楽しく遍路

四国遍路のアルバム

足摺岬 白山神社 白皇神社 白山洞門 松尾天満宮 女城神社 明神宮 竜宮神社 中浜

2024-12-04 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年 11月11日 三日目のつづき

散策路へ
38番金剛福寺にお参りし、これより足摺岬西海岸を歩いて、宿毛に向かいます。途中、もちろん月山神社にもお詣りします。
写真は、金剛福寺周辺に張り巡らされた、散策路です。


汐の干満手水鉢
「汐の干満手水鉢」と題した説明看板が立っていました。次の様に記されています。
・・突きだした岸壁の近く、岩の上の小さなくぼみに、潮が満ちているときは水がたまり、潮が引いているときは水がなくなるといわれる不思議な石。
金剛福寺七不思議の一だそうですが、正直、どの石がそれなのか分からないまま、「岩の上の小さなくぼみの石」と言えばこれだろうと、上の写真を撮ってみました。



海の干満に応じて水が増減するという「干満石信仰」について、五来重さんは『四国の寺』で、次の様に述べています。
・・山の上の高いところにあるのに、潮の満干がこの岩の水の満干につながっているというのは、(そこが)海洋宗教の聖地であったことを示すものです。
五来さんは、古代日本には(中世の山岳宗教に先行して)、「海洋宗教」が存在したと考えておられます。海洋宗教にあっては、海の彼方に観想される海上他界=「常世」が崇拝されますが、干満石は、如何なる異次元を経てか海に通底し、海と呼吸を一にしているため、引いては、それは「常世」にもつながっていると信じられていました。聖地であったとされる所以です。(なお干満水伝説は、32番禅師峰寺や51番石手寺、40番観自在寺、篠山神社の矢筈池などにも残っています)。


不増不滅の手水鉢
もう一つ、やはり七不思議の一という「不増不滅の手水鉢」の説明看板がたっていました。これも、どの石がそれなのか分からず撮った写真ですが、たぶん、写真の石ではないでしょうか。
その説明は、次の様でした。
・・平安時代中頃、賀登商人と弟子の日円上人が補陀落(お釈迦様の住む浄土)に渡海しようとしたとき、先に弟子の日円上人が渡海してしまったことを悲しみ、賀登上人がこの岩に身を投げ出し、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。


足摺岬の碑
五来さんは、賀登上人が岩に身を投げ出した行為を、「五体投地」である、と説明しています。「五体投地」とは、・・足摺りをし、額突き、もしくは膝突き、・・海の彼方を拝む、日本古来の拝み方です。
おそらく補陀落浄土に近いとされるこの岬では、賀登上人のように、五体投地して(即ち足摺りをして)補陀落浄土を拝む人が、多く見られたのでしょう。・・足摺りをして海の彼方を拝む岬・・この岬が「足摺岬」と呼ばれる所以です。


足摺岬灯台
さて、常世と補陀落浄土ですが、五来さんは次のように話されています。
・・常世が観音の浄土の補陀落世界に変わる。
つまり、海洋宗教において、死後の国とか神々が住まえる不老不死の国などと、様々に観想され信仰された海上他界=「常世」は、奈良時代、海洋宗教が山岳宗教に吸収されるなかで補陀落観音浄土へとその姿を変え、山岳宗教の中に残存した、・・ということでしょうか。(なお五来さんは龍燈伝説にも触れ、これも海洋宗教の痕跡であろう、としています)。→(H24 秋遍路 ④)


亀石
これも七不思議の一つ、亀石です。次の様な説明があります。
・・岬先端にある亀呼場から弘法大師が亀の背に乗って、灯台の前の海中にある不動岩に渡ったといわれています。この亀石は、その亀呼場の方向に向かっています。
この亀石、本途、亀そっくりです。人の手は加わっていないのでしょうか。


大師亀
ところで「七不思議」ですが、実はこれまでにご紹介した(亀呼場を含めた)四不思議の他にも、大師の爪書き石、大師一夜建立ならずの華表、ゆるぎ石、根笹、地獄の穴という、五つの不思議があるのだそうです。
えっ!それでは4+5で九不思議ではないか、などとは言わないでください。ここでは4+5は7。これも不思議のうちなのです。
なお写真は、仁王門から本堂へ向かう途中にある「大師亀」の石像です。平成27年秋に撮った写真です。


白山神社 
金剛福寺に隣接して、白山神社がありました。
白山神社は、白山洞門を故地とする神社です。金剛福寺の守護として、加賀から白山比咩神社(しらやまひめ神社)を勧請。かつては白山洞門上に「白山権現」と称して祀られていましたが、明治期の神仏分離で解体。大正5年(1916)には、白山神社として、現在地に遷されました。洞門上には、(後述しますが)今は「白山本宮」として、小祠が祀られています。祭神は、神仏分離後は、伊邪那岐命、伊邪那美命となっているそうです。


白皇神社
白山神社の鳥居を潜って進むと、拝殿が在りました。
「白皇山」の山号額が掛かっています。どうやらこの神社には、もう一社「白皇神社」が合祭されているようです。
調べてみると白皇神社の故地は、現在地より5キロ北方に在る、標高433㍍の山(白皇山)で、大正5年(1916)、白山神社が白山洞門から遷されるのに合わせて白皇山から遷され、此所に合祀されたとのことでした。


白皇山の山額 
白皇神社の始まりは、白皇山真言修験寺だと言います。
金剛福寺と時を同じうして開かれた真言修験寺でしたが、明治の神仏分離で解体され、白皇神社が、その神道部分のみを継承したのだといいます。その神社が、大正5年(1916)、下に降ろされ、白山神社と合祭されているわけです。


白皇山の神体石
後のことになりますが、平成27年(2015)秋、私は白皇山に登っています。白皇神社(真言修験寺)の跡を訪ね、山頂にあると聞く小祠に詣ろうとしたのです。
ただし、残念ながらそれは果たせませんでした。「頂上付近の神域への立ち入りを固く禁止します。石鎚神社 石鎚本教足摺岬教会」という「警告」に阻まれたからです。(もしかすると山頂の小祠は、石鎚神社なのでしょうか?)。とまれ、その様子は →(H27秋4)に記しています。よろしければご覧ください。


急階段
白山神社の前で通りを渡り、急な階段道を降りて、白山洞門に向かいます。つまり海岸段丘の上から、下へと降りるのです。
この写真は、階段道を降りてから、上方向を撮ったものです。


礫浜
洞門に続く浜が見えてきました。ただし砂浜ではありません。礫が敷き詰められた、礫浜です。


洞門の崖
洞門の脚に当たる、崖の部分です。この崖上に白山本宮はあります。


白山神社
白山本宮への登り口です。ただし、・・遙拝はこの場にて行うように・・との、宮司さんからの注意書きがあります。
・・お願い。 白山洞門上には白山本宮が鎮座しております。参道上部には鎖や手すり等がなく足元が非常に危険ですので、ご参拝の方はこの場所より遙拝願います。  白山神社宮司


参道
その危険な参道です。たしかに鎖も手すりもありません。


白山洞門
足摺岬にはいくつものの海蝕洞(洞門)がありますが、白山洞門は、なかでも最大のものだといいます。


白山洞門全景
平成16年(2004)春に撮った写真です。このブリッジ上に、白山本宮は在ります。


夕焼け
日が暮れてきました。
白山本宮から県道27号に戻り歩いていると、なんと、向こうから千葉さん(前号参照)がやって来ました。昨晩、同宿だった方です。
彼女は、この先のあちこちを見学してから、引き返してきたのです。
・・きっとお二人に会えると思っていましたよ。・・と言います。私たちとの再会を楽しみにしていてくれたようです。
・・お二人が訪ねそうな岬にも、立ち寄ってきました。途中、出会った人たちとも「いっぱい」話をしてきました。こういう歩き方、いいですね!
彼女は「私たちの遍路スタイル」に賛同。早速実行してくれたのです。とてもうれしく思いました。


万次郎足湯
県道27号沿いに「万次郎足湯」がありました。 平成21年(2009)、つい半年ほど前にオープンしたばかりでした。
すこし急いでいたので入りませんでしたが、ここは白山洞門を眺めるには、「一番」の場所だそうです。足を休めながら、絶景を楽しんでみるのもいいとおもいます。利用料金は無料。タオルは、必要なら100円で販売しています、とのことです。


足摺岬小学校
令和5年度(2023年度)、足摺岬全体で開校している小学校は、下ノ加江小学校(生徒数10名未満)、足摺岬小学校(20名ほど)、清水小学校(200名ほど)の、3校しかないようです。どうやら清水小学校に統合する方針と思われます。
残念ながら以布利、大岐地区に在った幡陽小学校、前号で記した窪津小学校、この後訪ねる予定の松尾小学校、中浜小学校は、すでに休校となっています。「休校」とはいえ、再開の見通しは、おそらくたっていないでしょう。


夕日
今夜の宿は、俳句の季語を名にとった「民宿青岬」。「青岬」は、・・夏の爽やかな海風に包まれた岬・・を表す、夏の季語です。
むろん女将さんは、俳人です。いくつか聞かせてもらった句の中で、とりわけ私たちが好きだったのは、
  さあー どうする 抜けんばかりの 秋の空  
でした。無条件で元気になってしまう、そんな句です。
なお私の知るかぎりでは、季語を名にとった宿には、四万十川河畔の「月白」さんがあります。「月白」(つきしろ)は、・・月の出ようとするとき、空の白んで見える様・・をいう、秋の季語です。こちらの女将さんも、句をつくっておられます。また宿の名は季語ではありませんが、室戸荘の女将さんも俳人です。庭先に投句箱があることに、お気づきの方もいらっしゃるでしょう。


夕食
俳句談義などしながら、楽しく過ごさせていただきました。
調理は女将さんとのこと。売り出し中の(関サバにも引けをとらぬ)「清水サバ」、烏賊の丸煮を美味しくいただきました。

  平成22年 11月12日 四日目

朝焼け
屋上に出て、朝の景色を撮ってみました。雲があり、日の出そのものは見られませんでしたが、きれいな朝焼けを見ることが出来ました。


海側の景色
海側の景色です。昨晩、この岬に日が落ちてゆきました。


山側の景色
ふり返ると、目の前に海が見えているとは思えない、重畳たる山の景色です。


松尾天満宮
松尾天満宮にやって来ました。この神社に設けられている、「廻り舞台」を見学させてもらうためです。前回、見学させてもらったカツオ節工場のおばさんたちに、・・こんなもん(カツオ節なんか)どうでもええけど、アコウの木と天満宮の廻り舞台は、ちゃんと見ときよ、・・と言われながら、「廻り舞台」は見ることが出来なかったです。そのことを青岬の女将さんに話したら、区長さんに連絡を取ってくださり、見せてもらえることになったのでした。


天満宮鳥居
ずいぶん背の高い鳥居です。
社殿が建つ地面と鳥居が立つ地面の間に、段差があるのです。おそらく、その分だけ鳥居を高くして、バランスをとっているのでしょう。


拝殿
土佐清水市のHPは、ここに廻り舞台が生まれた背景を、次の様に記しています。
・・近世演劇の歌舞伎は、江戸時代中期頃全国津々浦々に広がり全盛を迎えましたが、土佐藩では遊芸に関する禁令が出され一般に芝居は法度でした。
・・しかし漁村などでは、藩政中期頃から漁祭りなどの名目で地芝居が行われていたと言われ、松尾浦地区も臼碆沖の漁場に近く紀州印南との往来もあり鰹漁で栄えた事や、この天満宮の位置・境内の広さなどからも当時から地芝居が行われていたことは容易に推察できます。
・・明治以降は急速に各地区でも舞台がつくられるようになり、この天満宮拝殿の廻り舞台もこのような松尾地区の経済的地盤により明治30年(1897)頃建築されたものです。


拝殿
松尾天満宮の神楽殿は、拝殿と一体化しています。拝殿の四囲が板戸で閉ざされているのは、そのためです。舞台を保護しているのでしょう。
手前の「広場」は「観客席」です。神社一般では、ここには参道が通り、灯籠が立ち、木が植わっています。なにもないのは、邪魔になるからです。弁当持ってやって来た、ジイチャン、バアチャン、カアチャン、今日ばかりは漁を休んだトオチャン、子どもたちが、ここにムシロを敷いて座り込むのです。


廻り舞台
廻り舞台です。直径5メートルと言います。中央に心棒の頭が見えています。
現在の舞台は、明治30年(1897)に建てたものだといいますが、むろん舞台は、(前述の通り)江戸時代からありました。


奈落
奈落では、心棒に射し込んだ腕木を、人力で回します。大人なら7人、子どもでは14-5人は必要とのことです。


神輿
この建物(舞殿)には、二基の神輿が納められています。
一基はむろん、当天満宮の神輿です。大きな神輿で、男御輿とされています。もう一基は、やや小ぶりで、女御輿です。この神輿は明神宮(後述)の神輿で、以前は明神宮に安置されていましたが、管理上、天満宮に移された、とのことでした。


あこう
松尾は、「アコウ」の自生地としても知られているとのこと。カツオ節工場のおばさんの言に従い、もう一度、きちんと見に来ました。カツオ節工場にも、ちょっとご挨拶をと思い寄ってみましたが、残念、閉まっていました。→(H16春1


松尾集落
土地の人が言いました。・・いい場所は寺に取られてな。
だから俺たちゃ、こんな急斜面に住んでいる、というわけです。「寺」は、もちろん金剛福寺をさしています。辛辣ですが、事実ではあります。松尾集落は、海岸から段丘上へ上がる、急な斜面に形成されています。


集落の中の遍路道
生活の場を、歩かせていただきます。


区長場
地区の集会所「松尾会館」がありました。ここは、「松尾区長場」にもなっています。区長さんの仕事場です。


お接待
区長場は、津呂区長場. 足摺岬区長場. 大浜区長場. 松尾区長場.といったふうに、地区毎にあります。
うれしいことは、いずれの区長場にも「お遍路さん 道案内 お手洗い」のシールが、貼ってあります。もちろん松尾区長場にも、貼ってありました。この後通過する大浜区長場にも、貼ってありました。(後述)


吉福家住宅 
吉福家は、回船業で財をなし、さらに漁業、鰹節製造、金融業と事業を拡大したといいます。この住宅の用材は、すべて自家山からとった選りすぐりの良材。建築は、明治34年(1901)だそうです。
ただ、残念ですが、建物の中には、入ることが出来ませんでした。



かつて松尾は、カツオ漁で栄えた所でした。「松尾」の名は「待つ魚」(まつお)から来ている、との説もあるくらいです。「魚」はむろん、カツオでしょう。
黒潮が最初に日本列島にぶつかるのが、この海域だと言われています。前回泊まった宿のご主人は、・・昔は、よくナブラが沸いたものです。・・と話してくれました。大型の魚(この場合はカツオ)が小魚を追い、上へ上へと追い詰められた小魚で海面が沸き立つ、これがナブラです。まず海鳥が、めざとくこれを見つけて飛来。小魚を狙います。その海鳥が舞うのを見て猟師たぢが船を出し、漁師達はカツオを狙うのだそうです。・・カツオは「食い気」満々じゃから、何かを構わず食いつくけん、入れ食いよ。・・とのことでした。


地図
黒潮がぶつかる最高の漁場、これを「臼碆(うすばえ)沖」と呼んでいるようです。「碆」は、ここでは岩礁と考えていいと思います。大雑把にいえば、碆より大きいのが「鼻」で、鼻より大きいのが「岬」。もっと大きくなれば「半島」でしょうか。ここには、碆も鼻も岬もそろっています。
「臼碆」の名の由来は、土佐清水市のHPによると、次の様です。
・・花崗岩の大絶壁の真下にぽっかり浮かんでいる海上2m、巾3mの岩が臼の形に似ており、そこを中心として黒潮が渦巻く形が臼に似ている事からウスバエと名付けられた。
ちょっと分かりにくいところもありますが、おそらく「ぽっかり浮かんでいる海上2m、巾3mの岩」が、地図左端の「沖臼」なのでしょう。この「碆」に黒潮がぶつかって渦巻き、それが臼に見えたので「臼碆」と呼ぶようになり、やがて、この辺一帯の岩礁地帯をも「臼碆」と呼ぶようになった、ということでしょうか。


女城神社への道
岬や鼻の先に祀られた神社を、女城神社、明神宮、龍宮神社と、順に訪ねてゆきます。
まずは女城神社です。道案内はしっかりとしており、迷う心配はありません。


女城神社
女城神社の祭神は、「生平さま」だと言います。海から来た、安産の神様です。
源平合戦の後の頃、この地に平家所縁の女性が流れ着いたと言います。雌鹿の背に乗ってとも、「うつぼ舟」に乗ってとも伝わります。女性は、漂着した後、女児を残して身罷りますが、女児は、長じて助産師として働くようになったといいます。
助産師となった彼女は、妊婦を一人残らず安産に導き、生まれた子は、誰もが健やかに育ったのだそうです。
村人たちは、そのことを有り難いことと思い、助産師とその母を、安産の神・生平さまとして祀ったのだそうです。「生平さま」の名は、漂着した女性の着衣が、麻を原料とした手編みの衣「生平」(きびら)であったことに由来するとのことです。


恵比寿神社
この小祠は、女城神社の境内社・恵比寿神社です。恵比寿様は商売繁盛、五穀豊穣の神様ですが、元々は豊漁をもたらしてくださる、海の神様です。
この恵比寿様にかんしては、「傷ついた鷲」にまつわる譚が伝わっています。
・・ある土地の漁師が、傷ついた鷲を見つけたので手当てをしてやった。しかし、死んでしまったので、満足な供養もせず放っておいた。


恵比寿神社
・・するとその漁師の家に、次々と不幸が訪れるようになった。漁師は、これは鷲の供養を怠ったからだと知り、恵比寿様を祀って鷲を供養した。
というような譚です。
この「鷲」は、空の彼方からやって来た神だったのでしょう。「海の他界」からやって来た神の社に、「空の他界」から来た神の譚が伝わっているというのも、興味深いものがあります。


岩礁
ウバメガシの枝に隠れて見えにくいですが、神社の下方に、岩礁がテーブル状に広がっています。かなり広い平面です。
北さんと、想像を逞しくして、話しました。
・・これは、さながら海に向けたステージだな。
・・「女城」の女たちが笛を吹き、太鼓を叩いて踊る。
・・海の神様をなぐさめ、客人神を招いたのではないか。
・・客人神は、鯨や鰹を連れてくる。それを男たちが獲るんだ。


岩礁
後で知ったことですが、旧暦3月15日の女城神社の祭礼日には、ここで「磯あそび」がされるのだそうです。
「磯あそび」は、「山あそび」とならんで、「他界」から神霊を迎えるために賑々しく行われる催しです。
HP「神社探訪・狛犬見聞録」は、次の様な記事を載せています。
・・この日(3月15日)は、『民俗』で言われる『磯遊び』の日でもあり、大人は酒肴を子供は弁当を携え、お参りの後は磯に降りてにぎやかな1日であったが、最近は少子化の影響で淋しくなっているものの続いてはいる。
なにも知らずに北さんと交わした会話でしたが、まったくの見当違いでもなかったようです。(後述)


監視哨跡
女城神社のすこし先に、旧日本軍の監視哨跡が残っていました。米軍の土佐湾上陸を警戒してのものだったのでしょう。
・・当時のまま現存するこの種の監視哨は全国的にも珍しく、貴重な戦争遺跡であると言われている。(説明板)・・とのことです。なお「女城」の読みですが、国土地理院地図では「メジ」となっていますが、現地の説明看板などでは、「メジロ」と振っています。また土地の人も、「メジロ」と呼んでいました。



女城鼻の女城神社の次は、明神岬の明神宮です。


松尾小学校
松尾小学校がありました。しかし、(前述しましたが)この学校は、この写真を撮った時点で、すでに休校となっています。
ただ、ちょっと不思議に思ったのは、校庭に雑草が生えていないのです。除草剤なのでしょうか?それとも何かで頻繁に使われている?


  
松尾小学校の所から南へ、明神宮へと向かいます。
だだし、この辺の道については、実はメモと記憶を喪失しており、よくはわかっていません。


古代の湊跡
海近くまで、一度降りてきたようです。
聞けば、ここは古代の湊跡なのだそうです。しかし、それがいつの時代のものかなどは、(私は)わかっていません。


明神岬
明神岬です。この上に明神宮はあります。
ここは(前述の)松尾天満宮に収められている女神輿の実家なのですが、ということは、かつてはこんな急坂を、神輿が上り下りしていたということなのです。そうするだけの担ぎ手がいた、ということでしょう。その担ぎ手が今はいなくなった、それが松尾天満宮に置かれている理由かもしれません。


明神宮
小さな小祠を予想していましたが、違っていました。
明神宮は、松尾大社を勧請したものだそうです。「松尾」の地名は「待つ魚」から来る、と前述しましたが、「松尾大社」から戴いた「松尾」、の方が正解かもしれません。
祭神は、大山咋神と市杵島姫命だそうです。



白みがかっているのは、花崗岩の崖だからです。


洞門
注意してみていると、海食洞門がありました。


明神岬
明神岬を別角度から見たものです。


龍宮神社へ
さて次は龍宮神社です。
遍路道は臼碆の岬をショートカットしますが、私たちは海沿いを走る、県道27号を進み、龍宮神社へと向かいます。


景色
絶景です。


景色
絶景の連続です。足摺岬の魅力は西海岸にある、そんな気がします。


地図 
この辺の案内図がありました。
私たちが訪ねた女城神社と明神宮は、鵜ノ岬と松尾の間にあるのですが、残念、記されておりません。


道標 
道標の一番上は、 足摺岬 8.3キロ  清水漁港 14.5キロ
   二番目には、龍宮神社 400メートル
   一番下は、 黒潮接近地
とあります。


龍宮神社へ
鳥居が建ち、扁額に龍宮神社とあります。
これからの参道は、しばらくは、ウバメガシの原生林を抜ける道です。


龍宮神社
樹林を抜けると、景色が一変しました。写真に収まりきらぬ、大きな景色です。
大いなる存在に拝跪したくなる、そんな感覚にとらわれます。
頂上部に小さく見える赤い鳥居まで登りますが、風が強い日には、止めた方がいいかもしれません。


龍宮神社
赤い鳥居、龍宮神社の鳥居です。
祭神は、海神豊玉彦命(わたつみ・とよたま彦命)と豊玉姫命。父ー娘の二柱です。浦島太郎物語の海神と乙姫さま、と言えばお馴染みでしょうか。
豊玉姫命は、山幸彦として知られる彦火々出見命(ひこほほでみ命)の妻となり、鸕鶿草葺不合命(うがやふきあえず命)を産みます。初代神武天皇の父神です。つまり豊玉姫命は、神武天皇の祖母に当たります。


龍宮神社
この神社を「龍王神社」と呼ぶ、土地の人がいました。
・・「龍宮神社」ではないのですか?・・と尋ねると、
・・私らは「龍王神社」と呼んでいる。・・との応えです。
海中他界「龍宮」を主催するのは、乙姫様とも龍王様とも言われますが、この方にとって「龍宮」は、「龍王宮」すなわち大漁を呼び寄せる龍王が主催する宮なのでしょう。


龍王? 
龍宮神社には、龍王に大漁を祈願する、「漁招き」という催事があるそうです。それを高知新聞が記事にしていますので、以下、引用させていただきます。
・・土佐清水市松尾の竜宮神社で10日(令和6年2月10日)、大漁祈願の「漁招き」が行われた。女性が着物の裾をめくって大事な所を見せ、神様にお願いするというどきっとする習わし。長年受け継ぐ同市以布利地区の女性たちはスカートの裾をめくり、沖に向かって「大漁ーっ!」と声を張り上げた。


 
今はスカートですが、昔は着物でした。着物の裾を(ここが肝心なのだそうですが)、ちょっとだけ捲り上げてみせたのだそうです。つまり、もっと見たけりゃ、魚をいっぱい連れてきなさいと、龍王さんを挑発したわけです。
もちろん漁が大漁となったときには、約束は守らなければなりませんから、もっと大胆に捲り上げて見せたとのことですが、・・。しかし、それは昔の話です。


臼碆崎灯台
初点は昭和36年(1961)3月31日だそうです。


黒潮接近 
黒潮が最接近し岩礁を洗う処は、カツオ・ブリ・サバ・ヒラマサ・トビウオ・グレ・クエ等々、魚の宝庫だといいます。
と聞けば、釣り人もじっとしてはいられないのでしょう。けっこう命懸けと見えますが、怖くはないのでしょうか。


民宿夕日 
前回、宿をお願いした民宿です。懐かしく、ちょっと立ち寄ってみましたが、お留守でした。
この宿の裏手を、旧遍路道が通っています。


昼食
民宿・青岬でいただいた、お接待のオニギリです。民宿・夕日のすこし先、海が見える所で、美味しく戴きました。


大浜区長場
大浜に入りました。
歩いていると、土佐清水市の防災放送が流れ始めました。松尾地区で山火事が発生した、と報じています。消防車のサイレンも聞こえてきました。お世話になった区長さんや青岬の女将さんのことが案じられましたが、きっと、落ちついて対処されているに違いありません。


区長場のお接待
区長場には、やはり「お遍路さん お手洗い 道案内」の掲示がありました。


万次郎絵
大浜の次は中浜。中浜は、ジョン万次郎の生地です。右の大首絵?は、おそらくジョン万次郎さんでしょう。
万次郎の誕生は、文政10年(1827)。貧しい漁師の三男に産まれたと言います。宇佐から仲間と共に漁に出て遭難するのは、天保12年(1841)、14才の時。薩摩藩領であった琉球に上陸するのが、嘉永4年(1851)、24才の時でした。ようやく土佐の地を踏むことが出来たのは、その翌年だったと言います。厳しい尋問が繰り返されたのです。


防空壕
今では貴重な戦争遺跡です。
私には空襲の記憶があります。断片的な記憶ですが、真っ赤な炎の色は、鮮烈な記憶として残っています。いま思うに、あの状況下では、防空壕は無意味でした。


皇大神宮
皇大神宮は、伊勢神宮の内宮です。天照大神を祀っています。
画面左に見える橋は、中ノ浜大橋。県道27号の橋です。この後、あそこまで登ります。


案内
万次郎の生家を探していたら、案内してくださいました。


万次郎生家
復元なったばかりのようでした。


県道27号へ 
川を遡り、県道27号へ上がってゆきます。
この時、防災放送が流れ、山火事の鎮火が知らされました。早期の的確な対処が、為されたようです。



27号へ上がる道です。


県道27号
右から登ってきて、車道を横断して、左に下ってゆきます。清水市街地に至る、岬越えの山道入るのです。
ここは、道を間違えそうな所です。実は、前回、間違えたのです。県道27号を進んでしまい、延々と海沿いの道を歩いたのでした。それかあらぬか、オーイ!と、遠くで女性が手を振っています。道を教えてくれているのです。ありがとう!今回は大丈夫です。


岬越えの道
岬越えではありますが、海はほとんど見えません。しかし快適な山道です。


唐船島
清水へ降りてきました。
写真は唐船島です。昭和21年(1946)の昭和南海地震による地盤隆起で、この島は、約80センチ隆起したといいます。島裾に残る地震前についた貝類の付着跡と、地震後の汀線の差から算出された数値です。地質学上貴重であることから、国の天然記念物に指定されています。


新旧の汀線
さて、地質学上の興味も然りながら、この島の名は、何に由来した名なのでしょうか。これについて説明石板は、次のように記しています。
・・室町時代、応仁2年(1468)、前の関白・一條教房卿の土佐下向以来、土佐清水港は当時中国に派遣された、遣明船の前進基地となった。清水の豪族・加久見宗孝は土佐守に任命されてこれを統治したことが、大乗院寺社雑事記の記録に見られる。唐船島の近辺には、その名残として御古倉、カジ山、大イカリ谷、小イカリ谷等の地名が残っている。
なお「協力会地図」の42-2 清水高校の側には、「加久見」(かぐみ)の地名も見られます。


万次郎像 
陸と海の境を「地の果て」と見る人には思いもよらないでしょうが、そこは彼方の陸に続く、海の道が始まる所なのです。室戸の青年大師像、中岡慎太郎像、桂浜の坂本竜馬像、足摺岬の中浜万次郎像、そして当地の中浜万次郎像も、みんなが海を向いているのは、海の先の陸を見ているからでしょう。
とまれ、江戸時代初期、「鎖国」が始まるまで、清水湊は、唐船(外国の船)がしばしば来航する湊でした。ここは、海に向けて開かれた地であったのです。


清水サバ
名の知れた関サバに対抗して、愛媛の八幡浜辺りでは「媛サバ」が売り出されています。
そしてここ清水でも、「清水サバ」が売り出し中です。私たちは昨晩、民宿青岬で戴きましたが、関サバ、媛サバに劣らず、美味でした。


飛行機雲
さて、残念ながら時間が押してきました。只今、時刻は16:05です。
しかし私たちが予約し宿は、竜串の民宿とさやさんです。まだこれから、12キロほどは歩かねばなりません。
ゆっくりしすぎたというより、距離計算を間違えたというべきでしょう。


竜串橋
やむおえず、清水でタクシーを頼みました。まあ、なんと速いこと。あっという間に竜串(たつくし)に着きました。
竜串にわざわざふりがなを振ったのは、江戸っ子北さんが、これを「タックシ」と発音するからです。
さて、タックシ橋でタクシーを降り、宿に向かいました。 なお、タクシーに乗った区間は、→(H16春1で歩いているので、よろしければご覧ください。


今日の宿
今日の宿は「民宿とさや」さん。
同宿はなく、ご主人が話し相手になってくれました。がっしりした体格なので、趣味を尋ねてみると、五種競技の選手なのだとのこと。五種とは、フェンシング、水泳、馬術、レーザーラン(射撃とランニング)です。一番の得意は(やはり?)水泳だとか。私たちの岬-鼻-碆巡りの話も聞いてもらって、楽しい時を過ごすことが出来ました。

終わりまでご覧くださいまして、ありがとうございました。
この12月に、5年ぶりの四国遍路を考えていたのですが、来春へ延期となりました。思うように宿の予約が出来なかったからです。コロナ禍をまたいで、宿事情には大きな変化が生じているように感じました。
遍路が延期になっただけでなく、更新まで二回続けて延期とは、なんともだらしないことですが、懲りず、次号の予告をさせていただきます。
次号更新予定は、(4週後は1月1日になるので)一週延ばして、令和7年1月8日といたしました。すこし気が早いですが、来年もよろしくお願いいたします。

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真念庵から 大岐 久百々 以布利 窪津 津呂 38番金剛福寺

2024-11-06 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。
  
 平成22年(2010)11月10日 二日目のつづき

伊豆田坂の石仏
前号では、復元なったばかりの伊豆田坂を越え、真念庵にお参りしたところまでをご覧いただきました。もっとも「前号」とは言え、その更新は平成30年(2018)で、あれからもう6年も経っているのですが。
とまれ前に進めることにします。6年ぶりの今号は、真念庵から38番金剛福寺へ向かうところから始まります。金剛福寺からは、二度目の月山詣りを経て、39番延光寺へと進み、その先の行程は、まだ2日ほど日程が余ると思うのですが、宿毛の宿で決めます。


真念庵境内
まだ一巡目さえ終わっていないのに、なぜ月山詣りは二度目なのか、その理由は三つです。
まず一つは、・・大月へんろ道を歩きたい・・でした。私たちは一度目の月山詣りで、その翌年には開通する、大月へんろ道の一部を歩いているのです。へんろ道の復元にボランティアとして参加している方に、案内していただいてのことでした。 →(H16春1)  あの道は今、どうなっているのだろうか、ぜひとも歩いてみたい、そんな思いが、伊豆田坂復元の報とも相俟って、募ってきたのでした。


真念庵
なお・・初遍路ハさゝやま(篠山)へかける・・との言い伝えに背き、初遍路にもかかわらず私たちが月山詣りを選んだことには、然したる理由はありません。単純に、「月山」という名の美しさに引かれたからだったと思います。この頃は、四国遍路は一巡して終わると考えていましたので、(もう来ることがないのだから)できるだけ行きたい処には行っておこうと、コース選びについては、かなり自由だったのです。


真念庵参道
二つ目の理由は、・・できれば西田○○さんにお目にかかりたい・・でした。大月へんろ道を歩いて赤泊に出ると、旧善根宿・西田家があります。西田○○さんは、その西田家の当代です。
西田家には遍路札が詰まった米俵が伝わっています。米俵には、宿泊した遍路が残した遍路札(1万2000枚と言われる)が詰まっているのです。それだけ西田家が善根を積んできたということですが、・・なんとかこれを見せてはもらえないだろうか・・と、虫のいいことを考えていたのです。(後述しますが、この願い、なんと叶うのです)。


真念庵登り口 
そして三つ目は、足摺岬西海岸には、(お大師さんではありませんが)前回「見残し」てしまったところが、いっぱいあります。・・例えば岬の先端に祀られた小祠などは、全部とは言わないまでも、やっぱりもう少し見ておきたい、・・と思ったのでした。


真念庵納経所
さて、前置きが長くなりました。
只今、時刻は13:00です。今夜の宿に「久百々」を予約し、歩きはじめました。
「久百々」は、これも前回、泊まりたくて泊まれなかった宿です。宿までの距離は、約17キロ。私たちの脚では、ゆっくりとはできません。
    

いつた橋
県道346号を行くと、いつた橋が見えてきました。伊豆田トンネルを抜けてきた国道321号が、市野瀬川を渡るための橋です。もちろん私たちは伊豆田坂を越えてきたので、この橋は渡っていません。
なお国道321号には、その数字(サン・ニー・イチ)から、「足摺サニーロード」の愛称が与えられています。陽光燦燦たる観光の道ということです。


