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このアルバムは、平成22年夏の遍路アルバムを、リライトしたものです。
そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
その点、ご注意ください。
平成22年(2010)7月12日 雨 第二日目のつづき
出石寺着
11:20 空海(弘法大師)像が見えてきました。ようやく出石寺に着きました。
平野駅を7:00に歩きはじめて4時間半。一条兼定寄留地での長滞在、雷様からの避難を含めての時間ですが、ずいぶんかかったものです。
空海像
出石寺の山号が「金山」(きんざん)に改められたのは、大同2年(807)のことだと言います。それまでは、「雲峯山」と称していたそうです。
出石寺を訪れた空海(弘法大師)が、この山に有望な銅鉱脈があることを確認。これは「三国無双の金山」であるとて(当時は、「銅」は「金」と呼ばれていた)、山号を「金山」に改めたと伝わります。(この山で銅が採れるのは本当のことで、事実、明治末から昭和20年まで、三菱鉱山が銅の採掘を行っていたそうです)。
大師像と熊野権現の鳥居
空海(弘法大師)は、またこの時、金山出石寺の守護として、熊野権現を勧請したと伝わります。写真の鳥居が、熊野権現の鳥居です。
「熊野権現」とは、熊野三山に祀られる神々、つまり熊野大神を言います。なかでも、 家都美御子大神(すさのう)、熊野速玉大神(いざなぎ)、熊野夫須美大神(いざなみ)の三神のみを指すときは、熊野三所権現と呼ばれ、その他の神々を加えて、熊野十二所権現となることもあります。「権現」と称されるのは、本地垂迹説の考え方によるからです。
熊野権現
鳥居の奥に、熊野権現社が見えます。
権現社の側に見える、木に埋もれた小山は、勧請に際し空海(弘法大師)が護摩を修したと伝わる、護摩壇の跡です。今は「護摩山」と呼ばれています。
護摩山(平成28年撮影)
熊野権現の裏にまわると、「護摩山」の標示がありました。小さい方の立て札には、「大同三 弘法大師が護摩供 修法の遺跡」と記されています。
後述しますが、空海は(単に「伝承」されているだけでなく)本当に金山出石寺に登っていた、とする研究があります。護摩山を「遺跡」と称し、護摩を修した年号まで記しているのは、そうした研究が意識されてのことかもしれません。なお大同3年は、西暦では808年です。
護摩山から(平成28年撮影)
熊野権現を背に空海(弘法大師)が、本堂方向を眺めておられます。
この景色が、あるいは1200余年前の実景であったかもしれないと思えば、なにやら心が躍ります。
石段
出石寺の伽藍は、出石山山頂に至る尾根筋に配置されています。
写真の石段が、本堂に至る、最初の石段です。上ると、仁王門があります。
石段を上りながら、お参り前の汗拭き、濡れた靴下絞り、できかかっているマメの応急手当など、あまり人目にさらしたくはない作業を、門の片隅をお借りして、やらせてもらおうと考えました。
仁王門
仁王門をくぐると広場があります。広場の右側に納経所が、それに向かいあう左側に、うどん屋さんや土産物屋さんがあります。
正面には、また石段があり、これを上ると、大師堂がある平面になります。
上からの写真
上から撮った写真です。右に写っている立派な屋根が、仁王門です。
白壁がある棟に納経所があり、それに向かい合う位置の瓦屋根(右下)が、うどん屋さんなどの棟です。
赤い寄進幟が立っている石段を上ると、大師堂になります。
大師堂の段
大師堂がある段に上がってきました。
写真中央の屋根が仁王門です。
右に臥牛像(後述)が見えていますが、この牛の目線の先に、大師堂があります。
臥牛像と大師堂(平成28年撮影)
前述の「空海は本当に出石寺に登ったか」の研究ですが、『えひめの記憶』に、次の様な記述があります。すこし長くなりますが、引用させていただきます。
