楽しく遍路

四国遍路のアルバム

浦ノ内湾 宇佐 竜の渡し 竜坂 36番青龍寺 塚地峠 35番清滝寺

2024-05-08 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月23日 第7日目

気風
民宿「なずな」の朝は、気嵐がきれいでした。


気嵐 
気嵐(けあらし)は・・冷たい空気が温かな水面の上にある時、川や海、湖などから蒸発する水蒸気や、水面に近いところの空気が冷やされることによって発生する・・のだそうです。
よって、陽が昇るとともに、だんだん消えてゆきます。


あさひ
今日は今回遍路の7日目です。
宇佐まで歩き、宇佐大橋を渡り、竜坂を経て青竜寺に参ります。その後、塚地峠を越え、高岡の宿に泊まる予定です。
明日は清滝寺にお参りして、その後下山して帰途につくので、丸一日歩くのは、今日が終わりとなります。


浦ノ内湾
雪で始まった今回の遍路でしたが、最終日は穏やかな天候に恵まれました。
幸い体調もいいし、楽しい一日としたいものです。


いかだ
釣り筏かと思ったら、高知県水産試験所の施設でした。どうやら筏の下が生け簀になっているようです。


水産試験所
すぐ先に、その建物がありました。高知県水産試験所の他に、高知県栽培漁業センター、高知県中央漁業指導所、高知県海洋漁業センターなども入っています。


イカスミ
察するに、ここでイカが釣り上げられたようです。イカは忍法墨隠れを試みましたが、事ここに至っては、もはや得意技も役に立たなかった、ということでしょうか。
浦ノ内湾では、チヌ、マダイ、キス、アオリイカなどが釣れるとのことです。


巡航船の乗り場  
  埋立市営巡航船待合室
須崎市の市営巡航船待合所です。「埋立」は、この辺の地名です。文字通り、埋め立てて生まれた、土地なのでしょう。
巡航船は、湾口の埋立から各所に寄りながら、湾奥の横浪まで運行しています。登下校の時間帯には、スクールバスならぬスクールボートとなり、小中学生が乗り込みます。


巡航船運行図
『四国遍路道指南』に、次の様な記事があります。
・・いのしりより横なミ船にてもよし。うさよりのかち道ハなんじょゆへ、舟おゆるしのよし申伝ふ。
井尻から横浪まで舟で行くことを、お大師さんがお許しになっている、・・つまり、この巡航船航路は、お大師さん公認の、立派なへんろ道だというのです。
しかし、いくら徒道が難所だからとはいえ、難所は他にもあることだし、どうして此所だけ?と思わないでもありません。むろんそれには、(後述しますが)訳がありました。


浦ノ内湾
(ご記憶でしょうか)前号の「摺木バス停」の記事で、・・バス停の時刻表がはがれている・・と書きました。
その事情が判明しました。バス路線は廃線になっていたのです。
上図の下部に、・・高知高陵交通(株)が運行していた路線バス 宇佐-須崎-久礼-矢井賀間は、平成21年(2009)4月1日より廃止になりました。・・と記されています。私が歩く8ヶ月前に、廃線になっていたのでした。


休憩所
この休憩所は、地図上では、須崎市と土佐市の市境線上にあります。
休憩所がいずれに属するかわかりませんが、とまれ、ここから土佐市に入ります。


内部
・・お遍路さん休憩所(宿泊可)・・の張り紙があり、みかんの側には、・・地元のみかんです。無農薬で味がよいです。どうぞ。・・の置き手紙がありました。
今朝早く、どなたかが掃除され、みかんも付け足してくださったようです。ありがとうございます。


汐浜荘
汐浜荘です。平成15年の秋に、私は(北さんと)お世話になました。女将さんから戴いた懐かしい思い出については、→(H15秋1)からご覧ください。
なお、令和6年現在、汐浜荘は休業中となっています。