伊豆田神社
「いつた」と「伊豆田(いずた)」について、書いておきます。
かつて、明治22年(1889)から昭和25年(1950)まで、この辺りに「伊豆田村(いずた・そん)」という行政区があったそうです。伊豆田神社に因んでつけられた村名で、下ノ加江、布、久百々、立岩、鍵掛が、この村に含まれていました。
「いつた」という読みが残っているのは、かつて伊豆田神社が、伊津(都)多大明神(いつた大明神)と呼ばれていたからです。伊豆田神社(いずた神社)と改称されたのは、明治以降だとのことです。→(H22秋 2)
なお伊豆田村は、昭和25年(1950)、下ノ加江町となり、昭和29年(1954)には、 清水町・三崎町・下川口町と合併して土佐清水市となっています。足摺岬の東西両海岸にまたがる、行政単位が誕生したわけです。


ドライブイン水車
伊豆田トンネルを抜け、いつた橋を渡ると、このドライブインにぶつかります。
右方向(県道346号)へ行くと真念庵です。さらには三原村を経由して39番延光寺に至ります。
左方向(国道321号)に進むと、38番金剛福寺です。この道は、市野瀬川沿いの道から、やがて(市野瀬川の本流である)下ノ加江川沿いの道へと変わり、さらには太平洋を望む、海沿いの道へと変化してゆきます。


下ノ加江川
四万十川を「日本最後の清流」と呼んだのは、昭和61年(1986)に放送されたNHK特集 「土佐・四万十川 ―清流と魚と人と―」でした。ある意味で、罪作りな番組でした。以来、日本の多くの人の頭に、清流と呼ばれる川は、もう日本には四万十川以外にはない、そんなバイアスがかかってしまいました。
下ノ加江川は、そんなバイアスを取り払ってくれる川です。四万十川以外にも清流はある、そう思わせてくれる川の一本が、下ノ加江川です。


下ノ加江川
南流する市野瀬川が市野瀬川を糾合。ほどなく市野瀬川は、三原村から蛇行を繰り返しつつ降りてきた、下ノ加江川に合流します。その地点を五味(大きな川に小さな川が流れ込む合流部を指す地名)と言い、そこには五味天満宮があります。→(H24秋2)


神母神社
神母神社は、五味天満宮から約1キロほど下流の、下ノ加江川左岸にある神社です。
この神社は、どう読むのでしょうか。またいかなる神を祀っているのでしょうか。
ある情報では、「こうも神社」と読み、天照大神と豊受大神(とようけ大神)を祀っているといいます。
また別の情報では、読みは「しんぼ神社」で、祭神は天照大神であるとのことです。
さらには、「神母」は高知では「いげ」と読んで、稲の神様や田んぼの水の神様を指すのだともいいます。とすると、この神社は「いげ神社」ということになります。 →(H27春9) →(H27秋1)


石ぐろ漁
下ノ加江川で男性が一人、石を積み上げていました。「石ぐろ漁」のための「石ぐろ」をつくっているのです。
「ぐろ」は、何かを積み上げたり固めたりしたものいう言葉らしく、よって「石ぐろ」は、石を積み上げてできた、石の小山を言うとのことです。そう言えば吉良の辺で見た「石ぐろ塀」は、山状ではありませんが、石を積み重ねて出来た塀でした。


吉良の石ぐろ塀
「石ぐろ漁」はウナギ漁の一種で、干潮時に石を積んで、満潮を経た後、周りを網で囲んで、石を除いてゆくのだそうです。すると、そこには石の間に潜り込んでいたウナギがいる、という寸法です。まず石ぐろに小エビなどが入り込み、それを食べようとしてウナギが潜り込み、それを人間が捕まえるのだそうです。またウナギは狭いところが好きなので、小エビなどいなくても、よく潜り込んでいると言います。


河川敷
河川敷のへんろ道を、丁石を見つけたりしながら、下ノ加江大橋にむかいます。
途中、おばあさんと出会いました。話すうち、今夜お世話になる「久百々」の女将さんは、この方の姪にあたるとわかりました。うれしい出会いです。
北さんが・・失礼ながら・・と言いながら、お歳を尋ねると、・・まだ80・・という応え。近所に90代の人が何人もいるので、「まだ」なのだと言うのです。
北さんが・・80はまだほんの小娘、ということですね・・と応じて大笑いになりました。


丁石?
これは丁石ではないかもしれません。何かの建設記念碑のようにも思われます。


丁石
これは丁石です。


避難所
これを見た瞬間からの北さんは、しばらく笑いがとまりませんでした。「お墓」に、ブラックなユーモアを感じたようでした。
しかししばらくして、・・なるほど、そうだよな。ご先祖様の処が一番安全なんだよ。・・と、得心がいったように話し始めました。
どうやら柳田国男さんの、『先祖の話』が頭にあるようでした。同書には、・・人は、死後、祖先神となり、この世に在る子孫たちの暮らしを見守ってくださる。・・とあります。とすると、そのためには集落の墓地は、集落を見下ろす高い所に設けられねばならないのです。必然、そこには津波が届かない、ということになります。


布岬
太平洋に出てきました。左に見えるのは、布崎です。先端のこんもりとした山は森山といい、高さは96㍍ほどです。


久百々へ
土佐清水市久百々(くもも)、とあります。「久百々」は宿の名前だと、私は思っていたのですが、地名から採った宿の名なのでした。
久百々という土地は、安土桃山時代には、「熊桃」(くまもも)と呼称していたと言います。久百々は、その転です。ただし、その「熊桃」が何から発しているのかは、残念ながらわかりません。
「足摺サニーロード」は、(前述しましたが)国道321号の愛称です。


足摺岬
足摺岬です。ようやく見えてきました。


宿
人気の宿です。昨夜は、「いつた坂」を整備した方たちの下山講が、ここで催されたとのことでした。


夕食
同宿は、女性歩き遍路の千葉さん、お一人でした。外資系の企業に勤務。やり繰りしての区切り歩きだといいます。
千葉さんは聞き上手で、たまに心地よいボールを投げ返してくれます。私はサラリーマンにありがちな「ソツのない応対」を好まないので、とても助かりました。女将さんも仕事の合間に加わって、楽しい時を過ごすことができました。

 平成22年(2010)11月11日 三日目

井の岬灯台
宿は真東に向いて建っているので、きっときれいな朝日が見られるだろう。
そう思って早起きしてみたけれど、どうもその気配が見られません。布崎の布埼灯台の灯が、ポツンと見えています。


今日の昼食
今日は38番金剛福寺を打ち、足摺岬西海岸を楽しみます。白山洞門、塩干満石、龍宮神社など、見所はたくさんです。
天気は、快晴ではないものの雨の心配はないとのこと。歩くのにはちょうどいいかもしれません。宿は、私たちには珍しく、早々民宿民宿青岬」に予約しました。高い所にあるらしく、車で迎えに来てくれるとのことでした。


出発
7:00 宿発。
すこし歩いて、宿の方をふり返って撮りました。茶色の帯がある建物が久百々さんです。


別荘
この建物は売り別荘とのことですが、あまり人の気配が感じられません。平成16年(2004)に歩いた時も、たしかこの建物はあったのですが。
とまれ、別荘に縁のない私たちは、歩く上での目印として、おおいに役立ってもらうことにしました。


大岐海岸の碑
私と北さんが初めてこの地を訪れたのは、平成5年(1993)のことでした。まだ在職中で、北さんの他にも二人、職場の同僚が同行していました。その時にこの碑の前で撮った写真がありますが、まあ、その写真の若いこと!令和の今日から見れば、まるで「若造」です。
なお、この時私たちは(贅沢にも)タクシーで足摺エリアに入りましたが、当時はまだ伊豆田トンネルは開通しておらず(開通は翌・平成6年)、私たちが抜けたのは、伊豆田隧道でした。伊豆田隧道は、その2年後の平成7年に、埋め戻されてしまいます。


大岐海岸
ゆるやかな曲線は、およそ1.6キロにわたります。かつてはこの倍もあったといいます。半分を開墾して部落民で分け、残りの半分を部落共有の財産として残し、管理しているのだとのことです。
大岐海岸には昭和30年代までは、野中兼山植樹と伝わる、樹齢300年の松原があったそうですが、残念、松食い虫にやられてしまったとのことです。


案内
おかみち2.0キロ、はまみち1.6キロと標示されています。
むろん私たちは浜道を行きます。


浜道
見れば(同宿だった)千葉さんが先行していました。


浜道
浜道に降りてきました。橋は、先ほど千葉さんが渡っていた橋です。


足跡
私たちは今日の、4人目の通行者です。千葉さんの足跡はどれでしょうか。


目印
たぶんこれは、サーファーのための目印でしょう。
子どもの頃私は海で泳いでいたので経験がありますが、気づかないうちに流されているのです。


流木
どこから流れてきたのでしょう。いまは格好のベンチ代わりとなって、働いています。


へんろ道
陸道へ返ってきました。 へんろ道というより、散策路の雰囲気です。


新道
新道の建設が急ピッチでした。足摺岬が観光地として一体化するためには、東海岸と西海岸を海沿いに回る道と、その途中で両海岸を短く連絡する道、さらには山岳部を縦断する道の整備が必要です。
写真の直進する道は、(私たちが歩いてきた)国道321号(サニーロード)です。この地点から岬のネック部分を横切って、西海岸の清水港に向かい、清水からは北進して宿毛に至ります。


概念図
「以布利」と記した所が、上掲写真の地点です。
私たちは東海岸を歩いて、岬先端の38番金剛福寺へ向かうので、国道321号(赤線)とはここで一度お別れし、県道27号(青線)へと進みます。「一度お別れ」というのは、38番を打った後、私たちは西海岸を歩いて清水に向かい、そこから再び、321号に乗るからです。国道321号を歩いて月山神社に詣り、宿毛へと向かいます。


墓地
たぶん以布利集落の墓地でしょう。この墓地も、(前述しましたが)集落を見下ろす、高所に在ります。
入口の鳥居の扁額文字は、「忠」です。


以布利漁港
以布利漁港では、定置網の補修をしていました。ブリ漁に備えているのではないでしょうか。ブリの漁期は、12月から翌年5月くらいまでです。
ところで以布利(いぶり)という地名ですが、高知県人・寺田寅彦(吉村公彦)さんによると、バタク語の「イフル」から来ている、とのことです。「突端」を意味すると言います。私はバタク語なる存在を知りませんが、Wikipediaによると、・・インドネシアの北スマトラ州の高地に住むバタック人によって話されている言語グループである。・・とのことです。


塗り直し
古くなった道しるべを、塗り直しつつ歩いている方たちがいます。塗り方の特徴から、お一人ではなく、何人かいらっしゃるように思えます。この方の塗り直しの特徴は、ニコニコ顔のお遍路さんです。きっと笑顔を浮かべながら、作業されているのでしょう。
因みに、宮崎建樹さんが道しるべを立て始めてのは、昭和62年(1987)だったと言います。古くなるはずです。立てた道しるべは2000本、貼ったシールは5000枚だったとか。おかげさまで、安全に歩くことが出来ています。



一見、子ども風の描き方ですが、線は、大人の引き方です。
こんな描き方が出来る大人って、楽しい人なんでしょうね。


海沿いの道
以布利漁港を過ぎて、堤防の上の道に入ります。 「あしずり遍路道」と標示されています。


海沿いの道
かつての遍路道は、・・山で行き止まれば海に降りて波打ち際を歩き、海際で行き詰まれば山に突破口を求める、・・そんな文字通り難行苦行の道であったそうです。そんな面影が、わずかですが、ここに残っているようです。


段丘上の道へ
海沿いの道から、海岸段丘の上にあがってゆきます。室戸岬では国道55号を含め、海岸段丘の下の海沿いを歩くことが多かったですが、足摺岬では、段丘上を歩くことの方が多いようです。


段丘上
きれいに整備されています。


路傍の仏さま
オヤッと思って、道端の石の向きを変えてみたら、なにやら手を合わせたくなるような、お姿が見えてきました。
転げ落ちにくいよう、据え直して差し上げました。


別荘
大岐で見た別荘です。ずいぶん歩きました。


カツオ節工場
窪津に入ってきました。
藩政時代の窪津は、クジラ漁の基地として栄えていたとのことです。『あしずり遍路道散策』というHPに、次の様な記事がありました。
・・窪津沖は、冬は熊野灘から鯨群が南下し、春には九州から鯨群が北上し、最適な捕鯨場にあるため、天保三年(1683年)藩営の捕鯨場と設定された。遍路道沿いには、浮津組、山見、遠見などの鯨に関係のある碑や場所があります。


カツオ節工場
今は、カツオ漁が盛んのようです。


とんび
トンビといえば、いつか北さんと♫飛べ飛べトンビ空高く・・と歌ったことがありました。たまたま一緒に歩いていた若い人が、トンビを指して、・・あの鳥なんて鳥ですか。よく見る鳥ですよね・・と言うので、歌ってあげたのでした。
その人と別れて、・・今どきの人は、トンビを知らないんだな。・・と交わしあったのは、私たち二人が年寄りである証なのでしょう。


ふたたび上へ
窪津から(岬廻りではなく)岬越えをします。



峠の上に小さな畑がありました。トタン板や網で囲んでいるのは、イノシシ対策とのことです。
中で作業している女性に、ハクビシンは?と尋ねると、あゝ、それもいる、とのこと。人間がオリの中よ、ハハハ!と笑っておられましたが、被害は深刻のようでした。


窪津小学校
リライト版である故に記すことですが、窪津小学校は、平成28年(2016)3月、 143年の歴史に幕を下ろし、休校となっています。
平成26年(2014)のHP記事に、
  窪津小学校は、白皇山のふもと土佐湾に面した窪津にある学校です。
  今年は全校児童5名(5、6年生)で毎日元気に頑張ってます。
とあったのですが、その2年後、5年生が卒業した後、休校となったのです。事実上の廃校でしょう。


小学校前バス停
懐かしい場所です。平成16年(2004)2月の遍路は、バスでここまで来て、ここから歩き始めたのでした。バス停の椅子をお借りして、遍路の姿に着替えたのでした。
この後、38番→月山神社を経て、松尾峠-宇和島まで歩いたのでしたが、今回の遍路は、その再現であるとも言えましょう。


コスモス
なお記録として一応記しておくと、北さんと私は、その3ヶ月前、平成15年(2003)11月にも、足摺岬を歩いています。その時は、35番清滝寺から始め、38番から打ち返し、三原村経由で宿毛まで歩いたのでした。この遍路も思い出深い遍路でした。→(H15秋3)



きれいな蝶がいる、と思いカメラを向けました。これがアサギマダラだとわかったのは、帰宅してからです。私には初めてのアサギマダラとの出会いでした。


鶏頭
やがて津呂に入ります。
以布利もさりながら、津呂(つろ)もまた、珍しい地名です。
ふたたび寺田寅彦さんからお借りすると、・・津呂は、アイヌ語の「ツル」=「突き出る」から来ている、とのことです。土佐には室戸と足摺りの2カ所に津呂がありますが、・・いずれも「突端」近くにある、・・と説明しています。


へんろ小屋
津呂の入口にある休憩所です。
私は→(H15秋4)に、次の様に書いています。
・・近くにお住まいの方の善意で維持されています。畳が三畳、飲み屋の小上がりのように、縦に敷かれています。横に並べるより、格段に使い勝手がいいでしょう。起きて半畳寝て一畳。遍路には一畳もあれば十分です。その他、いろり、流し、トイレなど、必要な一式があり、一夜の宿としては十分以上と思われました。「野宿、自炊 けっこうです」と記されています。


金毘羅宮
へんろ小屋から5分ほど歩いたでしょうか、県道27号に面して、金刀比羅(ことひら)神社がありました。扁額には「金毘羅(こんぴら)宮」と記されていますが、この社名は明治初年の神仏分離で排され、今は金刀比羅神社になっているはずです。ただしこの旧名は、今も「こんぴらさん」の愛称で、人口に膾炙しています。


馬供養塔
「馬の墓」は→(H21春4)でも紹介しましたが、あの墓は、特定の馬の墓でした。墓石に「 瓦毛馬」などと刻まれていたので、そうとわかりました。
しかし足摺岬で見た、この「馬供養塔」は、集落で死んだ馬(たぶん牛なども)を埋葬する、共同の「馬捨て場」に建てられたものではないでしょうか。


竈戸神社
津呂の町を抜けると、竈戸神社がありました。この神社もまた、県道27号が社前を横切っています。ただ、前述の金毘羅宮とは違い、参道の痕跡が、ここには少し残っていたように思います。
鳥居を潜り石段を登ると小祠があり、その背後に、いくつもの巨石が重なっています。神が鎮座する「磐座」です。


小祠
社名の読みは「かまど神社」のようです。このやや難しい社名を、今の若い人たちは、苦もなく読んでしまうのだそうです。「毀滅の刃」とかに出てくるからだそうです。
ただし、私たちが歩いた平成22年(2010)には、「毀滅の刃」はまだ登場していませんでした。


磐座
当神社の御神体です。此所は、かつては「奥まった処」でした。神は此所に鎮もられ、風の音と、風に運び上げられてくる波の音を聞きつつ、悠久の時を過ごされるかに思われていました。
しかし、そうもゆかなくなってしまいました。車の音が聞こえるようになり、人はほとんど歩かずして、易々と此所に入り込んできます。まあ、十夜ヶ橋のお大師さまの境遇を考えれば、まだましなのかもしれませんが。


伊勢神社
今度は伊勢神社です。
ある調査によると、伊勢信仰系の神社は、ダントツに多い八幡系に次いで、二番目に多いのだそうです。因みに三番目は天神系だそうです。
 信仰別の神社数
 (1)八幡     7817社
 (2)伊勢     4425社
 (3)天神     3953社
なお伊勢信仰系の神社には、伊勢神社の他、神明神社(社)、皇大神社、天祖神社なども含まれます。



足摺岬の地名由来について、五来重さんは次の様に記しています。
・・私は、岬の先端に立って常世を礼拝するときに、足踏みをしたり、五体投地することによって、自らの身を苦しめながら礼拝したのが「足摺」だと解釈しています。
つまり、補陀落浄土を拝みながらひたすら「足摺り」をした、それが「足摺岬」ではないか、というわけです。



寺田寅彦さんのお考えは、次の様です。
・・「アシズリ」はアイヌ語の「アツイ・ツリ」の転で、「アツイ」は海、「ツリ」は突出を意味する。
つまり「海に突き出ている所」、というわけです。


万次郎像
John Mung は、帰国後、中浜万次郎と名乗りましたが、さて、彼にはいずれの名が、シックリときていたのでしょうか。
思うに John Mung だったのではないでしょうか。この海を見つめる像が「望郷」の像(アメリカに帰りたい)に見えるのは、私だけでしょうか。望郷の念(日本に帰りたい)にかられて帰国したけれど、帰ってみて想われるのは、今度は、アメリカだった、そう思われてなりません。


多宝塔
万次郎像の道を挟んだ陸側に、38番金剛福寺の多宝塔が見えました。
宝形造りの屋根に相輪がきれいです。


38番金剛福寺
金剛福寺には、ちょっと苦い思い出があります。前回、四万十川辺りで大雨に降られ、ザックの中を濡らしてしまったのですが、その時、なぜか納経帳だけビニール袋に入れ忘れており、すっかり濡らしてしまったのです。
おそるおそる納経所でさし出すと、・・これは酷い。にじんでしまって、これでは書けませんね。・・と叱られ、突き返されてしまうということがありました。頼み込んで書いてはもらえたのでしたが、小さなトラウマとして残った出来事でした。


金剛福寺
境内は「只今工事中」でした。どうやら庭を造っているようでした。
・・補陀落山と海のイメージでしょうか?
地元のおじいさんに尋ねてみると、彼は顔をしかめて言いました。
・・なんだろね。成金趣味だよ。金が余ってるんだろ。
と、かなり手厳しい応えが返ってきました。


完成した庭
写真は、平成27年(2015)に撮影した同じ所です。完成していました。この他にも、何カ所かで庭園が出来上がっていました。
さて、この庭園は、おじいさんの批判に耐える出来映えとなったでしょうか。・・金はかかったけど、いいもんが出来た。・・と、おじいさんは言ってくれるでしょうか。皆さまの判定は如何に。

一週遅れの更新でしたが、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号更新予定ですが、とりあえず11月27日としておきます。というのは、実はこの辺りで、6年ぶりの区切り歩きを考えているからです。このまま行かずにいたら、本当に終わりになって仕舞いかねないので、少々無理をしてでも歩いてみようと考えているのです。皆さま、どうかこの更新予定が守れないことを願ってくださいませんか。

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47番八坂寺 文殊院 札始大師堂 日尾八幡 48番西林寺 49番浄土寺 50番繁多寺 51番石手寺

2024-10-02 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年(2010)7月16日 第六日目のつづき

浄瑠璃寺の蓮池
時刻は11:00過ぎ、46番浄瑠璃寺から、47番八坂寺へ向かいます。


八坂寺へ
八坂寺までの道は、嬉しくなるような、いい道でした。
こんないい道を、前回(平成16年/2004)、私(と北さん)は、歩きはぐっているのです。うかつにも宿に昼の弁当を頼み忘れたからです。食べるものがなく、空腹をかかえて、食堂や店を探しまわっていたのです。もったいないことをしました。


生目(いきめ)神社 
久谷地区町づくり協議会の久谷マップに、生目神社の興りについて、次の様な記載があります。・・平景清が源氏との屋島の合戦に敗れ、自らの目を岩に打ち付けたが、目を患っている人の病が、それを拝むことによって治ったことから、生目神社として祀ったことがはじまりと言われている。
負けず嫌いの景清は、敗残の姿など見たくもないと、目をくりぬいて岩に打ち付けたのでしょう。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名をもつ、景清らしい振る舞いです。(この場合の「悪」は、猛々しく強いことを意味します)。


47番八坂寺
「八坂寺」の「八坂」(やさか)は、「弥栄(いやさか)に通じるといいます。いよいよ栄える、めでたい寺名です。
また「八坂」は、伊予の国司・越智玉興が創建時に切り開いた、「八つの坂」に由来するともいいます。
山号の熊野山は、・・紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった(霊場会HP)・・ことに由来するとのことです。


本堂
八坂寺は真言宗のお寺。本尊は、阿弥陀如来です。
本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊像が祀られており、その数は8000体に上るとのことです。


天井絵
本堂に向かう「極楽門」の天井には、阿弥陀如来来迎図が描かれています。


えばら池
八坂寺を出ると、溜め池がありました。えばら池といいます。
古くは「土用部池」(どようぶ池)と呼んだようですが、今は地域の地名「惠原」を冠して、「えばら池」と通称しているようです。
なお、なぜか国土地理院地図やグーグルマップは、(「池」ではなく)「えばら湖」と記していますが、私は『えひめの記憶』などの記述にも従い、「えばら池」に与します。


諏訪神社の杜
堤防の下の道に出ると、♫村の鎮守の神様の・・と歌いたくなるような、なんとも懐かしい景色が見えてきました。向こうに見えるのは、諏訪神社の杜です。
しかし残念なのは、この景色に見とれてしまい、愛媛県内最古とされる遍路道標・・貞享2年(1685)・・を見落としてしまったことです。この写真を撮っている私のすぐ後に、それは在ったのです。
大失敗でした。もし気づいていたなら、この景色、もっと感慨深く眺めることが出来たはずでした。


諏訪神社
愛媛県神社庁の公式サイトによると、・・元正天皇養老5年(721)8月越智玉純が信州諏訪の鎮守明神を勧請し荏原郷の鎮守と定め国家平安を祈ったという。・・とのことです。
なお引用文中の「荏原」は、今は、「惠原」の字を当てています。越智玉純(たますみ)は、(前述の)玉輿の子で、河野玉純としても知られる伊予の国司です。石手寺の創建にもかかわります。 


別格9番文殊院
46番浄瑠璃寺門前の句碑、
  永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺  子規
にも見られるように、浄瑠璃寺から51番石手寺にかけての遍路道には、説話上の人物・衛門三郎の世界が、「実在」として展開されています。
写真の文殊院は、衛門三郎の邸宅跡に建っている、とされています。つまり、此所に住む衛門三郎にお大師さんが喜捨を乞い、衛門三郎がお大師さんに無礼を働き、あまつさえ、お大師さんの鉄鉢を割るのです。鉄鉢が八つに砕け三郎の子どもたち八人が次々と死んでゆく、そのはじまりの場が此所なのです。


文殊院・衛門三郎菩提所
文殊院の次に訪ねる札始大師堂は、衛門三郎が初めて札を納めた所とされています。つまり札始大師堂は、四国遍路始まりの場、というわけです。
札始大師堂の先には、(今回の遍路では訪ねませんが)、父の悪行故に亡くなった八人の子どもたちの墓(八ツ塚群集古墳)→(H28秋 6)があり、さらにその先には、再来・衛門三郎が「手」に握っていた「石」を祀るという、石手寺があります。


ゴミ出し場の表示
・・地区外の人は出されません
ゴミ出し場に、伊予弁を使っての注意書きがありました。「出されません」は、(出すことが出来ないではなく)「出してはいけません」という、禁止を意味します。伊予弁では(土佐弁、阿波弁、讃岐弁でもそのようですが)、未然形+れん(られん)で、「禁止」の意味を表すのだそうです。
方言を用いているのは、注意書きが引き起こすかもしれない、気持ちのざらつきに配慮してのことでしょう。


泳いではいけません
ところで、ここで言う「地区外の人」に、もしや遍路が含まれてはいまいかと、心配です。この種のルール破りを農村部の住人がすることは、めったにはないからです。遍路(地区外の人)が持ち歩いてきたゴミをポイと捨ててゆく、それもゴミ出しの日でもないのに、・・どうか、そんなことが起きていませんように。
写真は、前に讃岐路でみた注意書きです。「泳がれん」は、「泳いではいけない」の意です。



この石標が初めから此所に在るのだとすれば、右に入る遍路道は、かつては(こんなに細くはなく)もっと大きかったと思われます。でなければ、「左 松山道」と案内する必要が生じないからです。
松山道は、何本もある土佐街道の一本です。土佐街道とは、四国の各地と土佐の高知を結ぶ街道をいいます。今は、その多くが国道などに吸収されていますが、例えば私たちが室戸に向かう途中で歩いた、国道55号の「八坂八浜」は、土佐浜街道(徳島-高知)の名残です。


久谷川(くたに川)
親柱に「久谷川」と記されているこの川は、国土地理院地図では「御坂川」となっています。
前号に、御坂川と久谷川が合流することを記しましたが、その合流した川を、この辺では「久谷川」と呼び、国土地理院は「御坂川」としているわけです。
昔は、川や道には統一した呼び名はなく、その土地その土地で違っていましたから、きっと、その名残なのでしょう。


空模様
久谷川(御坂川)の上流方向(南東方向)を撮った写真です。
本来なら、この時点で空模様の変化に気づいていなければならないのに、私はまったく意に介しておりませんでした。おかげで、えらい目に遭うことになるのですが、それは後の話です。


ジャンボタニシ
ジャンボタニシの卵塊です。
やっぱりいました。大洲や内子では見かけなかったので、喜んでいたのでしたが。
ジャンボタニシは、1980年代、食用目的で輸入されて養殖がはじまり、その後、遺棄されたり養殖場から逃げ出したりして、野生化したといいます。寄生虫に感染していて人に有害であるばかりでなく、水田に移植後の苗を食い荒らし、稲作に大きな被害をもたらしています。ピンク色のものは、水に落とすと孵化しなくなりますが、右下の白っぽい卵塊は、孵化直前のもので、水に落ちても孵化してしまうそうです。強い繁殖力を持っています。


札始大師堂・小村大師堂
前述の札始大師堂です。三坂峠から、ほとんど休むことなく歩いてきたので、ここで大休止しました。
汗をふき、靴を脱ぎ、弁当(パン)を食べ、宿を予約しました。
宿は、区切り歩きの最終夜を海の側で過ごしたくなり、少々奮発。梅津寺の松風亭にお願いしました。伊予鉄「鷹の子」から電車を利用して行きます。明日は、鷹ノ子に戻って石手寺まで歩き、17:00の飛行機で帰宅する予定です。


雲行き
予約を終えて、ベンチで横になり、昼寝しました。
どれくらい寝たでしょうか。目が覚めて、ふと空を見ると、・・大変だ!
ようやく気づきました。♫向こうのお山に黒雲かかれば・・!すぐ地図で確認。1.9キロ先の、48番西林寺に逃げ込むことにしました。
急いでザックからポンチョを取り出し、ビニル袋に入れて手に提げ、歩きはじめました。後方から、ドーンドーンと、雷様の太鼓が聞こえてきました。(岩屋寺で会った)青梅さんはまだ三坂峠を歩いているはずだ、・・チラッと気になりましたが、ここは自分のことで精一杯です。


黒雲
ドーンドーンという雷音が、ドドドドーンといった風に変わってきました。近づいてきているのです。
もう降る!ガソリンスタンドの屋根をお借りして、ポンチョを着けました。
私に出来る最大速度で歩きます。まだ離れている内に、重信川は渡っておかねばなりません。


久谷大橋から南方向
大橋を渡るときは、本途、怖かったです。ドドドド-ンがシャッドンガラガラに変わってきたのです。しかし逃げ場がありません。布団を被る気持ちもわかろうというものです。クワバラクワバアラ。
川風にあおられないよう、ポンチョを身体に巻き付け、歩きました。それでも数枚の写真を撮っているのは、ブログ作成者としての「根性」でしょうか?


