楽しく遍路

四国遍路のアルバム

真念庵から 大岐 久百々 以布利 窪津 津呂 38番金剛福寺

2024-11-06 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。
  
 平成22年(2010)11月10日 二日目のつづき

伊豆田坂の石仏
前号では、復元なったばかりの伊豆田坂を越え、真念庵にお参りしたところまでをご覧いただきました。もっとも「前号」とは言え、その更新は平成30年(2018)で、あれからもう6年も経っているのですが。
とまれ前に進めることにします。6年ぶりの今号は、真念庵から38番金剛福寺へ向かうところから始まります。金剛福寺からは、二度目の月山詣りを経て、39番延光寺へと進み、その先の行程は、まだ2日ほど日程が余ると思うのですが、宿毛の宿で決めます。


真念庵境内
まだ一巡目さえ終わっていないのに、なぜ月山詣りは二度目なのか、その理由は三つです。
まず一つは、・・大月へんろ道を歩きたい・・でした。私たちは一度目の月山詣りで、その翌年には開通する、大月へんろ道の一部を歩いているのです。へんろ道の復元にボランティアとして参加している方に、案内していただいてのことでした。 →(H16春1)  あの道は今、どうなっているのだろうか、ぜひとも歩いてみたい、そんな思いが、伊豆田坂復元の報とも相俟って、募ってきたのでした。


真念庵
なお・・初遍路ハさゝやま(篠山)へかける・・との言い伝えに背き、初遍路にもかかわらず私たちが月山詣りを選んだことには、然したる理由はありません。単純に、「月山」という名の美しさに引かれたからだったと思います。この頃は、四国遍路は一巡して終わると考えていましたので、(もう来ることがないのだから)できるだけ行きたい処には行っておこうと、コース選びについては、かなり自由だったのです。


真念庵参道
二つ目の理由は、・・できれば西田○○さんにお目にかかりたい・・でした。大月へんろ道を歩いて赤泊に出ると、旧善根宿・西田家があります。西田○○さんは、その西田家の当代です。
西田家には遍路札が詰まった米俵が伝わっています。米俵には、宿泊した遍路が残した遍路札(1万2000枚と言われる)が詰まっているのです。それだけ西田家が善根を積んできたということですが、・・なんとかこれを見せてはもらえないだろうか・・と、虫のいいことを考えていたのです。(後述しますが、この願い、なんと叶うのです)。


真念庵登り口 
そして三つ目は、足摺岬西海岸には、(お大師さんではありませんが)前回「見残し」てしまったところが、いっぱいあります。・・例えば岬の先端に祀られた小祠などは、全部とは言わないまでも、やっぱりもう少し見ておきたい、・・と思ったのでした。


真念庵納経所
さて、前置きが長くなりました。
只今、時刻は13:00です。今夜の宿に「久百々」を予約し、歩きはじめました。
「久百々」は、これも前回、泊まりたくて泊まれなかった宿です。宿までの距離は、約17キロ。私たちの脚では、ゆっくりとはできません。
    

いつた橋
県道346号を行くと、いつた橋が見えてきました。伊豆田トンネルを抜けてきた国道321号が、市野瀬川を渡るための橋です。もちろん私たちは伊豆田坂を越えてきたので、この橋は渡っていません。
なお国道321号には、その数字(サン・ニー・イチ)から、「足摺サニーロード」の愛称が与えられています。陽光燦燦たる観光の道ということです。


伊豆田神社
「いつた」と「伊豆田(いずた)」について、書いておきます。
かつて、明治22年(1889)から昭和25年(1950)まで、この辺りに「伊豆田村(いずた・そん)」という行政区があったそうです。伊豆田神社に因んでつけられた村名で、下ノ加江、布、久百々、立岩、鍵掛が、この村に含まれていました。
「いつた」という読みが残っているのは、かつて伊豆田神社が、伊津(都)多大明神(いつた大明神)と呼ばれていたからです。伊豆田神社(いずた神社)と改称されたのは、明治以降だとのことです。→(H22秋 2)
なお伊豆田村は、昭和25年(1950)、下ノ加江町となり、昭和29年(1954)には、 清水町・三崎町・下川口町と合併して土佐清水市となっています。足摺岬の東西両海岸にまたがる、行政単位が誕生したわけです。