県立海洋高校
平成11年(1999)、高知県立室戸岬水産高等学校、高知県立高岡高等学校宇佐分校、高知県立清水高等学校漁業科を統合し、高知県立海洋高等学校が設立されました。県の東部、西部、中部に分散して在った、海洋系の高等学校が統合されたわけです。むろん統合したことの利点はあるでしょう。しかし地方の中の地方が、また一段とさみしくなりました。


宇佐大橋
宇佐大橋です。昭和48年(1973)に架橋された大橋で、浦ノ内湾の湾口(宇佐-井尻)を結んでいます。長さは、645㍍とのこと。
橋は、横浪半島を縦断する横浪スカイラインの、東の入口となっていますが、私たち遍路にとっては、36番青龍寺への道ということになります。


渡し場跡から
橋が架橋されるまでは、もちろん渡し舟で渡りました。「竜の渡し」と呼ばれた、お大師さん所縁の渡し舟です。
その謂われや、渡しを担ってきた人たちについては、後述の「丹生神社」の記事をご覧ください。


渡し場跡から
かつての「竜の渡し場」は、今はお年寄りたちの憩いの場ともなっているようです。横並びに椅子が並んでいます。
いつでしたか、やはり同じように横並びに並んだお年寄りたちがいたので、・・なにをしているのですか・・と尋ねると、・・海を見よる・・との応えが返ってきました。なにを話すでなくても、一緒にいることが大切なのでしょう。


落書き
遍路からはちょっと逸れますが、
・・ままのバカー・・
なんとも可愛い落書きがありました。口に出せないので、書いたのでしょう。
バカーと伸ばしているところに、この子の叫びが、聞こえるようです。


宇佐大橋
宇佐大橋には、この時期の橋としては立派すぎるとも思われる、歩道が付いていました。幅が広く、しかも車道からガードレールで分離されています。
これは、きっと、36番青龍寺へ向かう私たち歩き遍路への、ありがたい配慮でもあるにちがいありません。(ただ、高いところが恐い私としては、欄干がもう少し高くて、外側に開いていなければ、もっと嬉しいのですが・・。自転車の人は、歩行者より目線が高いので、なおさらでは?)


あんない
宇佐大橋を渡ると、道が左右に分かれます。
左が横浪スカイラインの道で、これまで「協力会地図」が、「へんろ道」として示してきた道です。
「旧遍路道」という右方向への表示は、井尻集落から登る「竜坂」(旧遍路道)への案内です。「竜坂」は、「竜の渡し」につづく山道で、かつては、この道こそが36番青龍寺に至る「へんろ道」であったわけです。


案内の拡大
・・急な坂道です。約30分 体力と時間のある方はどうぞ・・
この案内に誘われて、私も(体力の自信はありませんが)竜坂を歩かせてもらうことにしました。
途中出会った集落の方は、どなたもが、・・いい道ですよ。歩いてください。・・と声をかけてくださいました。きっと皆さんが力を合わせ、復旧させた道なのでしょう。


鳥居の扁額
扁額に「丹生神社」とあります。
見た瞬間、ちょっとした驚きに近いものを感じていました。社名の「丹生」から推知して、この神社の祭神は、高野山の丹生都比売神社(にうつひめ神社)から勧請されている、とわかるからです。ご存知のように、丹生都比売神社の祭神・丹生都比売大神は、弘法大師・空海と深い関わりをもつことで知られています。
私は丹生神社の縁起を、ぜひとも知りたいと思いました。そこにはきっと弘法大師・空海つながりで、青龍寺の創建譚もまた、記されているにちがいないのです。


丹生神社
しかし丹生神社縁起を、私は長く知ることができませんでした。ようやく縁起を記した記事に出会えたのは数日前、このリライト版を書くために、ネットを再検索していたときのことでした。
大蔵達雄さんという方がネット上に掲載された、『散歩びより … 丹生神社 青龍寺』という記事に出会えたのです。そこには、大蔵さんが高知の図書館で閲覧された、「宇佐町史」(昭和12年 宇佐保勝会刊)からの抜粋と思われる、一文『丹生神社』が掲載されていました。