西林寺へ
あと300㍍ほどで西林寺です。この左方向に、西林寺の奥の院・杖ヶ淵がありますが、お参りは断念しました。→(H28秋 6)
杖ヶ淵が伝える譚は、衛門三郎譚の対極にある譚です。大師が水を運ぶ老婆に一杯の水を乞うと、老婆は、干魃で水不足にもかかわらず、惜しげもなく大師に差し上げるのです。杖ヶ淵の豊かな水は、大師が老婆の親切に感じて湧かせた、お杖水なのだと伝わります。


47番西林寺仁王門
門に逃げ込む前に、降り始めました。
営業マンらしい人も、避難しています。・・動きがとれないんですよ・・などと、ケータイで連絡を取り合っています。
強い降りなのです。小降りになるまで、ここで待たせていただくことにしました。


本堂
小1時間も雨宿りをさせてもらったでしょうか。小降りになったので歩きはじめたのでしたが、私はここで大失敗をしてしまいます。
写真をご覧ください。奇しくも写り込んでいたのですが、このお杖を、私はここに置き忘れてしまうのです。遍路を始めた頃こそ、こんなこともありましたが、近頃では起きていないことでした。


本堂
言い訳をすれば、・・いつもお杖を握っている右手が傘で塞がっていた、だから気づかなかった、・・ということになります。しかしそれにしても、気づいたのが2.5キロも歩いてからだったとは。これではもう、「失敗」の域を超えていたでしょう。お大師さまには、お詫びの仕様もありません。


激しい雨
ふたたび降りがひどくなったので、高井簡易郵便局の自転車置き場に避難しました。この道はへんろ道からは外れていますが、私は鷹ノ子で伊予鉄に乗るつもりなので、道を間違えているのではありません。
ここでは、10分ほども過ごさせてもらったでしょうか。私は北さんに電話し、雷雨で西林寺に逃げ込んだことや、歩きはじめたらまた降り出したことなどを、詳しく伝えておりました。♫ハハ のんきだね・・。のんきなトーサンです。


日射し
フッと雨が止み、日が射してきました。
ふたたび歩き始めました。右手には、まだ(お杖ではなく)傘が握られています。降ってはいないのですが、差して歩いて乾かそう、というわけです。浅知恵とでも申しますか。
お杖を忘れたことにようやく気づいたのは、鷹ノ子駅に入るため傘を折りたたんだ、その時でした。
一瞬、頭が真っ白になりました。混乱し、どこに忘れたか、それも思い出せぬまま、とっさに引き返しはじめていました。


鷹ノ子駅ホーム
郵便局まで引き返しました。しかし休んでいた所には、ありません。恥を忍んで局員さんに尋ねましたが、そんな届け出は「ない」と言います。お大師さんを置き去りにする遍路がいるなんて、局員さん、きっとあきれたことでしょう。
西林寺へ向かいます。・・だれかが納経寺に届けていたりすると、(取りに行くのが恥ずかしくて)いやだな。・・などと、見当違いの心配をしていました。ということは、この辺ではもう、西林寺に置き忘れたことを思い出していたようです。
西林寺に着くと、あった!(幸い)お杖は山門に、私が置いたままに在りました。私はホッとしていました。


車内
とまれ、山門から本堂に向かって感謝の合掌。鷹ノ子駅へ、私はふたたび歩きはじめました。
往復5キロの、余分の歩きは堪えていました。電車に乗っても、さすがにしばらくは落ちこんでいました。
ようやく気持を取り戻すことが出来たのは、この言葉に思い至ったときでした。
  これもまた遍路
私はけっこうご都合主義なのです。


梅津寺駅
鷹ノ子駅から30分ほどの乗車だったでしょうか。梅津寺駅(ばいしんじ駅)に着きました。
今回はただ泊まりに来ただけですが、梅津寺や、梅津寺の一つ手前の三津浜、一つ先の高浜(伊予鉄の終点)などは、いつか訪ねてみたいと思っていた所です。
レトロな三津浜の街を歩き、無賃の渡し船で梅津寺側に渡り、梅津寺を抜けて高浜に進み、高浜から51番太山寺奥の院に登って太山寺本寺に降りる、この念願のコースが実現するのは、これより7年後の平成29年(2017)春のこととなります。→(H29春 1)



駅は海の側です。晴れていればきれいな夕焼けが見られたのですが、残念です。
まだ雨は降り続けています。


宿の窓から
着いたら電話するように言われていたので掛けると、駅まで車で迎えに来てくれました。
早速、入浴。一休みして夕食です。


夕食
大きな部屋で、いっぱいの海の幸がならんでいます。左の皿は真鯛のカブト煮。骨だけにしてしまいました。奧には、私の大好物、サザエの壺焼きが見えています。ツノがない、瀬戸内海独特のサザエです。刺身は一見、ありふれてみえますが、下にイイダコが隠れています。これは美味。他に、写っていませんが、鍋もあり、私は3時間ほどをかけて、堪能させてもらいました。あの「大失敗」は、すっかり忘れて。


瀬戸内海のさざえ 
瀬戸内海のサザエです。棘がありません。
瀬戸内海という波閑かな環境では、流される心配がないので、不要な棘は出していない、ということのようです。美事、環境に適応して生きている、というわけです。
ところで、何方か教えて欲しいのですが、瀬戸内海のサザエは、環境の変化次第では、棘を出すことができるのでしょうか。そのような遺伝的形質を、いまだ保持しているのでしょうか。それとも、もう喪失してしまっているのでしょうか。


窓外
当地の雨は、20:00頃に止みました。
工場地帯の光でしょうか、きれいに見え始めました。


明日の天気予報
明日の天気予報は、晴と出ました。もしかしたら、梅雨明けかもしれません


被害
今日の雨は、私が想像した以上の、大雨だったようです。
瀬戸内海を挟んだ広島では、河川が氾濫しているようです。より大きな被害とならないことを、祈りました。

  平成22年(2010)7月17日 第七日目   


予報通り、晴れてきました。
三津浜港からフェリーが出てきました。どこへ行くのでしょうか。もしかしたら中務茂兵衛さんの生地であり、また長州大工さんたちの故郷でもある、周防大島だったりするかもしれません。とすると、あの船は1時間10分ほどで、周防大島の伊保田港に着くのでしょう。
アゝ、ここにも行きたい所がありました。(天恢さんはもう2回も訪ねているそうですが)、私はまだ一度もありません。



四国ガス松山工場やコスモ松山石油油槽所だと思います。
昨晩に見た光は、ここの光だったのでしょう。


久米駅
梅津寺から伊予鉄で、久米駅へ移動しました。今日の歩き始めは、ここからです。
駅のすぐ側には、かつては久米八幡宮と呼ばれた日尾八幡神社と、同社の別当寺であった、49番浄土寺があります。


日尾八幡神社
日尾八幡神社は、初めは、久米八幡宮とよばれたそうです。かつてこの辺に所在した久米郡や久米村、あるいはそこに盤踞した古代豪族・久米氏に由来し、こう呼ばれたのだと思われます。このことの信憑性は、(後述しますが)当神社中殿に、伊予比売神が祀られている事実により、裏付けられると思います。伊予比売神は、かつて久米氏が祖神として奉齋した神なのです。
社名は、中古に至り、神社が鎮座するお山「日王山」に因んで、「日王(ひおう)八幡宮」と改められましたが、後に「日王」が「日尾(ひお)」と改められ、今は「日尾八幡神社」となっています。
祭神は、八幡三神(応仁天皇とその父母)の他、海の神である宗像三女神(海底の神、海面の神、中程の神)、そして前述の伊予比売神などの諸神です。


日尾八幡縁起
境内の松山市教育委員会の説明板は、次の様な伝承を紹介しています。
・・中殿に奉齋する伊予比売命は、伊予豆比古神社にまつられる伊予比古命とともに、元は夫婦神として久米郡神戸郷古矢野神山にまつられていたが、洪水で流され、今では分かれてまつられていることで有名である。
日尾八幡神社が中殿に奉齋している伊予比売命が、かつては久米氏が久米郡神戸郷古矢野神山に祀っていた神であることが、記されています。その神は夫婦神でしたが、洪水で別れ別れになり、夫神は今は伊予豆比古神社に祀られている、と記されています。


市教委の説明板
ただし、この譚は、(私が調べて範囲では)伊予豆比古神社の由緒には記されていません。というより、伊予豆比古神社は、この譚を認めてはいないらしいのです。
というのも伊予豆比古神社には、伊予豆比古命という男神の他に、伊予豆比売命という女神がちゃんと鎮座されており、どうやらこの神が、伊予豆比古命の妻神とされているのです。


魚躍 鳥舞
江戸末から明治にかけて日尾八幡神社の神主であった三輪田米山は、国学、漢学、和歌に通じ、また書も能くすることで知られていました。写真は、その米山揮毫になる注連石と社名石です。(他にも米山揮毫の神名木額がありますが、残念ながら写真がありません)。
なお日尾八幡神社の縁起に、・・大神朝臣久米麿(三輪田の祖)を斎主とせられた・・なる記述があることから察して、米山の三輪田家は「朝臣久米麿」に連なる家で、代々、当神社斎主(神主)を継いできたと考えられます。


北条の正八幡神社
写真は、後年、平成29年(2017)になって、北条の正八幡神社で撮った、米山揮毫の注連石です。→(H29春2)
テーマは日尾八幡神社と同じで、鳥と魚です。
  左 魚游於水   右 鳥遊於雲
魚の「あそぶ」は、三水の「游」になっています。


生目神社
日尾八幡にはたくさんの境内社がありますが、その中に、生目神社もありました。


49番浄土寺
行基菩薩(7-8C)彫造の釈迦如来像を本尊とし、法相宗の寺として開創されたが、後に荒廃。弘法大師(8-9C)が訪ね来て再興し、真言宗に改宗したと言います。
さらに、平安中期の天徳年間(957ー61)、四国巡歴の空也上人が当寺に滞在。口称念仏の布教に勤めたと言います。
なお浄土寺には、空也上人の像・・鹿角の杖を突いて、六体の阿弥陀小化仏を吐いている、誰もが知っている、あの痩身の遊行僧の像・・が安置されているそうです。鎌倉期の作といいます。


50番繁多寺へ
県道40号(松山東部環状線)から、右に入ってゆきます。
梅雨明けを待っていたかのように、クマゼミ・・土地の子たちは「シャオシャオ」と呼んでいる・・の声が凄まじく聞こえます。
この蝉の生息域は、かつては西日本(東海以西)でしたが、現在、北上中のようです。埼玉県でも、まだ多くはありませんが、大合唱が聞こえる場所ができています。温暖化の影響でしょうか?


繁多寺へ
墓地の中を遍路道が通ります。
リライト版ゆえに書けることですが、遍路道が墓地の中を抜けるのは、この先、54番延命寺から55番南光坊へ下るときと、80番国分寺から81番白峯寺に登るとき、そして71番弥谷寺でしょうか。ただし弥谷寺は、墓地の中を通るというより、墓地が寺なのですが。


畑寺 
繁多寺の住所は、松山市「畑寺」(はたでら)です。繁多寺の開創当時の寺名「旛多寺」(はた寺)に由来すると思われます。
「旛多寺」は、天平勝宝年間(8C中)、孝謙天皇から数流の旛(はた)を賜ったことに因む寺名だと言います。


50番繁多寺
ちょっと変わった雰囲気の山門です。御所の門になぞらえた山門で、泉湧寺型というそうです。
繁多寺と泉涌寺、さらには天皇家との関わりを、繁多寺HPは、次の様に記しています。・・(繁多寺は)天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382〜1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。


梵鐘と格天井
寺名が・・用が多くて忙しい・・を意味する「繁多」とは?これ如何に。
その疑問に御詠歌が答えています。
・・よろづこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ
むろんご本尊は薬師如来像です。


繁多寺本堂
繁多寺は、僧・一遍が長期滞在し、修行したことでも知られています。
一遍は、鎌倉中期の僧で、捨聖とも呼ばれ、また時宗の祖ともなる人です。(前述の)空也上人を、尊敬して止まなかったといいます。
河野一族の出であることから、衛門三郎説話では、衛門三郎の再来であるともされていますが、生誕地は、石手寺近くの宝厳寺だとのことです。


宝厳寺・平成28年撮影
一遍は、延応元年(1239)、河野通広(みちひろ)の第二子として、宝厳寺→(H28秋 6)で生まれました。
父・通広は、(次の記事に登場する)23代当主・通信(みちのぶ)の子で、24代当主となる通久(みちひさ)の兄に当たる人です。
一遍が生まれた頃、河野氏は没落の極みにありました。承久の乱(大まかには公家と武家の戦い)で、当主・通信をはじめとして、河野氏のほとんどが後鳥羽上皇側について戦い、敗れていたからです。ために一族の主なものは、断罪あるいは流罪となっていたのです。


宝厳寺・平成28年撮影
かろうじて河野氏を継いでいたのが、出家しているが故に難を免れた、一遍の父である通広(僧名は如仏)と、その弟・通久でした。通久は河野氏で唯一、幕府方に付いていたため助命され、24代当主を継いでいました。
没落していた河野氏が勢いを取り戻すのは、通久の孫である26代当主・通有(みちあり)の時でした。道有は文永・弘安の役(元寇)で活躍。河野氏は勢いを取り戻し、道有は「河野氏中興の祖」と呼ばれました。
とまれ、一遍はこんな時代の、こんな境遇の人だった、ということです。


溜め池
繁多寺の前に、松山市の上水道池があります。北谷池と呼んでいるようです。


アイスクリンIMG_6489.JPG
繁多寺の前に「アイスクリン」屋さんがいました。
この「アイスクリン」屋さんは、有名人です。というのも、辰濃和男さんの『四国遍路』に登場するからです。


『四国遍路』より
辰濃和男さんは、次の様に記しています。
・・50番霊場、繁多寺は、小高い丘にあり、すぐ側に水源地がある。山門前にアイスクリーム売りのおじさんが居た。前にも、同じこの場所で会っている。「野宿して歩いている娘さんの遍路がいて、家で泊めてやったことがあった。野宿ではおちおち眠れなかったんだろうね。夜十時に寝て翌日十一時まで寝ていた。安心して眠れたんだろうな」これもまた遍路道中のひとこまだろう。


へんろ橋
へんろ橋です。流れる川は石手川。この川の上流には「石手川ダム」があり、松山市の上水の約半分を供給している、とのことです。むろん重信川水系の川です。


51番石手寺
通りを渡ると、51番石手寺です。
土地の人が話す「いしてじ」は、関東人の耳には、「いしてぇーじ」と聞こえるかもしれません。西の方の人は、母音を大切に発音するからでしょう。「手」は、関東風の「テッ」ではなく、「テエ」なのです。


本堂
衛門三郎再来の場面です。
・・大師は路傍の石を取り「衛門三郎再来」と書いて、まさに身罷ろうとする、衛門三郎の左の手に握らせました。
・・翌年、伊予国の領主、河野息利に長男が生れました。だが、なぜかその子は、左手を固く握って開こうとしません。


再来の石
・・安養寺(後の石手寺)の僧が祈願をして、やっと開いた子の手には、小石が握られており、その石には、「衛門三郎再来」と記されていたといいます。
・・その石は安養寺に納められ、今も、石手寺と改められたこの寺に、祀られているとのことです。


茂兵衛道標
さて、石手寺を打って、今回予定していた7泊8日の区切り遍路は、終わりとなりました。
飛行機での帰宅となりますが、予約した便(17:00発)までは、まだだいぶ時間があります。現在時刻は11:00過ぎです。
道後近辺をゆっくりと見学し、適当な時刻に、松山市駅からシャトルバスで空港へ向かうことにしました。


すげの木
・・播州赤穂から贈られました・・とあります。その由来は、次の様だと言います。
・・元禄16年(1703)2月4日、松山藩預かりの赤穂義士10名は、江戸三田の松山藩邸に於いて、幕命により切腹した。時の松山藩主松平隠岐守定直は義士たちを武人の鑑として丁重にあつかった。後にこのことを知った播州赤穂の人々は、赤穂の特産の櫨の苗木を感謝の記念として、松山に送り届けてきた。(中略)因みに菅谷半之丞は伊予郡松前の生まれであり、杉野十平次は與居島の人である。中村勘助の娘るりは大洲新谷に嫁いできた。こうして考えると大洲藩名産ろうそくにも関係があるかもしれない。 
なお、その他の松山藩預かりの義士は、大石主税良金、堀部安兵衛武庸、不破数右衛門正種、千馬三郎兵衛光忠、木村岡右衞門貞行、岡野金右衞門秀包、貝賀彌左衛門友信、大高源吾忠雄らです。


道後・湯築城
湯築城について、城内の説明看板は、次の様に記しています。
・・湯築城は、中世の伊予国守護河野氏の居城でした。南北朝期(14世紀前半)から戦国時代(16世紀末)まで、250年以上にわたって、伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。現在の道後公園全体が湯築城跡(南北約350M、東西約300M)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。
なお、築城は河野氏27代当主・通盛とも伝わりますが、定かではありません。ただこの平山城が、防衛機能と政庁機能を併せ持つ、当時としては先駆的な城であったことは、確かでしょう。その意味では名城の名に恥じない城だと思います。


坊ちゃん列車
運よく「坊ちゃん列車」が走ってきました。小説『坊ちゃん』で、坊ちゃんがマッチ箱に喩えた汽車です。
作中で坊ちゃんは、いかにも東京っ子らしい闊達な語り口で、次の様に語っています。
・・停車場はすぐに知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。・・


からくり時計
こちらは「坊ちゃんからくり時計」です。坊ちゃん、マドンナ、赤シャツなど、小説『坊ちゃん』の登場人物が、様々の仕草で楽しませてくれるとのことです。
動いているところを見たいと、少し待ってみたのですが、動きませんでした。「営業時間外」だったのかもしれません。


愚陀仏庵跡
「愚陀仏庵跡」「坂の上の雲ミュージアム」が案内されています。
「愚陀佛庵」は夏目漱石の下宿先で、漱石の俳号「愚陀仏」から、そう呼ばれています。子規など文人がたむろしたところです。松山市二番町にありましたが、その建物は空襲により焼失。場所を変え、松山城城山の麓、萬翠荘(旧久松家別荘)の裏手に復元されていました。


在りし日の愚陀仏庵
・・復元されていた・・と書くのは、(帰宅してから知ったことですが)このせっかく復元された愚陀佛庵もまた、残念ながらこの5日前、土砂崩れで全壊してしまっていたからです。
思いもよらないことでした。土砂崩れは、私が出石寺に登っているときに降っていた、あの雨の最中でのことだったのです。→(H22夏2)
写真は、平成16年(2004)春に撮った、在りし日の復元・愚陀佛庵です。→(H16春7)


『坂の上の雲』の宣伝のぼり  
『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の小説です。松山出身の秋山好古、真之兄弟と正岡子規の生涯を通して、明治という時代の日本を描いています。NHKはこれをテレビドラマ化し、平成21年(2009)から平成23年(2011)にかけて放送しました。
「坂の上の雲ミュージアム」は、・・当館では小説に描かれた主人公3人の足跡や明治という時代に関する様々なイベントを企画し、毎年テーマを変えて展示を行っています。(松山市HP)・・とのことです。


松山市駅
レトロな伊予鉄松山市駅の建物です。
此所からリムジンバスで、松山空港へ向かいます。


更衣室
松山空港の「お遍路さん更衣室」です。他に高松空港でも見た記憶がありますが、徳島、高知はどうだったでしょうか。
着替えた後、缶ビールを楽しみました。疲れはあるものの、心地よい疲れです。


帰途
帰宅後のことですが、熱中症で倒れた歩き遍路がいるとの報道がありました。
梅雨明け後の炎天下、いっそう厳しい遍路がつづけられているのです。青梅さんの無事結願を祈りました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
平成22年初夏に歩いた、伊予路(出石寺-石手寺)のシリーズを今号で終わり、次号からは、同年秋の土佐路(土佐佐賀-高岡神社)シリーズとなります。ただし、その前半部はすでにリライトを終えているので、後半からつづけることになります。更新予定は、10月30日です。

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45番岩屋寺 三坂峠 46番浄瑠璃寺

2024-09-04 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

 平成22年(2010)7月15日 第五日目のつづき

岩屋寺への移動
前号は、上黒岩岩陰遺跡を見学し、タクシーで45番岩屋寺へ移動するところで終わりました。
今号は、岩屋寺にお参りするところから始まります。その後は、ふたたびバスで国道33号に戻り、そこからは歩いて三坂峠を登ります。目的地は峠の上の宿・桃李庵です。


岩屋寺
岩屋寺で、東京からおいでの青梅さんと出会いました。区切り遍路5日目にして、始めて出会った歩き遍路さんです。彼もまた話に「飢えて」いたらしく、互いに引き寄せられるように、挨拶を交わしていました。
青梅さんがお杖を二本持っておられるので、事情を尋ねると、
・・一番から歩いて来たのですが、途中、足を痛めてしまいました。なんとかならないかと整形外科を訪ねてみましたが、「この状態でまだ歩くつもりですか」とあきれられるばかり。


岩屋寺
・・もう駄目かと断念しかかったのですが、知り合った先達さんに相談すると、「お杖を両手に持ちなさい」と勧められ、試しにやってみたのです。
・・そしたら、うれしいことに、なんとか歩けるんです。
なるほど、ダブルストックがロングトレイルに効果的であるように、お杖も二本にすればよい、ということでしょう。二本にすれば、脚や腰にかかる負担が軽減されるばかりでなく、バランスもとりやすくなり、推力も得られます。


岩屋
加えてお杖には、ストックにはない有り難さがあります。
私たち遍路にとって、お杖はお大師さんです。おそらく青梅さんは、・・お大師さんに両側から支えられている・・との思いから、歩く勇気と新たな元気を、奮い起こすことができたのです。
青梅さんは、素晴らしい助言をいただいたのだと思います。むろんだからと言って、「お杖二本」が常態化してよい、と言うのではありません。四国遍路の基本は、やはり、・・お杖片手に、お大師さんに語りかけながら歩く・・なのでしょうから。


大師堂
連日の雨の中、青梅さんは過酷な遍路旅をつづけてこられました。
しかし、雨には上がってほしいけれど、上がれば上がったで、今度は炎帝が、青梅さんを焼くことになります。梅雨明けは、もう間もなくなのです。(実際、これより2日後の7月17日、梅雨が明けました)。
この後も過酷な日々がつづくのは、確実です。青梅さんの無事な結願を、心から願いました。


下山
さて、お参りを終え、お別れです。青梅さんが下山しました。今夜は久万の宿に泊まるとのことでした。
私はバス時間がまだなので、すこしゆっくりしました。
脚を痛めている青梅さんが歩いて、たかだか疲れている程度の私がバス利用とは、ちょっと恥ずかしくも思いましたが、計画してあったこととて、勘弁したもらいました。


二本のお杖
青梅さんの二本のお杖です。
バスが青梅さんを追い抜くとき最後尾から手を振ると、青梅さんも二本のお杖を振り上げて、応えてくれました。一期一会。忘れられない出会いです。


直瀬川
さて、岩屋寺の記事が青梅さんとの出会い話に終始し、岩屋寺の縁起などにふれることができませんでした。これらについては、→(H16春6) →(H28秋4) に少々記してありますので、こちらをご覧いただければ幸いです。


高野口
バスで河合の「高野口」にやってきました。
高野口で下車したのは、当初は、ここから「千本峠越えの道」を行く計画だったからです。今夜の宿・桃李庵さんの、・・千本峠は、雨の後は特に、止めた方がよい・・との助言を受け入れ、断念したのでしたが、せめて遠望だけでもしてみたいと考え、下車したのでした。
なお、この道は、『えひめの記憶』を読んで知りました。河合から千本峠を越え、高野→槻之沢(けやきの沢)とたどって、土佐街道(松山道)の仰西→高殿(後述)へと出る道です。


大宝寺口
ただし、下車はしたものの、残念ながら収穫はありませんでした。
どこが千本峠かもわからぬまま、県道12号(西條-久万線)を下ってゆくと、大宝寺口の標識がありました。朝歩いた参道に直交する道です。
思えば朝から、大宝寺と岩屋寺がつくる大信仰空間の外周を、乗り物利用ではありましたが、回ってきたのでした。たまにはこんな一日もあってよい、そんなことを思い、気を取り直しました。


千本峠・高野への入口・平成28年撮影
(先のことになりますが)私はこの6年後、平成28年(2016)、千本峠→高野への入口を確認。登ろうとしましたが、またもや、土地の人の・・止めときな、もう何年も台風で崩れ・・との忠告を受け、断念することになります。→(H28秋 4)


皇太神宮
土佐街道(松山道)に出たので右折すると、久万伊勢大神宮がありました。扁額は「皇太神宮」となっています。どうやら御師(おし)(伊勢神宮の場合は、おんし)の滞在所から興った神社のようです。
愛媛県神社庁のHPは、次の様に記しています。
・・明治初年神宮教の久万山布教所となり、同15年あらためて伊勢より天照皇大神、豊受大神の分霊を勧請した。同32年9月本教の解散によって、神宮奉斎会久万支部として発足し、昭和21年神宮奉斎会は解散。同27年宗教法人久万伊勢大神宮として新発足した。
 

千本峠?
未練たらしく、千本峠かとも思える辺りを、撮ってみました。


国道33号
土佐街道(松山道)は、すぐに国道33号に合流しました。土佐街道が国道33号に吸収された、とでもいいましょうか。これからは33号を歩いて、三坂峠を越えます。
写真の看板「一里木」は、遍路宿です。青梅さんがお世話になるようでした。私の宿・桃李庵は、三坂峠の上にあります。


採石場
山が削られています。まだ現役の採石場です。予定通りに千本峠越えの道を歩いていたら、私はこの採石場の下に降りてきたと思われます。
この山はまた、大除城(おおよけ城)という山城が在ったことでも知られています。その築城期は不分明ですが、中世、河野氏が一条氏の侵攻に備え築城したとの考えが、もっとも有力のようです。松山への入口に城を構えたわけです。
とすると、この一条氏は、三代・基房の一条氏でしょうか。幡多に根拠を置く一条氏は、基房の時、版図を最大に広げ、伊予南部へも侵入する勢いを示しています。豊後国・大友氏と連携してのことでした。


仰西(こうさい)渠
江戸中期、元禄(1688-1704)の頃、この辺の農民は農業用水の不足に苦しんでいたそうです。いえ、水そのものは久万川を流れているのですが、取水がむずかしく、困っていたのです。
久万川の支流で西明神を流れる天丸川を堰き止めて取水し、数十本の樋をつないで水を引いていたのですが、洪水があれば堰が壊されたり、樋が流されたりしていたようです。その度に作り直さなければならず、その作業は大きな負担になっていたといいます。


暗渠
この窮状を打開せんと立ち上がったのが、山之内彦左衛門光実(仰西)でした。商人だったとのことですが、姓、諱をもつところから察して、由緒ある豪商であったと思われます。馬具を商っていたともいいます。
彦左衛門は、樋をつなぐのではなく、河床の安山岩を掘削して、恒久的な用水路を通すことを考えました。私財を投じて人夫を雇用し、自らも鑿と槌を手に、働いたとのことです。人夫へは、砕いた岩一升と引き換えに、米一升を与えたといいます。野中兼山の「計量場」に通じる手法です。→(H27秋2)


水路
その規模は『えひめの記憶』によると、・・長さ57メートル(うち12メートルは暗渠)幅2.2メートル、深さ1.5メートルで、上手は川水を取り入れ下手は田の用水路に結び、入野村久万町村25町歩の水川を養っている。・・とのことです。
工事期間は3年。その間の散財で、さしもの豪商も倒産していたといいます。


仰西渠之碑
山之内彦左衛門は、若い頃から大宝寺に出向いて法話を聞くなど、信仰心が深く、また商売の傍ら、土木工事に関心を持ち、工法、見積もりなどを学んでいたといいます。
そんな彼なればこそ、と言えましょうか。彼は「仰西渠」の他にも、三坂峠の「鍋割の険」(後述)や、(前号で記した久万落合の)「切石」の改修。また久万町に法然寺を建立するなど、いくつもの、今で言う「公共事業」を手掛けています。
なお彦左衛門は、今は「仰西」と呼ばれるのが普通ですが、「仰西」は、彦左衛門晩年の、念仏行者としての号です。


高殿宮バス停
高殿(こうどの)にやって来ました。高殿神社が在るところですが、高野口から始まる「千本峠越えの道」の終点でもあります。なお、バス停の名は高殿宮(こうどの宮)となっていますが、「高殿神社」が、現在の正式名です。


高殿神社(こうどの神社)
祭神は、高御産巣日神(たかみむすひ神)です。天御中主神(あめのみなかぬし神)、神皇産霊神(かみむすひ神)と共に、「造化三神」とされています。
この神は、・・(今はアマテラスが最高神とされているが)元々はタカミムスヒが最高神だったのではないかという説もあり(立正大学「造化三神とアマテラス」)・・と言われるなど、実に興味深い神ではあります。因みに、・・苔のむすまで・・の「むす」は、「たかみむすひ」「かみむすひ」の「むす」から来ています。
当神社へは、「明神右京」なる人物が、日向の高千穂から勧請したと伝わりますが、この「明神右京」は、44番大宝寺の縁起にも登場する人物です。寺-社の信仰上のつながりがうかがえます。


拝殿
寺-社のつながりを見るため、霊場会のHPから、大宝寺の縁起を引用させてもらいました。
・・飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。
なお、明神兄弟が菅草の中で見つけたという十一面観音像は、大和朝廷の時代、百済から聖僧が携えて渡来、この山中に安置したものだった、と伝わります。


工事中
国道33号線三坂峠のトンネル工事です。開通後は「三坂第一トンネル」となります。
トンネル建設の経緯を調べてみると、この写真撮影時点で、トンネル自体は貫通しているようですが、ご覧のように、まだ供用はされていません。
後のことになりますが、「三坂道路」は、平成24年(2012)、全線開通し、国道33号の名を引き継ぎました。「三坂道路」開通で取り残された形の、旧33号の区間は、440号と名前が変わっています。ただし、その前身を懐かしみ、「旧33号」と呼ぶ方が多いようですが。


桃李庵へ
三坂道路との分岐点を過ぎて100㍍余歩くと、桃李庵の案内がありました。ここを右に入ります。桃李庵は、車遍路にも歩き遍路にも、好都合の位置に在ると思われます。



右に入って行きます。


宿 
この頃、桃李庵は、オープンしてまだ間もなく、まだ「協会地図」にも記載されていませんでした。
むろん道案内はしっかりしており、迷うことなく着くことができました。


宿
訪うと、ご夫婦で迎えてくださいました。入浴後、ビールを頼むと、またお二人で運んでくださいます。恐縮。しかし、暖かくてうれしい。
ビールを飲んでいる間、ご主人が話し相手になってくれました。
宿の名前の由来、どんな宿にして行きたいか、千本峠道の話、裏山に道をつけて国道33号(440号)につないだ話、菅直人さんが泊まった話などなど、しかし一番うれしかったのは、宿泊した鯖大師さんの一行に気仙沼さん →(H20秋3) が加わっていて、それをご主人が覚えていてくれたことでした。思わぬ所での気仙沼さんとの「再会」に、私はすっかりうれしくなり、すぐ電話を掛けたりしたものでした。

  平成22年(2010)7月16日 第六日目

お接待
お接待に、ペットボトルのお茶を凍らせて、持たせてくれました。
右のビニール袋は、お楽しみ袋になっていて、各種取り合わせていました。(何が入っていたかは、メモがなくなり、残念ながら今はわかりません)。



ご夫婦とお別れし、出発です。
宿の裏山を越えます。



昨晩話題となった鯖大師さんの遍路札が掛かっていました。


国道33号
国道33号(三坂道路が開通している今は、この道は国道440号になっています)に降りてきました。
次掲の六部堂の、少し手前です。


六部堂
先に「千本峠越えの道」を『えひめの記憶』の記述から知ったと記しましたが、実は『えひめの記憶』は、もう一本、久万から三坂峠に出る道を紹介しています。「六部堂越えの道」です。コースの概略は、・・河合から有枝川を遡り→明杖(あかづえ)→六部堂越え→川之内→急坂を下り、国道33号の六部堂に至る。・・となっています。
(遍路は、今はほとんど通らないようですが)山歩きの人たちはよく歩いているらしく、「ヤマップ」「ヤマレコ」などには、山行記がいくつも紹介されています。国土地理院の地図で、地名を追うことが出来るので、私もいつか歩いて見たいとは思っています。もちろん、その前に「千本峠」を越えなければならないのですが。


あじさい
「六部」は六十六部の略で、六十六部廻国聖を指しています。法華経を書写し、全国六十六の霊場に納めて歩く、廻国の宗教者です。
この辺が「六部堂」という地名で呼ばれるのは、江戸時代、六十六部廻国供養塔が当所に建てられたことに発する、とも言われています。ただし、その「六十六部廻国供養塔」が誰を供養しているのか、誰によって建てられたかなどについては、(私には)わかっていません。おそらくは大きな不幸があり、その供養にと何方かが全国を廻国。その結願を記念して建てられたものと想像しますが、根拠はありません。
なお、この辺で六部の活動が活発であった背景には、大宝寺の存在があったと思われます。大宝寺は、法華経を奉納する全国六十六納経所の一でもあったそうです。


茶堂風の休憩所
屋根の傾斜や桟の様子から、当地では冬季に積雪があることがうかがわれます。
  三坂越えれば 吹雪がかかり 戻りゃ つま子が泣きかかる
三坂峠の降雪は、昔の馬子唄にもうたわれているくらいですが、にもかかわらず、これを中央の官僚さんたちがなかなか理解してくれず、上京した三坂道路建設陳情団の人たちは苦労したのだそうです。『えひめの記憶』が、そんな苦労話を採録しています。 


三坂峠
三坂峠のバス停です。標高710㍍。久万高原町と松山市の境になっています。
このJR四国バスは、松山-久万高原を結んでいたと記憶します。前号に記した上黒岩遺跡に行くバスは、久万高原-面河を結ぶバスで、JR四国バスト伊予鉄バスの二便が走っていました。
なお、松山から面河への直通便は、横河原を経由するバス便があったと記憶します。(最新の情報をご確認ください)。


境界
これより松山市です。


旧道へ
町境から、旧道へ入ります。
(昨日歩いた)久万の街から峠までの区間では、旧土佐街道の松山道は、ほとんどが国道33号に取り込まれ、消滅していました。しかし、今日歩く峠-松山平野では、旧道が長く残っているのです。
写真奧に・・通行できません・・の看板が見えますが、支柱部分には・・歩行者は通行可能です・・との但し書きがあります。


通行可
こんな大きな看板もありました。


松山方向
三坂峠から見る松山方向です。


旧道
昨日岩屋寺で別れた青梅さんが思い出されました。
今頃どこら辺を歩かれているでしょう。三坂峠の麓、「一里木」さんに泊まられたようですから、もう仰西渠は過ぎているでしょうか。


鍋割り坂
(前述の)山之内仰西さんが改修してくれた、「鍋割坂」です。おかげさまで、楽に歩くことができます。
なお「鍋割坂」の名は、・・自炊用の鍋を背負って歩いていたお遍路さんが足を滑らせ、その鍋を割ってしまったことからくる・・とのことです。そんな難所だったということでしょう。たしかに、此所は急坂です。


四阿
この四阿は、石鎚信仰の一ノ王子社があった場所に建てられている、とのことです。
石鎚山山頂に至るまで、点々と在ったはずの王子社ですが、残念ながら今は、その在った場所さえ不明となっているそうです。→(H28秋5)


前方
だいぶ降りてきました。 上掲写真と比べてみてください。


段々畑
景色が開けてくると、段々畑が目に入りました。
・・本当は止めたいんよ。だけんど、止めたら、たちまちジャングルじゃろ。道なんか、のーなってしまう。
・・猪、ハクビシン、最近では猿も出てくるようになり、手に負えんが、ここは、引いたらいかんのよ。
前回→(H16春7)、こんな話をしてくれた老農夫は、今、どうしているのでしょうか。


電柵(でんさく)
・・脅し銃鳴らしても、50M離れると、ヘーキな顔しよるけんね。もう、どうでも電線を張るしかないんよ。
でんさく(電気牧柵)は、当時で、500Mが10万円、とのことでした。


田圃
前回より耕作面積が減っているように見えました。
・・若いモンは、モー、ヨーヤランと米作りを止め、(山を)降りてしまった。・・とのことでしたが、やはり若いモンは継いでくれなかったようです。


坂本屋
廃屋同然になっていた遍路宿・坂本屋を、奇しくも前回私たちが歩いた平成16年(2004)、土地の人たちが修理し、休憩所として再開したとのことでした。「坂本屋運営委員会」を組織し、会員(当時およそ20名)が交代で旅人をもてなしている、と聞いています。


休憩所
この休憩所は、前回、お世話になったところです。「お遍路さん道の駅」と銘打ち、石の工作物をいろいろと展示していたのですが、なぜでしょうか、今回は荒れている感じです。



へんろ道は左に登ってゆきます。
下り道のなかの上りなので、つい右に進みたくなります。どうせ合流するだろうと思うからです。
実際、私たちは前回、・・もう登りたくない・・気分で、右に進んでしまったのでした。しかし、やはり左が正解です。たしかに合流はするのですが、右に行くと、網掛石は見られません。また距離も長くなります。


道標
分岐の側に道標が建っています。
  三坂峠 4.5キロ 46番浄瑠璃寺4.0キロ
三坂峠と浄瑠璃寺の、中間を少し過ぎた辺りです。



この辺は、榎の集落です。
この道はやがて、久谷川(くたに川)が造る谷筋の道と合流。そこで平地が、また一段と広くなります。
松山平野に近づいているわけです。


天日干し
こうして豆を乾すほどに、天気は良かったのですが、この数時間後、急変します。凶悪な雷雲が三坂峠に湧きたつのです。
その模様は、次号で記します。


網掛け石
弘法大師が巨岩を運んでおられました。
二つの巨岩を網に入れ、それらをオウク(天秤棒)に振り分けて、運んでおられたそうです。ところが、なぜかオウクが折れてしまい、岩の一つは御坂川の下流に流れ、もう一つが、此所に止まりました。その止まったとされるのが、この岩です。


網目
岩の表面には、網の目状の模様が入っています。大師が掛けた網が、石の重さで石に食い込んだ跡と考えられています。
それでこの石は「網掛石」と呼ばれるのですが、実はもう一つ、可愛らしい呼び名があります。上掲写真をもう一度ご覧いただければおわかりと思いますが、それは「くじら石」です。確かにクジラではありませんか。
なお、オウクが折れて飛んだ先は、オウクボ→大久保という地名になって、今に残るそうです(松山市久谷町大久保)。「協力会地図」58-1の国道33号線上には、「大久保坂」などの記載があります。 