ドライブイン水車
伊豆田トンネルを抜け、いつた橋を渡ると、このドライブインにぶつかります。
右方向(県道346号)へ行くと真念庵です。さらには三原村を経由して39番延光寺に至ります。
左方向(国道321号)に進むと、38番金剛福寺です。この道は、市野瀬川沿いの道から、やがて(市野瀬川の本流である)下ノ加江川沿いの道へと変わり、さらには太平洋を望む、海沿いの道へと変化してゆきます。


下ノ加江川
四万十川を「日本最後の清流」と呼んだのは、昭和61年(1986)に放送されたNHK特集 「土佐・四万十川 ―清流と魚と人と―」でした。ある意味で、罪作りな番組でした。以来、日本の多くの人の頭に、清流と呼ばれる川は、もう日本には四万十川以外にはない、そんなバイアスがかかってしまいました。
下ノ加江川は、そんなバイアスを取り払ってくれる川です。四万十川以外にも清流はある、そう思わせてくれる川の一本が、下ノ加江川です。


下ノ加江川
南流する市野瀬川が市野瀬川を糾合。ほどなく市野瀬川は、三原村から蛇行を繰り返しつつ降りてきた、下ノ加江川に合流します。その地点を五味(大きな川に小さな川が流れ込む合流部を指す地名)と言い、そこには五味天満宮があります。→(H24秋2)


神母神社
神母神社は、五味天満宮から約1キロほど下流の、下ノ加江川左岸にある神社です。
この神社は、どう読むのでしょうか。またいかなる神を祀っているのでしょうか。
ある情報では、「こうも神社」と読み、天照大神と豊受大神(とようけ大神)を祀っているといいます。
また別の情報では、読みは「しんぼ神社」で、祭神は天照大神であるとのことです。
さらには、「神母」は高知では「いげ」と読んで、稲の神様や田んぼの水の神様を指すのだともいいます。とすると、この神社は「いげ神社」ということになります。 →(H27春9) →(H27秋1)


石ぐろ漁
下ノ加江川で男性が一人、石を積み上げていました。「石ぐろ漁」のための「石ぐろ」をつくっているのです。
「ぐろ」は、何かを積み上げたり固めたりしたものいう言葉らしく、よって「石ぐろ」は、石を積み上げてできた、石の小山を言うとのことです。そう言えば吉良の辺で見た「石ぐろ塀」は、山状ではありませんが、石を積み重ねて出来た塀でした。


吉良の石ぐろ塀
「石ぐろ漁」はウナギ漁の一種で、干潮時に石を積んで、満潮を経た後、周りを網で囲んで、石を除いてゆくのだそうです。すると、そこには石の間に潜り込んでいたウナギがいる、という寸法です。まず石ぐろに小エビなどが入り込み、それを食べようとしてウナギが潜り込み、それを人間が捕まえるのだそうです。またウナギは狭いところが好きなので、小エビなどいなくても、よく潜り込んでいると言います。


河川敷
河川敷のへんろ道を、丁石を見つけたりしながら、下ノ加江大橋にむかいます。
途中、おばあさんと出会いました。話すうち、今夜お世話になる「久百々」の女将さんは、この方の姪にあたるとわかりました。うれしい出会いです。
北さんが・・失礼ながら・・と言いながら、お歳を尋ねると、・・まだ80・・という応え。近所に90代の人が何人もいるので、「まだ」なのだと言うのです。
北さんが・・80はまだほんの小娘、ということですね・・と応じて大笑いになりました。