・・空海24歳(延暦16年、797)の作といわれる『三教指帰』と『聾鼓指帰』によると、18歳で大学に入った空海は、まもなく中退してから24歳までは山岳修行者として近畿・四国の山々をめぐったとみられ、
・・四国については、
阿国大滝嶽に躋り攀ぢ(のぼりよじ)、土州室戸崎に勤念す(三教指帰)
とあり、また、
或るときは金巌(きんげん)に登りて雪に遇いて坎らん(かんらん)たり、
或るときは石峯(いしみね)に跨り、もって粮(りょう)を絶ちて
轗軻(かんか)たり (同 共に原漢文)
と書かれている。
・・阿波国大滝嶽は21番札所大龍寺の地であり、土州室戸崎には最御崎寺がある。また、「金巌」の自註(聾鼓指帰)には「加禰能太気」(かねのたけ)、「石峯」の自註には「伊志都知能太気」(いしつちのたけ)とあり、後者は石鎚山をさすことにまちがいないが、前者を「金山」といわれる出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。
以上、金巌=金山出石寺説の考え方が、わかりやすく説明されていると思い、引用させていただきました。
ただ最後の一文は、正直、私にはわからないところがあります。とりわけ「中央」とは、何を指すのでしょうか。どうやら、私が知らない研究の経緯があると察しました。
大師堂
そう思い、調べていると、次の文に出会いました。大本敬久さん(愛媛県歴史文化博物館専門学芸員/伊予史談会)が書かれた、『三教指帰に見る空海と四国』のまとめ部分です。
・・以上、弘法大師空海の青年期の修行地「金巌」についてその解釈を時代ごとに確認すると、中世以前には具体的な比定地は現れないものの、江戸時代には伊予国(金山出石寺)説が通説化していたことがわかる。そして昭和以降の岩波文庫本や『弘法大師空海全集』の刊行等により金峰山説が登場し、伊予国説が見られなくなってきている。伊予国説は新史料の発見により否定されたわけではなく、解釈の問題で金峰山説が有力とされたという状況であり、この件の実証的研究は今後も追及されるべきといえるだろう。
なるほどと、腑に落ちた感じです。伊予国説が(否定されたわけでもないのに)見られなくなっている、そんな現状を・・出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。・・と記したのでしょう。
長くなりましたが、以上を以て、「研究」に関する記事を終わります。
臥牛 お手ひきの鹿像
大師堂の向かいに臥牛像があり、その奧に、鹿の像がありました。
鹿は、出石寺縁起に出てくる、作右衛門が追い詰めた(実は導かれた)「お手びきの鹿」の像です。これは、すぐわかりました。
しかし、臥牛はなんでしょう。出石寺といかなる関係があるのか、わかりませんでした。
帰宅後、調べていると、『伊予細見』というHPで、興味深い記事に出会うことが出来ました。『第75回上須戒紀行』という記事です。
臥牛像 お手引き鹿像(平成28年撮影)
・・(大洲市上須戒の)護国寺は明治の初めに当地の庄屋向居家の邸を寺院に改築したもので、今も金山出石寺の隠居所になっている。戦前は、山頂の金山出石寺の僧坊で使う、米、味噌、醤油などの食料や生活物資はこの護国寺から牛の背に乗せて上げていた。荷物を積んで牛のお尻をポンと叩くと、牛は勝手に山道を歩いて、山頂の決められた場所まで上がって行ったという話を聞いたことがある。
思うに、これが臥牛像の由来なのです。どなたか信者さんが、そんな感心な牛の像を造り、奉納したのでしょう。
卯之町の二宮敬作住居跡(平成28年撮影)
なお、護国寺の隣には、江戸時代末期の蘭学者にして医師・二宮敬作の居宅跡があるそうです。二宮敬作は、(シーボルト事件後)シーボルトの娘・楠本イネを養育。日本初の女医(産科医)に育てたことでも知られる人物ですが、私は二宮の居宅跡を、卯之町でも見ています。→(H28春4)
二宮はどのような経緯で、上須戒(かみすがい)にも住んだのでしょうか。
住居跡(平成28年撮影)