あみかけ大師堂    
そばには「あみかけ大師堂」が建っています。


県道207号へ
榎集会所の前を右に入りました。県道207号に出ます。


三坂峠
ふり返ると、三坂峠の山が見えました。
この時はまだ、雷雲の兆しはありません。


里程標  
松山札の辻から四里を示す里程標(レプリカ)です。
青梅さんが泊まった久万の宿「一里木」さんの前には、七里の里程標がありました。あれから3里歩いたわけです。


札の辻 
新しい里程標の下に、昔のそれが残っていました。「松山札の辻」については、→(H24春1)をご覧ください。


丹波バス停
伊予鉄バス丹波線の終点です。
ただし、この路線は令和3年(2021)4月、廃線となったようです。代替交通として「予約制乗り合いタクシー」が運行されているとのこと。
なお、(不確かですが)、丹波線の始まりは昭和19年で、松山市駅-丹波間を走っていたようです。バス開通以前は、松山市駅-森松間(森松は、御坂川が重信川に合流する辺り)に列車(坊ちゃん列車)が走っており、丹波辺に住む人が松山市内に出るには、徒歩、馬車、自転車などで森松まで行き、森松から列車を利用したそうです。


無縁墓
無縁墓とは、普通、・・継承する親族や縁故者などがいなくなった墓・・を言います。ですから、そのような無縁墓には、「○○家墓」などと、かつてその墓を祀り管理していた人たちの、家名や建立者名などが刻まれています。
ところが、この無縁墓には「無縁墓」と刻まれています。この墓は、管理者がいなくなった「無縁墓」ではないのです。おそらくは、ここに供養されている仏(たち)が「無縁仏」である、というのでしょう。それにしても、比較的新しいのは何故でしょうか。


案内
この案内に従わないと、あらぬ方へ行ってしまいます。
板の下部に小さく、「坂本屋運営委員会」と標示されています。前述の旧遍路宿「坂本屋」を運営している人たちが、その活動範囲を広げ、設置してくださったものです。


出口橋
江戸時代中期の浄瑠璃寺に、尭音(ぎょうおん)という住職がおられたそうです。尭音さんは、毎年のように遍路道が雨で流されるのを見て、橋を架けることを発意。托鉢して喜捨を集め、岩屋寺から浄瑠璃寺にかけて、八本の橋を架けてくださったといいます。出口橋は、そのうちの1本とのことです。
尭音さんはまた、山火事で焼失した浄瑠璃寺の、復興に尽力したことでも知られています。


坂本小学校
「出口橋」の「出口」とは、どこからどこへの「出口」であろうか、・・そんなことを考えていたら、「坂本小学校」がありました。
そうか、そうだったのか。突然、分かった気がしました。
「出口」は久万から松山平野への「出口」で、「坂本」は三「坂」峠の「下」(もと)で「坂本」なのではなかろうか。
勝手に合点してしまったのでしたが、はたして本当は、どうなのでしょうか。


大黒座
久谷町の大黒座は、今は町興しの拠点となっています。しかし、様々に転変を経てきました。 
その始まりは大正時代。酒蔵だったそうです。戦後、しばらく芝居小屋として使われた後、昭和38年(1963)までは映画館。しかし、それ以後は使い道とてなく、40余年が経過。だた、その間、壊されることなく維持されたことが幸いし、平成18年(2006)、久谷の町おこしの拠点として修復され、・・今では歌や芝居、落語の上演など、地域の活性化に貢献している。(松山市観光Webサイト)・・とのことです。


松山平野の始まり
松山平野(道後平野)は、重信川と石手川が造った扇状地・沖積平野です。つまり、二本の大河が造った別々の扇状地が、それぞれ面積を広げてやがて合体。松山平野となった、ということのようです。その広がりは、東西20km、南北17kmだと言います。
なお石手川は、今は平野を南西に流れて、海近くで重信川に合流していますが、元は合流しないで西流し、伊予灘に注いでいたそうです。合流は、江戸時代の瀬替えによる、とのことです、


長珍屋
「ちょうちん屋」と読むようです。浄瑠璃寺門前の宿ですが、元の家業が、提灯屋さんだったようです。私はまだお世話になったことがありません。


46番浄瑠璃寺
浄瑠璃寺は、まこと「ご利益の札所」です。
本尊・薬師如来、脇仏・日光月光菩薩、十二神将のご利益の他に、「仏手石」からは知恵や技能のご利益を、「仏足石」からは健脚や交通安全のご利益を、「仏手花判」からは文筆達成のご利益を、「九横封じの石」からは(不治の病、暴力、淫酒、火傷、水難など)九つの大難を避けるご利益を、樹齢約1,000年のイブキビャクシンからは延命、豊作のご利益を、おびんずる様からは痛みの癒やしや子授けのご利益を、その他、一願弁天、燈ぼさつ、もみ大師などなど・・、各種ご利益をいただくことが出来ます。


「説法石」
これは説法石です。・・おかけください。おしゃかさまが説法され、修行されたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の石が埋め込んであります。・・と説明板にあります。
なお、石と言えば、(前述の)お大師さんが担いでいた網掛石の、もう片方の下流に流れた石ですが、その欠片とされる石が、浄瑠璃寺に保管されているのだそうです。残念ながら、私は見落としているのですが、どこにあったのでしょう。


もう片方の網掛石
私が見落とした網掛石の写真を、上の記事を読まれた天恢さんが、送って下さいました。


九横封じの石
同じく天恢さんがくださった九横封じの石の写真です。


本堂
浄瑠璃寺について、どうしても書いておきたいことがあります。それは、浄瑠璃寺の「きれいなトイレ」のことです。
トイレは普通、「不浄」の場として、境内の見えにくい片隅におかれているものですが、この浄瑠璃寺では違います。浄瑠璃寺のトイレは、いつもきれいに掃除されて、正面の石段(この寺には山門がありません)を登った、すぐ左に在るのです。きれいにして、便利なところに置く。もう「ご不浄」などとは言わせない!いいですね。ありがたいことです。


句碑 
石段脇に句碑がありました。
 永き日や 衛門三郎 浄るり寺  子規
ある春の一日、子規は東京に在って、この句を詠んだといいます。


ハス
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
雨に降られた遍路でしたが、こんな景色が見られるのも、この時期なればこそのことです。浄瑠璃寺弁天池のハスが、きれいに咲いていました。
次号更新は、10月2日の予定です。松山市内の札所を廻り、帰宅の途につきます。

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大瀬 新田八幡神社 三嶋神社 下坂場峠 鴇田峠 44番大宝寺 上黒岩遺跡

2024-08-07 | 四国遍路
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

 平成22年(2010)7月14日  雨 第四日目

宿
今日は久万高原まで歩きます。雨、それもかなり強い雨が予報されていますが、梅雨末期の遍路です。仕方ありません。
最初の目標地は、遍路道が国道380号を行く農祖峠遍路道と、国道379号を行く鴇田峠遍路道に分岐する地点、突合(つきあわせ)です。どちらも44番大宝寺へ行く道ですが、私は今回も、前回と同じ国道379号の鴇田峠遍路道を行きます。未知の道を行きたいとも思いましたが、過去を懐かしむ気持ちの方が勝っているのです。
突合の次は、畦々(うねうね)の三嶋神社を目指します。ここは前回、北さんと大休止したところなのです。


国道379号大洲方向   
宿がある旧道から、国道379号へ降りてきました。写真は、国道379号の大洲方向を、ふり返って写したものです。
写っている橋が、前号で記した、「筏流し橋」です。筏流しの地域興しに連動して、この名がつけられました。
  

バス停兼休憩所
国道379号沿いに、バスの梅津停留所兼休憩所がありました。
・・お寄りんかい 一休み 一休み・・と記されています。
しかし、せっかくのお誘いですが、私は歩きはじめたばかり。ここは通過させていただきます。
なお、停留所名の「梅津」(うめつ)は、集落の名前です。梅津集落の中を通っていた旧道を、新国道がショートカットしたため、集落本体から少し離れたバス停になってしまいました。


梅津トンネル
梅津トンネルは87メートル。平成20年(2008)の開通です。前回ここを通ったときには、なかったトンネルです。
「梅津」の由来は、土地の人によると、・・「梅」は、この辺に梅の木が多かったので「梅」となったんじゃ。「津」はの、「行き詰まった所」じゃったんで「津」なんじゃ。巨岩があって、この先には行けなんだのよ。・・とのことでした。
「行き詰まった所」だから「津」というのは、すこしわかりませんでしたが、・・なんにせよ、そう伝わってとるんじゃから、仕方なかろうが。・・とのことで、了解しました。梅津トンネルは、その巨岩を穿って通したトンネルなのだそうです。


交通標識
380号へ直進せず、379号(左方向)へ進みます。なお国道379号は、突合からは、田渡川沿いの道となっています。代わって小田川沿いに走るのは、国道380号です。


吉野川トンネル
吉野川トンネルは、長さ330メートル。田渡川沿いの蛇行部をショートカットするトンネルです。
「吉野川」とは、なにやら意味ありげな地名ですが、由来については、後述の「新田八幡宮」をご覧ください。


記憶の場所
ここ、思い出した!前回、4人で休憩した所です。
松山さん、北条さんと納札を交換し合ったり、座り込んでアンパンを食べたり、出会ったばかりの若いお坊さんの話をしたり、→(H16春5ここには楽しい記憶がのこっています。


田渡川(たど川)
田渡川は、下坂場峠(後述)辺りを源流とする、小田川の支流です。小田川は肱川の支流ですから、肱川水系ということになります。
遍路道はこの先、下坂場峠を越えるので、その辺までは田渡川と一緒、ということになります。


宮之谷口停留所
少し歩いてみて、わかりました。かなり疲労が溜まっています。
靴の中の「水漬く足」は、フヤケ状態を越え、かなり危険な状態です。スパッツを購入すれば、問題は一挙に解決するのですが、私には便利なものを嫌うという、変な意固地さがあり、購入を躊躇っていたのです。(今は愛用しています。意固地とはいえ、筋金入りではないのです)。


国道379号
うどん屋さんから500メートルほど先に、旧道への分岐があります。
この旧道はおそらく、新田八幡神社の参道でもあるのでしょう。


新田八幡神社
旧道を歩いて、新田八幡神社に着きました。この神社を『えひめの記憶』は、次の様に紹介しています。
・・新田八幡神社は、新田義宗(よしむね)を祀(まつ)る神社です。今から640年ほど前、南北朝の時代(1336~92年)、南朝の忠臣新田義貞(よしさだ)の三男に、義宗がいました。義貞は亡くなり、一族もバラバラになって衰えていった時、再起を図り義宗は四国に逃れ、越智郡の大島や、宇和地方や、大洲、内子方面、小田川の北の方を経て、ここ中田渡に落ち延びてきました。
・・義宗と家来は、岩木(いわき)の森に家を建てたそうです。日がたつにつれて、奈良の吉野にいたころのことが忘れられなくて、中田渡の谷間がその吉野に似ていることから、吉野の千本桜を懐かしんで、東の谷の桜の美しい所を桜原(さくらわら)と名付けました。そして、その谷間と合流して流れる川を吉野川と名前をつけ、自らを慰めていたそうです。


拝殿
・・義宗は、疫病にかかって、山奥のことだから医者も薬もなく、近くに住むおばあさんだけが、看病をしてくれたそうです。ある日、義宗は桜原で川の水を飲もうと下りた時、動けなくなり亡くなったそうです。田渡の人たちは、義宗の遺徳を慕い手厚く葬って、ここに新田武義神社をつくったとの話です。(これが新田八幡神社の始まりのようです)。
・・そのころより、この神社にお参りすると御利益があるということから、旧暦2月の初の卯の日のお祭りを「卯の市」と呼び、卯の刻(午前6時ごろ)参りをするものが多くなってきました。戦前(太平洋戦争前)は縁結びの神様として信仰が厚く、多くの露天商や、いろんな見せ物小屋でにぎわったそうです。戦時中は、武運長久・戦勝祈願のお参りの参拝者も多かったのですが、終戦直後は国を挙げて人心が動揺し、次第にすたれていき、縁日といっても参拝者が少なく寂しい状態になりました。
(なお59番国分寺には、新田義貞の弟、脇屋義介の墓があります。こちらは、義宗のように「神」になることはなく、人として祀られています)。→(H30春6)


日本誕生
境内に陰陽石があります。陰石は、手水場の手水鉢(弘化2年/1845の年号が刻まれている)が、それに見立てられています。
「日本誕生」の文字から、これが伊耶那岐命と伊耶那美命の「国生み」神話に基づいているのは明らかです。ただ(残念ながら私には)それが新田八幡神社ととどう関わるのか、いつからここに置かれ、いかなるメッセージを発しているのかは、わかっていません。


陰石とされる手水鉢 
とまれ、古事記から「国生み」の下りを、書き下し文で記しておきます。
・・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て八尋殿を見立て給ひき。ここにその妹伊邪那美の命に「汝が身はいかになれる」と問い給えば、「我が身はなりなりてなりあはざるところ、ひとところあり」と申し給ひき。
・・ここに伊邪那岐の命詔りたまひしく「我が身はなりなりてなりあまれるところ、ひとところあり、かれこの我が身のなりあまれるところを、汝が身のなりあはざるところにさし塞ぎて、国生みなさんと思ふはいかに」と宣り給へば、伊邪那美の命「しか善けん」と申し給ひき。


中田渡橋
この辺は、中田渡地区です。


石仏たち
ここにお住まいなのは、お地蔵さんでしょうか。
石仏さんたちのお住まいは、近頃は簡易住宅風のものが多くなってきていますが、これは岩陰風(後述)の、なかなか居心地の良さそうなお住まいです。


標識
上田渡地区に入ってきました。


落合トンネル
平成4年(1992)開通。長さ103メートル。
帰宅して、グーグルマップを見ていて気づきました。大失敗でした。
このトンネルの右側には旧道が残っており、そこには落合大師堂があったようなのです。私はすいすいとトンネルを抜けてしまい、見逃してしまいました。


落合
落合トンネルを抜け、右方向、県道42号線(久万-中山線)に向かいます。左に進むと砥部町→松山市です。


標識
県道42号の標識が見え、大宝寺が案内されています。



すごい降りになった来ました。大きな雨粒がバチバチと、菅笠やポンチョを叩いています。
民家はないので、小屋型バス停留所をさがすことにし、急ぎました。
ところが、あった!と思ったら、・・先客がいました。


ドシャブリ 
どうやら ノラ君のようです。ささくれだった(野犬化した)感じはありませんが、はたして小屋を、私とシェアする気になってくれるでしょうか。
追い出してしまうのは、可愛そうなので、さりげない風を装いながら、しかし安心してもらうため、優しく声をかけながら入ってゆきました。やや警戒して前足を立てましたが、逃げ出すまでには至りません。なんとか成功。シェアが始まりました。


仲よく
一人と一匹が椅子の両端に坐っての、奇妙な時間の始まりです。
カメラを向けたら、ちょっと警戒、耳が後ろに下がりました。犬はうれしいときも耳を後ろに引きますが、今の場合は、緊張させてしまったのでしょう。
しかしこのノラ君、たぶんお遍路さんから優しくされた経験があるのです。私の手がザックにかかると、なにか期待の表情をみせるのは、お遍路さんから、食べ物をもらったことがあるからかもしれません。見知らぬお遍路さんたちの優しい心が、ノラ君を通して、私に回ってきたということでしょう。おかげさまで、素敵な雨宿りができました。ありがとうございました。



雨はまだ降っていますが、歩きはじめました。ノラ君へは、行動食を少し残してあげました。
犬は、おおむね私の友達です。このブログにも、けっこう多くのワンチャンが登場しています。帰り道が心配になるほど遠くまで、一緒に歩いてくれたワンチャン。迷っているとき突然現れて、先導?してくれたワンチャン。一声吠えて、私の到着を宿の人に伝えてくれたワンチャン。見知らぬ私との出会いを、身体をすり寄せて喜んでくれたワンチャンなど。そして、この雨宿りのワンチャンも、忘れられないワンチャンとなりました。


臼杵三嶋神社
前回は、ここで大休憩をとったのでした。日向に白衣や靴下を干し、乾くまで休みました。
こんなに長く休んだら、もう松山さん達には追いつけないだろう、そんな話をしていたら、やがて追いついてしまい、それが「ウサギとカメの記」という、CD作製につながったりしたのでした。
今回も、当初は大休止するつもりでいたのですが、・・


拝殿
この降りです。白衣を乾かすどころではありません。頭を下げ、シャッターを押して通過しました。


やぎ
まだ雨は止んだわけではないのに、ヤギがいました。まさかあの雨の中も、ここにつながれていたとは思えないのですが。だとすれば、とんでもなく可哀相なことでした。ヤギは、雨が苦手なのです。


雨上がりのヤギ
こちらは放し飼いですから、雨降りの間はどこかに避難していたでしょう。
写真は、平成17年(2005)、52番太山寺へ向かう途中、志津川沿いの道で撮ったものです。


上畦々
上畦々に着きました。
道標には、・・左方向 へんろ道 ひわた峠経由 大宝寺・・とあります。
これに従い、左方向へ上ってゆきます。右の直進する道は、これまで歩いてきた、県道42号(久万-中山線)です。


入口
・・鴇田峠遍路道・・と石柱にあります。
うっかりすると、これから鴇田峠への「峠道」が始まると勘違いしそうですが(実は前回の私たちがそうでした)、そうではありません。
石柱は、この道が鴇田峠遍路道という名の、大洲から44番大宝寺へ向かうルート上にあることを示しています。


山道
とはいえ、この道は「峠道」ではあるのです。下坂場峠に登る、「下坂場峠道」です。
ここを通るのはほとんどお遍路さんですから、「下坂場峠遍路道」とも呼べるでしょうが(実際、グーグルマップは、そう呼んでいます)、紛らわしくなるので、やはり「下坂場峠道」としておきましょう。


下坂場峠
とまれ、峠に着きました。下坂場峠(H570)です。石柱の所が標高410㍍ほどですから、約160㍍ほど高度を上げたことになります。
峠に着いたら、そこには、先ほど分かれた県道42号が合流していました。42号は、登坂力の弱い車両でも登れるように、グネグネ蛇行しながら、ここまでやって来たのです。


県道42号
さて、これより峠を下りますが、歩く道は、ふたたび県道42号です。
しかしこの下り道は、ほとんど蛇行していません。(距離はほぼ同じなのに)高度差が50㍍ほどに減っているからです。


道標
県道42号を下り、久万川の支流・二名川(にみょう川)が造る、谷底平野に降りてきました。
鴇田峠まで2.7キロ、大宝寺まで6.4キロKとあります。現在時刻は12:45。大宝寺参拝は明日のつもりなので、急ぐ必要はまったくありません。


宮成バス停
ここは宮成(みやなる)という集落です。標高520㍍ほどです。
地名の由来は、わかりませんでした。次掲の葛城神社と関係があるのかもしれません。


葛城神社
祭神は、一言主命。まことに興味深い神様です。
雄略天皇を恐れ入らせたという古事記(712)の記述。雄略天皇と仲よく狩りをしたという日本書紀(720)の記述。その雄略天皇によって、土佐に流されたという続日本紀(797)の記述。役行者に法力で縛られているという日本霊異記(822)の記述。一言主命が時代を下るにつれ貶められてゆく様は、何を物語っているのでしょうか。
なお、土佐に流された一言主命が鳴無神社にまず居を定め、次いで土佐神社へ遷る譚などについては→(H27春10)→(H27秋1)をご覧ください。


葛城大師堂
葛城神社の隣、道より4㍍ほど高いところに、葛城大師堂がありました。茶堂風の建て方になっていて、板敷きの間があります。


葛城大師堂
軒下をお借りして、昼食をとりました。宿でお願いしたオニギリです。
集落を眺めわたしながらの食事を楽しみました。


鴇田峠へ
二名川を渡り、森田集落に入り、いよいよ鴇田峠へと向かいます。


案内
  右直進 鴇田峠入口 とあります。
ここから鴇田峠への峠道が始まります。正真正銘の「鴇田峠遍路道」ということでしょうか。


由良野
由良野(ゆらの)地区は、元は、(先ほど通過した)森田集落の入会山であったとのことです。森田地区の人たちのための茅場(屋根を葺くための茅を得る)であったり、薪炭林(薪炭材を得る)であったりしたわけです。
戦後になり、集団入植による開墾が試みられましたが成功せず、今は、・・自然と人の相互依存と共生関係の本来の姿を求めて・・「由良野の森」づくりが進められていると言います。
なお由良野には、縄文草創期の「由良野遺跡」があります。それは今回私が訪ねる予定の、「上黒岩遺跡」と同期の遺跡とのこと。次の機会にでも、訪ねてみたいものです。


道標
  へんろ道 
風情のある道標です。アジサイの、少し盛りが過ぎているのも一興。


一服
  お大師さまと一服
この頃の私には喫煙習慣があったので、むろん、一服も二服もさせていただきました。しかし、この看板、今はもう取り払われているのでは?


休憩所
シャレタ休憩所です。



いよいよ鴇田峠への登りにかかります。


道標
鴇田峠まで0.9キロとあります。



前回、松山さんたちの鈴の音が聞こえてきたのは、この辺だったでしょうか。
人が多いところでは、迷惑かもしれないので鳴らさないようにしているが、山の中では鳴らしていると、そんな話を聞いていたので、きっと彼女たちだろうと思ったのでした。よく届く鈴の音でした。



石畳のためでしょうか、道が川になっています。
すでに靴は浸水しているのですが、かといってザブザブ歩く気にはなれません。しっかりした石の頭を拾いながら、捻挫しないように進みます。こんな時、お杖には助けられます。


道標
この辺では、もう松山さんたちに追いついていたと思います。
・・私たちは久万からバスで松山に帰るので、もう会えないかと思ってました。
・・では、バス乗り場までご一緒し、見送りましょう。
こんな話を交わしたのでした。


Iだんじり岩
この岩は「だんじり岩」と呼ばれているとのことです。側に、次の様な説明がありました。
・・この十畳敷きほどの大きな岩は、その昔弘法大師が四国八十八ヵ所巡錫の時、あまりの空腹と疲労のため、自分の修行の足りなさに腹を立て、この岩の上で「だんじり(じだんだ)」を踏んで我慢されたそうです。その時踏んだ「だんじり」の足跡が残っており、それ以来誰言うとなくこの岩を「だんじり岩」と呼ぶようになったそうです。


鴇田峠
「ひわた峠」です。峠の案内板は「ひわだ」と濁らせていましたが、ここは「協会地図」に従い、「ひわた峠」としておきます。
ところで「ひわた峠」は、なぜ「鴇」という字を当てているのでしょう。「鴇」は、鳥のトキの字です。「ヒワ」の字は「鶸」なのですが。


大宝寺へ
44番大宝寺へ4キロ。もうすぐです。
4人で、列を組んで歩いたのでした。北さん-松山さん-北条さん-私、の順でした。



真念さんは『四国遍路道指南』で、この辺の道を、次の様に案内しています。
・・上たど村、過て三嶋明神、○うすぎ村、大師堂○二明村、爰にかつらき明神、行てはしわたり大師堂。過てひわだ坂、此の峠より久万の町、すがう山見ゆ。大洲領、松山領のさかいなり。・・
「上たど村」は上田渡村、「うすぎ村」は臼杵村、「二明村」は、今は二名村と表記、「かつらぎ明神」は、今は葛城神社です。


久万の街
・・此の峠より久万の町、すがう山見ゆ。
(峠から少し下ってでしたが)確かに見えました。菅生山は判別できませんが、久万の町が一望できました。
・・大洲領、松山領のさかいなり。
かつては藩領の境となっていましたが、今は、内子町と久万高原町の境になっています。


新四国88ヵ所
鴇田峠からの下りは、林道と、林道のヘアピンをショートカットする、山道とから成っています。山道には、久万新四国八十八ヵ所の信仰空間が創られています。


国道33号
降りてきました。とは言え、ここは久万高原町です。高原の名の通り、標高は480㍍ほどあります。
谷底平野の背骨でもあるかのように、国道33号が走っています。旧土佐街道(松山街道)をベースとする道で、高知と松山を最短で結ぶ国道です。
この道を北進すれば、三坂峠を経て松山に入るのですが、むろん私たちはその前に、44番、45番を打たなければなりません。


道標
宿に向かいます。


おもご旅館
16:00 おもご旅館着
44番大宝寺のお参りは、明朝に回します。疲れがたまっていることもありますが、それよりも、明日の予定がゆっくりだからです。
明日の行程は。おおざっぱには、次の様に考えています。
44番大宝寺参拝→バスで上黒岩遺跡へ移動→タクシーで45番岩屋寺へ移動→バスで高野口へ移動→三坂峠の宿へ歩く。


床の間
床の間つきの、立派な部屋で夕食です。泊まり客は私一人。
額の書に為書があるので、・・お宅は森さんなのですか?・・と尋ねてみると、
・・そうなんです。この額は、巖谷小波さんが三代前の当主(初代)に贈ったものなんです。・・とのこと。驚きました。



かつて久万が林業で財をなした頃の話など、いろいろの話をして下さいました。
うかがったお話のいちいちは記せませんが、この旅館の歴史は古く、明治初期は、橋長旅館の名で営業していたと言います。おもご旅館と改めたのは大正期とのことでした。(これらのことは、新聞紙上でも伝えられているので、記すことができます)。
・・「富士の間」という、乃木大将もお泊まりになった部屋がありますが、贅を尽くしたお部屋ですよ。ご覧になりますか?・・


欄間
もちろん、見せていただきました。
6畳と4畳半の続き部屋になっていて、写真は、その境にある欄間「富士山」です。これが部屋の名の興りとなっています。富士に松が見えますが、これはサルスベリの細工物です。
初めは、初代当主の隠居部屋として設えたようですが、やがて乃木大将、巌谷小波など、著名人を泊める部屋として、使われるようになったとのことです。


天井
「支輪(しりん)変わり天井」と呼ばれているそうです。黒い部分が見えますが、「黒柿」です。やや白く盛り上がって見えるのは、サルノコシカケだそうです。その他、桑、欅、屋久杉など、超高級材がふんだんに使われています。因みに黒柿とは、ネットで調べると、・・樹齢数百年、白と黒の美しい模様を持った希少な柿の古木です。 ・・とのこと。


屋久杉
ただ残念なことですが、リライト版を書くために調べてみると、この「おもご旅館」、今は閉店となっていました。

 平成22年(2010)7月15日 雨のち晴 第五日目

天気
今日は上黒岩遺跡の見学日です。この遺跡は貴重な複合遺跡で、縄文草創期(約16000-11500年前)から縄文後期(約4400-3200年前)にかけて、1万年ほどもの間、人が住みつづけていたと考えられています。6年前、北さんと訪ねたいと思いながら果たせず、残念に思っていたのでした。
7:00 ゆっくりと朝食し、荷物は宿に預けて大宝寺に参拝します。
9:00過ぎのバスで、遺跡に向かいます。
今日も良い天気とは言えないようですが、上黒岩遺跡から45番岩屋寺へはタクシー。岩屋寺から宿のある久万へは、再びバスを使います。まず問題はないでしょう。


大宝寺へ
手前を久万川が流れています。架かる橋は、総門橋。その奧に見える門が、大宝寺の「総門」です。
小学生の黄傘が咲いています、いいアクセントになってくれました。


ふり返って
久万川方向をふり返って撮りました。
道が軽い下りになっています。


勅使門
勅使橋というそうです。
勅使とは、後白河天皇がご病気平癒祈願に際し、遣わされた勅使です。より詳しくは、→(H16春6) →(H28秋4)をご覧ください。


下乗
ここからはどなたも、たとえ勅使といえども、ご自分の足で歩かねばなりません。


山門
44番は88ヵ所のちょうど真ん中。中札所というそうです。どなたもが此所に来て、結願までの残る日数を計算してみることでしょう。
平成16年(2004)春、私も北さんと当寺に参り、目算してみました。ただし、神ならぬ身の知るよしもなし。その時のデータに「平成17年椎間板ヘルニア手術」は、織り込まれていませんでした。


山門 
さて、これより山門を潜り、本堂、大師堂とお参りを済ませまたのでしたが、なぜでしょうか、その部分の写真がないのです。「椎間板ヘルニア」が平癒したことを感謝し、今回の遍路の安全をお祈りしたのは確かなのですが。
というわけで、やむをえません。お寺の由来などについても、こちらをご覧ください。→(H16春6) →(H28秋4)


バス
お久万大師の隣の、伊予鉄久万営業所で乗車。上黒岩遺跡に向かいます。
写真の行き先表示には、主要停留所しか記されていませんが、「上黒岩遺跡前」という停留所もあります。「御三戸(みみど)」(後述)の三つ手前の停留所です。
なお「伊予落合」は、国道33号に国道380号が落ち合う?地点です。33号は松山から南進し、久万の谷底平野を貫いた後、久万川の流れと共に東へ向きを変えます。その転進点へ、東進してきた380号が合流。380号は33号に役目を譲って、ここで終点となります。


上黒岩遺跡前
到着です。
(現時点でのことは分かりませんが)当時は、JR四国バスと伊予鉄南予バスの二社が、この路線を運行していました。


案内地図
「岩陰文化の里」として、地域の活性化を図ろうとしているようでした。
「岩陰文化」の名は、上黒岩遺跡が「岩陰遺跡」(後述)であることから来ているのでしょう。
「山中家住宅」が記されていますが、これは、宇摩郡別子山村(現・新居浜市)から移築したものだと聞きました。国の重文指定を受けています。


久万川
 ♫川は流れーて どこどこゆくのー  
この水、流れ流れて、土佐湾の太平洋に注ぐのだそうです。
35番清滝寺の辺りで見た、あの清流・仁淀川に、この久万川の水がブレンドされていたなんて、思ってもみないことでした。


久万川
久万川から先、太平洋までの流れは、次の様です。
・・この先(先述の)御三戸で、久万川は面河川に合流し、
・・面河川は、愛媛と高知の県境・柳谷(やなだに)を経て、高知県に入ります。
・・高知県に入った面河川は、仁淀川と名前を変えて東進。
・・伊野町で南に転じて、土佐湾に注ぎます。私たちは、この南進する仁淀川を渡り、清瀧寺に向かったのでした。


旧山中家住宅
四国地方山間部に見られた、典型的な住宅とのことです。建築は、18世紀中期から末期と推定されています。


山中家
茅葺きの分厚さに驚きます。


山中家 
きれいな入母屋です。


岩陰遺跡
上黒岩遺跡は、高さ約20mの石灰岩の断崖を背に、西南に開いた岩陰遺跡です。
「岩陰遺跡」とはニッポニカによると、・・まっすぐに切り立った断崖直下のわずかな広さのくぼみを、天然の住居として利用した古代遺跡・・を言います。そのくぼみの奥行きが深くなると、「岩陰」ではなく、「洞窟遺跡」と呼ぶようですが、上黒岩は、そこまでは深くないのです。


岩陰遺跡
『えひめの記憶』は、この遺跡発見時のことを、次の様に記しています。
 「これは、どうも社会科で習った古い土器のかけららしいよ」
(美川)中央中学校二年生(1年とも)の竹口義照はそう思った。父の渉が自宅左隣の岩陰で田なおしの土をとっていると、おびただしい「川ニナ」にまじって、土器のかけら・動物の骨などが出てきた。昭和三六年の春まだ浅い頃のことである。
義照から学校へ、報告を受けた美川村教委から県教育委員会へ。その依頼を受けた愛大文理学部西田栄教授が来村し、調査の結果、貴重な繩文遺跡であることが確認されたのが、昭和三六年六月四日のことであった。


上黒岩考古館
標高397Mのこの辺には、高地の故でしょう、クリ、ナラ、クヌギ、トチなど、東日本に卓越する落葉広葉樹が野生しており、その若芽や実を好むイノシシ、シカ、ウサギ、ツキノワグマ、それらを捕食するニホンオオカミが棲んでいたと言います。
人間は、これらを採取、捕食して暮らしていたわけですが、補食した動物は、発掘された骨の鑑定から、イノシシ、ニホンジカ、カモシカ、ウサギ、ツキノワグマ、ニホンオオカミ、カワウソ、カワニナなどであったそうです。


ニッポンイヌ
しかし犬は、肉食の対象ではなく、トモダチであったようです。
家犬として飼われていたらしく、この犬は、人と共に埋葬されていたと言います。


発掘当時
(考えるところあり、写真は掲載しませんが)発掘された成人女性の全身骨が、展示されていました。20体ほど出土したうちの、一体だといいます。
身長147センチとのこと。けっして低い方ではなかったろう、と考えられています。なお男性の平均身長は、これにプラス10センチ位であったろう、と推定されています。
人骨がこれほど損傷が少ない状態で残ることができたのは、場所が南面した傾斜地で乾燥していたこと、カルストの石灰分が土壌を中和し、そのため骨のカルシウム分が溶け出すことがなかったこと、などが考えられるそうです。そういえばこの遺跡、四国カルースト台地(石灰岩台地)の西端に位置するのでした。

 
線刻礫(石偶)
次のような説明がされていました。
・・石にいくつもの線を刻み、長い髪や腰蓑(?)乳房などを表現しています。この石は女性を表現したものと考えられており、「女神石」とも呼ばれています。
・・用途については不明な点もありますが、子どもを産むことができる女性の特質や生命力を信仰の対象として、狩猟や採集といった自然の恵み子どもの誕生ないしは安産を願う祭祀の道具として使っていたとする説などが考えられています。
・・近年では、ユーラシア大陸の旧石器時代のヴィーナスとの比較研究が行われ、関連性が指摘されています。


殺傷人骨
(これも写真は掲載しませんが)へら状骨器が刺さった腰骨が展示されています。
一時は「最古の殺傷人骨」として注目された人骨ですが、その後の研究から、次の様なことが判明しているとのことです。
・・この腰骨は女性のものであり、(へら状骨器は)死亡の直前、或いは死後に刺されたものであることが、判明しました。それは何らかの病気で亡くなった女性への、儀礼行為として行われ、死亡の原因となった悪霊?を取り除くためであったのではと推測されます。