丁石?
これは丁石ではないかもしれません。何かの建設記念碑のようにも思われます。


丁石
これは丁石です。


避難所
これを見た瞬間からの北さんは、しばらく笑いがとまりませんでした。「お墓」に、ブラックなユーモアを感じたようでした。
しかししばらくして、・・なるほど、そうだよな。ご先祖様の処が一番安全なんだよ。・・と、得心がいったように話し始めました。
どうやら柳田国男さんの、『先祖の話』が頭にあるようでした。同書には、・・人は、死後、祖先神となり、この世に在る子孫たちの暮らしを見守ってくださる。・・とあります。とすると、そのためには集落の墓地は、集落を見下ろす高い所に設けられねばならないのです。必然、そこには津波が届かない、ということになります。


布岬
太平洋に出てきました。左に見えるのは、布崎です。先端のこんもりとした山は森山といい、高さは96㍍ほどです。


久百々へ
土佐清水市久百々(くもも)、とあります。「久百々」は宿の名前だと、私は思っていたのですが、地名から採った宿の名なのでした。
久百々という土地は、安土桃山時代には、「熊桃」(くまもも)と呼称していたと言います。久百々は、その転です。ただし、その「熊桃」が何から発しているのかは、残念ながらわかりません。
「足摺サニーロード」は、(前述しましたが)国道321号の愛称です。


足摺岬
足摺岬です。ようやく見えてきました。


宿
人気の宿です。昨夜は、「いつた坂」を整備した方たちの下山講が、ここで催されたとのことでした。


夕食
同宿は、女性歩き遍路の千葉さん、お一人でした。外資系の企業に勤務。やり繰りしての区切り歩きだといいます。
千葉さんは聞き上手で、たまに心地よいボールを投げ返してくれます。私はサラリーマンにありがちな「ソツのない応対」を好まないので、とても助かりました。女将さんも仕事の合間に加わって、楽しい時を過ごすことができました。

 平成22年(2010)11月11日 三日目

井の岬灯台
宿は真東に向いて建っているので、きっときれいな朝日が見られるだろう。
そう思って早起きしてみたけれど、どうもその気配が見られません。布崎の布埼灯台の灯が、ポツンと見えています。


今日の昼食
今日は38番金剛福寺を打ち、足摺岬西海岸を楽しみます。白山洞門、塩干満石、龍宮神社など、見所はたくさんです。
天気は、快晴ではないものの雨の心配はないとのこと。歩くのにはちょうどいいかもしれません。宿は、私たちには珍しく、早々民宿民宿青岬」に予約しました。高い所にあるらしく、車で迎えに来てくれるとのことでした。


出発
7:00 宿発。
すこし歩いて、宿の方をふり返って撮りました。茶色の帯がある建物が久百々さんです。


別荘
この建物は売り別荘とのことですが、あまり人の気配が感じられません。平成16年(2004)に歩いた時も、たしかこの建物はあったのですが。
とまれ、別荘に縁のない私たちは、歩く上での目印として、おおいに役立ってもらうことにしました。


大岐海岸の碑
私と北さんが初めてこの地を訪れたのは、平成5年(1993)のことでした。まだ在職中で、北さんの他にも二人、職場の同僚が同行していました。その時にこの碑の前で撮った写真がありますが、まあ、その写真の若いこと!令和の今日から見れば、まるで「若造」です。
なお、この時私たちは(贅沢にも)タクシーで足摺エリアに入りましたが、当時はまだ伊豆田トンネルは開通しておらず(開通は翌・平成6年)、私たちが抜けたのは、伊豆田隧道でした。伊豆田隧道は、その2年後の平成7年に、埋め戻されてしまいます。


大岐海岸
ゆるやかな曲線は、およそ1.6キロにわたります。かつてはこの倍もあったといいます。半分を開墾して部落民で分け、残りの半分を部落共有の財産として残し、管理しているのだとのことです。
大岐海岸には昭和30年代までは、野中兼山植樹と伝わる、樹齢300年の松原があったそうですが、残念、松食い虫にやられてしまったとのことです。