津波避難所
以下、その記事をご覧ください。
・・丹生神社の神社帖には以下のように記されている。弘法大使が青龍寺を開基する時、その守り神として高野山麓の丹生大明神を勧進した。そして、(高野山に接する)天野の丹生神社の八人衆に擬して、弘法大師の従者の中から八人が永代の(井尻の)丹生神社の宮仕にされ、八人衆の生活の資として渡守と横浪三里乗り合を渡世とさせた。・・
念のため補足すれば、ここで言う「天野の丹生神社」は、丹生都比売神社を指しています。丹生都比売神社になぞらえて、(青龍寺の守り神である)丹生神社にも八人衆を置いて宮仕とし、その人たちの暮らしが成り立つよう、竜の渡しと横波三里の乗り合を渡世とさせた、というのです。


井尻集落へ
井尻の集落を抜けてゆきます。
この辺の海抜は10㍍未満なので、万一、津波に襲われたときは、丹生神社へ避難するようです(前掲写真)。
ただし、実は丹生神社の海抜も、さほど高くはありません。にもかかわらず避難所に指定されているのは、境内から、中世の山城・井尻城跡(標高115㍍)に登ることができるからです。その道に避難所が設けられています。なお「神社-山城」の形は、13番大日寺(阿波一宮-一宮城)でも見た形です。→(H26春6)


登り口
井尻集落を抜けようとするところに、写真のような標識がありました。
竜坂への登り口ですが、まだまだ軽い登りです。写真には写っていませんが、左側は集落の墓地になっています。


登り口
この簡易舗装は、長くはつづきません。


丁石I
二十一丁石がありました。丁石は、古い道の証です。青龍寺まで、今で言えば、2.3キロほどでしょうか。



沢筋のところが、やや通りにくくなっていました。ただ、赤いリボンも含めて、案内はしっかりとついており、迷う心配はありません。この箇所以外は、まったく問題なく歩くことができました。


これはマズイ
きつい作業の中で、ついウッカリしてしまったのでしょうが、これはマズイと思いました。



さて、「丹生」について、記しておきます。
まず、読みです。どうやら、神名に使われたときの「丹生」は、(知るかぎり)「にう明神」ですが、社名に使われた場合は、かならずしも「にう」ではないようです。
多くは「にう神社」ですが、他に「にゅう神社」「にぶ神社」などもあり、井尻の「丹生神社」は、「たんしょう神社」あるいは「たんじょう神社」と読むようです。なお、「丹生」を冠する神社は、全国に180社ほどもあると言われています。


案内
「丹生」は、「丹」を「生」む所を言いますが、では「丹」とは何でしょうか。
丹生都比売神社のHPからお借りすると、次の様になります。
・・丹生都比売大神のお名前にある「丹」とは、辰砂(朱砂)の鉱石より採取される赤い顔料をあらわします。古来この丹には魔を退ける力があるとされ、貴ばれてきました。現在でも、神社仏閣を赤く塗り(丹塗り)、お祝い事に赤を用いるのは、この丹に由来します。丹生都比売大神は、この丹をつかさどり、その力であらゆる災厄を祓う女神です。・・



「辰砂」は、今日の用語で言うと硫化水銀なのだそうです。水銀と硫黄の化合物と言えばよいでしょうか。
赤い結晶をしていることから、朱の顔料が採取され、また水銀の原料、薬の材料にも使われました。薬名に反魂丹、仁丹などと、「丹」が付がことがあるのは、そのためでしょう。


宇佐大橋
竜坂からの景色です。浦ノ内湾の湾口部は、あたかも川のように狭くなっています。
『四国遍礼名所図会』に・・猪の尻川(入海也、渡し舟四もん宛)・・と記されているのは、この筆者の目にも、川のように見えていたからでしょうか。
また澄禅さんの『四国遍路日記』には、・・是ヨリ三里 入江ノ 川ノ様ナル所ヲ 舟ニテ往也・・などの記事もあります。横波三里の枝湾が、川のようだと記しています。