二宮が上須戒に住んだ経緯を、『えひめの記憶』は、次の様に記しています。
・・長崎払いとなった二宮敬作は、文政13年(1830年)6月、11年ぶりに故郷の磯崎の土を踏んだ。彼は故郷でしばらく休養した後、かねてから許婚であった喜多郡上須戒村(現大洲市上須戒)の西イワと結婚した。 敬作は、西家で2年半ほど医師を開いたが、敬作の名声を耳にした宇和島藩主伊達宗紀の内命もあって天保4年(1833年)、30歳の時、宇和郡卯之町(現宇和町卯之町)に出て開業した。
察するに、上須戒に移った敬作に、向居家が住まいと開業の場を提供したのではないでしょうか。
本堂
ようやく本堂に着きました。出石山(812㍍)の山頂部に立っています。
こちらに祀られているのは、木彫・千手観音菩薩像です。年に一度、開帳されるとのことです。
供養塔
本堂の側に供養塔が建っていました。
本尊湧出一千二百年供養塔
と刻まれています。「湧出」とは、当寺のご本尊が、「自然湧出の銅仏」であることによります。
奉納錨(平成28年撮影)
山頂の、たしか佐田岬を眺める方向だったと思いますが、玉垣の角に、錨が奉納されていました。航海安全の祈願に、船乗りたちが担ぎ上げてきたのでしょうか。海での安全を山上の神仏に祈願することは、かつては、普通にみられたことです。
錨は、江戸時代から明治時代にかけて和船で使われた、四爪錨(よつめ・いかり)と呼ばれる錨です。
西方向?
雨天の景色も、それなりにすばらしいのですが、もし晴れた日の景色をご覧になりたいときは、→(H28春6)に数枚、載せていますので、ご覧ください。
南方向?
こちらは南・宇和方向でしょうか。
北東方向
これは、電波塔が見えるので、おそらく、北東方だと思います。
下山
うどん屋さんに入り、甘酒と素うどんをいただきました。
腹を満たし、休憩も取り、これから下山です。時刻は、12:50。
なお余談ですが、私は、・・うどんを食べるなら素うどん、・・と決めております。薄い透き通るようなナルト、できればたっぷりめのワケギ、これに七味を少々。これが、うどんそのものが楽しめる、一番の食べ方です。麺にコシがあることを、固いことと勘違いしているうどん屋さんも多い近頃、こちらは麺も汁もけっこうな、美味しい四国のうどん屋さんでした。
県道248号
県道が見えてきました。
2.5キロほどの下りでしたが、40分ほどかかっています。
標識
県道248号(瀬田八多喜停車場線)です。
標識に上須戒が示されています。前述の、牛の護国寺や二宮敬作住居跡がある所です。
私は右方向、高山に向かいます。
雲の中
天気はわずかに回復傾向を見せています。
道
県道148号を行きます。
道
1キロ弱歩くと、往路、登ってきた道への下り口に着きました。ここを下ると、平野に出るわけです。
しかし復路は、別の道を行きます。高山を経て阿蔵から西大洲に降りて、宿まで歩くことにしました。
道
雨が止んできたようです。しかし、私はまだ、雲の中にいます。
標識
出石寺から、9キロほど歩いてきたようです。時刻は、14:10です。
視界不良
視界不良ですが、なんの不安もありません。
下
西大洲の街が見えます。今日、始めて見る「下界」の景色です。
集落
高山(たかやま)集落でしょうか。集落名は、北方向にある高山寺山(こうせんじ山・561㍍)に由来するようです。元はお寺があったのかと思い、調べてみましたが、わかりませんでした。
道
途中、崖の崩落箇所を二箇所、目にしました。最近のものです。一カ所などは、民家のすぐ裏まで迫っていました。
メンヒル
この石は、「メンヒル」だと言います。日本語では「立石」(りっせき)と言うのだとか。
墓標だとも、なにかの記念碑だとも言われていますが、わかってはいないようです。なんらかの思いが込められているのは確かなのですが。
なおこの立石は、正面が真東に向き、その方向には冨士山と神南山があります。そのことに何の意味があるのか、ないのか、それはわかっていませんが。
肱南方向