案内
おかみち2.0キロ、はまみち1.6キロと標示されています。
むろん私たちは浜道を行きます。


浜道
見れば(同宿だった)千葉さんが先行していました。


浜道
浜道に降りてきました。橋は、先ほど千葉さんが渡っていた橋です。


足跡
私たちは今日の、4人目の通行者です。千葉さんの足跡はどれでしょうか。


目印
たぶんこれは、サーファーのための目印でしょう。
子どもの頃私は海で泳いでいたので経験がありますが、気づかないうちに流されているのです。


流木
どこから流れてきたのでしょう。いまは格好のベンチ代わりとなって、働いています。


へんろ道
陸道へ返ってきました。 へんろ道というより、散策路の雰囲気です。


新道
新道の建設が急ピッチでした。足摺岬が観光地として一体化するためには、東海岸と西海岸を海沿いに回る道と、その途中で両海岸を短く連絡する道、さらには山岳部を縦断する道の整備が必要です。
写真の直進する道は、(私たちが歩いてきた)国道321号(サニーロード)です。この地点から岬のネック部分を横切って、西海岸の清水港に向かい、清水からは北進して宿毛に至ります。


概念図
「以布利」と記した所が、上掲写真の地点です。
私たちは東海岸を歩いて、岬先端の38番金剛福寺へ向かうので、国道321号(赤線)とはここで一度お別れし、県道27号(青線)へと進みます。「一度お別れ」というのは、38番を打った後、私たちは西海岸を歩いて清水に向かい、そこから再び、321号に乗るからです。国道321号を歩いて月山神社に詣り、宿毛へと向かいます。


墓地
たぶん以布利集落の墓地でしょう。この墓地も、(前述しましたが)集落を見下ろす、高所に在ります。
入口の鳥居の扁額文字は、「忠」です。


以布利漁港
以布利漁港では、定置網の補修をしていました。ブリ漁に備えているのではないでしょうか。ブリの漁期は、12月から翌年5月くらいまでです。
ところで以布利(いぶり)という地名ですが、高知県人・寺田寅彦(吉村公彦)さんによると、バタク語の「イフル」から来ている、とのことです。「突端」を意味すると言います。私はバタク語なる存在を知りませんが、Wikipediaによると、・・インドネシアの北スマトラ州の高地に住むバタック人によって話されている言語グループである。・・とのことです。


塗り直し
古くなった道しるべを、塗り直しつつ歩いている方たちがいます。塗り方の特徴から、お一人ではなく、何人かいらっしゃるように思えます。この方の塗り直しの特徴は、ニコニコ顔のお遍路さんです。きっと笑顔を浮かべながら、作業されているのでしょう。
因みに、宮崎建樹さんが道しるべを立て始めてのは、昭和62年(1987)だったと言います。古くなるはずです。立てた道しるべは2000本、貼ったシールは5000枚だったとか。おかげさまで、安全に歩くことが出来ています。



一見、子ども風の描き方ですが、線は、大人の引き方です。
こんな描き方が出来る大人って、楽しい人なんでしょうね。


海沿いの道
以布利漁港を過ぎて、堤防の上の道に入ります。 「あしずり遍路道」と標示されています。


海沿いの道
かつての遍路道は、・・山で行き止まれば海に降りて波打ち際を歩き、海際で行き詰まれば山に突破口を求める、・・そんな文字通り難行苦行の道であったそうです。そんな面影が、わずかですが、ここに残っているようです。


段丘上の道へ
海沿いの道から、海岸段丘の上にあがってゆきます。室戸岬では国道55号を含め、海岸段丘の下の海沿いを歩くことが多かったですが、足摺岬では、段丘上を歩くことの方が多いようです。


段丘上
きれいに整備されています。


路傍の仏さま
オヤッと思って、道端の石の向きを変えてみたら、なにやら手を合わせたくなるような、お姿が見えてきました。
転げ落ちにくいよう、据え直して差し上げました。


別荘
大岐で見た別荘です。ずいぶん歩きました。


カツオ節工場
窪津に入ってきました。
藩政時代の窪津は、クジラ漁の基地として栄えていたとのことです。『あしずり遍路道散策』というHPに、次の様な記事がありました。
・・窪津沖は、冬は熊野灘から鯨群が南下し、春には九州から鯨群が北上し、最適な捕鯨場にあるため、天保三年(1683年)藩営の捕鯨場と設定された。遍路道沿いには、浮津組、山見、遠見などの鯨に関係のある碑や場所があります。