竜の一本松
「竜の一本松」の説明がありました。
・・土地の人は「竜の一本松は桧か杉か」と言い続けてきました。この松は、松の木としてはとてつもない巨木で 実話として中学生が両手をつないで計ると、なんと六人分もあったそうです。台風で折れた枝そのものも、巨木だったそうです。
まるで桧か杉かと見まごうような、松の巨木がここに立っており、それを「竜の一本松」と呼んでいたそうです。


枯れ枝
一本松の枯れ枝でしょうか。普通の松の、幹なりの大きさがあります。


  
景色を楽しみながら歩きます。



下りに入りました。「竜の一本松」のところが、峠だったようです。


へんろ墓
日向国那珂郡小内海邑(現・宮崎市小内海)の代右衛門さんが、ここで亡くなりました。立派な墓を建ててもらえたのは、おそらく行き倒れも覚悟し、銭をなにがしか、持ち歩いていたからでしょう。
それにしても遍路墓の多いこと。残る石墓だけでも、これほどもあるのですから、今や跡形もなくなった土饅頭の墓を加えれば、どれほどの数だったでしょうか。亡くなった当人の無念はむろんですが、それを葬る土地の人たちのご苦労も、察せられるというものです。


丁石
九丁目 とあります。 


出口
竜坂の降り口です。降りて来た所を、ふり返って撮りました。


下の道
前方を写すと、このような景色になります。「協力会地図」にある、三陽荘、酔虎から入ってきた所です。



写真を撮ったり景色を楽しんだりしながら来たので、宇佐大橋からここまで、1時間10分ほどもかけてしまいました。ちょっと失敗でした。
普通に歩けば、案内標識にあったように30分、ややゆっくり目なら50分、といったところでしょうか。よい道です。ぜひ歩かれて、お楽しみ下さい。


蟹ヶ池
蟹ヶ池は「ベッコウトンボ及びその生息地」として、昭和57年(1982)、土佐市の天然記念物に指定されたそうです。しかし残念ながら、・・保護に取り組んだにもかかわらず、数年後には生息が確認されなくなり、当該指定は適当ではない状況となった。・・とのことです。
つまり、「ベッコウトンボ及びその生息地」としての天然物指定は、現在、解除されているということです。


蟹ヶ池
しかし、蟹ヶ池が県下でも最大級の湿地であること、サクラダテ、コウホネ等、希少価値を有する湿地植物が多いこと、生息するトンボの種類も多いこと、渡り鳥の飛来地となっていることなどを理由として、平成9年(1997)、今度は湿地としての蟹ヶ池が、天然記念物として指定されたといいます。
また蟹ヶ池で忘れてならないのは、高知大学などによる、近年の研究調査の結果です。なんと蟹ヶ池は、過去数千年にも及ぶ巨大津波の堆積物を、その底に沈め残しているというのです。これは大発見です。文字なき時代の「歴史」が、ここに記述されています。



カメラを持ち歩いている人なら、誰もがここで一枚、撮りたくなるのではないでしょうか。そんな景色です。


道標
  従是五社迄十三里
36番青龍寺から打ち戻り、37番五社へ向かう人への道標です。五社は、明治の神仏分離で岩本寺が37番札所となる前に、37番札所だったところです。
右面には、文化甲戌 初春 施主 井ノ尻浦 升市屋喜三平  とあります。 文化甲戌(きのえいぬ・こうじゅつ)は、 文化11年(1814)に当たるそうです。
左面は、三十六番 青龍寺 となっています。


山門
「 青龍寺の歴史・由来」を、四国八十八ケ所霊場会のHPから、転載させていただきました。ご覧ください。
以下は、その書き出し部分です。社名こそ出てきませんが、(前述の)『丹生神社縁起』の記述と、その内容はほぼ重なっています。
・・青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。お供をした8人を残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。・・


青龍寺の恵果堂
続けて「 青龍寺の歴史・由来」は、唐国にある「青龍寺」が和国にも建立される、経緯を記しています。
・・弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。・・
写真は、36番札所の「青龍寺」にある、恵果堂です。弘法大師・空海の恩師、恵果和尚を祀っています。