遺跡見学を終えた頃、晴れ間が見えてきました。久しぶりの晴れ間です。
ここから岩屋寺まで、バスの路線はありすが、適当な便はありません。仕方なく(というより、そのつもりだったのですが)、タクシーを呼んでもらいました。来てくれたタクシーは、(先述の)高知との県境・柳谷のタクシーでした。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は岩屋寺から、できれば三坂峠を越えた辺りまで、ご覧いただこうと考えています。更新は9月4日を予定しています。
もはや地球温暖化ならぬ沸騰化が、連日の猛暑、天候不順をもたらしています。皆さま、くれぐれも体調管理にお気をつけられ、過ごされますように。

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金山出石寺 大洲 十夜ヶ橋 内子 大瀬の宿

2024-07-10 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年夏の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年(2010)7月12日 雨 第二日目のつづき

出石寺着
11:20 空海(弘法大師)像が見えてきました。ようやく出石寺に着きました。
平野駅を7:00に歩きはじめて4時間半。一条兼定寄留地での長滞在、雷様からの避難を含めての時間ですが、ずいぶんかかったものです。


空海像
出石寺の山号が「金山」(きんざん)に改められたのは、大同2年(807)のことだと言います。それまでは、「雲峯山」と称していたそうです。
出石寺を訪れた空海(弘法大師)が、この山に有望な銅鉱脈があることを確認。これは「三国無双の金山」であるとて(当時は、「銅」は「金」と呼ばれていた)、山号を「金山」に改めたと伝わります。(この山で銅が採れるのは本当のことで、事実、明治末から昭和20年まで、三菱鉱山が銅の採掘を行っていたそうです)。


大師像と熊野権現の鳥居
空海(弘法大師)は、またこの時、金山出石寺の守護として、熊野権現を勧請したと伝わります。写真の鳥居が、熊野権現の鳥居です。
「熊野権現」とは、熊野三山に祀られる神々、つまり熊野大神を言います。なかでも、 家都美御子大神(すさのう)、熊野速玉大神(いざなぎ)、熊野夫須美大神(いざなみ)の三神のみを指すときは、熊野三所権現と呼ばれ、その他の神々を加えて、熊野十二所権現となることもあります。「権現」と称されるのは、本地垂迹説の考え方によるからです。


熊野権現 
鳥居の奥に、熊野権現社が見えます。
権現社の側に見える、木に埋もれた小山は、勧請に際し空海(弘法大師)が護摩を修したと伝わる、護摩壇の跡です。今は「護摩山」と呼ばれています。


護摩山(平成28年撮影)
熊野権現の裏にまわると、「護摩山」の標示がありました。小さい方の立て札には、「大同三 弘法大師が護摩供 修法の遺跡」と記されています。
後述しますが、空海は(単に「伝承」されているだけでなく)本当に金山出石寺に登っていた、とする研究があります。護摩山を「遺跡」と称し、護摩を修した年号まで記しているのは、そうした研究が意識されてのことかもしれません。なお大同3年は、西暦では808年です。


護摩山から(平成28年撮影)
熊野権現を背に空海(弘法大師)が、本堂方向を眺めておられます。
この景色が、あるいは1200余年前の実景であったかもしれないと思えば、なにやら心が躍ります。


石段
出石寺の伽藍は、出石山山頂に至る尾根筋に配置されています。
写真の石段が、本堂に至る、最初の石段です。上ると、仁王門があります。
石段を上りながら、お参り前の汗拭き、濡れた靴下絞り、できかかっているマメの応急手当など、あまり人目にさらしたくはない作業を、門の片隅をお借りして、やらせてもらおうと考えました。


仁王門
仁王門をくぐると広場があります。広場の右側に納経所が、それに向かいあう左側に、うどん屋さんや土産物屋さんがあります。
正面には、また石段があり、これを上ると、大師堂がある平面になります。


上からの写真
上から撮った写真です。右に写っている立派な屋根が、仁王門です。
白壁がある棟に納経所があり、それに向かい合う位置の瓦屋根(右下)が、うどん屋さんなどの棟です。
赤い寄進幟が立っている石段を上ると、大師堂になります。


大師堂の段
大師堂がある段に上がってきました。
写真中央の屋根が仁王門です。
右に臥牛像(後述)が見えていますが、この牛の目線の先に、大師堂があります。


臥牛像と大師堂(平成28年撮影)
前述の「空海は本当に出石寺に登ったか」の研究ですが、『えひめの記憶』に、次の様な記述があります。すこし長くなりますが、引用させていただきます。
・・空海24歳(延暦16年、797)の作といわれる『三教指帰』と『聾鼓指帰』によると、18歳で大学に入った空海は、まもなく中退してから24歳までは山岳修行者として近畿・四国の山々をめぐったとみられ、
・・四国については、
 阿国大滝嶽に躋り攀ぢ(のぼりよじ)、土州室戸崎に勤念す(三教指帰) 
とあり、また、
 或るときは金巌(きんげん)に登りて雪に遇いて坎らん(かんらん)たり、
 或るときは石峯(いしみね)に跨り、もって粮(りょう)を絶ちて
 轗軻(かんか)たり (同 共に原漢文)
と書かれている。
・・阿波国大滝嶽は21番札所大龍寺の地であり、土州室戸崎には最御崎寺がある。また、「金巌」の自註(聾鼓指帰)には「加禰能太気」(かねのたけ)、「石峯」の自註には「伊志都知能太気」(いしつちのたけ)とあり、後者は石鎚山をさすことにまちがいないが、前者を「金山」といわれる出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。

以上、金巌=金山出石寺説の考え方が、わかりやすく説明されていると思い、引用させていただきました。
ただ最後の一文は、正直、私にはわからないところがあります。とりわけ「中央」とは、何を指すのでしょうか。どうやら、私が知らない研究の経緯があると察しました。


大師堂
そう思い、調べていると、次の文に出会いました。大本敬久さん(愛媛県歴史文化博物館専門学芸員/伊予史談会)が書かれた、『三教指帰に見る空海と四国』のまとめ部分です。
・・以上、弘法大師空海の青年期の修行地「金巌」についてその解釈を時代ごとに確認すると、中世以前には具体的な比定地は現れないものの、江戸時代には伊予国(金山出石寺)説が通説化していたことがわかる。そして昭和以降の岩波文庫本や『弘法大師空海全集』の刊行等により金峰山説が登場し、伊予国説が見られなくなってきている。伊予国説は新史料の発見により否定されたわけではなく、解釈の問題で金峰山説が有力とされたという状況であり、この件の実証的研究は今後も追及されるべきといえるだろう。

なるほどと、腑に落ちた感じです。伊予国説が(否定されたわけでもないのに)見られなくなっている、そんな現状を・・出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。・・と記したのでしょう。
長くなりましたが、以上を以て、「研究」に関する記事を終わります。


臥牛 お手ひきの鹿像
大師堂の向かいに臥牛像があり、その奧に、鹿の像がありました。
鹿は、出石寺縁起に出てくる、作右衛門が追い詰めた(実は導かれた)「お手びきの鹿」の像です。これは、すぐわかりました。
しかし、臥牛はなんでしょう。出石寺といかなる関係があるのか、わかりませんでした。
帰宅後、調べていると、『伊予細見』というHPで、興味深い記事に出会うことが出来ました。『第75回上須戒紀行』という記事です。


臥牛像 お手引き鹿像(平成28年撮影)
・・(大洲市上須戒の)護国寺は明治の初めに当地の庄屋向居家の邸を寺院に改築したもので、今も金山出石寺の隠居所になっている。戦前は、山頂の金山出石寺の僧坊で使う、米、味噌、醤油などの食料や生活物資はこの護国寺から牛の背に乗せて上げていた。荷物を積んで牛のお尻をポンと叩くと、牛は勝手に山道を歩いて、山頂の決められた場所まで上がって行ったという話を聞いたことがある。

思うに、これが臥牛像の由来なのです。どなたか信者さんが、そんな感心な牛の像を造り、奉納したのでしょう。


卯之町の二宮敬作住居跡(平成28年撮影)
なお、護国寺の隣には、江戸時代末期の蘭学者にして医師・二宮敬作の居宅跡があるそうです。二宮敬作は、(シーボルト事件後)シーボルトの娘・楠本イネを養育。日本初の女医(産科医)に育てたことでも知られる人物ですが、私は二宮の居宅跡を、卯之町でも見ています。→(H28春4)
二宮はどのような経緯で、上須戒(かみすがい)にも住んだのでしょうか。


住居跡(平成28年撮影)
二宮が上須戒に住んだ経緯を、『えひめの記憶』は、次の様に記しています。
・・長崎払いとなった二宮敬作は、文政13年(1830年)6月、11年ぶりに故郷の磯崎の土を踏んだ。彼は故郷でしばらく休養した後、かねてから許婚であった喜多郡上須戒村(現大洲市上須戒)の西イワと結婚した。 敬作は、西家で2年半ほど医師を開いたが、敬作の名声を耳にした宇和島藩主伊達宗紀の内命もあって天保4年(1833年)、30歳の時、宇和郡卯之町(現宇和町卯之町)に出て開業した。
察するに、上須戒に移った敬作に、向居家が住まいと開業の場を提供したのではないでしょうか。


本堂
ようやく本堂に着きました。出石山(812㍍)の山頂部に立っています。
こちらに祀られているのは、木彫・千手観音菩薩像です。年に一度、開帳されるとのことです。


供養塔
本堂の側に供養塔が建っていました。
 本尊湧出一千二百年供養塔
と刻まれています。「湧出」とは、当寺のご本尊が、「自然湧出の銅仏」であることによります。


奉納錨(平成28年撮影)
山頂の、たしか佐田岬を眺める方向だったと思いますが、玉垣の角に、錨が奉納されていました。航海安全の祈願に、船乗りたちが担ぎ上げてきたのでしょうか。海での安全を山上の神仏に祈願することは、かつては、普通にみられたことです。
錨は、江戸時代から明治時代にかけて和船で使われた、四爪錨(よつめ・いかり)と呼ばれる錨です。


西方向?
雨天の景色も、それなりにすばらしいのですが、もし晴れた日の景色をご覧になりたいときは、→(H28春6)に数枚、載せていますので、ご覧ください。


南方向?
こちらは南・宇和方向でしょうか。


北東方向
これは、電波塔が見えるので、おそらく、北東方だと思います。


下山
うどん屋さんに入り、甘酒と素うどんをいただきました。
腹を満たし、休憩も取り、これから下山です。時刻は、12:50。
なお余談ですが、私は、・・うどんを食べるなら素うどん、・・と決めております。薄い透き通るようなナルト、できればたっぷりめのワケギ、これに七味を少々。これが、うどんそのものが楽しめる、一番の食べ方です。麺にコシがあることを、固いことと勘違いしているうどん屋さんも多い近頃、こちらは麺も汁もけっこうな、美味しい四国のうどん屋さんでした。


県道248号
県道が見えてきました。
2.5キロほどの下りでしたが、40分ほどかかっています。


標識
県道248号(瀬田八多喜停車場線)です。
標識に上須戒が示されています。前述の、牛の護国寺や二宮敬作住居跡がある所です。
私は右方向、高山に向かいます。


雲の中
天気はわずかに回復傾向を見せています。



県道148号を行きます。



1キロ弱歩くと、往路、登ってきた道への下り口に着きました。ここを下ると、平野に出るわけです。
しかし復路は、別の道を行きます。高山を経て阿蔵から西大洲に降りて、宿まで歩くことにしました。



雨が止んできたようです。しかし、私はまだ、雲の中にいます。


標識
出石寺から、9キロほど歩いてきたようです。時刻は、14:10です。


視界不良
視界不良ですが、なんの不安もありません。



西大洲の街が見えます。今日、始めて見る「下界」の景色です。


集落
高山(たかやま)集落でしょうか。集落名は、北方向にある高山寺山(こうせんじ山・561㍍)に由来するようです。元はお寺があったのかと思い、調べてみましたが、わかりませんでした。



途中、崖の崩落箇所を二箇所、目にしました。最近のものです。一カ所などは、民家のすぐ裏まで迫っていました。


メンヒル
この石は、「メンヒル」だと言います。日本語では「立石」(りっせき)と言うのだとか。
墓標だとも、なにかの記念碑だとも言われていますが、わかってはいないようです。なんらかの思いが込められているのは確かなのですが。
なおこの立石は、正面が真東に向き、その方向には冨士山と神南山があります。そのことに何の意味があるのか、ないのか、それはわかっていませんが。


肱南方向
写真中央に見える橋は、肱川にかかる肱川橋です。橋の右に広がる街部が、前号で記した、大洲城下の「大洲」になります。かつての「大津」です。肱川を境とする呼称では、「肱南」と呼ぶそうです。
拡大すると大洲城も見えるので、拡大してみます、・・次の写真をご覧ください。


肱川橋と大洲城
ピンボケですみませんが、大洲城が写っています。


案山子
思わず話しかけそうになりましたが、案山子でした。


肱北方向
肱北と呼ばれる地域です。肱川橋が架かり、愛媛鉄道(大洲-長浜間)の大洲駅ができたことで、この地域は開けます。
架かっている橋は、五郎大橋です。大橋を右方向に延長した先に、市立喜多小学校が見えています。(白く写った大きめの建物です)。



高山から、阿蔵(あぞう)という区域に入ってきました。


通行止め
「へんろ道 前方路崩落 迂回路」と標示されています。道標に記されているくらいですから、この崩落は、最近のものではありません。


案内
ここからは車道を行くこともできますが、信頼できる道標二本に誘われて、へんろ道を歩きます。



下へ降りてきました。


予讃線
予讃線の下をくぐり、大洲城に向かって歩きます。宿は肱川橋を渡った先にあります。


久米川
久米川です。この川が肱川に合流する所に、大洲城は建っています。
久米川は、今は大洲市を流れる川ですが、江戸時代は、上流部分は宇和島藩、下流部分は大洲藩と、分かれていました。前号で記した平野駅の近くに番所があり、ここが藩境になっていたのです。→(H28春6)


藩境の番所跡(平成28年撮影)
そのため両藩の領民間で、「水争い」がよく起きていたといいます。
こんな話が伝わっているそうです。
・・上流の宇和島藩が水を分けてくれないことに、下流の大洲藩は腹を立て、藩境に堰を築いてしまったのだそうです。
・・堰き止められた久米川の水は、当然、行き所を失い、宇和島藩内に溢れたといいます。これが大洲藩の狙いでした。
・・困った宇和島藩は、これからは水を分けることを約束。堰を解いてもらい、洪水から逃れることができたのだそうです。


大洲城
大洲城が間近に見えてきました。奥の山は、冨士山です。


鉄砲町
城下町らしい町名です。
喫茶店があったので、入ってコーヒーをいただきました。前号で「少年式」のことを記しましたが、それは、ここで仕入れた話でした。


宿着
10時間弱の歩きでした。普通よりは3-4時間は長くかかっているでしょう。
ポンチョを脱いでタオルで水を落とし、杖を洗って玄関に入りました。
さて、どうしたものか、おろしたザックはどこに置いたらいいのか、どうやって靴を脱ごうか、靴下もここで脱がないと、・・しかし、なにも困ることはありませんでした。宿の若夫婦が、すべてを心得ていてくれました。



天気予報です。明日も雨のようです。それも、梅雨末期の激しい降りのようです。
北さんが心配して、電話を入れてくれました。

  平成22年(2010)7月13日 雨 第三日目

歩きはじめ
6:45 宿発。今日の歩きは、20キロ余です。ほとんどは、国道56号を歩きます。内子町に入る手前のへんろ道以外はアスファルト道なので、足を傷めなければと心配です。
宿は、懐かしの(後述)、大瀬の「民宿来楽苦」を予約しています。


国道56号
ジョイフルでコーヒーを飲みました。ここもまた、思い出の場所だからです。
6年前、(北さんと)ここでコーヒーを飲んだことがきっかけで、二人の女性遍路と知りあえたのです。北条さんと松山さんでした。お二人とは、民宿来樂苦でも同宿し、翌日は久万高原まで、相前後しながら歩いたのでした。翌年、私たちが松山を通過する時には、宿まで、差し入れ持参で「激励」にも来ていただけました。ここは、そんなおつきあいが始まった所なのです。


赤橋の絵
歩道に沿って、小学生の絵が展示されていました。どれも「印象派」で、素晴らしい絵ですが、長浜小学校の「赤橋」は、とりわけ心引かれる絵でした。


赤橋(平成18年撮影)
「赤橋」とは、肱川河口に架かる開閉式の鉄橋で、昭和10年(1935)の完成です。開閉式であるところに、かつての肱川水運の隆盛がうかがわれます。
なお赤橋が架かる現・大洲市の長浜は、土佐を脱藩した坂本龍馬が、ここから船に乗り、下関に逃れたことでも知られています。


十夜ヶ橋永徳寺
国道56号と松山自動車道に囲まれて、十夜ヶ橋永徳寺はあります。
十夜ヶ橋の謂われはよく知られており、私自身も記したことがあるので→(H28秋1)略しますが、その謂われから発して、十夜ヶ橋では珍しく、遍路の野宿が認められています。


大師堂
リライト版であるから書けることですが、令和6年5月4日の『オンライン読売新聞 ゆかりの地を訪ねて』で、十夜ヶ橋永徳寺の三好円暁住職は、次の様に話しています。
・・今でも週に2、3人は野宿をし、屋根のある通夜堂にはほぼ毎日お遍路さんが泊まられます。


本堂納経所
これもまたリライトである故の記事ですが、平成30年(2018)の西日本豪雨で、都谷川が氾濫。十夜ヶ橋永徳寺は、甚大な被害を受けました。特に本堂は傾き、解体のやむなきに至ったと言います。


都谷川(とや川)
その豪雨からまもなく6年。令和6年6月、新しい本堂が完成したとのことです。
令和6年(2024)5月10日、南海放送は、次の様に報じています。
・・県産のヒノキやケヤキが使われた本堂は、基礎をおよそ2メートルかさ上げするなどの対策がとられています。・・(次なる水害に備え)中二階に避難者を受け入れるスペースが設けられています。


お大師さま
洪水の時には、この部分も水没していたのでしょう。
棲みついていた鯉たちは、どこにいったのでしょう。瀧をも登る魚ですから、なんとかやり過ごしたとは思いますが。



下の道は国道56号、上の道は松山自動車道です。
56号を歩き、やがて新谷の街に入ります。昔の風情を今に残す街です。江戸時代は、大洲藩の支藩・新谷1万石が支配する街でした。→(H28秋2)


神南酒造
古い造り酒屋、神南酒造です。残念ながら、今は廃業しているとのことです。


神南山
前号でもご覧いただきました。少彦名命の神奈備山である、神南山です。


国道56号
国道に「イノシシ危険」の標識が立っています。


内子町
内子町に入ります。しかし古くからの内子の街は、まだすこし先になります。


分岐
国道56号から離れて、左の道に入ります。


分岐点
古い石柱は、徳右衛門道標です。
  是〆菅生山迄九里 左へんろちかみち
  内之子六日市大師講中


谷戸へ
徳右衛門道標の「左 へんろちかみち」が、この道です。
この道は、谷戸へ入って行く道です。



ゆるやかに谷戸の道を上ってゆきます。今日、唯一の土の道です。
右には、棚田が開けています。


棚田
地面の柔らかさを足裏が感じています。苗の青を、目が楽しんでいます。
この道を上りきると、そこは運動公園になっていて、ここから内子の、古くからの街への下りとなります。


野球場
ここもまた、懐かしの場所です。松山さん、北条さん、北さんと、ここで休憩。野球を見ながら、栄養補給をしたのでした。


溜め池
古くからの溜め池で、駄馬池というそうです。道を挟んで、お大師さんの「思案堂」があります。→(H28秋2)


南京はぜ通り
予讃線の下をくぐり、内子の街に入ります。
なぜ「はぜ通り」ではなく「南京はぜ通り」であるのか。本来なら蝋を採る「はぜの木」を植えたいところなのでしょうが、やはり「かぶれ」が心配なのでしょう。「南京はぜ」ならかぶれません。
内子はローソクの原料・櫨蝋(はぜろう)作りで栄えました。しかしその需要は、電灯の普及と共に、大正末期で無くなってしまいました。その後、内子は、今度は製糸の街に変貌。ふたたび活気を取り戻します。


薬屋
そして、今は観光の街として盛況のようです。本途、古い街並みを残しておいて、良かったと思います。
薬屋の様子を再現しています。薬箪笥やケースが整然と並ぶ様は、まさに薬種屋です。
因みに、看板の「六神丸」は、強心薬で動悸、息切れ、気付けに効果をあらわすとのこと。
「 五龍圓」は、 下痢、消化不良による下痢、食あたりなど。
「健胃散」は、これは読んで字の如し。
「沃度丸」ヨード丸と読むようですが、薬効の方はわかりません。



国道56号から分かれ、国道379号に入ります。奥に見える高架道は、松山自動車道です。


小田川
小田川は、近自然河川工法(多自然型河川工法)により、その景観の良さを失うことなく、改修工事されています。


道の駅
国道56号と379号の分岐点に、道の駅があります。
昼食をとり、明日まで保ちそうな行動食を購入しました。



この絵は、おそらくどなたの記憶にも残っていることでしょう。前回(6年前に)見たときは、もっと鮮明だったのですが。


6年前の絵
前回の絵です。6年の歳月が思われます。


小田川
数日来の雨で、水量が増えています。


バス停
右の小屋はバス停です。(令和の今はどうかわかりませんが)便は少ないけれど、上畦々(かみうねうね)まで、バスが走っていました。
バス停の小屋は、遍路の休憩所としても、提供されていました。中には、4人ほどが横並びに座れる、椅子がありました。


お店
「協力会地図」にも記載されているお店です。食糧調達に便利であるだけでなく、現在地確認の目印にもなってくれます。


長岡山トンネル
平成27年(2015)の開通。 長さ392㍍とのことです。
小田川の蛇行に沿って走る道のヘアピン部を、トンネルを穿って切り離しました。ショートカット道ができたわけです。


休憩所
開いてみると、清潔な布団が重ねてありました。
壁に「二泊しかお宿はできません」とあるのは、長逗留してしまう人がいるからでしょうか。


桝木橋
車は、橋を渡って直進。
歩きの人は、左の道を進みます。距離的には、ほとんど変わりません。


登山口
石鎚神社登山口、とあります。できれば登ってみたいと思い、その所在を調べてみましたが、わかりませんでした。


あずまや
道路沿いにあって、誰でもが立ち寄れるこの四阿は、「茶堂」です。一面に祭壇が設えられているのも、茶堂の特徴です。茶堂については、→(H16春5)→(H28春4)をご覧ください。


灯森三島神社
灯森三島神社(とぼしがもり三島神社)は、永禄11年(1569)、曽根城主・曽根宣高(のぶたか)が大山積神、 雷公神、高龗神を、大三島・大山祇神社から勧請して、神殿を建立したことに創まる、とのことです。その時に作られた御系図は、幅30センチ、長さ3メートルの巻物で、街の有形文化財とされていると言います。
なお、この社殿に残る彫刻は美事で、「長州大工」の手になるものです。「長州大工」については、枯雑草さんの「 長州大工の心と技 その1-7」を、ぜひご覧ください。灯森三島神社は、「その4」に載っています。


大瀬
内子町大瀬地区です。大江健三郎さんの生家があります。
大江さんが生まれた昭和10年(1935)当時は、まだ(内子町ではなく)大瀬村で、この辺は「成留屋」(なるや)と呼ばれていたそうです。少年時代の大江さんにとっては、ここが全世界・・僕が育った「谷間の村」・・でした。
大江さんは、ここで経験した閉塞感を、とりわけ初期作品に、色濃く反映させています。


大瀬小学校
説明板によると、この学校は、・・明治7年(1874)に大成小学校として新築、開校しました。明治時代中期、成留屋尋常小学校となりましたが、昭和16年(1941)大瀬国民学校を経て、昭和22年(1947)から今の名前になりました。・・とのことです。
健三郎少年は、昭和16年(1941)、大瀬国民学校に初の国民学校1年生として入学。昭和21年(1946)、最後の国民学校卒業生として、卒業しました。
「少国民」たるべく期待されて入学したものの、5年生の夏には敗戦。以後は「すみぬりの教科書」で学んで、卒業したわけです。次に入学したのは、6-3制が発足したばかりの新制中学・大瀬中学校でした。


大瀬中学(平成28年撮影)
大瀬中卒業後は、内子高校に進学。1年後、松山東高校に転校しています。松山東高での伊丹十三さんとの出会いは、よく知られています。
松山東高への転校は、イジメが原因だったと言われていますが、はたしてそれは、どうでしょうか。思うに、大江さんは「無法の輩」と戦い、負けたのです。それは、イジメられた、とは言いません。彼が一年生の時に創った詩を読んで、ますますその感を深くしています。


仏石
小田川の急流が、仏様の横顔を削り出したのだそうです。
下の写真を参考に、お顔を見つけ出して下さい。


仏石
たどれますでしょうか。


曽我十郎
曾我兄弟の敵討ちなどについては、→(H16春5)をご覧ください。


休憩所
『えひめの記憶』に次の様な記述があります。・・宇和町の四十三番明石寺から久万町の四十四番大宝寺に至る遍路道は、約70kmあり札所間の距離が県内では最も長い区間である。その途中に内子町大瀬の中心集落である成留屋(なるや)地区がある。遍路道沿いということもあり、この地区に町並み整備事業の一環として、地域のコミュニティ施設としての機能と遍路休憩所の機能を持つ休憩所の建設が計画された。
この計画によって建設された一軒が、上掲「あずまや」の茶堂です。この道には他にも、何軒もの休憩所が設けられていることは、今号でもご覧いただきました。


案内
千人大師堂200メートル、楽水大師堂(らくみず大師堂)1300メートル、と記されています。
私が宿泊予定の民宿来楽苦は、楽水大師堂のすこし先です。


千人大師堂
ここの始まりは、お接待所だったそうです。千人のお遍路さんを宿泊させたのを機に、大師堂を建てたのだといいます。故に千人大師堂となった今も、ここには多くの遍路が、宿泊してゆきます。



現在時刻は16:40。
宿まで、あと1キロほどですから、ちょうどいい到着となるでしょう。


分岐
きっと間違える人がたくさんいたのでしょう。大きな看板を建ててくれました。


民宿いかだや
「川登筏の里交流センター いかだや」が見えます。その名の通り、此所は「筏流し」による、地域興しのセンターです。小田川→肱川→長浜への、筏によるかつての木材運搬を再現。人を呼ぼうというのでしょう。
また此所は、宿泊施設にもなっており、もちろん遍路も泊まることができます。むしろ多くの遍路に泊まって欲しいようです。前回ここを歩いたとき(平成17年/2005)は、オープン直前でしたが、次に来たら泊まってや、などと言われたものでした。


筏流し橋
「いかだや」の数キロ上流に、「筏流し橋」が架かっています。前回歩いた時はまだ架かっていませんでしたが、その3年後、平成20年(2008)に架橋されたのだそうです。
察するに、「筏流し」による地域興しは、息長く続いているようです。


楽水大師堂(らくみず)
ここに湧く「水」を、弘法大師は「楽しんだ」といいます。それで「楽水」大師堂なんだそうです。建物は昭和56(1981)に再建され、比較的新しいのですが、大師像は、寛政元年(1789)の作だといいます。
天明9年(1789)が1月早々に改元され、始まったのが、寛政元年でした。幕政が田沼意次から松平定信へと移った、そんな時代の大師像です。


今夜の宿「来楽苦(きらく)」
6年前、お世話になった宿です。大洲で行き会った北条さん、松山さん、そして北さんが一緒でした。あの頃、私は「お亥の子さん」の歌に関心を持っており、そのことを話すと、北条さん、松山さん、ご主人の三人が歌って下さったのでした。楽しい一夜でした。


夕食
今夜は一人。ご主人が相手をしてくれました。
6年前の宿帳を出してくれたのでめくってみると、4人の名前が(当然のことではありますが)今も並んでありました。
 ♫お亥子さんという人は  いちで たわらを踏ん張って にで にっこり笑うて・・

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
なんとか字数制限(30000字)に引っかかることなく、大瀬の宿まで、たどり着くことができました。次号では三坂峠は越えたいものと、考えております。御期待ください。更新予定は、8月7日です。

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大洲見学 一条兼定仮寓の地 金山出石寺へ

2024-06-12 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年夏の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年(2010)7月11日 1日目

大洲駅
今治へ友人の法事に出かけ、その帰途、供養も兼ねて、大洲-松山間を歩くことにしました。
ただし51番石手寺に向けて歩きはじめるのは、明後日からです。今日は大洲城付近を見学して大洲に泊り、明日も、金山出石寺に登って、大洲に連泊します。


駅前大鳥居
駅前に、大鳥居が建っています。梁瀬山(大洲市菅田町大竹)に鎮座する、少彦名神社の鳥居です。 
少彦名命は、松山で大国主命と別れて単独で南下。大洲の開拓に働らいていましたが、ある日、肱川を渡ろうとして急流にのまれ、亡くなられてしまいました。民人は、少彦名命の亡骸を川から取りあげ、壺に収めて梁瀬山に埋葬。社を建てて、命の御霊を祀って来たと言います。それが少彦名神社です。


扁額
むろん少彦名命は神様ですから、「亡くなられた」とは言え、死んでしまったのではありません。この世から『常世の国』へ神去られた、と解すべきなのでしょう。「亡骸」は、命がこの世に残された「現し身」ということでしょうか。
とまれ、神様の亡骸を祀るなんて、珍しい神社ではあります。

 
宮ヶ瀬
なお大洲の菅田町には、もう一社、同名の少彦名神社があります。
こちらは、少彦名命の居館跡に建てられたとされる、少彦名神社です。隣接して『宮ヶ瀬公園』があるので、少彦名命がのまれたという肱川の急流・宮ヶ瀬は、この神社近くだったと思われます。


神南山 
また大洲には、少彦名命の神南備山(かんなび山)・・神が鎮座する山・・もあります。その山が神南山(かんなん山)と呼ばれているのは、おそらく「かんなび」の転訛なのでしょう。私たちは神南山を、大洲から内子に向かうとき、右手に望むことが出来ます。晴れていれば、710㍍と507㍍の、二つのピークが見えるはずです。その two peaks が神南山です。
少彦名命については、→(H28秋7)もご覧ください。


政権交代1年
駅前の、ここは民主党の選挙事務所なのでしょうか?
実はこの日は、参院選の投票日だったのです。1年前(平成21年/2009)の9月、民主党政権が誕生して以来、初の国政選挙でした。
結果は、民主党の大敗でした。改選議員の当選数では、民主党は第2党に落ちています。
ところで、ポスターの顔が小沢一郎さんなのは、どうしたわけだったのでしょうか。この時点では、小沢さんはもう代表ではありませんでした。


宿 
今夜の宿「ときわ旅館」です。荷物を預け、長く楽しみにしてきた(後述)、大洲城の見学に出かけました。


渡場
肱川橋の北詰一帯は、『渡し場』という地名で呼ばれているようです。かつて此所に、渡し舟の乗り場があったのです。
『えひめの記憶』は、この渡しが『油屋下渡し』と呼ばれる渡しで、・・大洲町と中村側を結んでいた、・・と記しています。他にも・・城下(しろした)渡し、桝形渡し、柚木下渡し・・などがあったのだそうです。


地図
・・大洲町と中村側・・については、地図をご覧ください。『大洲』と『中村』が大字名として、肱川の右岸(肱北)と左岸(肱南)に残っています。
『大洲』なる区域が肱川右岸(肱北)にまで広がるのは、大正2年(1913)に肱川橋が架かり、それを受けて愛媛鉄道(大洲-長浜間)の大洲駅が、肱北に出来てからのことでした。それかあらぬか、『四国遍路道指南』には、・・大ず城下、諸事調物よき所なり。町はづれに大川有、舟わたし。・・と記しています。油屋下渡しは「大洲の町はずれ」にあった、というのです。


肱川
『えひめの記憶』は、『油屋下渡し』のその後についても、記しています。
・・その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々は、明治6年(1873年)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋(うきき橋)と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた。しかし、大正2年(1913年)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。
因みに、浮亀橋には通行料がかかり、1銭5厘を払ったようです。江戸期の渡し船は、1文だったとか。


4代目肱川橋
写真の橋は、大正期の肱川橋から数えて4代目の、肱川橋です。昭和42年(1967)に架けられました。
ただし、(リライト版なので書けることですが)この橋は令和の今日、もうその姿を見ることは出来ません。令和4年(2022)、5代目肱川橋に架け替わっているのです。


工事中の5代目肱川橋
写真は、平成28年(2016)に撮った、工事中の5代目肱川は市です。着工は平成21年(32009)と言いますから、ずいぶん時間をかけて工事しています。


「なげ」 
川に突き出ている石積みは、「なげ」と呼ばれるもので、上掲地図でも、矢印の箇所に示されています。
『えひめの記憶』は、「なげ」について、次の様な証言を採録しています。
・・もし渡場の「なげ」がなければ、臥龍の淵から大きく蛇行する水流が対岸(右岸)の河原を侵食し、その結果、城山直下の淵は大量の土砂によって埋め尽くされるだろうから、渡場の「芯なげ」は水防とともに、大洲城の下の淵を深くし(次掲写真参照)、肱川側からの攻撃に対して守りを固める、極めて重要な役割を果たした。


大洲城
私と大洲城との出会いは、平成15年(2003)春のことでした。北さんを含む友人たち四人との観光旅行中、メンバーの一人の伝手で、工事中の天守内部を見学することが出来たのです。
・・遍路で大洲に来たときには、もう完成しているだろうな。
・・あいつらに写真を送ってやろう。悔しがることだろうぜ。
北さんと、こんな会話を交わしていたのでしたが、・・


工事幕のなかの天守
その一年後、大洲にやって来た北さんと私は、たった4日の違いで、大洲城天守の「幕落とし」・・天守が姿を現す、その瞬間・・を見はぐってしまったのでした。
その悔しさは一入だっただけに、完工なった大洲城天守の姿には、感慨深いものがありました。写真を撮って、北さんはじめ、あの時の仲間たちに送ってあげたのは、むろんのことです。


工事中の天守 
戦後復元された木造天守としては、4重4階は日本初。高さ19.15㍍は、日本一を誇る、とのことです。
古い史料を研究し、最大限、昔通りの復元をめざしたと言います。