カツオ節工場
今は、カツオ漁が盛んのようです。


とんび
トンビといえば、いつか北さんと♫飛べ飛べトンビ空高く・・と歌ったことがありました。たまたま一緒に歩いていた若い人が、トンビを指して、・・あの鳥なんて鳥ですか。よく見る鳥ですよね・・と言うので、歌ってあげたのでした。
その人と別れて、・・今どきの人は、トンビを知らないんだな。・・と交わしあったのは、私たち二人が年寄りである証なのでしょう。


ふたたび上へ
窪津から(岬廻りではなく)岬越えをします。



峠の上に小さな畑がありました。トタン板や網で囲んでいるのは、イノシシ対策とのことです。
中で作業している女性に、ハクビシンは?と尋ねると、あゝ、それもいる、とのこと。人間がオリの中よ、ハハハ!と笑っておられましたが、被害は深刻のようでした。


窪津小学校
リライト版である故に記すことですが、窪津小学校は、平成28年(2016)3月、 143年の歴史に幕を下ろし、休校となっています。
平成26年(2014)のHP記事に、
  窪津小学校は、白皇山のふもと土佐湾に面した窪津にある学校です。
  今年は全校児童5名(5、6年生)で毎日元気に頑張ってます。
とあったのですが、その2年後、5年生が卒業した後、休校となったのです。事実上の廃校でしょう。


小学校前バス停
懐かしい場所です。平成16年(2004)2月の遍路は、バスでここまで来て、ここから歩き始めたのでした。バス停の椅子をお借りして、遍路の姿に着替えたのでした。
この後、38番→月山神社を経て、松尾峠-宇和島まで歩いたのでしたが、今回の遍路は、その再現であるとも言えましょう。


コスモス
なお記録として一応記しておくと、北さんと私は、その3ヶ月前、平成15年(2003)11月にも、足摺岬を歩いています。その時は、35番清滝寺から始め、38番から打ち返し、三原村経由で宿毛まで歩いたのでした。この遍路も思い出深い遍路でした。→(H15秋3)



きれいな蝶がいる、と思いカメラを向けました。これがアサギマダラだとわかったのは、帰宅してからです。私には初めてのアサギマダラとの出会いでした。


鶏頭
やがて津呂に入ります。
以布利もさりながら、津呂(つろ)もまた、珍しい地名です。
ふたたび寺田寅彦さんからお借りすると、・・津呂は、アイヌ語の「ツル」=「突き出る」から来ている、とのことです。土佐には室戸と足摺りの2カ所に津呂がありますが、・・いずれも「突端」近くにある、・・と説明しています。


へんろ小屋
津呂の入口にある休憩所です。
私は→(H15秋4)に、次の様に書いています。
・・近くにお住まいの方の善意で維持されています。畳が三畳、飲み屋の小上がりのように、縦に敷かれています。横に並べるより、格段に使い勝手がいいでしょう。起きて半畳寝て一畳。遍路には一畳もあれば十分です。その他、いろり、流し、トイレなど、必要な一式があり、一夜の宿としては十分以上と思われました。「野宿、自炊 けっこうです」と記されています。


金毘羅宮
へんろ小屋から5分ほど歩いたでしょうか、県道27号に面して、金刀比羅(ことひら)神社がありました。扁額には「金毘羅(こんぴら)宮」と記されていますが、この社名は明治初年の神仏分離で排され、今は金刀比羅神社になっているはずです。ただしこの旧名は、今も「こんぴらさん」の愛称で、人口に膾炙しています。


馬供養塔
「馬の墓」は→(H21春4)でも紹介しましたが、あの墓は、特定の馬の墓でした。墓石に「 瓦毛馬」などと刻まれていたので、そうとわかりました。
しかし足摺岬で見た、この「馬供養塔」は、集落で死んだ馬(たぶん牛なども)を埋葬する、共同の「馬捨て場」に建てられたものではないでしょうか。