本堂
続いて、青龍寺の山号が「独鈷山」となった由縁です。
・・帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。・・
ところで弘法大師・空海は、独鈷のみならず三鈷杵をも、唐の地から投じたようです。その三鈷杵は高野山に落ちたとされ、そこには金剛峯寺が建っています。


土佐神社の礫石
何かを投じた先に神社や寺を定めたという譚は、よくある譚です。近場の例では、浦ノ内湾奧の鳴無神社から一言主命が大石を投じ、その落ちた先に土佐神社が建った、というのがあります。
写真は、一言主命が投じて土佐神社の地に落ちたという大石です。礫石と呼ばれています。


石段
長い石段を下り、35番清瀧寺へ向かいます。
なお青龍寺奥の院については、 →(H20春4)をご覧ください。



帰途は竜坂を通らず、海沿いの道を行くことにしました。


宇佐湾
しばらく座って、海を眺めていました。海なし県の埼玉ですごしているからでしょうか、海の側に来ると、こうしていたくなります。波の寄せる音が、とても気持ちよく聞こえてきました。


標識
宇佐町の「井尻」は、(いのしり)と読みます。しかしそれを知らずに、(いじり)などと読んでしまう人が、多いのかもしれません。
なるほど、井と尻の間に「ノ」を入れたら、読み間違うことはありません。


塚地峠へ
宇佐大橋を渡り、宇佐の住宅地を北方向へ抜けます。


萩谷川
萩谷川の改修工事がされていました。この川は、河口部が宇佐町の住宅地を流れているので、ひとたび氾濫すると、大きな被害をもたらします。
水源は、土佐市高岡地区(清滝寺側)と宇佐地区(青龍寺側)を隔てる、標高 300mほどの山域にあります。この山域を越えるのが、これから歩く塚地峠遍路道(青龍寺道)です。なお、この山域は波介山展望公園(はげやま展望公園) となっていて、絶好の景色が楽しめる、ハイキングコースなどが整備されています。(後述)


安政地震
地震・津波の恐さを忘れてはならぬと、ご先祖が碑を残してくれました。
円柱の碑体には、安政地震・津波の様子が、詳細に刻まれています。また、この碑が建つ場所は、安政津波の最高到達点だとのことです。津波は塚地峠遍路道の登り口近くまで来たのだと、この碑は教えているのです。
  天災は忘れた頃にやってくる。
との警句を発したのは、高知出身の寺田寅彦さんですが、思うにこの警句は、寺田さんの耳に届いた、ご先祖さんたちの声であったのかもしれません。


みかんのお接待
ちょうどミカンの収穫期とあって、ミカンのお接待がいっぱいです。どなたかにお裾分けをとも考えましたが、ほとんど人に出会うことがありません。たまに出会っても、・・私もいっぱい頂いて・・との応えです。どうやら持ち帰って、家族と共に戴くことになりそうです。


峠へ
峠への登りに入ります。
尚、この峠を越えた記録は、→(H15秋1)→(H20春4)→(H27春12)にも記しています。ご覧ください。


磨崖仏
峠道の宇佐側には、線刻の磨崖仏が残っています。この道が古くからの、修行の道であることの痕跡です。



・・こんにちは。
・・こんにちは。
挨拶を交わしてすれ違いました。なにかを思索しつつ歩いている、そんな感じの方でした。



高度を上げてゆきます。峠道の最高高度は、標高190㍍です。



峠の辺りでは木が伐採され、宇佐の海をながめ下ろすことが出来ます。
手前が宇佐の街並み。奧が、青龍寺が在る竜岬です。



さて、峠からの景色もすばらしいのですが、もっとすばらしい景色を楽しんでみては、いかがでしょうか。
峠から20分ほどの登りで、大峠展望台に行くことが出来ます。


大峠から高岡方向
展望台から見た高岡方向です。清滝寺がある方向です。


大峠から宇佐方向
こちらは、青龍寺が在る宇佐方向。この展望台からは、両方向の景色を望むことができます。


石鎚神社跡
もう少し足を延ばせば、茶臼山も楽しむことが出来ます。私は平成27年、ハイキンググループへの飛び入り参加で、訪ねてみました。所要時間は約二時間でした。→(H27春12)
写真は、茶臼山の石鎚神社跡です。見えにくいですが、鳥居の先の岩には、鎖がついています。