水門
肱川橋を渡り、水門を潜って、川沿いの道に出ました。
肱川は、洪水が起こりやすい川とされていますが、なるほどと思わせる、大きな水門です。


新伝流発祥の地
新伝流は、元和3年( 1617)頃、大洲藩士加藤主馬光尚が、・・水辺の柳が流れにそって動いているのを観て、深く悟り創案した・・という、古式泳法の一流派です。大洲藩の武術として受け継がれ、やがて松山藩にも伝えられ、全国に広まったといいます。
因みに、私が子供の頃に泳いでいたのは、抜き手、横泳ぎ、背泳ぎ(泳ぎ疲れると、この姿勢で浮かんでいた)、立ち泳ぎ、もぐり(お尻をピョコンとあげて、深く潜ってゆく)・・などでした。バタ足は、ほとんどした覚えがありません。


冨士山
ふり返ると、冨士山が見えます。富士山(ふじさん)ではありません。冨士山(とみす山・319㍍)です。
また、この山が如法寺山とも呼ばれるのは、大洲藩加藤家の菩提寺・如法寺があるからです。山頂には巨石文化の痕跡がみられるなど、興味深い山です。→(H24秋7)


宿
昔懐かしい宿屋がありました。映画・寅さんシリーズ「寅次郎と殿様」のロケ地になったとのことです。殿様役は、なんと嵐寛寿郎(アラカン)。マドンナは 真野響子でした。
この宿、そのレトロ感が若者やガイジンサンにも人気で、盛況しているのだと言います。


東洋城旧宅
『東洋城』とは物々しい俳号ですが、実は、本名「豊次郎」のモジリでしかありません。『鷹羽狩行』が何のことはない、「高橋行雄」のモジリであるのと同じです。流行りだったのでしょう。
東洋城は、宇和島藩城代家老の血筋の人で、若い頃、夏目金之助に英語を習い、その縁で子規に師事したといいます。子規の没後、虚子と対立することになりますが、この頃開いた東洋城の句会には、飯田蛇笏や久保田万太郎らが参加していたそうです。
追記:鷹羽狩行さんの訃報に接したのは、今号更新の前日でした。記事を書き直すか、少し迷いましたが、鷹羽さんの愛すべきお人柄を表すエピソードとして、そのまま残すことにしました。ご冥福をお祈りいたします。


大洲城
大洲城は、鎌倉末期、伊予国司・宇都宮豊房の築城に始まるといいます。蛇行する肱川に久米川が流れ込む地形を上手く使った平山城です。その基礎となった山の名から、地蔵ヶ岳城とも呼ばれています。 
近世に入り、小早川隆景(秀吉の「四国攻め」で伊予を制圧した) 、戸田勝隆 (秀吉子飼い)、藤堂高虎 (築城の名手 )、 脇坂安治(賤ヶ岳 七本槍)ら、錚々たる連中が相次いで入城。慌ただしく城主が替わりましたが、元和3年(1617)、大坂夏の陣の功により、加藤貞泰が米子から転封。この加藤氏が、明治まで大洲を支配することとなります。
→(H28秋2)


大洲城
『大洲』は、元は「大津」だったと言います。「津」は「湊」を意味しますから、この場合は、肱川の「川湊」を意味したのでしょう。肱川が物流の導線であったことをうかがわる名前です。
『大津』が『大洲』と改められたのは、一説には、脇坂氏が淡路国「洲本」から入封したことに由来する、とも言いますが、これは、疑問視する向きが多いようです。大方の見方は、加藤氏の時代に、「大」きな「州」の上にできた街なので『大洲』となった、というものです。


大洲城のつばめ
つばめが人の家に巣をつくるのは、カラスなどの天敵から子供を守るためだといいます。むろん、その前提として、人間は自分たちに害を加えないという、人への信頼があります。
しかし人は、つばめの信頼に応えているでしょうか。
 ♫柳青める日 ツバメが銀座を飛ぶ日
かつては、あの銀座でさえ、つばめが飛び交っていたのですが。


中江藤樹像
中江藤樹の像がありました。大洲は、近江聖人と称えられる中江藤樹が、少年時代から青年時代にかけてを過ごした土地なのです。藤樹はまた、大洲藩の飛び地であった北条で暮らした時期もあり、北条の柳原には、「中江藤樹先生立志之地」の碑が建っています。たまたま出会った北条の人が、・・戦前、北条の小学生は、修学旅行で大洲に行った。・・と話してくれました。旧藩の繋がりで行ったというより、中江藤樹先生の繋がりで行った、とのことでした。中江藤樹先生への篤い敬愛の心がうかがわれます。


中江藤樹先生立志之地の碑(北条柳原)
また、大洲城の南に在る県立大洲高校は、自分たちの学校が「中江藤樹邸址(ていし)校」であることを誇りにしています。校地が藤樹の邸跡と重なることから、そう呼んでいるのだそうです。戦後の一時期、その呼び名は忌避されましたが、1950頃から再び口に上るようになったと言います。→(H24春2)


鵜飼い  
大洲城から肱川橋を渡り返してくると、観光鵜飼いを見ることが出来ました。
側で観ていた4-5才くらいの、人なつっこい男の子が私に話しかけてきました。
・・ネェ、ナンデ ヒイ モエトランノー?
はて?問いの意味が分からないまま、・・なんでやろうねぇ・・などとごまかしていると、お母さんが通訳してくれました。
・・この子、夜の鵜飼いしか見たことがないんです。夜の鵜飼いは、火を燃やしているじゃないですか。


鵜飼い
聞けば、今年から昼の鵜飼いが始まったのだそうです。
次掲のポスターをご覧ください。6月-9月の毎週日曜日と、8月のお盆期間中、昼の鵜飼いが催されるとあります。


鵜飼いポスター
なかなかに鋭い子でした。


ででむし 
 でで虫の 出番の雨を 待ちゐたり 安井和子(俳誌のサロン 歳時記より
でで虫登場。ついに雨が降り始めました。この子は大歓迎なのでしょうが、明日に出石寺登山を控えた私には、出来れば降ってほしくない雨です。
風が強くで、傘では防げないのでポンチョを付けました。天気は下り坂。宿へ向かいます。


やど 
訪うと、すぐ宿の人が、新聞紙のボール玉が入った箱を持って、出てきてくれました。濡れた靴に詰めて乾かすためのボール玉です。ありがたく使わせていただきました。お風呂も沸いているとのこと。すぐ入らせてもらいました。
この宿には、連泊します。明日、軽装で金山出石寺に登るためです。

  平成22年(2010)7月12日 雨 第二日目

天気予報 
厳しい天気が予想されています。後で知ることになるのですが、この日、・・愛媛県では一時、時間雨量50ミリ前後の激しい雨が降り、夏目漱石ゆかりの木造2階建て「愚陀佛庵」が土砂崩れで全壊した。(『気象人』HPより)・・とのことです。
この激しい降りは、やがて私も身を以て知ることとなります。私の所には、ご丁寧にも、雷様(市川雷蔵さんではありません)も、お出でくださったのでした。
下欄の選挙結果は、民44、自51、公9、共3、社2、国0、み10、無2、残0、と表示されています。


駅前 
当初予定では宿から歩くつもりでしたが、雨の影響を考え、平野駅まで電車で行くことにしました。
ズルしてしまったと、やや気持ちが落ちこんでいましたが、今では、正解だったと思っています。


電車 
距離的には5Kほど短縮されると思われます。


Aコープ 
7:00 ポンチョと、百円ショップで買ったビニルのズボン、さらに折りたたみ傘をさし、平野駅を歩きはじめました。傘をさすのは、カメラを濡らしたくないためです。
この店のことは、宿でおそわっていました。食糧調達に便利なお店でした。


 
県道234号(大洲-保内線)を進みます。
今日私がゆく道は、「地蔵越え」と呼ばれているコースです。平野駅から出石寺まで、約8.7キロあります。
途中、「キリシタン大名 一条兼定仮寓の地」なる所があるとのことで、これは大いに楽しみにしています。「一条兼定」とは、むろん、前シリーズ(平成21年冬)にもたびたび登場した、幡多一条氏の第四代当主・一条兼定です。またまたこんなところで再会できるとは、思わぬ喜びです。


ひらじはし 
兼定が当地に仮寓したことは、『伊予温故録』(明治27年/1894刊)なる本にも、記されているそうです。
・・天正初、一条兼定、当域に二三年(にさん年)寄寓あり。
ここに言う「当域」は、文脈から「平地」(大洲市平野町平地)を指しますから、つまり「ひらじはし」(平地橋)が架かっているこの界隈は、もうすでに一条兼定に所縁の地である、ということのようです。


 
なおも県道234号を進みます。
上掲写真の鉄橋は、JR予讃線の鉄橋でした。大きな建物は、平野小学校の体育館でしょうか。


交通標識 
久米川と沼田川の合流点です。
この地点と次掲写真の分岐点の間には、地蔵堂や大安寺という、普段なら見過ごすことはない、興味深いところがあるのですが、天候が心配で、今回は通過することにしました。これらについては、→(H28春6)をご覧ください。


分岐 
沼田川に架かる橋の手前で、道が分岐しています。左が県道234号で、右は、234号の迂回路になっている道です。従って、右に進むと、やがてふたたび234号に合流することになります。
迷っていると、ガードレールに右方向へのシール(次掲写真)が貼ってありました。


矢印 
矢印に従いました。


道標 
迂回路状の道が234号に復する少し手前に、山道(林道)に入ることを促す、道標が立っていました。
なるほど、この道は、引き返すより進む方が、見つけやすいのです。それで右方向を指示したのでしょう。


山道 
山道の様相が強くなってきました。時刻は、7:25です。


ダム 
桑坂川砂防ダムです。通過は7:40でした。


竹林 
竹林のざわつきが、映画『蜘蛛巣城』(黒澤明)の名シーンを思い出させます。先ほどから遠雷も聞こえており、何やら心乱される気分です。


竹の道 
稲光と雷鳴の間をカウントすると、5秒くらいあります。これを基準として、雷雲の動きを考えることにしました。


分岐 
7:50 いよいよ林道から山道に入ります。宿「ときわ」のご主人によると、この先、草に隠れた細い路があるので注意が必要、とのことです。
そのご注意の含意するところは、ひとつは、道を失わないようにとのご注意。もう一つは、ハメ(マムシ)が隠れているかもしれない、とのご注意です。ヤツは、雨が嫌いじゃないらしい。


ペンシル型道標 
要所要所にペンシル型の道標が立っていて、とても助かりました。
そのことを宿に帰って話すと、ご主人が、・・あれ、私が建てたんです。・・とのことでした。


案内 
この頃はまだスパッツを持っていなかったので、いまや私の靴の中は、洗濯機状態です。一歩毎に、靴下は脱水-吸水を繰り返しています。
着衣は、雨には濡れていませんが、汗で内側からグッショリです。


停滞
雷様が近づいてきました。5秒より早く雷音が聞こえる回数が増えてきました。
30分ほど停滞することにし、ザックを担いだまま座り込みました。


 
幸い雷様は遠ざかりつつあり、雨も小止みです。
登りを再開します。


一条兼定寄寓地跡(H28春撮影)
8:35 「一条兼定仮寓の地」に着きました。集落を見下ろす、やや広い平坦な場所に、平地郷土史愛好会による案内板「キリシタン大名 一条兼定仮寓の地」が建ち、日蓮宗の題目塔が二基、石積みの台座に置かれた妙見堂、石板に覆われた、教会を模したかのような小祠、ヤマモモの樹、何基もの墓石、・・などがあります。


一条兼定寄寓地跡(H28春撮影)
天正2年(1574)、幡多一条氏の第4代当主・兼定は、中村を捨て、岳父・大友宗麟の豊後臼杵に逃れました。長宗我部元親に追われたとも、家臣団のクーデターから逃れたとも言われますが、おそらくは、そのどちらも正しいのでしょう。クーデターは元親の陰謀であったとの説もあるくらいに、兼定をとりまく状況は、混乱、錯綜、切迫していたと思われます。


寄寓地跡からの景色(H28春撮影)
とまれ、そんな状況下、兼定は豊後に移り、キリスト教に入信。唯一絶対神に、その身をゆだねました。天正3年(1575)のことです。霊名ドン・パウロ。
兼定がこの地に寄寓するようになるのは、これ以降のことです。


寄寓地跡からの景色(H28春撮影)
兼定の平地寄寓は、大きくは「渡川の戦」の前と後、2回に分かれます。(そう私は考えています)。
1回目は、来たるべき渡川の戦(天正3年/1575)に備えての寄寓でした。その様子を案内板は、次の様に記しています。
・・長宗我部元親に追われ豊後大友宗麟の許に在った頃、(兼定は)一時当地平地村梶屋谷城に仮寓したという。其処で彼はキリシタン修行と旧領奪還の陣立てに専念し、・・。


寄寓地跡唐の景色(H28春撮影)
また『伊予の隠れキリシタン』(小沼大八著)は、次の様に記しています。
・・追放先の豊後で受洗した兼定が、土佐の有力者たちからの誘いもあり、自分の領地をキリスト教宣撫の理想郷とすべく、ついに立ち上がる決意を固めたことは先の述べた。けれども、何しろ相手は難敵、長宗我部勢である。大友勢だけが手勢ではいかにも心許ない。かれには是が非でも、伊予の土豪たちを味方につける必要があったのである。けれども、そんな工作をするにも、かれには伊予に足場が必要だった。してみれば、へんぴな山城だったにもかかわらず、兼定が平地の高森城(案内板にある、梶屋谷城の別名)に身を寄せたのは、そんな理由ではなかったか。・・


日蓮宗題目塔
しかし、この1回目の寄寓は、長期間にわたるものではありませんでした。
 兼定が豊後に移ったのが、天正2年(1574)
 キリスト教入信が、天正3年(1575)
 渡川の戦が、同・天正3年(1575)
この年表が正しいかぎり、この時期の兼定には、長期間の寄寓・・例えば『伊予温故録』が記すような、・・二三年の寄寓・・などは、出来ることではありませんでした。寄寓は、せいぜい数ヶ月の長さだったはずです。


日蓮宗題目塔 
ただし、それは寄寓がなかったことは、意味しません。兼定は(中村ではなく)宇和島で兵を上げ、中村に向かって進軍していますが、このことを可能とするには、平地寄寓は欠かせませんでした。
戦の結果は、兼定方の大敗でした。案内板は次の様に記しています、・・天正3年、一時は旧領奪還に成功したが、(略)、渡川の会戦に敗れ、南予地方処々に潜行後、天正10年宇和海の孤島戸島に隠棲中、旧臣の一人に暗殺された。
兼定軍は大敗し、ここに幡多一条氏は、事実上、絶えてしまします。


教会?(H28春撮影)
すでにお分かりと思います。2回目の平地寄寓は、渡川の会戦に敗れた後、・・南予地方処々に潜行・・しているときでのことでした。処々の一箇所が、『平地』だったのです。
おそらく2回目の寄寓では、兼定は出来るだけ長く、一箇所に留まろうとしたでしょう。・・二三年の寄寓・・は、この時のことだったと思われます。


教会?(H28春撮影)
一説には、当地にはキリスト教会が建っていたとも伝わります。その伝承は、彼が此所で信仰一途の日々を送っていたことを、伝えているのかもしれません。彼が播いたキリスト教の種子が、ここに花咲き、教会となっていたのです。
それかあらぬか、この写真をご覧ください。見えにくいですが、ドーム状の屋根の上には、十字架らしきものが見えています。在りし日の教会の姿でしょうか。


出土した青銅製キリスト像(『伊予の隠れキリシタン』より
当地にキリスト教の信徒がいた、確かな証拠があります。高さ30センチほどの、青銅製のキリスト像です。安政の頃、土地の農夫が掘り出したものを宇和島藩が保管。維新後、元宇和島藩医が譲り受けたことにより、世に知られるようになったと言います。
元藩医は、以下のような箱書きを残しています。・・安政年中 宇和嶋領 保内郷平地村 通称切支丹畑ヨリ 里人掘出セル物也 此ノ畑ハ 当時教会堂如キ物ノ有リシ所也シナラン 明治十年十月 東京伊達家邸中ニ於テ 割愛ヲ受ク 谷世範・・


妙見堂
この小祠は、かつてこの地にあった、キリスト教信仰の名残です。妙見堂ですが、一見して、扉のモチーフが「十字」であるとわかります。(次掲写真をごらんください)破風にも「十字」が、すかし彫りされています。
この小祠は昭和30年に再建されたものですが、施工の宮大工は、・・旧態どおりに作った・・と述べているそうです。察するに、明治のキリスト教解禁の時、江戸時代から伝わるキリスト教信仰の話を基に、このような様式が作られ、これまで受け継がれてきたのではないでしょうか。


破風の十字
小祠の中には、むろん妙見菩薩像が収められているのですが、その像は、同じ妙見菩薩像でもキリスト教との縁が深いと言われる、「能勢妙見菩薩像」です。
この事実を『伊予の隠れキリシタン』は、次の様に説明しています。
・・この地に土着したキリシタン信仰が時代を経るにつれて、(日蓮宗の)妙見信仰と習合した姿なのだろう。


能勢妙見菩薩像
またWikipediaには、次の様な解説がありました。
・・能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている。
思うに、北極星を神格化した妙見菩薩は、本地垂迹説では天之御中主命の本地仏とされる仏(神)です。その点で、天帝(デウス)に結びつけやすかったのではないでしょうか。


矢筈紅十字
写真は、能勢妙見菩薩像が立つ台座です。台座に掘られた矢筈十字は、能勢氏の家紋であり、また日蓮宗霊場・能勢妙見山の寺紋でもあります。
台座の前に置かれた奉納札には、この小祠が昭和30年に建立されたものであること。制作費が4300円であったこと。寄進者名、制作者名、寄付者名などが記されています。なお寄進者は、その姓から、後述の墓に関係する方と思われます。


大樹 
木柱に、・・大洲市指定 梶ヤ谷のヤマモモ・・とあります。
案内板には、・・胸高幹周は2.8m、樹高が12m、地上から2.5mの付近で幹が4つに分岐していますが、根回りは石垣を補修した際に1mほど埋められたため、本来の根回りの大きさはわかっていません。・・とあります。推定樹齢は250年ですから、残念ながら、一条兼定お手植えの、とはまいりません。兼定は16世紀の人です。時代が合いません。


墓地 
文政、明和、安永などの墓石が、隣り合って並んでいるので、いつの時期かに改葬したと思われます。
此所に眠る人たちと、かつてのキリスト教信仰との関わりが、気になるところです。


 
さて、長滞在になってしまいましたが、出石寺へ向けて歩きます。


ヌタバ 
イノシシのお風呂は、お湯タップリです。


道標 
雷様以外、誰一人として会うことのない道で、心強い案内です。


丁石 
三十二丁、とあります。距離的に合わないので、長い年月かけて、どこか上からずり落ちてきたのかもしれません。


分岐 I
10:10 出石寺山道入口です。
これより先、出石寺までの約3Kの道は、歩きの人なら、どこからアクセスした方てもかならず通る道です。


石門 
撮影時は、全く気づいていませんでしたが、この巨石には像が刻まれているようです。
さながら門番ででもあるかのように、何者かが立っています。


 
もうすぐ到着ともなれば、金山出石寺(きんざん・しゅっせきじ)について、ふれておかねばなりません。
山号「金山」は、弘法大師が「三国無双の金山」なりと賛嘆されたことに由来するといいます。ただし「金」は、「銅」を意味します。中国の青銅器に刻まれた文字を「金文」というように、「金」は、かつては、「銅」を意味していました。
この山では、実際、明治末から昭和20年まで、三菱鉱業が経営する出石山(いずしやま)鉱山が操業していたのだと言います。


新四国28番
縁起では、作右衛門という猟師が鹿を追いつめ、まさに射んとした時、天智鳴動、光明赫赫、鹿の立つ岩が真二つに割れ、金色燦然たる千手観世音菩薩像が、地中から湧き出たのだといいます。
この奇瑞を目撃した作右衛門は、猟師を止め、「道教」と名乗って仏道に入ったそうです。そして、出石寺を開基したと伝わります。作右衛門の道教が、千手観世音菩薩を御本尊として、出石寺を開いたのだそうです。


新四国29番
さて、話はまったく違いますが、 愛媛県に「少年式」なる通過儀礼があることをご存知でしょうか。かつての元服に相当するもので、14才(中2)の少年・少女が対象だといいます。
少年式当日、少年・少女には課題が課せられます。大洲の少年・少女に課せられるのは、「金山出石寺への徒歩参拝」です。(課題は地方によって異なり、例えば八幡浜では、佐田岬の先端・三崎までの往復が課せられるそうです)。


新四国石柱
そこで、リライト版の強みを活かして、令和の今日、「少年式」はどうなっているのだろうか、調べてみました。
”少年式 大洲市 出石寺” で検索すると、うれしいではありませんか、大洲南中学と平野中学の記事に出会うことが出来ました。「少年式」は「少年の日」に名を変え、課題は単独行ではなく、親子連れに変わっていましたが、出石寺徒歩参拝は、きっちり、残っていました。


道標
大洲南中学の記事です。
・・2023年11月1日 2年生の少年の日を祝う会の記念行事として出石寺登山が行われました。生徒たちは、各グループで協力して、苦しいときはお互いに励ましあいながら、目的地にたどり着くことができました。



地元中の地元・平野中学の記事は、こうです。
・・2年生親子行事「少年の日記念出石寺登山」は、12月9日(土)に実施する予定です。登山はしんどいけれど、出石寺から見える景色や達成感は何物にも代えられないと思います。体調を整えて、みんなで出石寺を目指しましょう!
ガンバレ!少年、少女たち!


片目地蔵
江戸時代のことです。秀厳さんという出石寺の住職さんは、ご本尊の千手観世音菩薩を、どうしても拝見したくなりました。というのもご本尊・千手観世音菩薩像は、弘法大師がお定めになった秘仏で、50年に一度しか開帳されません。なのに指折り数えてみるに、自分は生涯、拝見できそうもないのです。
ある日のこと、どうしても我慢できなくなた秀厳さんは、お姿を拝見することにしました。しかし、ご縁日以外の日に拝見すると、その目は見えなくなると言われているので、片目で拝したのだそうです。
そして、・・言い伝え通り、秀厳さんの片目は、見えなくなってしましました。


片目地蔵(平成28年撮影)
秀厳さんが亡くなられたとき、供養のお地蔵さまが作られました。片目の秀厳さんですから、地蔵さんも片目です。それで秀厳さんの地蔵さんは、『一眼(いちがん)地蔵』と呼ばれはじめたのでしたが、・・
やがて、・・これはひょっとしたら、『一願(いちがん)地蔵』ではないか、・・という噂が、立ちはじめたのだそうです。秀厳さんの『一眼地蔵』に願をかけると、『一願』が叶うからなのです。
どうやら秀厳さんの見えなくなった「一眼」には、秘仏・千手観世音菩薩が、しっかりと焼き付けられているらしいのです。であるなら、掛けた願はかならずや、その千手で受けとめて戴けるとて、以来、「片目地蔵」さんに願掛けをする人は、後を絶たないのだと言います。


千体地蔵壇
平成元年の日付の、出石寺からの「お願い」看板がたっていました。
『片目地蔵』との関わりなのでしょうか、この地に地蔵像を断りなく奉納してゆく人が増え、出石寺は、困っているのだそうです。
そこでお寺は「千体地蔵」を発願。祭壇を作って下さいました。
これからは、寺に断って、ここに祀るよう呼びかけています。


到着
弘法大師像が見えてきました。なにに向かって、立っておられるのでしょうか。
玉垣に囲まれた、聖域中の聖域に、いよいよ入ってゆきます。


あじさい
アジサイには雨が似合います。雨の日に来てよかった!

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
本文中、特に「兼定寄寓の地」の記事で、平成28年撮影の写真を多用しています。平成22年の遍路では多くの撮影が失敗し、写真が不足してしまったからです。傘を差していたために片手撮りになってしまい、ピンボケてしまったのです。その割りに書きたいことは多く、やむなく別の遍路の写真を使いました。
更新が遅れたのは、誘われて、ちょっと長めの旅行に出かけたからでした。帰宅してから間に合わせるつもりでしたが、疲れが出てしまって、やりきれませんでした。この分では、秋の遍路が案じられます。
次回の更新は、7月10日の予定です。

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コメント (2)
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浦ノ内湾 宇佐 竜の渡し 竜坂 36番青龍寺 塚地峠 35番清滝寺

2024-05-08 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月23日 第7日目

気風
民宿「なずな」の朝は、気嵐がきれいでした。


気嵐 
気嵐(けあらし)は・・冷たい空気が温かな水面の上にある時、川や海、湖などから蒸発する水蒸気や、水面に近いところの空気が冷やされることによって発生する・・のだそうです。
よって、陽が昇るとともに、だんだん消えてゆきます。


あさひ
今日は今回遍路の7日目です。
宇佐まで歩き、宇佐大橋を渡り、竜坂を経て青竜寺に参ります。その後、塚地峠を越え、高岡の宿に泊まる予定です。
明日は清滝寺にお参りして、その後下山して帰途につくので、丸一日歩くのは、今日が終わりとなります。


浦ノ内湾
雪で始まった今回の遍路でしたが、最終日は穏やかな天候に恵まれました。
幸い体調もいいし、楽しい一日としたいものです。


いかだ
釣り筏かと思ったら、高知県水産試験所の施設でした。どうやら筏の下が生け簀になっているようです。


水産試験所
すぐ先に、その建物がありました。高知県水産試験所の他に、高知県栽培漁業センター、高知県中央漁業指導所、高知県海洋漁業センターなども入っています。


イカスミ
察するに、ここでイカが釣り上げられたようです。イカは忍法墨隠れを試みましたが、事ここに至っては、もはや得意技も役に立たなかった、ということでしょうか。
浦ノ内湾では、チヌ、マダイ、キス、アオリイカなどが釣れるとのことです。


巡航船の乗り場  
  埋立市営巡航船待合室
須崎市の市営巡航船待合所です。「埋立」は、この辺の地名です。文字通り、埋め立てて生まれた、土地なのでしょう。
巡航船は、湾口の埋立から各所に寄りながら、湾奥の横浪まで運行しています。登下校の時間帯には、スクールバスならぬスクールボートとなり、小中学生が乗り込みます。


巡航船運行図
『四国遍路道指南』に、次の様な記事があります。
・・いのしりより横なミ船にてもよし。うさよりのかち道ハなんじょゆへ、舟おゆるしのよし申伝ふ。
井尻から横浪まで舟で行くことを、お大師さんがお許しになっている、・・つまり、この巡航船航路は、お大師さん公認の、立派なへんろ道だというのです。
しかし、いくら徒道が難所だからとはいえ、難所は他にもあることだし、どうして此所だけ?と思わないでもありません。むろんそれには、(後述しますが)訳がありました。


浦ノ内湾
(ご記憶でしょうか)前号の「摺木バス停」の記事で、・・バス停の時刻表がはがれている・・と書きました。
その事情が判明しました。バス路線は廃線になっていたのです。
上図の下部に、・・高知高陵交通(株)が運行していた路線バス 宇佐-須崎-久礼-矢井賀間は、平成21年(2009)4月1日より廃止になりました。・・と記されています。私が歩く8ヶ月前に、廃線になっていたのでした。


休憩所
この休憩所は、地図上では、須崎市と土佐市の市境線上にあります。
休憩所がいずれに属するかわかりませんが、とまれ、ここから土佐市に入ります。


内部
・・お遍路さん休憩所(宿泊可)・・の張り紙があり、みかんの側には、・・地元のみかんです。無農薬で味がよいです。どうぞ。・・の置き手紙がありました。
今朝早く、どなたかが掃除され、みかんも付け足してくださったようです。ありがとうございます。


汐浜荘
汐浜荘です。平成15年の秋に、私は(北さんと)お世話になました。女将さんから戴いた懐かしい思い出については、→(H15秋1)からご覧ください。
なお、令和6年現在、汐浜荘は休業中となっています。


県立海洋高校
平成11年(1999)、高知県立室戸岬水産高等学校、高知県立高岡高等学校宇佐分校、高知県立清水高等学校漁業科を統合し、高知県立海洋高等学校が設立されました。県の東部、西部、中部に分散して在った、海洋系の高等学校が統合されたわけです。むろん統合したことの利点はあるでしょう。しかし地方の中の地方が、また一段とさみしくなりました。


宇佐大橋
宇佐大橋です。昭和48年(1973)に架橋された大橋で、浦ノ内湾の湾口(宇佐-井尻)を結んでいます。長さは、645㍍とのこと。
橋は、横浪半島を縦断する横浪スカイラインの、東の入口となっていますが、私たち遍路にとっては、36番青龍寺への道ということになります。


渡し場跡から
橋が架橋されるまでは、もちろん渡し舟で渡りました。「竜の渡し」と呼ばれた、お大師さん所縁の渡し舟です。
その謂われや、渡しを担ってきた人たちについては、後述の「丹生神社」の記事をご覧ください。


渡し場跡から
かつての「竜の渡し場」は、今はお年寄りたちの憩いの場ともなっているようです。横並びに椅子が並んでいます。
いつでしたか、やはり同じように横並びに並んだお年寄りたちがいたので、・・なにをしているのですか・・と尋ねると、・・海を見よる・・との応えが返ってきました。なにを話すでなくても、一緒にいることが大切なのでしょう。


落書き
遍路からはちょっと逸れますが、
・・ままのバカー・・
なんとも可愛い落書きがありました。口に出せないので、書いたのでしょう。
バカーと伸ばしているところに、この子の叫びが、聞こえるようです。


宇佐大橋
宇佐大橋には、この時期の橋としては立派すぎるとも思われる、歩道が付いていました。幅が広く、しかも車道からガードレールで分離されています。
これは、きっと、36番青龍寺へ向かう私たち歩き遍路への、ありがたい配慮でもあるにちがいありません。(ただ、高いところが恐い私としては、欄干がもう少し高くて、外側に開いていなければ、もっと嬉しいのですが・・。自転車の人は、歩行者より目線が高いので、なおさらでは?)