竈戸神社
津呂の町を抜けると、竈戸神社がありました。この神社もまた、県道27号が社前を横切っています。ただ、前述の金毘羅宮とは違い、参道の痕跡が、ここには少し残っていたように思います。
鳥居を潜り石段を登ると小祠があり、その背後に、いくつもの巨石が重なっています。神が鎮座する「磐座」です。


小祠
社名の読みは「かまど神社」のようです。このやや難しい社名を、今の若い人たちは、苦もなく読んでしまうのだそうです。「毀滅の刃」とかに出てくるからだそうです。
ただし、私たちが歩いた平成22年(2010)には、「毀滅の刃」はまだ登場していませんでした。


磐座
当神社の御神体です。此所は、かつては「奥まった処」でした。神は此所に鎮もられ、風の音と、風に運び上げられてくる波の音を聞きつつ、悠久の時を過ごされるかに思われていました。
しかし、そうもゆかなくなってしまいました。車の音が聞こえるようになり、人はほとんど歩かずして、易々と此所に入り込んできます。まあ、十夜ヶ橋のお大師さまの境遇を考えれば、まだましなのかもしれませんが。


伊勢神社
今度は伊勢神社です。
ある調査によると、伊勢信仰系の神社は、ダントツに多い八幡系に次いで、二番目に多いのだそうです。因みに三番目は天神系だそうです。
 信仰別の神社数
 (1)八幡     7817社
 (2)伊勢     4425社
 (3)天神     3953社
なお伊勢信仰系の神社には、伊勢神社の他、神明神社(社)、皇大神社、天祖神社なども含まれます。



足摺岬の地名由来について、五来重さんは次の様に記しています。
・・私は、岬の先端に立って常世を礼拝するときに、足踏みをしたり、五体投地することによって、自らの身を苦しめながら礼拝したのが「足摺」だと解釈しています。
つまり、補陀落浄土を拝みながらひたすら「足摺り」をした、それが「足摺岬」ではないか、というわけです。



寺田寅彦さんのお考えは、次の様です。
・・「アシズリ」はアイヌ語の「アツイ・ツリ」の転で、「アツイ」は海、「ツリ」は突出を意味する。
つまり「海に突き出ている所」、というわけです。


万次郎像
John Mung は、帰国後、中浜万次郎と名乗りましたが、さて、彼にはいずれの名が、シックリときていたのでしょうか。
思うに John Mung だったのではないでしょうか。この海を見つめる像が「望郷」の像(アメリカに帰りたい)に見えるのは、私だけでしょうか。望郷の念(日本に帰りたい)にかられて帰国したけれど、帰ってみて想われるのは、今度は、アメリカだった、そう思われてなりません。


多宝塔
万次郎像の道を挟んだ陸側に、38番金剛福寺の多宝塔が見えました。
宝形造りの屋根に相輪がきれいです。


38番金剛福寺
金剛福寺には、ちょっと苦い思い出があります。前回、四万十川辺りで大雨に降られ、ザックの中を濡らしてしまったのですが、その時、なぜか納経帳だけビニール袋に入れ忘れており、すっかり濡らしてしまったのです。
おそるおそる納経所でさし出すと、・・これは酷い。にじんでしまって、これでは書けませんね。・・と叱られ、突き返されてしまうということがありました。頼み込んで書いてはもらえたのでしたが、小さなトラウマとして残った出来事でした。


金剛福寺
境内は「只今工事中」でした。どうやら庭を造っているようでした。
・・補陀落山と海のイメージでしょうか?
地元のおじいさんに尋ねてみると、彼は顔をしかめて言いました。
・・なんだろね。成金趣味だよ。金が余ってるんだろ。
と、かなり手厳しい応えが返ってきました。


完成した庭
写真は、平成27年(2015)に撮影した同じ所です。完成していました。この他にも、何カ所かで庭園が出来上がっていました。
さて、この庭園は、おじいさんの批判に耐える出来映えとなったでしょうか。・・金はかかったけど、いいもんが出来た。・・と、おじいさんは言ってくれるでしょうか。皆さまの判定は如何に。