下り
峠から降りてきました。


休憩所
下ったところに、塚地休憩所があります。野宿の方への配慮でしょうか、寝具がおいてあります。


石材店
清瀧寺へ向かいます。この辺の道沿いには、石材屋さんが多く見られます。


波介川
仁淀川の支流である、波介川(はげ川)です。仁淀川との間に逆流防止水門が付くまでは、仁淀川の水量が増えると、その分が波介川に逆流し、波介川は度々、氾濫していたのだそうです。


用石
用石(もちいし)と読むようです。地名の由来を探してみたのですが、わかりませんでした。
石材屋さんとの関連や、近くの高石町との関連なども疑ってみたのですが。


茂兵衛道標
  青龍寺一里半余  259度目為供養  施主 中務茂兵衛義教
茂兵衛さんは、生まれは幕末の弘化年間(1844-48)ですが、明治から大正にかけてを生きた方です。生涯に、四国遍路巡拝度数・280度、建立した道標・230余基を成し遂げたとのこと。
「中務」は「中司」とも書き、読みは「なかつか」「なかつかさ」「なかづかさ」などがあるようですが、どうやら正式には「なかつかさ」のようです。また、明治・大正の人でありながら諱を持っていて、その読みは、おそらくは「よしのり」なのでしょうが、「ぎきょう」とも読むようです。


宿
白石旅館さんにお世話になりました。泊り客は、また、私一人でした。話し相手がほしい気もしていたのですが。
というのも、道中、たまたま気づいたのですが、今日は、私が初めて「お大師さんの道」を歩いた、「記念日」なのです。平成13年(2001)の今日、12月23日、私は初めて、(北さんと)「お大師さんの道」を歩いたのでした。
3泊4日の短い遍路でしたが、疲労で発熱する中、マメで痛む足で歩いた、印象に残る遍路でした。あれから8年。よくつづいています。

  平成21年(2009)12月24日 第8日目


宿に荷物を預け、35番清滝寺に参ります。


清滝寺へ
  四國第三十五番霊場醫王山清滝寺
  平城天皇第三皇子真如法親王御遺蹟地
「真如」について、四国八十八箇所霊場会の『清瀧寺の歴史・由来』に、次のような記述があります。
・・寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。


参道
ただし歴史本では、
・・第51代平城天皇(へいぜい天皇)の第三皇子は高岳(たかおか)親王といったが,「平城太上天皇の変」(大同5年/810)により皇太子を廃され、出家して真如と号した。・・となっています。清滝寺との関わりはわかりません。あるいは「高岳」と「高岡」が同音であることに発しているのでしょうか。
なお「法親王」は、出家した後続の呼称です。また「平城太上天皇の変」は、ある程度年配の方は、「薬子の変」の名でご存知の事件です。


山門
清滝寺は、明治4年(1871)、「廃仏毀釈」により廃寺となりましたが、明治13年(1880)には再興されています。
この仁王門は、明治33年(1900)の建立です。その天井画はよく知られています。


石段
仁王門から、長い石段を上ります。


本堂
山の中腹に切り土して造った広い平地に、本堂、大師堂、その間に本尊・薬師如来像が、横並びに並んでいます。


大師堂 
それらは、いずれも南面して、高岡、宇佐、そして太平洋を望んでいます。


景色
南方向の景色です。一番奥に、太平洋が光って見えています。



お参りを終え、下山します。


ふれあい
清滝寺にお参りしたときは、ここ「ふぃれあい」で食事をとるのが恒例となっています。今回も寄せてもらいました。
障害者自立支援活動の一環として営業されていましたが、残念ながら、このリライト時点では、営業は止めているようです。コロナの影響があったのかもしれません。