写真中央に見える橋は、肱川にかかる肱川橋です。橋の右に広がる街部が、前号で記した、大洲城下の「大洲」になります。かつての「大津」です。肱川を境とする呼称では、「肱南」と呼ぶそうです。
拡大すると大洲城も見えるので、拡大してみます、・・次の写真をご覧ください。
肱川橋と大洲城
ピンボケですみませんが、大洲城が写っています。
案山子
思わず話しかけそうになりましたが、案山子でした。
肱北方向
肱北と呼ばれる地域です。肱川橋が架かり、愛媛鉄道(大洲-長浜間)の大洲駅ができたことで、この地域は開けます。
架かっている橋は、五郎大橋です。大橋を右方向に延長した先に、市立喜多小学校が見えています。(白く写った大きめの建物です)。
道
高山から、阿蔵(あぞう)という区域に入ってきました。
通行止め
「へんろ道 前方路崩落 迂回路」と標示されています。道標に記されているくらいですから、この崩落は、最近のものではありません。
案内
ここからは車道を行くこともできますが、信頼できる道標二本に誘われて、へんろ道を歩きます。
道
下へ降りてきました。
予讃線
予讃線の下をくぐり、大洲城に向かって歩きます。宿は肱川橋を渡った先にあります。
久米川
久米川です。この川が肱川に合流する所に、大洲城は建っています。
久米川は、今は大洲市を流れる川ですが、江戸時代は、上流部分は宇和島藩、下流部分は大洲藩と、分かれていました。前号で記した平野駅の近くに番所があり、ここが藩境になっていたのです。→(H28春6)
藩境の番所跡(平成28年撮影)
そのため両藩の領民間で、「水争い」がよく起きていたといいます。
こんな話が伝わっているそうです。
・・上流の宇和島藩が水を分けてくれないことに、下流の大洲藩は腹を立て、藩境に堰を築いてしまったのだそうです。
・・堰き止められた久米川の水は、当然、行き所を失い、宇和島藩内に溢れたといいます。これが大洲藩の狙いでした。
・・困った宇和島藩は、これからは水を分けることを約束。堰を解いてもらい、洪水から逃れることができたのだそうです。
大洲城
大洲城が間近に見えてきました。奥の山は、冨士山です。
鉄砲町
城下町らしい町名です。
喫茶店があったので、入ってコーヒーをいただきました。前号で「少年式」のことを記しましたが、それは、ここで仕入れた話でした。
宿着
10時間弱の歩きでした。普通よりは3-4時間は長くかかっているでしょう。
ポンチョを脱いでタオルで水を落とし、杖を洗って玄関に入りました。
さて、どうしたものか、おろしたザックはどこに置いたらいいのか、どうやって靴を脱ごうか、靴下もここで脱がないと、・・しかし、なにも困ることはありませんでした。宿の若夫婦が、すべてを心得ていてくれました。
雨
天気予報です。明日も雨のようです。それも、梅雨末期の激しい降りのようです。
北さんが心配して、電話を入れてくれました。
平成22年(2010)7月13日 雨 第三日目
歩きはじめ
6:45 宿発。今日の歩きは、20キロ余です。ほとんどは、国道56号を歩きます。内子町に入る手前のへんろ道以外はアスファルト道なので、足を傷めなければと心配です。
宿は、懐かしの(後述)、大瀬の「民宿来楽苦」を予約しています。
国道56号
ジョイフルでコーヒーを飲みました。ここもまた、思い出の場所だからです。
6年前、(北さんと)ここでコーヒーを飲んだことがきっかけで、二人の女性遍路と知りあえたのです。北条さんと松山さんでした。お二人とは、民宿来樂苦でも同宿し、翌日は久万高原まで、相前後しながら歩いたのでした。翌年、私たちが松山を通過する時には、宿まで、差し入れ持参で「激励」にも来ていただけました。ここは、そんなおつきあいが始まった所なのです。
赤橋の絵
歩道に沿って、小学生の絵が展示されていました。どれも「印象派」で、素晴らしい絵ですが、長浜小学校の「赤橋」は、とりわけ心引かれる絵でした。
赤橋(平成18年撮影)
「赤橋」とは、肱川河口に架かる開閉式の鉄橋で、昭和10年(1935)の完成です。開閉式であるところに、かつての肱川水運の隆盛がうかがわれます。