一週遅れの更新でしたが、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号更新予定ですが、とりあえず11月27日としておきます。というのは、実はこの辺りで、6年ぶりの区切り歩きを考えているからです。このまま行かずにいたら、本当に終わりになって仕舞いかねないので、少々無理をしてでも歩いてみようと考えているのです。皆さま、どうかこの更新予定が守れないことを願ってくださいませんか。

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二年ぶりの遍路へ行ってきました (天恢)
2024-11-25 10:20:15
 今回「楽しく遍路」が更新された翌日、天恢は二年ぶりに遍路へ出掛けることができました。 高齢者であっても、あれやこれやと何かと身に降りかかることも多く・・・。 そんな時期にポッカリと生まれた空白の時間。 この機会を失うと次は無いかも・・。  1週間前は寝台も、夜行バスも満席だったのに、3日前にダメ元で申し込んだら「サンライズ瀬戸」のノビノビ座席が1枚だけあったのです! 「あぁ~ これもお大師様のお導き。四国に呼んでくださった!」と勝手に解釈して、さっそく足摺岬と道後温泉に宿を手配しました。
 どうしても遍路へ行きたかったのは、お世話になった方たちへの供養と家族の病気全快祈願で 目指すは、横浜から一番遠くにある足摺岬の金剛福寺。 次に宇和海にある観自在寺、締めは松山にある石手寺の3札所に供養と祈願のミニ遍路ができました。

 さて、今回は「楽しく遍路」さんが平成22(2010)年の秋に歩かれた「真念庵~久百々~ 38番金剛福寺」までのリライト版をコメントでしたが、奇しくも、天恢の今回遍路コースと重なっていたのです。 もっとも、こちらは点から点のバス利用ですから内容に深入りせずに旅の思い出だけを綴ることにしました。
 初日は民宿・久百々に泊りました。 朝日新聞・天声人語を担当されていた故・辰濃和男さんが『四国遍路』(岩波新書)で絶賛した名物女将・神原るみ子さんは、「75歳になったけど薬は一切飲んでいない。 将来は嫁に譲るつもりだが、今のところ引退など毛頭考えていない」と、たのもしい限りである。  豪快で、しっかりものの女性のことを高知ではハチキンと言いますが、もうしばらくは、この気質と心こもったもてなしをお遍路さんのために頑張ってもらいたいです。