帰途へ
これよりバスで高知駅に向かいます。
高知駅からは、リムジンバスで高知龍馬空港へ。


富士山
そこからは飛行機です。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。平成21年冬の土佐路シリーズは、今号を以て、終わりとなりました。
次号からは、伊予路(大洲から松山)のシリーズを考えています。更新は6月5日の予定です。
この春、皆さまは、四国を歩かれたでしょうか。私は残念ながら、果たせませんでした。秋を期することとなるようです。

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2 コメント

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♪なんのために生まれて なにをして 生きるのか~  (天恢)
2024-05-21 20:15:10
 五月晴れも、今じゃ夏日であっても不思議ではありませんが、今回ブログの最終行に 『この春、皆さまは、四国を歩かれたでしょうか。』 と、ありましたが、私も残念ながらで、何とか秋に期待したいものです。

 さて、今回も「楽しく遍路」さんが 平成21(2009)年の厳冬に歩かれた「浦ノ内湾 宇佐~36番青龍寺 塚地峠 35番清滝寺」までのリライト版をコメントすることにします。 今シリーズは、土佐久礼から中村まで歩き、足摺に向かわずに青龍寺、清滝寺まで引き返す逆順の遍路コースのいよいよ最終日です。
 今回、一番気になった写真は「巡航船の乗り場、埋立市営巡航船待合室」です。 天恢も前年(2008年)に路線バスでここを通過しました。 青龍寺近くにあった国民宿舎土佐からタクシーで、船着場・埋立の少し手前にあるバス停「とさでん宇佐」でした。 ブログで須崎、久礼方面の路線バスがこの年の春に廃線となったとのこと。 あの時、私とバスに同乗した旧・浦ノ内小学校の生徒たちの通学手段はどうなったのか? 気になりました。 横浪小と統合した新・浦ノ内小学校が開校するのは2014年のことです。 新・浦ノ内小学校と横浪の船着場との距離は1.3kmもあって、巡航船で着いた生徒たちを歩かせるのは少し酷かも知れません。 
 それと、私の乗った路線バスは県道23号線で、対岸の横波三里の生徒たちの通学手段は? 3年後の2011年、青龍寺から横波三里を歩きましたが、池ノ浦の「みっちゃん民宿」に泊りました。 あのみっちゃんのお子さんたちはどうやって通学していたのでしょうか? その手段が判明したのは、グーグルマップで検索した「バス停・宇佐」の口コミの写真にありました。 一日5本の「須崎市スクールバス」 横浪・須崎方面として標示されていて、推測として浦ノ内湾岸に住む就学生たちは巡航船とスクールバスを乗り継いで通学しているのではないでしょうか? 
 ブログにあった小学校の統合、須崎中学の廃校危機など、浦ノ内湾には少子化・過疎化のさざなみがひたひたと打ち寄せていたのですが、もはや、この症状は日本の地方の厳しい現実なのです。 
 補足ですが、須崎市広報に 『通学の児童生徒を乗せて湾内を進む巡航船。浦ノ内湾内を1日上下3便ずつ、市営巡航船が運航しています。 一般の方も乗船できますので船旅を楽しんでみませんか。 航海距離(埋立~坂内 間)は17.3km、航海時間は約1時間です。 【運休日】日曜日、祝日、年末・年始(12/29~1/3)』と、あって、遍路する方は運休日があることをお忘れなく。

 さてさて、今回のタイトルは『 ♪なんのために生まれて なにをして 生きるのか~ 』ですが、四国出身で、生涯を四国の発展ために尽力なされた漫画家・やなせたかしさん作詞の『アンパンマンのマーチ』からで、『こたえられないなんて そんなのは いやだ!~』と、続きます。
 それにしても、子ども向けの漫画の歌詞にしては余りに意味が深すぎます。 自己再生への道として遍路を志す方たちにも、ご一緒にこのタイトルの意味を心に問うということで、続きは次回ブログで・・・。
返信する
♫ランドセルしょって元気よく (楽しく遍路)
2024-05-27 14:49:08
天恢さん、コメントありがとうございました。
おっしゃるとおりです。路線バスが廃線となったことだけを記した私の記事には、手落ちがありました。
・・あの時、私とバスに同乗した旧・浦ノ内小学校の生徒たちの通学手段はどうなったのか?・・
こういうことに、気を配らなければならないのですね。
スクールバスが運行されていること、補足していただきまして、ありがとうございました。

