参道を歩くしかありません。 現代では山中の霊場でも本堂の間際まで車道やケーブルが整備され、ほとんど歩く必要のない寺が多い中、岩屋寺は別格で厳しい道をゆく難所の姿を、いまなお留めています。
 この『まだまだこれからじゃ、岩屋の坂と人生は』の名物看板は、何度か作り替えられて今だ健在です。 マイカーや観光バスでの車遍路の方にとっては最大の難所かも?ですが、 もう後(あと)のない天恢にとっては、看板にある「まだまだこれからの人生」の意味をしみじみと噛みしめております。
返信する
雨の日の難儀 (楽しく遍路)
2024-09-21 14:17:30
天恢さん、コメントありがとうございました。
傘寿を過ぎて・・老いの坂道・・視力も落ちて・・トイレも近く・・異常気象で・・台風豪雨・・
このところのコメントの往復では、不景気な話題も多かったのですが、
・・まだまだこれからじゃ、岩屋の坂と人生は!
久しぶりの元気玉は、嬉しいかぎりです。

さて、たしかに雨の日のカメラ操作には苦労しますね。私にも苦い経験があります。雨の日、カメラを一台、(お釈迦様ごめんなさい)オシャカにしてしまったのです。
用心はしていたのですが、何回も撮っているうちに、雨水が入ってしまったようで、動かなくなってしまいました。わかってはいても、・・どうしても撮りたいスポット・・は、逃すことは出来ません。ブログを書くようになってからは、なおさらです。

幸か不幸か、宇和島駅前の龍光院でのことだったので、駅近くのカメラ屋さんに行き見てもらいましたが、・・これは駄目ですね・・とのことでした。
買えば高い買い物になるので、カメラなしの遍路も考えましたが、店の人が、・・お接待のつもりで値引きさせてもらいます・・とおっしゃり、(額は忘れましたが)申し訳ないくらいの値段で防水カメラを購入。楽しく遍路をつづけることができました。お店の人には感謝しています。
因みにカメラを壊したのは、平成24年の秋遍路でした。「H24 秋遍路 ⑤」 のアルバムで、龍光院から撮った「宇和島城」が、壊れたカメラで撮った最後の写真。次の「伊吹八幡神社」が、新しいカメラで撮った最初の写真です。

さてさて、ここで私の三坂峠下りについて、書かねばなりません。
というのも、天恢さんは・・記念写真には多少支障があったものの、三坂峠を下りたところでは雨が止み、坂本屋では、お茶や菓子、カレーに、貴重な資料までいただいて、・・一挙に疲れを吹っ飛ばしたのでしたが、私の三坂峠下りは、残念ながら、そのまったく逆だったからです。

下っている時は、(本文で記したように)農家の人が庭に豆を干しているほど、いい天気だったのに、札始大師堂の辺りからは事態が急変。猛烈な黒雲に追いかけられることになったのです。
ふとふり返ると、三坂峠辺に雷雲が発生。ドーンドーンと、雷音を発しながら降りてきます。
すぐさま私は48番西林寺に逃げ込もうと意を決し、駆けるように急いだのでしたが、結局は追いつかれ、西林寺に着く手前では、もう雷付きのドシャブリとなっていました。重信川の大橋を渡るときは、雨、風、雷の中で逃げ所とてなく、本途、怖かったです。

天恢さん、長くなってしまったのでここで終わりますが、実はこの話は、まだ終わらないのです。
私は、もしかしたら逃げ込む先を、間違えたのかもしれません。なにせ西林寺は伊予の関所寺。この後、関所寺の裁きを受け、さらなる難儀に見舞われることとなります。
その裁きとは!詳細は次号に記しますので、乞期待、です。
予報によれば、ようよう猛暑も終わりのようです。さわやかな秋が待ち遠しいですね。
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