なお赤橋が架かる現・大洲市の長浜は、土佐を脱藩した坂本龍馬が、ここから船に乗り、下関に逃れたことでも知られています。
十夜ヶ橋永徳寺
国道56号と松山自動車道に囲まれて、十夜ヶ橋永徳寺はあります。
十夜ヶ橋の謂われはよく知られており、私自身も記したことがあるので→(H28秋1)略しますが、その謂われから発して、十夜ヶ橋では珍しく、遍路の野宿が認められています。
大師堂
リライト版であるから書けることですが、令和6年5月4日の『オンライン読売新聞 ゆかりの地を訪ねて』で、十夜ヶ橋永徳寺の三好円暁住職は、次の様に話しています。
・・今でも週に2、3人は野宿をし、屋根のある通夜堂にはほぼ毎日お遍路さんが泊まられます。
本堂納経所
これもまたリライトである故の記事ですが、平成30年(2018)の西日本豪雨で、都谷川が氾濫。十夜ヶ橋永徳寺は、甚大な被害を受けました。特に本堂は傾き、解体のやむなきに至ったと言います。
都谷川(とや川)
その豪雨からまもなく6年。令和6年6月、新しい本堂が完成したとのことです。
令和6年(2024)5月10日、南海放送は、次の様に報じています。
・・県産のヒノキやケヤキが使われた本堂は、基礎をおよそ2メートルかさ上げするなどの対策がとられています。・・(次なる水害に備え)中二階に避難者を受け入れるスペースが設けられています。
お大師さま
洪水の時には、この部分も水没していたのでしょう。
棲みついていた鯉たちは、どこにいったのでしょう。瀧をも登る魚ですから、なんとかやり過ごしたとは思いますが。
道
下の道は国道56号、上の道は松山自動車道です。
56号を歩き、やがて新谷の街に入ります。昔の風情を今に残す街です。江戸時代は、大洲藩の支藩・新谷1万石が支配する街でした。→(H28秋2)
神南酒造
古い造り酒屋、神南酒造です。残念ながら、今は廃業しているとのことです。
神南山
前号でもご覧いただきました。少彦名命の神奈備山である、神南山です。
国道56号
国道に「イノシシ危険」の標識が立っています。
内子町
内子町に入ります。しかし古くからの内子の街は、まだすこし先になります。
分岐
国道56号から離れて、左の道に入ります。
分岐点
古い石柱は、徳右衛門道標です。
是〆菅生山迄九里 左へんろちかみち
内之子六日市大師講中
谷戸へ
徳右衛門道標の「左 へんろちかみち」が、この道です。
この道は、谷戸へ入って行く道です。
道
ゆるやかに谷戸の道を上ってゆきます。今日、唯一の土の道です。
右には、棚田が開けています。
棚田
地面の柔らかさを足裏が感じています。苗の青を、目が楽しんでいます。
この道を上りきると、そこは運動公園になっていて、ここから内子の、古くからの街への下りとなります。
野球場
ここもまた、懐かしの場所です。松山さん、北条さん、北さんと、ここで休憩。野球を見ながら、栄養補給をしたのでした。
溜め池
古くからの溜め池で、駄馬池というそうです。道を挟んで、お大師さんの「思案堂」があります。→(H28秋2)
南京はぜ通り
予讃線の下をくぐり、内子の街に入ります。
なぜ「はぜ通り」ではなく「南京はぜ通り」であるのか。本来なら蝋を採る「はぜの木」を植えたいところなのでしょうが、やはり「かぶれ」が心配なのでしょう。「南京はぜ」ならかぶれません。
内子はローソクの原料・櫨蝋(はぜろう)作りで栄えました。しかしその需要は、電灯の普及と共に、大正末期で無くなってしまいました。その後、内子は、今度は製糸の街に変貌。ふたたび活気を取り戻します。
薬屋
そして、今は観光の街として盛況のようです。本途、古い街並みを残しておいて、良かったと思います。
薬屋の様子を再現しています。薬箪笥やケースが整然と並ぶ様は、まさに薬種屋です。
因みに、看板の「六神丸」は、強心薬で動悸、息切れ、気付けに効果をあらわすとのこと。
「 五龍圓」は、 下痢、消化不良による下痢、食あたりなど。
「健胃散」は、これは読んで字の如し。