あんない
宇佐大橋を渡ると、道が左右に分かれます。
左が横浪スカイラインの道で、これまで「協力会地図」が、「へんろ道」として示してきた道です。
「旧遍路道」という右方向への表示は、井尻集落から登る「竜坂」(旧遍路道)への案内です。「竜坂」は、「竜の渡し」につづく山道で、かつては、この道こそが36番青龍寺に至る「へんろ道」であったわけです。


案内の拡大
・・急な坂道です。約30分 体力と時間のある方はどうぞ・・
この案内に誘われて、私も(体力の自信はありませんが)竜坂を歩かせてもらうことにしました。
途中出会った集落の方は、どなたもが、・・いい道ですよ。歩いてください。・・と声をかけてくださいました。きっと皆さんが力を合わせ、復旧させた道なのでしょう。


鳥居の扁額
扁額に「丹生神社」とあります。
見た瞬間、ちょっとした驚きに近いものを感じていました。社名の「丹生」から推知して、この神社の祭神は、高野山の丹生都比売神社(にうつひめ神社)から勧請されている、とわかるからです。ご存知のように、丹生都比売神社の祭神・丹生都比売大神は、弘法大師・空海と深い関わりをもつことで知られています。
私は丹生神社の縁起を、ぜひとも知りたいと思いました。そこにはきっと弘法大師・空海つながりで、青龍寺の創建譚もまた、記されているにちがいないのです。


丹生神社
しかし丹生神社縁起を、私は長く知ることができませんでした。ようやく縁起を記した記事に出会えたのは数日前、このリライト版を書くために、ネットを再検索していたときのことでした。
大蔵達雄さんという方がネット上に掲載された、『散歩びより … 丹生神社 青龍寺』という記事に出会えたのです。そこには、大蔵さんが高知の図書館で閲覧された、「宇佐町史」(昭和12年 宇佐保勝会刊)からの抜粋と思われる、一文『丹生神社』が掲載されていました。


津波避難所
以下、その記事をご覧ください。
・・丹生神社の神社帖には以下のように記されている。弘法大使が青龍寺を開基する時、その守り神として高野山麓の丹生大明神を勧進した。そして、(高野山に接する)天野の丹生神社の八人衆に擬して、弘法大師の従者の中から八人が永代の(井尻の)丹生神社の宮仕にされ、八人衆の生活の資として渡守と横浪三里乗り合を渡世とさせた。・・
念のため補足すれば、ここで言う「天野の丹生神社」は、丹生都比売神社を指しています。丹生都比売神社になぞらえて、(青龍寺の守り神である)丹生神社にも八人衆を置いて宮仕とし、その人たちの暮らしが成り立つよう、竜の渡しと横波三里の乗り合を渡世とさせた、というのです。


井尻集落へ
井尻の集落を抜けてゆきます。
この辺の海抜は10㍍未満なので、万一、津波に襲われたときは、丹生神社へ避難するようです(前掲写真)。
ただし、実は丹生神社の海抜も、さほど高くはありません。にもかかわらず避難所に指定されているのは、境内から、中世の山城・井尻城跡(標高115㍍)に登ることができるからです。その道に避難所が設けられています。なお「神社-山城」の形は、13番大日寺(阿波一宮-一宮城)でも見た形です。→(H26春6)


登り口
井尻集落を抜けようとするところに、写真のような標識がありました。
竜坂への登り口ですが、まだまだ軽い登りです。写真には写っていませんが、左側は集落の墓地になっています。


登り口
この簡易舗装は、長くはつづきません。


丁石I
二十一丁石がありました。丁石は、古い道の証です。青龍寺まで、今で言えば、2.3キロほどでしょうか。



沢筋のところが、やや通りにくくなっていました。ただ、赤いリボンも含めて、案内はしっかりとついており、迷う心配はありません。この箇所以外は、まったく問題なく歩くことができました。


これはマズイ
きつい作業の中で、ついウッカリしてしまったのでしょうが、これはマズイと思いました。



さて、「丹生」について、記しておきます。
まず、読みです。どうやら、神名に使われたときの「丹生」は、(知るかぎり)「にう明神」ですが、社名に使われた場合は、かならずしも「にう」ではないようです。
多くは「にう神社」ですが、他に「にゅう神社」「にぶ神社」などもあり、井尻の「丹生神社」は、「たんしょう神社」あるいは「たんじょう神社」と読むようです。なお、「丹生」を冠する神社は、全国に180社ほどもあると言われています。


案内
「丹生」は、「丹」を「生」む所を言いますが、では「丹」とは何でしょうか。
丹生都比売神社のHPからお借りすると、次の様になります。
・・丹生都比売大神のお名前にある「丹」とは、辰砂(朱砂)の鉱石より採取される赤い顔料をあらわします。古来この丹には魔を退ける力があるとされ、貴ばれてきました。現在でも、神社仏閣を赤く塗り(丹塗り)、お祝い事に赤を用いるのは、この丹に由来します。丹生都比売大神は、この丹をつかさどり、その力であらゆる災厄を祓う女神です。・・



「辰砂」は、今日の用語で言うと硫化水銀なのだそうです。水銀と硫黄の化合物と言えばよいでしょうか。
赤い結晶をしていることから、朱の顔料が採取され、また水銀の原料、薬の材料にも使われました。薬名に反魂丹、仁丹などと、「丹」が付がことがあるのは、そのためでしょう。


宇佐大橋
竜坂からの景色です。浦ノ内湾の湾口部は、あたかも川のように狭くなっています。
『四国遍礼名所図会』に・・猪の尻川(入海也、渡し舟四もん宛)・・と記されているのは、この筆者の目にも、川のように見えていたからでしょうか。
また澄禅さんの『四国遍路日記』には、・・是ヨリ三里 入江ノ 川ノ様ナル所ヲ 舟ニテ往也・・などの記事もあります。横波三里の枝湾が、川のようだと記しています。


竜の一本松
「竜の一本松」の説明がありました。
・・土地の人は「竜の一本松は桧か杉か」と言い続けてきました。この松は、松の木としてはとてつもない巨木で 実話として中学生が両手をつないで計ると、なんと六人分もあったそうです。台風で折れた枝そのものも、巨木だったそうです。
まるで桧か杉かと見まごうような、松の巨木がここに立っており、それを「竜の一本松」と呼んでいたそうです。


枯れ枝
一本松の枯れ枝でしょうか。普通の松の、幹なりの大きさがあります。


  
景色を楽しみながら歩きます。



下りに入りました。「竜の一本松」のところが、峠だったようです。


へんろ墓
日向国那珂郡小内海邑(現・宮崎市小内海)の代右衛門さんが、ここで亡くなりました。立派な墓を建ててもらえたのは、おそらく行き倒れも覚悟し、銭をなにがしか、持ち歩いていたからでしょう。
それにしても遍路墓の多いこと。残る石墓だけでも、これほどもあるのですから、今や跡形もなくなった土饅頭の墓を加えれば、どれほどの数だったでしょうか。亡くなった当人の無念はむろんですが、それを葬る土地の人たちのご苦労も、察せられるというものです。


丁石
九丁目 とあります。 


出口
竜坂の降り口です。降りて来た所を、ふり返って撮りました。


下の道
前方を写すと、このような景色になります。「協力会地図」にある、三陽荘、酔虎から入ってきた所です。



写真を撮ったり景色を楽しんだりしながら来たので、宇佐大橋からここまで、1時間10分ほどもかけてしまいました。ちょっと失敗でした。
普通に歩けば、案内標識にあったように30分、ややゆっくり目なら50分、といったところでしょうか。よい道です。ぜひ歩かれて、お楽しみ下さい。


蟹ヶ池
蟹ヶ池は「ベッコウトンボ及びその生息地」として、昭和57年(1982)、土佐市の天然記念物に指定されたそうです。しかし残念ながら、・・保護に取り組んだにもかかわらず、数年後には生息が確認されなくなり、当該指定は適当ではない状況となった。・・とのことです。
つまり、「ベッコウトンボ及びその生息地」としての天然物指定は、現在、解除されているということです。


蟹ヶ池
しかし、蟹ヶ池が県下でも最大級の湿地であること、サクラダテ、コウホネ等、希少価値を有する湿地植物が多いこと、生息するトンボの種類も多いこと、渡り鳥の飛来地となっていることなどを理由として、平成9年(1997)、今度は湿地としての蟹ヶ池が、天然記念物として指定されたといいます。
また蟹ヶ池で忘れてならないのは、高知大学などによる、近年の研究調査の結果です。なんと蟹ヶ池は、過去数千年にも及ぶ巨大津波の堆積物を、その底に沈め残しているというのです。これは大発見です。文字なき時代の「歴史」が、ここに記述されています。



カメラを持ち歩いている人なら、誰もがここで一枚、撮りたくなるのではないでしょうか。そんな景色です。


道標
  従是五社迄十三里
36番青龍寺から打ち戻り、37番五社へ向かう人への道標です。五社は、明治の神仏分離で岩本寺が37番札所となる前に、37番札所だったところです。
右面には、文化甲戌 初春 施主 井ノ尻浦 升市屋喜三平  とあります。 文化甲戌(きのえいぬ・こうじゅつ)は、 文化11年(1814)に当たるそうです。
左面は、三十六番 青龍寺 となっています。


山門
「 青龍寺の歴史・由来」を、四国八十八ケ所霊場会のHPから、転載させていただきました。ご覧ください。
以下は、その書き出し部分です。社名こそ出てきませんが、(前述の)『丹生神社縁起』の記述と、その内容はほぼ重なっています。
・・青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。お供をした8人を残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。・・


青龍寺の恵果堂
続けて「 青龍寺の歴史・由来」は、唐国にある「青龍寺」が和国にも建立される、経緯を記しています。
・・弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。・・
写真は、36番札所の「青龍寺」にある、恵果堂です。弘法大師・空海の恩師、恵果和尚を祀っています。


本堂
続いて、青龍寺の山号が「独鈷山」となった由縁です。
・・帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。・・
ところで弘法大師・空海は、独鈷のみならず三鈷杵をも、唐の地から投じたようです。その三鈷杵は高野山に落ちたとされ、そこには金剛峯寺が建っています。


土佐神社の礫石
何かを投じた先に神社や寺を定めたという譚は、よくある譚です。近場の例では、浦ノ内湾奧の鳴無神社から一言主命が大石を投じ、その落ちた先に土佐神社が建った、というのがあります。
写真は、一言主命が投じて土佐神社の地に落ちたという大石です。礫石と呼ばれています。


石段
長い石段を下り、35番清瀧寺へ向かいます。
なお青龍寺奥の院については、 →(H20春4)をご覧ください。



帰途は竜坂を通らず、海沿いの道を行くことにしました。


宇佐湾
しばらく座って、海を眺めていました。海なし県の埼玉ですごしているからでしょうか、海の側に来ると、こうしていたくなります。波の寄せる音が、とても気持ちよく聞こえてきました。


標識
宇佐町の「井尻」は、(いのしり)と読みます。しかしそれを知らずに、(いじり)などと読んでしまう人が、多いのかもしれません。
なるほど、井と尻の間に「ノ」を入れたら、読み間違うことはありません。


塚地峠へ
宇佐大橋を渡り、宇佐の住宅地を北方向へ抜けます。


萩谷川
萩谷川の改修工事がされていました。この川は、河口部が宇佐町の住宅地を流れているので、ひとたび氾濫すると、大きな被害をもたらします。
水源は、土佐市高岡地区(清滝寺側)と宇佐地区(青龍寺側)を隔てる、標高 300mほどの山域にあります。この山域を越えるのが、これから歩く塚地峠遍路道(青龍寺道)です。なお、この山域は波介山展望公園(はげやま展望公園) となっていて、絶好の景色が楽しめる、ハイキングコースなどが整備されています。(後述)


安政地震
地震・津波の恐さを忘れてはならぬと、ご先祖が碑を残してくれました。
円柱の碑体には、安政地震・津波の様子が、詳細に刻まれています。また、この碑が建つ場所は、安政津波の最高到達点だとのことです。津波は塚地峠遍路道の登り口近くまで来たのだと、この碑は教えているのです。
  天災は忘れた頃にやってくる。
との警句を発したのは、高知出身の寺田寅彦さんですが、思うにこの警句は、寺田さんの耳に届いた、ご先祖さんたちの声であったのかもしれません。


みかんのお接待
ちょうどミカンの収穫期とあって、ミカンのお接待がいっぱいです。どなたかにお裾分けをとも考えましたが、ほとんど人に出会うことがありません。たまに出会っても、・・私もいっぱい頂いて・・との応えです。どうやら持ち帰って、家族と共に戴くことになりそうです。


峠へ
峠への登りに入ります。
尚、この峠を越えた記録は、→(H15秋1)→(H20春4)→(H27春12)にも記しています。ご覧ください。


磨崖仏
峠道の宇佐側には、線刻の磨崖仏が残っています。この道が古くからの、修行の道であることの痕跡です。



・・こんにちは。
・・こんにちは。
挨拶を交わしてすれ違いました。なにかを思索しつつ歩いている、そんな感じの方でした。



高度を上げてゆきます。峠道の最高高度は、標高190㍍です。



峠の辺りでは木が伐採され、宇佐の海をながめ下ろすことが出来ます。
手前が宇佐の街並み。奧が、青龍寺が在る竜岬です。



さて、峠からの景色もすばらしいのですが、もっとすばらしい景色を楽しんでみては、いかがでしょうか。
峠から20分ほどの登りで、大峠展望台に行くことが出来ます。


大峠から高岡方向
展望台から見た高岡方向です。清滝寺がある方向です。


大峠から宇佐方向
こちらは、青龍寺が在る宇佐方向。この展望台からは、両方向の景色を望むことができます。


石鎚神社跡
もう少し足を延ばせば、茶臼山も楽しむことが出来ます。私は平成27年、ハイキンググループへの飛び入り参加で、訪ねてみました。所要時間は約二時間でした。→(H27春12)
写真は、茶臼山の石鎚神社跡です。見えにくいですが、鳥居の先の岩には、鎖がついています。


下り
峠から降りてきました。


休憩所
下ったところに、塚地休憩所があります。野宿の方への配慮でしょうか、寝具がおいてあります。


石材店
清瀧寺へ向かいます。この辺の道沿いには、石材屋さんが多く見られます。


波介川
仁淀川の支流である、波介川(はげ川)です。仁淀川との間に逆流防止水門が付くまでは、仁淀川の水量が増えると、その分が波介川に逆流し、波介川は度々、氾濫していたのだそうです。


用石
用石(もちいし)と読むようです。地名の由来を探してみたのですが、わかりませんでした。
石材屋さんとの関連や、近くの高石町との関連なども疑ってみたのですが。


茂兵衛道標
  青龍寺一里半余  259度目為供養  施主 中務茂兵衛義教
茂兵衛さんは、生まれは幕末の弘化年間(1844-48)ですが、明治から大正にかけてを生きた方です。生涯に、四国遍路巡拝度数・280度、建立した道標・230余基を成し遂げたとのこと。
「中務」は「中司」とも書き、読みは「なかつか」「なかつかさ」「なかづかさ」などがあるようですが、どうやら正式には「なかつかさ」のようです。また、明治・大正の人でありながら諱を持っていて、その読みは、おそらくは「よしのり」なのでしょうが、「ぎきょう」とも読むようです。


宿
白石旅館さんにお世話になりました。泊り客は、また、私一人でした。話し相手がほしい気もしていたのですが。
というのも、道中、たまたま気づいたのですが、今日は、私が初めて「お大師さんの道」を歩いた、「記念日」なのです。平成13年(2001)の今日、12月23日、私は初めて、(北さんと)「お大師さんの道」を歩いたのでした。
3泊4日の短い遍路でしたが、疲労で発熱する中、マメで痛む足で歩いた、印象に残る遍路でした。あれから8年。よくつづいています。

  平成21年(2009)12月24日 第8日目


宿に荷物を預け、35番清滝寺に参ります。


清滝寺へ
  四國第三十五番霊場醫王山清滝寺
  平城天皇第三皇子真如法親王御遺蹟地
「真如」について、四国八十八箇所霊場会の『清瀧寺の歴史・由来』に、次のような記述があります。
・・寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。


参道
ただし歴史本では、
・・第51代平城天皇(へいぜい天皇)の第三皇子は高岳(たかおか)親王といったが,「平城太上天皇の変」(大同5年/810)により皇太子を廃され、出家して真如と号した。・・となっています。清滝寺との関わりはわかりません。あるいは「高岳」と「高岡」が同音であることに発しているのでしょうか。
なお「法親王」は、出家した後続の呼称です。また「平城太上天皇の変」は、ある程度年配の方は、「薬子の変」の名でご存知の事件です。


山門
清滝寺は、明治4年(1871)、「廃仏毀釈」により廃寺となりましたが、明治13年(1880)には再興されています。
この仁王門は、明治33年(1900)の建立です。その天井画はよく知られています。


石段
仁王門から、長い石段を上ります。


本堂
山の中腹に切り土して造った広い平地に、本堂、大師堂、その間に本尊・薬師如来像が、横並びに並んでいます。


大師堂 
それらは、いずれも南面して、高岡、宇佐、そして太平洋を望んでいます。


景色
南方向の景色です。一番奥に、太平洋が光って見えています。



お参りを終え、下山します。


ふれあい
清滝寺にお参りしたときは、ここ「ふぃれあい」で食事をとるのが恒例となっています。今回も寄せてもらいました。
障害者自立支援活動の一環として営業されていましたが、残念ながら、このリライト時点では、営業は止めているようです。コロナの影響があったのかもしれません。


帰途へ
これよりバスで高知駅に向かいます。
高知駅からは、リムジンバスで高知龍馬空港へ。


富士山
そこからは飛行機です。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。平成21年冬の土佐路シリーズは、今号を以て、終わりとなりました。
次号からは、伊予路(大洲から松山)のシリーズを考えています。更新は6月5日の予定です。
この春、皆さまは、四国を歩かれたでしょうか。私は残念ながら、果たせませんでした。秋を期することとなるようです。

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コメント (2)
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焼坂峠へんろ道 安和 仏坂不動尊 宇佐

2024-04-10 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月21日 第5日目のつづき

焼坂遍路道へ
そえみみず遍路道から長沢川に沿って下り、焼坂遍路道への分岐にやって来ました。国道56号から、左の道に入って行きます。


案内
  左 焼坂峠 とあります。
さて、焼坂峠遍路道は高知自動車道の工事で、どう変わろうとしているのでしょうか。そえみみず遍路道は、入り口部分の尾根筋が、さながら「巨大な切通し」のごとくに、大きくV字型に切り裂かれていました。



土佐くろしお鉄道沿いの道を進みます。


高架下
線路を潜ると、その先が工事現場です。
工事期間は、残るところ3ヶ月。平成22年(2010)3月25日までだそうです。
なお、リライト版の強みで先のことを書き加えれば、開通は、この約1年後の平成23年(2011)3月5日となります。


工事現場
すっかり様変わりしています。雑草の一本すらもないのが、不気味です。
「根刮ぎ」自然が改変された、ということでしょうか。


簡易遍路道
簡易階段の遍路道です。そえみみず遍路道のように、ここにも擬木の階段がつくのかもしれません。


トンネル
トンネルの口です。完工後は、焼坂第一トンネルとなります。


完工後の焼坂第一トンネル
平成27年に撮った、完工後の焼坂第一トンネルです。焼坂峠の下を抜けて行きます。長さは、2040㍍。


旧遍路道へ
ここからが、古くからの焼坂遍路道となります。
澄禅さんが『四国遍路日記』に、・・土佐無双ノ大坂也・・と記している坂です。


山道
   左道 登る 焼坂峠
登りにかかります。焼坂峠の標高は、228㍍です。


山道
今では少なくなった照葉樹の遍路道です。


景色
北方向には、幾重にも山が重なります。


切り通し
焼坂峠の切り通しです。
峠は中土佐町と須崎市の境になっているので、中土佐町を歩いてきた私は、これより須崎市に入ることになります。


標高
標高は、(撮影が悪くて)118㍍に見えますが、228㍍です。


安和
下に見える街は、須崎市安和。写っているケーブルは、ヨンデン(四国電力)の高圧電線です。


注意
ヨンデンからの、高圧電線注意です。


迂回路
迂回の指示がありました。
  へんろ道迂回路 あと1.3キロで、下の写真の場所に到着します。
ただし、これは順打ちをしている方への指示です。私は今は逆に歩いているので、「下の写真の場所」は、(それとは知らず)すでに通過しています。


林道
自分が今どこを歩いているのか、わからなくなってしまいました。今歩いているところが迂回路なのか、いつもの遍路道なのか、そんなこともわからず歩いていました。ただルートから逸れていないことだけは、ていねいな案内のおかげで、わかっていたのですが。


土佐くろしお鉄道
下に、くろしお鉄道の線路が見えました。ということは、焼坂遍路道も終盤に差し掛かっているということです。


降り口
降りてきました。


工事
ふたたび工事現場が現れます。


降り口
どうやら焼坂峠遍路道は、その両端・・登り口と降り口・・が切りとられているようです。


土佐くろしお鉄道
土佐くろしお鉄道の線路脇を歩いています。峠の上から眺めた道です。


保育園
記憶に残る保育園です。前回、焼坂峠へ向かう私たちに、親切に道を教えて下さった方がいて、その方が保育園を目印にするよう教えてくれたのでした。
こんな、なんということもない一齣が、なぜか懐かしく思い出されます。


安和トンネル
国道56号を進むと、安和トンネルに出ました。昭和42年(1967)の開通で、長さは245㍍です。
この辺はトンネルが連続する地帯です。安和トンネルを潜ると、その先には久保宇津トンネルがあり、さらに角谷トンネルへとつづきます。安和トンネルの手前には、(私は峠を越えたので潜りませんでしたが)焼坂トンネルもありました。
思うに、トンネルがない時代のこの辺は、峠越えに峠越えがつづく、旅人泣かせの道だったのです。


久保宇津トンネル
久保宇津トンネルです。長さは130㍍。開通は、安和トンネルと同じで、昭和42年(1967)です。
因みに、次の角谷トンネルも、同じ昭和42年(1967)の開通なので、どうやらこの三本のトンネルは、一括して工事がなされたようです。ただし焼坂トンネルだけは、それよりなんと29年も遅い、平成6年(1994)です。なぜだったのでしょう。その必要は、大いに感じていたはずなのですが。


角谷トンネル
前述の通り、角谷トンネルの開通は昭和42年(1967)。長さは420㍍です。
  かどや やけざか そえみみず
このトンネルの上には、かつては「やけざか そえみみず」と並んで恐れられた、「かどや」という大坂が通っていました。ただし、「やけざか そえみみず」とは異なって「かどや」は、今は藪に埋もれています。


地図
2013年・第10版第1刷からいただいた地図です。
やや左寄りの、赤い点線で表示されているのが、焼坂へんろ道です。右下には角谷トンネルが示されています。そのすぐ左には、名前は記されていませんが、久保宇津トンネルが見えます。もちろん焼坂トンネルも見えます。
焼坂へんろ道や角谷トンネルに、まとわりつくように走っている白線は、旧56号です。等高線をなぞるように、徐々に高度を上げながら、峠を越える道です。


須崎湾方向
旧56号の原型は、おそらくは「馬車道」だったでしょう。
馬車道は、物流が盛んになり、人力の歩荷では間に合わなくなった頃に登場した、馬車による峠越えの道です。馬の力には限りがありますから、斜度は緩やかになっています。その分、ダラダラと長い道になるのは、仕方のないことだったでしょう。トンネル掘削の技術が、まだ未熟であった頃の話です、


民宿ひかり
今日の宿「民宿ひかり」は、二度目の宿泊です。前回お会いできたおばあさんと子供たちには、今回は会えませんでした。
宿泊客は、今夜も遍路は私一人。他に10人ほどの工事関係の人たちが泊まっていました。みなさん礼儀正しく、食事が終わると、さっと自室に引き上げてゆきました。

  平成21年(2009)12月22日 第6日目

朝焼け
宿の名前「ひかり」は、この景色に由来するのでしょうか。


日の出
今日は、仏坂を越え、浦の内湾の海沿いの道を歩きます。宿は、青龍寺の7Kほど手前にある、民宿「なずな」を予定しています。
外海が見られる横浪スカイラインもいいし→(H20春4)、巡航船で行くのもいい(アルバムは準備中)。けれど6年前に歩いた海沿いの道は、忘れられない。もう一度歩きたいと思いました。→(H15秋1


気嵐の新荘川
川面に気嵐を漂わせる新荘川です。今日は、とりわけきれいです。
絶滅前のニホンカワウソが、最後に目撃されたのが、この新荘川だったと言います。昭和54年(1979)のことだったそうです。それより13年後、平成4年(1992)、ニホンカワウソの体毛が発見された、とも言われますが、これははたして、どうだったでしょうか。


須崎中学
新荘川を渡り、須崎中学を左に見ながら進みます。
リライト版の強みで、これより5年後の平成26年(2014)、須崎中学を襲った「廃校の危機」について、記しておきます。
同年、須崎市の「須崎市小中学校統合計画」が、・・市内5校の中学校を 現在の朝ケ丘中学校に統合する。・・ことを決めるのです。つまり、須崎中学は廃校となり、朝ケ丘中学に統合されることが、一旦、決まったのです。


須崎中の文化祭(平成15年/2003撮影)
ただし、この方針は令和4年(2022)、・・須崎中学校は、適正配置計画の基準を満たしているため、当面の間継続する。・・と、一部改訂されました。そのためリライト時点の令和6年(2024)も、同中学は存続しています。
とはいえ、・・生徒数が60人未満となる状態が連続して3年以上続くことが見込まれる学校は、統合を行う。・・との決定はまだ生きていますから、危機を脱したわけではありません。ガンバレ、須崎!須崎中!なお令和5年度の生徒数は、119名だそうです。がんばっています。


トンネル
トンネルの口が、二つ見えました。須崎はトンネルの街です。
右がE56(高知自動車道)の新須崎トンネル。左が、国道56号のかわうそトンネルです。なぜネーミングの発想が、こんなにも異なるのかわかりませんが、とまれ、開通はいずれも平成19年(2007)。比較的新しいトンネルです。
写真だけ撮って、通過します。


須崎隧道
今度は、須崎隧道です。こちらの開通は早く、昭和29年(1954)です。長さは115㍍。
写真でもお分かりのように、人や自転車がこれを抜けるのは、かなり危険です。


歩行者用トンネル
そこで須崎隧道には、「須崎歩行者用トンネル」が造られました。開通は、まことに遅まきながらの昭和62年(1987)。長さは145㍍です。


無量山観音寺
聖徳太子の四天王寺創建に加わった唐土の工人や仏師たちが、帰国途上、嵐に遭って遭難し、須崎の浦に漂着したのだそうです。観音寺は、この工人達が無事帰国を祈願して、正観音菩薩像を安置し祀ったことに発すると言います。
里俗に「三度栗大師」とも呼ばれるのは、弘法大師に栗を所望された童子が、(大師は一個だけ望んだのに)採った栗の全部を差し出した譚に発します。それに感じた大師は、童子が採りやすいよう木を枝垂れにし、年に三度実るよう祈願したというのです。
なお別格5番大善寺は、通過しました。→(H15秋1)をご覧ください。


水門
大間の潮止め水門です。
これより須崎港の最奥部を歩き、仏坂と浦ノ内湾沿いの道の分岐に向かいます。


須崎港
沢山の釣り船が係留されています。タモが写っているので、釣り船だと思います。


須崎港
須崎港には、住友大阪セメントの高知工場があります。たぶん、その煙でしょう。


須崎湾
須崎湾はリアス海岸です。穏やかで、しかも水深が深く、大型船の停泊も可能です。


河口
湾奥に二本の川が流れ込んでいます。
右が、押岡川の河口です。押岡川沿いの道(県道23号)を行くと、鳥坂峠(トンネル)を越え、浦ノ内湾の最奥部に出ます。約7.2キロの行程です。
左は桜川河口です。この川沿いの道(県道314号)は、仏坂と呼ばれる道になります。岩不動(岩乃不動尊)があるからです。さらに進むと、やはり浦ノ内湾(横浪)に出ます。行程は、約10.4キロになります。


桜川に架かる橋 
さて、私は仏坂・岩不動の道を行くのですが、ここで大失敗に気がつきました。不覚なことに、昼食の準備を忘れていたのです。私が歩きたい仏坂道には、コンビニなどはありません。


コンビニ
幸い、鳥坂峠(トンネル)の道にコンビニが在ることを知り、やってきました。
コンビニまで片道2キロ。引き返せば往復4キロ。一時間前後のロスとなります。ならば、このまま直進してしまおうかとも、考えたのでしたが、・・


住友大阪セメントのプラント
しかし、今日の行程は20キロほどで、かなり余裕があります。それに「楽」よりも「苦」をとった方が、気分もいいし。・・やはり引き返すことにしました。
「楽」に流れなかったことが、うれしかったからでしょうか、往路では目に入らなかった景色が、復路では入ってくるようになりました。カメラを向ける余裕も、生まれてきました。


へんろ道 
これ、見た覚えがある!
懐かしい看板です。1年前にこの道を歩いたとき、しばらくここで立ち止まり、この楽しい看板を眺めていたのでした。
  おへんろさんが行く道 県道23号 老人と子供と美人の多い地区
  車は徐行 徐行 最徐行


平成20年(2008)の写真 
1年前に撮った写真です。土砂降りの雨が上がった後のことでした。→(H20春4)


仏坂へ
さて、ここからが仕切り直しです。
分岐点に戻りました。これより 桜川左岸を、仏坂へ向かいます。


峠へ
桜川左岸の道・県道314号です。


川と雲
ワンちゃんと二匹のネコちゃんを従えた、女性と出会いました。
ワンちゃんはリードでつながれていますが、ネコちゃんはつながれておらず、女性とワンちゃんの前後を、尻尾をピンと立てて歩いています。尻尾を立てるのは、ネコちゃんの喜びの表現です。


お接待
・・家がすぐそこなので、お茶でもどうぞ、・・と誘っていただきました。陽当たりのよい庭先で、小一時間も話し合ったでしょうか。
・・現金がなければ生活できない、そんな世の中はおかしいですよ。
・・ミカン食べてください。私が作っている、無農薬栽培のミカンです。まあ、虫もつきますが、虫も生きなきゃいけないんだし、仕方ないですよ。
・・岩不動の住職さんは、お話好きです。話しかけてください。
そんこんなを話し合ったのでした。



ワンチャンが、しきりと私に寄ってきます。遊んで欲しいのです。
ネコチャンがまた散歩に行ってしまい、寂しかったのかもしれません。


お接待
別れ際に、女性は不動明王真言を大声で唱え、私の旅の安全を祈ってくださいました。
写真は、お接待の無農薬ミカンです。ありがとうございました。


仏坂へ
仏坂の登り口へ、県道314号を進みます。


貯蔵庫
記録も記憶も曖昧で申し訳ないのですが、ミョウガだったかショウガだったかの、貯蔵庫なのだそうです。須崎はどちらも産するので、わからなくなりました。
防空壕の跡を利用したのかと尋ねると、いや、貯蔵庫として新しく掘った、と答えてくれました。


県道314号
おばあさんと立ち話をしました。
・・この家は日当たりがよくなく、ヒヤイのだけれど、兄さんにもらった土地だし、それに、ここに住んでいればお遍路さんとも話が出来るし、それで住んでいるのです。
・・満州から引きあげてみれば南海地震。その後、チリ津波もあったしねえ。
波乱の人生を語ってくれました。


仏坂へ
  佛坂不動尊 光明峯寺 ここから1K
これなら、道の間違えようもありません。


ヤマガラ
歩いていると、小鳥が肩先をかすめて飛びました。人に親和性を持つ鳥の飛び方です。
しまった、ヒマワリの種を忘れた! 後悔しながら、それでも道端に座り掌を差し出してみると、・・なんというサービス精神でしょう。掌に乗ってくれました。
むろんエサが置かれていないので、すぐ飛び立ってしまいましたが、そのとき掌に感じた小鳥の体重は、忘れられない感触です。
ヤマガラは、掌から去った後、しばらく側の手すりに留まっていました。”だましたな!”とでも言っているのでしょうか。


岩不動へ
この道は、車も通れます。しかし、出遭うことはありませんでした。


告示
・・是ヨリ奧光明峯寺ハ 遙カ昔弘法大師空海修行ノ砌 当山ニテ紫雲を感得号泣シ コレオ大岩ニ刻ム コレ当山本尊岩之不動明王ナリ 右ノ如ク当山ハ紫雲垂レル神仏習合ノ霊山ニテ 真心オシテ礼拝修行セバ 速カニ神仏オ顕現シテ 至福ニ至ル霊山ユエ 当山境内ニテノ山菜山芋及ビ植物採集オ禁ジマス 当山住職英心合掌


光明峯寺山門
6年前に北さんと訪れたとき、季節は春でした。
なんとも穏やかな空間に、ただ身を置いているだけで癒やされていた、・・そんな心地よい記憶があります。


境内 
光明峯寺は、「岩不動さん」と人口に膾炙しています。弘法大師御作とされる、岩之不動明王が祀られているからです。


岩之不動明王
不動堂です。前回は扉が開いていて、お姿を直に拝むことが出来たのですが、今は、しっかりと閉まっています。
訪れた時間帯がよくなかったのでしょうか。



青龍寺に向けて歩きはじめました。
しかし、いきなり厳しい坂です。順打ちならば、この坂を下るのですが、今、私は逆に歩いているので、登らなければなりません。


坂の上
ようよう登ってきました。


案内
順打ちの人用に、案内が立っています。



これより今日の宿までは、7-8キロです。急ぐ必要はありません。


宇佐へ
県道23号です。鳥坂峠(トンネル)の道に合流しました。これより浦ノ内湾沿いに、宇佐方向へ向かいます。


石柱
仏坂への入口を案内しています。


休憩所
入口近くの休憩所です。生け花が心を和ませてくれます。


横浪小学校
横浪小学校です。前掲の須崎中学のところでも記したのと同じ事情で、これより5年後の平成26年(2014)、横浪小学校は廃校となります。


新・浦ノ内小学校(平成27年/2015撮影)
平成26年(2014)に誕生した、新・浦ノ内小学校です。横浪小学校を増改築して、新・浦ノ内小学校に生まれ変っています。
横浪小学校は校名を失いましたが校舎を残し、旧浦ノ内小学校は校舎を失いましたが(後述)、校名を残しました。アイコの智恵です。
校門の両側に立つ「二人二宮金次郎像」は、それぞれの旧校に立っていたものでしょう。


かさまつはし
東分川に架かる、笠松橋です。東分川は、このすぐ先で奥浦川と合流。浦ノ内湾に注ぎます。


鳴無神社遙拝所
鳴無神社(おとなし神社)の遙拝所です。湾の対岸に赤い鳥居の鳴無神社が見えます。→(H27春10)→(H27秋1)


浦ノ内湾
湾口から湾奥まで三里(約12キロ)。リアス海岸の入江が続く枝湾は、正式には浦ノ内湾ですが、横浪三里(よこなみ三里)との雅称を持ちます。


浦ノ内湾
穏やかな海を眺めながらの歩きとなります。飽きることのない景色です。ハマチ,ノリの養殖が盛んで、浮かぶ筏からは、チヌ、マダイ、キス、アオリイカ等が釣れるといいます。


摺木(するぎ)バス停
このバス停の山側に、浦ノ内立目摺木(浦ノ内たちめ・するぎ)という集落があります。この集落のためのバス停でしょう。
ただ、時刻の時刻表の表示は、はがされていました。(後になって、廃線になっていたことがわかります)。


宇佐へ
県道23号を宇佐へ進みます。



近頃珍しい、放し飼いの飼い犬です。それとも脱走したのでしょうか。
人は嫌いではないらしく、吠えたり咬んだりの危うさは、まったくありませんでした。それどころか、しばらくは付いてきてくれました。「案内犬」ではなかったようです。


農業
この辺りは、ポンカンの産地です。


お接待
ポンカンをお接待にいただきました。前にいただいたミカンと合わせて、私のザックは柑橘類でいっぱいです。


狩猟禁止
猟銃の散弾がポンカンの実の中に入り、保管中にコンテナ内で腐る被害が多発しているのだそうです。
そのため、ポンカンの収穫が終わる時期(12月31日)まで、この地区での猟は禁止されています。


浦ノ内隧道
昭和30年(1955)の開通。長さは、255㍍です。 


休憩所
お遍路さん専用の休憩所だそうです。なぜでしょうか、船を屋根に担いでいます。
船体の CHEERFULは、我が田に水を引いて、どうぞ「楽しく遍路」をつづけてくださいとのメッセージ、と解しましたが如何でしょうか。



室内には魔除け札が貼ってありました。
「伯州三徳山」とあるので、国宝・投入堂がある、伯耆国・三徳山三佛寺のお札でしょう。


鳴瀧八幡宮
人皇65代花山院(かざん院)が京から勧請したと伝わる、鳴瀧八幡宮です。花山院廟が、この神社から少し山側に入ったところにあることから、このような伝承がうまれたのでしょう。
ただ私見では、浦ノ内湾での豊漁を祈願して、地元民たちが祀ったと考えました。
八幡(やはた)は、「多くの旗」の意。この場合、旗は「大漁旗」で、八幡さまは、豊漁をもたらす神様なのです。(旗が「戦旗」と解され「武神」とされてしまったのは、八幡さまの不幸です)。


黒潮牧場
高知競馬場を走るハルウララが、一躍、全国に知れ渡ったのは、平成15年(2003)のことでした。私は北さんと、その頃、ここを歩いています。
負ければ負けるほど高まる人気。その単勝馬券は、「絶対に当たらない」ことから、交通安全のお守りになったというのですから、負けるが勝ちのお手本のような馬でした。あの馬、いまはどうしているでしょうか。
黒潮牧場は、(HPによれば)・・種牡馬、繁殖牝馬、競走馬としての役目を終えた馬達が、幸福な余生を送るための牧場・・なのだそうです。