それにしても、小学生までもがバス通学している現実は、どう受けとめたらいいのでしょう。
実は、私が住んでいる所(埼玉県南部の人口25万ほどの市)へも、ついに昨年、小中学校統廃合の波が押し寄せてきたのです。交通危険箇所がたくさんありますから、計画通り実施されたら、スクールバスによる登下校は必至となります。
こんな時代がいつか来るとは思っていましたが、正直、こんなに早く来るとは、考えていませんでした。地方創生の歩みはのろく、過疎→限界→消滅に至る過程は、予想以上に速く進んでいるようです。

『四国西南端 柏島の風景』に記しましたが、平成16年(2004)春、北さんと私は大月町を歩いていて、「大月町立大月中学校」の大看板を目にしました。あまりにも大きいので、・・というのは、学校などの施設は地域の誰にでも知られている施設なので、あんなデカイ看板は必要ないはずなのです。・・地元の人に事情を尋ねてみると、平成13年(2001)、大月町内の全中学校(5校)が廃校となり、新設・大月中学校一校に統合されているのだと知りました。
あのデカサは、ある意味、学校と地域社会との、「疎遠」を象徴していたのかもしれません。あの広い大月町に中学校が一校だけなのですから、自分の子どもの学校がどこにあるか、知らない保護者がいても、不思議ではないのです。

その後、私たちは柏島を訪れたのでしたが、実際、柏島中学校も、すでに閉校となっており、校舎は黒潮実感センターの施設として使われていました(当時)。
・・みんなが通った 私の柏中  忘れない ありがとう・・
・・また会うときは みんなが育った この場所で・・
最後の卒業生たちが校舎に残したメッセージです。
この子たちには、出来ることなら、地域の子として、地域で学び、地域の大人に育って欲しかった、そう思いました。きっとそれが、地域の大人たちの願いであり、子どもたちの願いでもあったのです。

しかし事態は、(私見では)なおいっそう悪い方に進みました。
平成22年(2010)秋、大月町を歩いていると、例の「大月町立大月中学校」の大看板が見えてきました。(申し訳ありませんが、この遍路のリライトは、まだできていません)。ところが、よく見ると「中」の部分が「小中」に塗り替えられているではありませんか。「大月町立小中学校」に変わっていたのです。
調べてみるとその前年、平成21年(2009)、大月町の小学校(11校)もまた、すべて大月小学校の一校に統合されていたことがわかりました。あの柏島小学校の子たちも、片道1時間以上かけて、バスでここまで通っているのです。

♫ランドセルしょって元気よく、・・走ったかと思えば立ち止まり、進んだかと思えばまた戻り、あの子とくっついたり、この子とくっついたり、なかなか前に進まない、・・そんな子どもたちの登下校風景を見ることは、もはや望むべくもないのですね。
大月の小中学校に起きたことは、数年後、須崎の小中学校にも起きました(前号)。やがて私の街にも起きようとしています。大月の前には、仁井田でも起きていました。仁井田中学の廃校は、昭和45年(1970)のことでした(H21冬2)。その少し前、昭和40年(1965)には、下宇和中学の廃校がありました(H28春 4)。
ある調査によると、平成9年(1997)から平成29年(2017)の20年間で、統廃合された全国の公立小学校は5823校、公立中学校は1739校だそうです。これ以前を含めれば、驚くべき数に昇るでしょう。

私の街では、毎日2時半になると、防災放送が流れます。
・・小学生の下校時間となりました。安全に下校できるよう・・
こんな放送も、やがて聞かれなくなるのかもしれません。
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