「沃度丸」ヨード丸と読むようですが、薬効の方はわかりません。
道
国道56号から分かれ、国道379号に入ります。奥に見える高架道は、松山自動車道です。
小田川
小田川は、近自然河川工法(多自然型河川工法)により、その景観の良さを失うことなく、改修工事されています。
道の駅
国道56号と379号の分岐点に、道の駅があります。
昼食をとり、明日まで保ちそうな行動食を購入しました。
絵
この絵は、おそらくどなたの記憶にも残っていることでしょう。前回(6年前に)見たときは、もっと鮮明だったのですが。
6年前の絵
前回の絵です。6年の歳月が思われます。
小田川
数日来の雨で、水量が増えています。
バス停
右の小屋はバス停です。(令和の今はどうかわかりませんが)便は少ないけれど、上畦々(かみうねうね)まで、バスが走っていました。
バス停の小屋は、遍路の休憩所としても、提供されていました。中には、4人ほどが横並びに座れる、椅子がありました。
お店
「協力会地図」にも記載されているお店です。食糧調達に便利であるだけでなく、現在地確認の目印にもなってくれます。
長岡山トンネル
平成27年(2015)の開通。 長さ392㍍とのことです。
小田川の蛇行に沿って走る道のヘアピン部を、トンネルを穿って切り離しました。ショートカット道ができたわけです。
休憩所
開いてみると、清潔な布団が重ねてありました。
壁に「二泊しかお宿はできません」とあるのは、長逗留してしまう人がいるからでしょうか。
桝木橋
車は、橋を渡って直進。
歩きの人は、左の道を進みます。距離的には、ほとんど変わりません。
登山口
石鎚神社登山口、とあります。できれば登ってみたいと思い、その所在を調べてみましたが、わかりませんでした。
あずまや
道路沿いにあって、誰でもが立ち寄れるこの四阿は、「茶堂」です。一面に祭壇が設えられているのも、茶堂の特徴です。茶堂については、→(H16春5)、→(H28春4)をご覧ください。
灯森三島神社
灯森三島神社(とぼしがもり三島神社)は、永禄11年(1569)、曽根城主・曽根宣高(のぶたか)が大山積神、 雷公神、高龗神を、大三島・大山祇神社から勧請して、神殿を建立したことに創まる、とのことです。その時に作られた御系図は、幅30センチ、長さ3メートルの巻物で、街の有形文化財とされていると言います。
なお、この社殿に残る彫刻は美事で、「長州大工」の手になるものです。「長州大工」については、枯雑草さんの「 長州大工の心と技 その1-7」を、ぜひご覧ください。灯森三島神社は、「その4」に載っています。
大瀬
内子町大瀬地区です。大江健三郎さんの生家があります。
大江さんが生まれた昭和10年(1935)当時は、まだ(内子町ではなく)大瀬村で、この辺は「成留屋」(なるや)と呼ばれていたそうです。少年時代の大江さんにとっては、ここが全世界・・僕が育った「谷間の村」・・でした。
大江さんは、ここで経験した閉塞感を、とりわけ初期作品に、色濃く反映させています。
大瀬小学校
説明板によると、この学校は、・・明治7年(1874)に大成小学校として新築、開校しました。明治時代中期、成留屋尋常小学校となりましたが、昭和16年(1941)大瀬国民学校を経て、昭和22年(1947)から今の名前になりました。・・とのことです。
健三郎少年は、昭和16年(1941)、大瀬国民学校に初の国民学校1年生として入学。昭和21年(1946)、最後の国民学校卒業生として、卒業しました。
「少国民」たるべく期待されて入学したものの、5年生の夏には敗戦。以後は「すみぬりの教科書」で学んで、卒業したわけです。次に入学したのは、6-3制が発足したばかりの新制中学・大瀬中学校でした。
大瀬中学(平成28年撮影)
大瀬中卒業後は、内子高校に進学。1年後、松山東高校に転校しています。松山東高での伊丹十三さんとの出会いは、よく知られています。