釣り筏
写真中央に、屋根付きの筏が写っています。たぶん釣り筏なのでしょう。
夏には納涼の宴会、秋には月見の宴なども、いいのではないでしょうか。


浦ノ内小学校
浦ノ内小学校です。6年前のことが、懐かしく思い出されました。
平成15年(2003)秋、私は校門前の無人スタンドで、あけびの実を50円で買って食べたのでした。スタンドは、子供たちが総合学習の一環として、「経営」しているものでした。


校舎跡(平成27年撮影)
これより更に5年後、まさか校舎が取り壊され、更地に帰っているなどは、考えてもみないことでした。浦ノ内小学校は、今は旧横浪小学校の地に、その名を残しています。


船の家
船を屋根に乗せた休憩所があったかと思えば、今度は、平屋を船が乗せています。
どんな使い方をするのでしょうか。階段が付いているので、船としては、もう使われていないのだと思いますが。


宿
民宿なずな、が今日の宿です。
名前の「なずな」は、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」の「なずな」なのでしょう。「ペンペン草」というと、少しイメージが悪くなりますが、花言葉は、I offer you my all. (私のすべてをあなたに捧げます)です。
泊まり客は、この時季ですから仕方ありませんが、またも私一人でした。女将さんが、しばらく話し相手になってくださいました。


足跡
さて終わりに、令和6年現在での、浦ノ内湾をめぐる、私の足跡を整理しておきます。それぞれの内容については、「目次」からご覧ください。
 平成15年(2003)秋  青龍寺から浦ノ内湾沿いに仏坂→安和へ
 平成20年(2008)春  青龍寺から横浪スカイライン→安和へ
 平成20年(2008)初夏 青龍寺から巡航船で鳴無神社→安和へ(準備中)
 平成21年(2009)冬  安和から仏坂を経て青龍寺へ(本号)
 平成27年(2015)秋  青龍寺から浦ノ内湾沿いに仏坂→安和へ

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
一月往ぬる 二月逃げる 三月去る、とはよく言ったもので、早くも令和6年・2024年も、第二コーナーにさしかかっています。
皆さま、一日一日を大切にお過ごしくださいますように。次号更新は、5月8日 の予定です。

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中村の寺社や史跡の見学 添え蚯蚓遍路道 焼坂峠 へ

2024-03-13 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月19日 第3日目のつづき

中村駅
13:30 中村着
入野駅から電車で来ました。中村での見学時間を取るためです。
見学の細かな計画はありません。ただ、石見寺(いしみ寺)と中村城の二ヵ所は、外さないことにしています。どちらも中村を俯瞰できる場所です。
宿は、駅近くの「民宿中村」(新館)に予約しました。


まちバス
案内所で「まちバス」というサービスが始まったと聞きました。市内の主要観光地には「まちバス」のバス停があり、そこから「まちバスセンター」に電話するとバスがやって来て、次に自分が行きたい所、どこでも希望の観光地(バス停)まで運んでくれるのだといいます。
運賃は200円でした。バスを走らせるということは、基本、グループの観光客が対象ですが、一人旅であっても来てくれるとのことでした。


ジャコ天
早速まちバスに電話。石見寺へ連れて行ってくれるよう、頼みました。
案内所前のバス停で待っていると、側に宇和島のジャコ天屋さんがあったので、揚げたてを買いました。1つ多いようなので尋ねると、「お遍路さんやから」といいます。お接待してくださったのです。若い店員さんでした。オーナーさん、叱らないでください。
食べているうちにバスが来てしまいましたが、乗客は私一人なので、車内で食べることが許されました。


石見寺(いしみ寺)参道
安並運動公園まで「まちバス」で運んでもらいました。(写す角度が悪くて見えにくいのですが)信号の後方に、右に上る道が付いていて、それが石見寺への参道になっています。
なお、この参道は車も通れますが、すれ違いが出来ません。ご覧の信号は、そのための参道専用信号です。


石見寺参道
登りにかかります。
石見寺は薬師如来を本尊として祀る、真言宗のお寺です。中村の艮(うしとら・北東)に在り、 中村の鬼門を護っています。小京都・中村の、言わば比叡山延暦寺に相当するお寺です。
創建は大同年間(806ー810年)、弘法大師の開山とのこと。


景色
かつては四国八十八ケ所霊場・39番札所だったとも言います。
札所でなくなったのは、一條氏が城下に遍路(他国者)が入ることをが嫌ったからだ、とのことです。そのため札所を返上。代わって39番となったのが、当時は石見寺の末寺であった、現・39番の延光寺だと言います。
次の写真をご覧ください。


元・石見寺
後のことになりますが、平成28年(2016)、私は石見寺を再訪し、石見寺山に張り巡らされた、四国八十八ヵ所の写し霊場を廻りました。この写真は、写し霊場の第39番延光寺・薬師如来像です。台座には、・・第39番延光寺 元石見寺・・と刻まれています。
なお本ブログには、その時の、石見寺山の写真が1枚も掲載されていません。この機会に数枚、ご紹介させてください。


写し霊場の遍路道
写し霊場の遍路道は、石見寺山の山頂にも通じています。
石仏は、24番最御崎寺です。


山頂
山頂(411㍍㍍)には、見晴台もあります。


石見寺山山頂からの景色
見晴台からの景色です。渡川(四万十川)に向川(中筋川)が流れ込んでいる様が見えます。太平洋も望めます。


石段
閑話休題。
参道を登ってゆくと、石見寺の境内が見えてきました。しかし、ここからは入らず「正門」から入ってほしい旨、表示があります。
それはもっともなことである、ということで、ちょっと膝に痛みを感じている身には辛いのですが、手すりの助けも借りながら、「正門」から上ります。


境内
応仁2年(1468)、摂政関白太政大臣・一條兼良(かねら)は、長男・教房(のりふさ)をして、家領・幡多ノ多荘に下向させました。
前号「海の王迎」でも記したように、土佐は流刑のなかでも最も重罪とされる、「遠流の地」です。その土佐の西端の地に、兼良は、関白氏長者をも務めた長男を、送り込みました。
さて、兼良のその「心」は、那辺にあったのでしょうか。


本堂
兼良の「心」は、史家がいろいろと言及しているところですが、素人の大胆さで大雑把にまとめれば、次の様になりましょうか。
・その前年に起きた、応仁の乱の戦乱を避け、一條氏の本流を温存しようとした。(応仁の乱は、京都を主戦場としていました)。
・併せて、荘園を直接経営し、収入増を図ろうとした。「遠流の地」とは言え、それは都から見たらの話。その実、幡多が海に向けて開かれた、豊かな土地であることを、兼良は知っていた。


後川
幡多は実際、海路で阿波へも堺へも薩摩へもつながり、さらには琉球へもつながる土地でした。
Wikipediaは、土佐一條氏の対外交易についても触れ、次の様に記しています。
・・土佐一條氏はその地理的条件を生かして、海上交通や対外貿易にも関与したと考えられている。(中略)琉球や朝鮮との私貿易が行われていた可能性が高く、更に勘合貿易以外の交易路を用いた明との貿易や東南アジア方面との貿易の可能性も指摘されている。(後略)
とまれ、これにより、「土佐一條氏」が創まることとなります。


中村城
ところで「土佐一條氏」なる呼称ですが、これについて、私はいささかの疑問を感じています。やはり「幡多一條氏」が正しい、私はそう思うのですが、どうでしょうか。
往古、土佐と幡多は、文化・経済を異にする、別々のクニとされていました。すなわち東の都佐国と西の波多国です。
この基本構図は、一條氏が中村を築いた頃にも変わっていませんでしたから、中村を築いた一條氏は、やはり「土佐一條氏」ではなく、「幡多一條氏」と呼称すべきではないか、・・と、まあ、愚考するのですが、いかがなものでしょう。


後川
幡多と土佐の融合がはじまるのは、天正3年(1575)の、「渡川の戦い」以降のことです。言わば「土佐の長宗我部氏」が「幡多の一條氏」を破り、幡多は土佐の一部となってゆくのでした。皮肉なことですが、長宗我部の遠征軍が進んだ戦の道が、次には、文化・経済を通わせ合う道ともなるのです。
長宗我部が滅びた後は山内氏が土佐中村藩を立藩。これを支配して、幡多の土佐化は進みます。
なお、土佐と幡多を隔てる、最大の地形上の障壁は、窪川台地だったと言います。なるほど!体験的に私は、納得します。皆さまは、いかがでしょうか。


県立中村中高等学校
石見寺から後川橋を渡り、一條教房墓に向かいます。
途中、高知県立中村中学校・高等学校がありました。一貫校としての開設は平成14年(2002)ですが、その母体の一つである県立中村高等学校の設立は、遠く明治33年(1900)にまでさかのぼります。前号「大方あかつき館」で記した上林暁さんも、卒業生なのだそうです。(もう一つの母体である、県立中村女子高等学校については後述)


一條教房墓
教房は、幡多繁栄の基を築いた人です。「幡多一條氏の祖」と崇められています。
しかし、その功績の割りに、この墓が「貧相」にみえるのは、なぜでしょうか。
どうやらこの墓は、祀られていた寺(妙華寺)が、江戸時代、廃寺になってしまい、その存在が、長い間、忘れ去られていたそうなのです。そのことを惜しんだ地元の人たちが再興しましたが、今は、民家の間を少し入った、目立たぬ所に在ります。墓域も、さほど広くありません。


玉姫墓
教房を祖とする「幡多一條氏」は、初代・房家、二代・房冬、三代・房基とつながれ、前述の「渡川の戦い」を機に、四代・兼定で滅びます。
この墓は、二代・房冬に嫁した、伏見宮邦高親王の王女・玉姫の墓とされています。三代・房基(後述)の母です。
さて、時刻は、16:30を過ぎました。残る中村見学は明日とし、宿へ向かいます。


宿
駅近くの宿です。遍路の宿泊者は、いませんでした。
明日は午前中、中村見学をし、電車で窪川まで引き返します。
その後の行程は、次の様です。
 →添え蚯蚓遍路道→焼坂峠→安和→佛坂→宇佐→龍坂→36番青龍寺
 →塚地峠→清滝寺→帰宅

  平成21年(2009)12月20日 第4日目

不破八幡宮鳥居
宿に荷物を預け、新四万十大橋の東詰にある、不破八幡宮にやって来ました。
四万十川左岸を走るサイクリングロードを歩いて北上。中村城跡(郷土史料館)に登ります。途中、いくつかの寺社や史跡にも立ち寄るつもりです。


不破八幡宮
不破八幡は、教房が石清水八幡を勧請し、幡多郡の総鎮守としたのが興りとされています。一條氏が守護神として崇め、その後の支配者たち、長宗我部氏、中村藩山内氏からも、篤く信仰されました。
秋の大祭では、「神様の結婚式」という珍しい神事が行われるそうです。
四万十川下流に在る一宮神社(幡多一宮)の女神が乗る神輿と、不破八幡宮の男神の神輿との、「お見合い」神事です。一時横行した略奪婚への戒めが興りとされています。


幡多一宮神社(平成22年撮影)
また「お見合い」では歳占いが行われるそうです。一宮神社のいずれの女神が選ばれるかにより、その年がどんな歳になるか、占われたといいます。
例えば、椎名御前が選ばれると、今年は雨が多い年になる。なぜなら、この女神の頭にはビス(はげ)があり、これを隠す為に雨を降らせて笠を被るからだ、といった具合です。その他、徳益御前なら、得が増すので今年は豊年。鉾名御前なら、鉾は武器なので、喧嘩が多い歳になる、などと占うそうです。→(H22秋1)


相撲
神社ではよく、土俵を見かけます。
相撲が、神事として発祥したからでしょう。神前で執り行われ、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣などを祈ったといいます。また勝敗の結果から、占いも行われていたようです。


大楠
ご神木の大楠です。
樹齢は約550年と言いますから、教房が下向した応仁2年(1468)頃、植えられたことになります。



サイクリングロードで、犬と散歩中の女性に出会いました。犬を散歩させているのではなく、犬と散歩を楽しんでいるいう、そんな感じの方でした。
いろいろと話ながら、一緒に歩きました。


四万十川に架かる橋
女性は、・・なんでこんなに橋を架けましたかねえ。・・とおっしゃいます。たしかに橋は多いのです。写真には写りませんでしたが、この手前にも、もう一本、新・四万十大橋があります。
一番奥が通称「赤鉄橋」(四万十大橋)。その手前が「土佐くろしお鉄道」の宿毛線鉄橋。一番手前が「渡川大橋」です。


土佐くろしお鉄道 宿毛線鉄橋 
強い風が吹くときは、ちょっと恐い感じです。


しまうま
・・この遊び心、楽しいですね。・・と、散歩の女性に話すと、女性はペイントよりも重機そのものが気に入らなかったらしく、反論が返ってきました。
・・この辺には自然の遊水池があったのですけど、埋め立てられて、宅地になってしまいました。残念です。住宅用の空き地なんて、他にいくらでもありますがな!


もう、あきまへん
女性はまた、四万十川に棲むという巨魚・「赤目」についても話してくれました。
赤目はマンガ「釣り吉三平」で一躍有名になり、私さえも知っていたのですが、今はあまり見られないと言います。代わって外来種のブルーギルが増えているのだそうでした。
・・ボラの大軍が赤目を怖がって、ピョンピョン跳ねながら逃げるんですよ。それは壮観でした。前はよー見られたもんですが。


四万十川橋(通称赤鉄橋)
大正4年、降り続いた雨で四万十川が増水。渡し船の転覆事故が起きました。乗っていた中村高等女学校の、生徒たち十一名が遭難死するという、悲惨な事故でした。
赤鉄橋の建設は、この事故がきっかけだったと言います。橋は、昭和21年(1946)、南海地震で倒壊しましたが、昭和23年(1948)、復旧しています。
なお中村高女は、戦後、県立中村女子高等学校となり、現在は前述の、県立中村中学校高等学校に吸収されています。


須賀神社(通称 祇園さん)
この神社は、明治の神仏分離、廃仏毀釈政策に翻弄されたようです。その様子が、側の案内板に記されていました。
・・(前略)明治元年(1968)の神仏分離令によって牛頭天王は祇園社に、八大龍王は海津見神社(わだつみ神社)に改名されました。さらに廃仏毀釈の際に祇園社は須賀神社と改称されました。祭神は須賀神社が須佐之男命・櫛稲田姫(くしいなだ姫)、海津見神社が海津見神。(後略)


案内板
牛頭天王が祇園社に改名されたのは、牛頭天王が祇園精舎の守護神であるからです。この神を祀った社や地域は、よく「祇園」と呼ばれています。なお牛頭天王は素戔嗚尊と同体視される神で、薬師如来が本地仏とされていました。
八大龍王は、八体の龍王(龍族の王)の総称です。古来、龍は水神として信仰されていますが、仏教では、仏法の守護神、観音菩薩の守護神とされています。


中村のマンホール
マンホールには、藤があしらわれています。おそらく一條家の家紋である「一條藤」なのでしょう。
「なかむらし」と記されていますから、平成17年(2005)よりも前のマンホールです。同年、中村市は西土佐村と合併。四万十市となっています。


中村貝塚
昭和40年(1965)、高知県幡多総合庁舎の新築工事現場で発見されました。
縄文晩期(およそ2500年ほど前)の貝塚で、海で採れる貝殻が多いといいます。つまり、当時の海岸線は、この辺まで来ていたということです。また発掘された土器には、瀬戸内地方や九州と同じものが多く見られると言います。中村が九州と中筋川でつながっていたこと、中筋川は’九州に向かう川’とて、向川と呼ばれていたことは、前にも記したことがあります。
なお後述しますが、出土品は、この後に訪ねる予定の、幡多郷土資料館に展示されています。


幸徳秋水墓
中村生まれで、本名は幸徳傳次郎。因みにこの人も、中村高校(旧制中学)の卒業生です。
平成12年(2000)、中村市議会は幸徳秋水の名誉を回復すべく、次の様な決議を採択しています。
・・幸徳秋水はこの90余年の間、いわゆる大逆事件の首謀者として暗い影を負い続けてきたが、幸徳秋水を始めとする関係者に対し、20世紀最後の年に当たり、我々の義務として正しい理解によってこれを評価し、名誉の回復を諮るべきである。よって中村市議会は郷土の先覚者である幸徳秋水の偉業を讃え顕彰することを決議する。  平成12年12月19日


正福寺跡
次の様な説明があります。
・・鎌倉時代初期の承元2年(1208)、法然上人が土佐に流罪となったので、中村では寺を設けて待ったが、上人は讃岐に留まりました。その時設けた寺は龍珠山正福寺と呼ばれ、浄土宗京都知恩院の末寺とされています。(後略)
結局、法然上人が中村に来ることはなかったのですが、入るべき寺が用意されていたとは、さすがです。そう言えば、これより少し手前には、法然寺という寺がありました。この寺は元は真言宗でしたが、法然上人土佐配流を知って改宗。寺名も法然寺と改めた、とのことです。なお、讃岐の法然寺については、→(H23秋1)をご覧ください。


地震碑
昭和21年(1946)12月21日4時19分。昭和南海地震が起きました。
前にも記したことがありますが、私はこの地震を覚えています。母が、寝ている私に被さるようにして、タンスを押さえていました。その姿を見て私は、また眠ってしまったのでしたが。
その後、長い間、私はあれが昭和南海地震とよばれる大地震だったことを、知りませんでした。体験と知識がつながったのは、恥ずかしながら大学1年の頃でした。


中村城跡三の丸跡
中村城は、渡川(四万十川)と後川を外堀代わりにした、 平山城です。築城者が為松氏であることから、別名、為松城とも呼ばれるそうです。現在、城山一帯が「為松公園」とされているのも、そのためです。
為松氏はこの地に盤踞していた豪族ですが、一條氏が中村に入って以降は一條氏に従い、家老として仕えたと言います。


石積み
一條氏滅亡後の中村城の帰趨をたどっておくと、
 天正3年 (1575) 渡川の戦で一條氏が滅亡。長宗我部氏の支配下にはいる。
 慶長5年 (1600) 関ヶ原の戦で長宗我部氏が滅亡。
           山内一豊に土佐一国が与えられる。
 慶長6年 (1601) 一豊の弟・康豊が、20,000石で土佐中村藩を立藩。
 元和元年(1615) 一国一城令により廃城となる。



最初にこれを見たときは、「上げ舟」の展示かと思いました。「上げ舟」は関東平野ではよく見られます。常時は納屋などに吊り下げられていて、いざ出水となると、下ろして避難に使うのです。
しかし、よく見ると二挺櫓です。推力を必要とする舟で底が平らな川舟は、渡り舟!です。おそらく渡川や後川で使われていた、渡り舟なのでしょう。


幡多郷土資料館
郷土資料館は、三重四階の望楼型天守になっています。国宝・犬山城を模しており、最上部の物見櫓部には入母屋屋根が乗り、ぐるりと廻廊・高覧も設えられています。三階部の唐破風も美事です。上からは、360°、絶景を楽しむことが出来ます。
なお郷土資料館は、今は「四万十市郷土博物館」となっていますが、私が訪問した平成21年(2009)は、まだ「幡多郷土博物館」だったと記憶します。


天守からの景色
天守から見た、小京都・中村です。
この写真では見えませんが、街は京都を模して、碁盤の目に区画されています。中村の西を流れる渡川(四万十川)は桂川に、東を流れる後川は、鴨川に擬せられているとのことです。


天守からの景色
後川の上流方向です。鴨川に見立てられた後川の左岸には、「東山」という地名が、今も残っています。この辺りの景色は、→(H28春1)をご覧ください。野中兼山が後川に築いた、麻生堰を見に行ったときのものです。


中村貝塚出土品I
前述のように、中村貝塚出土品が展示されていました。


七星剣
一條神社に伝えられる、七星剣(しちせいけん)のレプリカです。
北斗七星が象嵌されています。北斗七星は、恒常不変の位=天帝を象徴する星。すなわち七星剣は、天帝のみが持つ、破邪、鎮護の剣なのです。


七星剣
材質分析の結果、5C、朝鮮半島で作られたと見られています。
四天王寺、東大寺、法隆寺、正倉院などにのみ伝えられている剣が、幡多にありました。


一條房基の墓
この墓も、街中にあります。墓域を住宅が徐々に浸食していったのでしょう。
房基は、二代・房冬と(前述の)玉姫の子で、三代を継ぎました。知勇に優れた人とされ、実際、高岡郡を支配下に組み込んだり、伊予南部への進出を図るなど、一條氏の勢力を拡大しましたが、戦いに疲れたか、28才で自害しました。(暗殺説もあるようです)。


一條神社
案内板は一條神社の興りを、次の様に記しています。
・・当神社は文明12年(1480)一條家の御廟所として先祖をお祀りしていたことに始まり、慶長12年(1607)一條家遺臣等土地庄屋と相企り一條家の徳を仰ぎ祠を建て霊をお祀り申していたのを、文久2年(1862)にいたり時の幡多郡奉行、中村目代、大庄屋が一体となって一條家の威徳を顕彰し、幡多郡民の総鎮守の神として崇め奉るため社殿の造営一大祭典の執行を幡多郡民に命じた。・・


拝殿
つまり年表化すると、次の様になります。
  応仁2年  (1468)幡多一條氏の祖・教房が下向。
  文明12年 (1480)一條家の御廟所として始まる。
  天正3年   (1575)一條氏、渡川の戦いで滅亡する。
  慶長12年 (1607)一條家遺臣ら、御所跡に祠を建て、霊をお祀りする。
  文久2年  (1862)総鎮守として社殿が造営さる。


境内
祭神は、次の様に記されています。
 若藤男命(わかふじお命) 若藤女命(わかふじめ命)
一條教房並に子孫房家、房冬、房基、兼定、内政及び其の連枝の霊
若藤男命・若藤女命は、教房の父母・一條兼良夫妻の神名です。「内政」は、長宗我部元親に敗れた兼定の嫡男です。幡多一條氏の五代目当主とされていますが、当主としての実質には、疑問が持たれています。


案内板
なお五代目当主・内政には、政親という嫡男がいたとの説があり、その場合、政親は一條氏六代目を襲ったとされています。
この政親が一條神社に祀られていないのは、この人物の実在を確定できる史料がほとんどないからでしょう。さらに、もし実在したとしても、彼はもはや一條氏の人物であるよりは、長宗我部氏の人物と見られていました。政親の「親」は、外祖父・元親からもらい受けた、と考えられるからです。養育も、長宗我部家臣によってなされたとされています。


繁華街
天神橋商店街です。「天神」の名は、一條神社の境内社・天神社から来ているのだと思います。
案内板によると、・・一條氏が京都五条天神を天神山(現市役所)に勧請したと伝えられ、後に藩政時代、山内氏の崇敬篤く、菅原道真公を合祭。昭和27年(1952)、天神山より現在地へ移転したとのことです。祭神は少彦名命と菅原道真公です。


日曜市
日曜市が開かれていました。
前に高知市で見た日曜市→(H14春2)ほどではありませんが、まあまあの人出です。ただ残念ながらこの日曜市は、10年後の平成31年(2019)、44年の歴史に幕を下ろすことになります。


太平寺 
宿への帰途、太平寺に立ち寄りました。
一條氏の3代・房基は、この寺を非常の時の避難場所とすべく、城塞化しました。(撮影に失敗したのですが)石段の両側に、ほんのわずかですが、石垣が写っているのが、ご覧になれますでしょうか。


銃眼
境内の塀に設けられた矢狭間です。塀が折れ曲がっていることにより、「横矢」(矢や鉄砲を敵の側面から撃つこと)が可能となっています。


車窓から
宿で荷物を受け取り、電車に乗りました。窪川まで、1泊2日かけて歩いたところを、たった1時間で引き返します。
黄色い屋根の建物は、たぶん昨日泊まった、民宿白浜です。


岩本寺
窪川に来た以上、岩本寺にはお参りしなければなりません。ふたたび岩本寺を訪れました。
宿は、ちょっと奮発して、美馬旅館を予約しました。春野で知り合った郵便屋さんからおそわった宿です。この郵便屋さんは、お遍路さんなのです。配達中、遍路を見かけると声をかけるのだと言います。


コーヒー
郵便屋さんに教わった、コーヒーの店「淳」に入りました。
岩本寺山門を出て真っ直ぐに歩くと、1~2分のところに在ります。分からなければ、ツタが這っている喫茶店はどこ?と尋ねると、たいてい教えてくれるのだそうです。


三菱ダイヤトーン
ちょっと値打ちもののスピーカーがありました。Mitsubishi と記されているだけで、ダイヤのマークは付いていません。角が直角ではなく、丸まっているのも嬉しい。
いい音を出していますが、マスターによると、「今は少し調子が悪い」とのことでした。コーヒーをお代わりして、久しぶりにゆったりとした時間を過ごしました。


美馬旅館
オフシーズンだからでしょうか、私が占めた部屋は、この二階の全部でした。
風趣ある風呂を楽しみ、食事を楽しみました。箸袋の「一期一会 遍路旅」の文字通りに、同宿の方との会話も、楽しむことが出来ました。


室内
明日は一番電車で影野まで戻り、逆打ちの形で「そえみみず」と「焼坂峠」を越えます。
朝食は、電車に間に合いそうもないので、オニギリを作ってもらうことにしました。

  平成21年(2009)12月21日 第5日目

天気予報
今日も寒いようです。


オニギリ
これは朝食です。


影野駅
影野に着きました。ここを通過したのは4日前です。


けしき
ここからは道を逆にたどります。すこし国道56号を歩き、休憩所の先で右に入ります。


案内
矢印の逆方向に歩くのは、やはり戸惑いがあります。



雪が解け残っています。道は凍ってカチカチです。
この辺の標高は、もう250㍍を超えています。


けしき
寒いけれど、いい気持ちです。
この辺を床鍋と言います。「床鍋」の地名由来には、弘法大師の「独鈷なげ」の転訛であるという説と、この地を開拓した人たちが、出身地の床鍋村を懐かしんで「床鍋」とした、との説があります。


交通標識
「そえみみず遍路道」の入口です。
国道56号を横切った後、ふり返って撮ったので、(つまり北から南方向に向いて撮ったので)、
  左方向 高知 須崎  右方向 宇和島 四万十市(旧中村)
となっています。


人生即遍路
 人生即遍路 山頭火
私が天恢さんに・・人生の晩年がこんなに忙しいものとは、知りませんでした。・・と書き送ったら、天恢さんが、次の様に返してくれました。
・・それは実感できます。山本周五郎さんが座右の銘とされていた「苦しみつつ なお働け 安住を求めるな この世は巡礼である」を共有しましょう。
もちろん私への「督励」として書いてくださったのですが、にもかかわらず愚痴れば、核家族化がはじまって半世紀余。今日日、楽隠居は望めないのですね。凡百の年寄りには住みにくい世の中です。まっ、それを含めてj人生即遍路なのですが。



昔、旅人たちは「かどや やけざか そえみみず」(角谷 焼坂 添え蚯蚓)と、この辺の難所を記憶し、それを恐れ、用心し、越えて行ったと言います。
むろん昔ほどには厳しくはないのでしょうが、私は今日、そのうちの二つ、焼坂と添え蚯蚓を越える予定です。なお角谷は、今はトンネルになっており、かつての道は、藪の中に韜晦しているようです。



高知自動車道の建設で、添え蚯蚓遍路道や焼坂遍路道は、どう変わろうとしているのでしょうか。
前々号でも記しましたが、その変わり様を見てみたいことが、中村から引き返すことにした、狙いの一つでした。



オーイ!呼ぶ声が聞こえました。道が違うと言います。細い路を斜めに切れ上がるところを見過ごし、2メートルほど行き過ぎたところでした。
私が正しい道を進むかどうか、じっと見ていてくれて、案の定間違えたので、すかさず声をかけてくださったのです。


青龍寺へ
この道標は、逆打ち用のものです。裏側は順打ち用で、岩本寺となっていました。ありがたい道標です。


照葉樹林
暗くなってきました。照葉樹林が陽を遮っているのです。


照葉樹林
突然、人と出会いました。イノシシの罠を仕掛けているので、様子を見に来たのだといいます。
血抜きのためのナイフを下げていたりします。
見せてもらいたかったのですが、罠まではまだ遠いとのことで断念しました。


久礼湾
景色を見ながら、立ち話しました。
指さして、あれがクレだといいます。・・えっ、ああ土佐久礼ですね、・・と応じると、
・・他所の人にはクレは呉じゃろうが、わしらにはクレは久礼よ。
・・久礼も大きゅうなったけん。近頃は大正市場に、観光バスが着くわい。まあ、わしらは恥ずかしゅうて行けんようになったけんど。・・と返してくれました。
写真の、二つの小さな島は、 双名島だそうです。


休憩
照葉樹に覆われた路をゆきます。
6年前のことが、いろいろ思い出されました。・・ここでバナナとちらし寿司を半分食べた。・・ここでリストラに遭った青年と出会った。・・彼とは足摺岬まで相前後して歩いたのだった・・などなど。→(H15秋2)


道標
  岩本寺へ16K お大師様が見守っておられます。頑張って下さい! 


休憩
たしかに、クライマーズ・ハイならぬ、ウォーカーズ・ハイになっていることがあります。要注意です。


階段
ここからが、高知自動車道の工事現場です。
長い擬木の階段を下ります。


整備された道
公園の遊歩道といった感じの道です。


工事
巨大な切り通し、とでも言えましょうか。山がVの字み切り崩されています。


高速道
「巨大切り通し」の斜面に急階段がつけられおり、これを下って、高速道の下まで降ります。
降りたら高速道の下をくぐって、今度は、反対側斜面に取りつけられたの階段を上ります。
出会った夫婦遍路がこの階段を、「ヒザ殺し」と呼んでいました。そして、・・ヒザは死ぬ前に笑うんだよね、・・と、ちょっとブラックなジョークを付け加えました。


擬木の階段
天然木は朽ちてゆきますが、擬木は朽ちません。経済的には擬木の方が優れているのでしょう。
しかし朽ちない擬木は土に馴染まず、やがては土から露出してきます。とても歩きにくくなります。補修が大変なのは、よくわかりますが、出来れば天然木でやってほしかったのですが、・・。


休憩所
長い階段の途中に、休憩所がありました。
高速道を眼下に眺めながらの休憩となるのでしょう。


階段
下から眺めた上げた写真です。左に休憩所が写っています。


降り口 
私には「降り口」ですが、順に歩く人にとっては「登り口」です。
手すり、擁壁が新しくなっていました。


平成15年(2003)の写真
6年前は、このような状態でした。


平成27年(2015)の写真
案内板に次の様な一文があります。
・・中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も、明治25年(1892)、大坂谷から七子峠に越す道が開通してからは廃道となりました。しかしこの添蚯蚓は近年、貴重さ先人の足跡を残す遍路道として見直されようとしています。
添蚯蚓へんろ道が標高400㍍の尾根道であるのに比べ、大坂遍路道は、終盤の険しさはあるものの谷間の道なので、おおよそは平坦です。となれば、人・物の流れがそちらに移るのも、自然の成り行きだったのでしょう。


添蚯蚓遍路道の復旧、保全にかかわってきた人たち
廃道となった道を誰が何時、復活させたのかは記していませんが、調べてみると、「へんろ道保存協力会」HPの「沿革」に、
・・2008年(平成20年)高知県中土佐町長より「旧へんろ道(土佐往還そえみみず遍路道)」の復元で感謝状を授与される。・・とありました。
復元時期は、表彰された平成20年よりも前・・現に(前掲写真にあるように)私は平成15年に歩いています。・・ですが、復元の主体が「へんろ道保存協力会」であったのは確かでしょう。


高知自動車道
  コンクリートから人へ
工事現場を見ながら、こんな文句が思い浮かんでいました。(これより3ヶ月前の)平成21年(2009)9月に発足した、民主党政権のキャッチフレーズです。国交大臣は就任早々、八ッ場ダム(やんばダム・群馬県)の建設凍結を発表。世間の関心が大型工事の行方に、大いに向けられていた頃でした。
(前述の)犬と散歩していた女性が示した”重機”への反応も、あるいは、こうした流れの中でのことだったかもしれません。


八ッ場ダム完成図・平成15年(2003)撮影
凍結の発表を聞いたときの、私の感想は、・・これでは、せっかくの「コンクリートから人へ」が、台無しになる。・・でした。
拙速だと思いました。「コンクリートから人へ」に、私は大賛成でしたが、それは拙速にダム建設を凍結することでは、実現しないのです。
・・民主党政権は、田中康夫さんの失敗から学んでいない。
私は、そう考え、忸怩たる思いでいました。


ダム反対・平成15年(2003)撮影
田中さんの失敗とは、彼が長野県知事として実行しようとした、「脱ダム宣言」(平成13年/2001)の失敗です。
田中さんが決めた県営浅川ダムの建設中止は、平成19年(2007)には早くも、次の長野県知事・村井仁さんにより、撤回されていたのです。明らかに失敗していたのです。


ダムに沈んだ吾妻峡
こんな直近の失敗例があるにもかかわらず、それから学ぼうとせず、同じ轍を踏もうとしている、・・私はそう感じ、大いに危惧を抱いていたのでした。
案の定(と言えば僭越ですが)「コンクリートから人へ」は頓挫しました。その後、曲折はありましあが、令和2年(2020)、八ッ場ダムは完成。運用が開始されています。浅川ダムの完成は、平成29年(2017)だったようです、


休憩所
長沢川沿いに下ると、休憩所がありました。1年前、平成20年春に歩いた時、休ませてもらった所です。
私の前日に、四元奈生美さんがここで休憩していたのでした。→(H20春4)当時、彼女の四国遍路の様子を写した「四元奈生美の四国遍路に行ってきマッシュ!」が、NHK・BS「街道てくてく旅」で放映されていたのです。


国道6号へ
これより国道56号を1キロほど歩いて、次なる坂・焼坂遍路道へと向かいます。この道もまた、高知自動車道の影響を受けているはずです。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、焼坂遍路道から仏坂遍路道を経て宇佐に向かい、龍坂を越えて青龍寺に参ります。更新は4月10日の予定です。
遍路の季節がやってきました。今年、私は四国を歩くことができるのでしょうか。もう2019年12月以来、4年半、四国を歩けていません。

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