 さてさて、今回はいつもと趣を変えて、皆さまの参考になればと思い、久百々で同宿した方々を紹介します。 民宿久百々は38番まで20kmちょっとで、この宿を起点にして金剛福寺を往復して「打ち戻し」される方が多い宿で、天恢も10年前に挑戦しました。
 この日、久百々に泊ったのは私を含めて5人で、①山梨の三枝義重さん 御年89歳、遍路歴28年、翌朝5時に出発して金剛福寺を打ち戻し。 ②大阪のSさん 75歳 最後の遍路だそうで五巡目、今回は逆打ちで、本日打ち戻しを済ませ、明日は土佐白浜まで。 ③大阪・守口市のTさん65歳 初めての遍路で、基本は一国参り、明日足摺岬に泊って、次の日に久百々にまた宿泊。 ④東京港区のNさん 同宿者で最年少50歳の現役バリバリ、大学時代はアメフト部。 一番さんから通しで本日打ち戻しを終え、明日は39番札所へ。 そして、⑤遍路歴18年、81歳の天恢でした。
 同宿者の平均年齢が72歳。 大阪のTさんは退職年齢が年々延びて、未だ働けたが、体力が残っている内に、遍路するために退職を決意したそうである。 これは、このブログで紹介ししたことがある弥谷寺門前の「俳句茶屋」の店主さんが、「男は75歳過ぎると遍路は無理、その点女性は80歳過ぎても元気に歩いている人が多い!」という言葉が今も耳に残っています。 退職したら即遍路は難しく、いろいろ準備も必要で、体力勝負が遍路実行の最大の障壁です。
 終わりに、高齢者遍路の「星」 ①山梨の三枝義重さんへのイチオシです。 2年前に徳島新聞に 『四国八十八カ所霊場を歩いて巡りながら、お遍路さんの姿をした手作りの人形を参拝者らに渡している』という記事が紹介されていました。 89歳ですから来年は卒寿です。 「打ち戻し」は少なくとも40km以上歩きます。 一番さんから久百々まで16日目、健脚の東京のNさんより2日早いそうです。 今回は結願まで37日を予定しているが、2,3年前までは35日で、一般的には発願から結願まで約45日前後とされています。 三枝さんは、いつもは毎日8km、週1回くらいは山中湖一周(13km)のトレーニングを続けられています。 来年、メディアで「卒寿のスーパーお遍路さん」で紹介されることを期待しています。 翌朝5時、頭にヘッドライトを付けて、しっかりした足取りで足摺岬へ向かう三枝さんをNさんと二人でお見送りしました。
返信する
スッカラカーンの空元気 (楽しく遍路)
2024-11-26 20:57:06
天恢さん、コメントありがとうございました。
お大師さまのお導きもあっての、・・お世話になった方たちへの供養と家族の病気全快祈願・・の遍路旅、お疲れ様でした。点から点への乗り物の急ぎ旅では、歩き旅の心よい疲れとは違った、別の疲れが出るのではないでしょうか。
しかし要所では楽しまれたようですね。久百々での交流の様子、コメントから良く伝わってきます。

数人が、しかも初対面の人たちが一つのテーブルを囲むときは、ついつい隣り合った者同士で話してしまい、話題がばらけてしまいがちです。みんなが互いを推し量りながら、一つの話題に集中することは、意外と難しいのです。だからついつい一対一の話となり、人数が五人のように奇数の場合は、一人さみしく外れている人が出たりさえします。
しかし、久百々の五人は、違っていたようです。みんなが、一つのことを話し合っていたのでしょう。だって、話がバラバラだったら、天恢さんが五人全員の遍路歴を、ご存知のはずがないのですから。
そんな交流が、楽しくなかろうはずはありません。さすがお遍路さん同士!いい夜を過ごされましたね。

さて、平成16年の春、観自在寺で出会った「老」遍路のことを、私はアルバムに次の様に書いています。
・・お話では、八百坂と柏坂はバスでやり過ごし、柏坂を下りた大門から、津島町の岩松まで歩くのだそうでした。もう足が弱いからね、行き当たりばったりですよ、と話されましたが、あやかりたいものだと思ったものでした。
あの時、70半ばの私があやかりたいと思った「老」遍路は、たぶん今の私くらいの歳であったと思うのです。
あれから10年弱も経った今、はたして私は、・・あやかる・・ことができているでしょうか。
残念ながら、答は否定的です。なにせ数百メートル歩くと胸苦しくなって立ち止まる、そんな現状さえあるのです。

ただ、否定的ではありますが、それは現段階でのこと。私は今、空元気をふりしぼろうとしています。
私が今進めている四国遍路の計画は、乗り物を(極力)排除した歩き遍路なのです。・・行き当たりばったりで、適宜、乗り物を利用する・・遍路ではありません。
むろん脚力の衰えは考慮に入れなければなりませんから、日数、一日の歩行距離はしぼりますが、それを試しつつ、少しずつ日数と距離を伸ばし、出来ればコロナ前の状態にまで戻すことを、私はもくろんでいます。老け込むのは、それからでいい。

幸いこの度、天恢さんのコメントで、私は新しい目標を得ることができました。
山梨の三枝義重さん 御年89歳、遍路歴28年 です。
私は今、83歳、遍路歴23年。このまま進めば6年後には、高齢者遍路の「星」三枝さんに並ぶのです。
さすがに一日40キロは無理かもしれませんが、やってやろうではありませんか。

さてさて天恢さん、このスッカラカーンの空元気を、お笑いください。
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