松山東高への転校は、イジメが原因だったと言われていますが、はたしてそれは、どうでしょうか。思うに、大江さんは「無法の輩」と戦い、負けたのです。それは、イジメられた、とは言いません。彼が一年生の時に創った詩を読んで、ますますその感を深くしています。
仏石
小田川の急流が、仏様の横顔を削り出したのだそうです。
下の写真を参考に、お顔を見つけ出して下さい。
仏石
たどれますでしょうか。
曽我十郎
曾我兄弟の敵討ちなどについては、→(H16春5)をご覧ください。
休憩所
『えひめの記憶』に次の様な記述があります。・・宇和町の四十三番明石寺から久万町の四十四番大宝寺に至る遍路道は、約70kmあり札所間の距離が県内では最も長い区間である。その途中に内子町大瀬の中心集落である成留屋(なるや)地区がある。遍路道沿いということもあり、この地区に町並み整備事業の一環として、地域のコミュニティ施設としての機能と遍路休憩所の機能を持つ休憩所の建設が計画された。
この計画によって建設された一軒が、上掲「あずまや」の茶堂です。この道には他にも、何軒もの休憩所が設けられていることは、今号でもご覧いただきました。
案内
千人大師堂200メートル、楽水大師堂(らくみず大師堂)1300メートル、と記されています。
私が宿泊予定の民宿来楽苦は、楽水大師堂のすこし先です。
千人大師堂
ここの始まりは、お接待所だったそうです。千人のお遍路さんを宿泊させたのを機に、大師堂を建てたのだといいます。故に千人大師堂となった今も、ここには多くの遍路が、宿泊してゆきます。
道
現在時刻は16:40。
宿まで、あと1キロほどですから、ちょうどいい到着となるでしょう。
分岐
きっと間違える人がたくさんいたのでしょう。大きな看板を建ててくれました。
民宿いかだや
「川登筏の里交流センター いかだや」が見えます。その名の通り、此所は「筏流し」による、地域興しのセンターです。小田川→肱川→長浜への、筏によるかつての木材運搬を再現。人を呼ぼうというのでしょう。
また此所は、宿泊施設にもなっており、もちろん遍路も泊まることができます。むしろ多くの遍路に泊まって欲しいようです。前回ここを歩いたとき(平成17年/2005)は、オープン直前でしたが、次に来たら泊まってや、などと言われたものでした。
筏流し橋
「いかだや」の数キロ上流に、「筏流し橋」が架かっています。前回歩いた時はまだ架かっていませんでしたが、その3年後、平成20年(2008)に架橋されたのだそうです。
察するに、「筏流し」による地域興しは、息長く続いているようです。
楽水大師堂(らくみず)
ここに湧く「水」を、弘法大師は「楽しんだ」といいます。それで「楽水」大師堂なんだそうです。建物は昭和56(1981)に再建され、比較的新しいのですが、大師像は、寛政元年(1789)の作だといいます。
天明9年(1789)が1月早々に改元され、始まったのが、寛政元年でした。幕政が田沼意次から松平定信へと移った、そんな時代の大師像です。
今夜の宿「来楽苦(きらく)」
6年前、お世話になった宿です。大洲で行き会った北条さん、松山さん、そして北さんが一緒でした。あの頃、私は「お亥の子さん」の歌に関心を持っており、そのことを話すと、北条さん、松山さん、ご主人の三人が歌って下さったのでした。楽しい一夜でした。
夕食
今夜は一人。ご主人が相手をしてくれました。
6年前の宿帳を出してくれたのでめくってみると、4人の名前が(当然のことではありますが)今も並んでありました。
♫お亥子さんという人は いちで たわらを踏ん張って にで にっこり笑うて・・
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
なんとか字数制限(30000字)に引っかかることなく、大瀬の宿まで、たどり着くことができました。次号では三坂峠は越えたいものと、考えております。御期待ください。更新予定は、8月7日です。
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