What's the JW!?

このブログは布教目的ではありません。
エホバの証人である親を持つ、非信者によるエホバの証人の解説ブログです。

エホバの証人と輸血問題

2024-02-26 22:03:20 | 日記

みなさん、こんにちは。

また半年近く更新が止まってしまいましたね。。。

まあ自分のペースでゆっくりと投稿していこうと思います。

今回は、エホバの証人関連で世の中からの関心が高い輸血問題について取り上げます。

 

エホバの証人では、このブログの「エホバの証人の教え③」で書いたように、避けるべきこととして「血の間違った用い方」を挙げています。エホバの証人にとっての「血の間違った用い方」とは、輸血と血を食べることを指しています。この記事では、なぜエホバの証人は輸血と血を食べることを避けるのか、そして輸血を拒否することによる医療の問題に関するエホバの証人の考えを記述します。

 

まずは、血を避けるようにと言及している聖句を紹介します。

「すなわち、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けることです。(以下略)」(使徒言行録15章29節)

「すべての肉なるものの命はその血であり、それが命の代わりとなる。それで、私はイスラエル人の人々に言った。『いかなる肉なるものの血も、決して食べてはならない。すべての肉なるものの命はその血だからである。それを食べる者は絶たれる。』」(レビ記17章14節)

「ただ、肉はその命である血と一緒に食べてはならない。」(創世記9章4節)

「ただ、その血は決して食べてはならない。血は命であるから、命を肉と共に食べてはならない。」(申命記12章23節)

エホバの証人はこれらの聖句を、神からの血を避けるようにというメッセージとして解釈しています。そのため、輸血によって体内に血液を入れることと、血を食べることを避けています。

血を食べない理由は、聖書に文字通り「食べてはならない」と書いてあるからですね。食事の際は全血や血液の何らかの成分が加えられた食物を避けています。

 

さて、ここから輸血についてです。聖書には、上記のように血を「食べてはならない」と書かれています。輸血の場合は食べるのではなく、血管に直接血液を注入する医療行為です。ここに矛盾を感じる人もいるでしょう。エホバの証人は、血液に注入することも食べることと変わらないと考えています。口から食事を取って栄養を摂ることと、食事の代わりに点滴等で静脈を通して養分を得ることは同じだから、口から取り入れない血液を血管に直接注入するのも避けるべき、ということですね。エホバの証人がよく使う例え話で、アルコールを避けるようにと医者から言われた人がいたとして、飲酒はやめても、アルコールを直接静脈の中に注入させていたら、その人は医者の指示に従っていると言えますか?という話もあります。

 

血を避ける理由の一つとして、聖書に血を「食べてはならない」と書かれていることについて書きましたが、他にも理由はあります。

エホバの証人は、血は命を表すもの、つまり命に等しいものとして見ています。なぜそう考えるかというと、先に記した創世記9章4節の聖句に「その命である血」と書かれていることから、神は血を命と同等のものと見なしていると解釈しています。他にも、アダムとイヴの子供であるカインが弟のアベルを殺害した場面の聖句から、血と命が聖書的な意味で密接な関係であると考えています。「あなた(カイン)の弟(アベル)の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」(創世記4章10節)と書かれていることから、殺されたアベルの血が叫んでいるのは、血が命を表しているからだと考えています。

 

ここまでエホバの証人が血を避けている理由を書きましたが、ここからは、輸血を拒否することによる医療の問題について、エホバの証人の考えを記述します。

エホバの証人は、上述の通り輸血をしません。そして、輸血につながる献血、輸血のための自己血保存もしません。血液の主要成分である赤血球、白血球、血小板、血漿も受け入れません。ただし、血液から抽出された分画は、各自が良心に沿って決定することとしており、教団として避けるようにとは言っていません。輸血のための自己血保存及び保存された自己血を再度体内に戻すことはしませんが、手術中に一時的に血液を体外へ出し、心臓等の臓器機能を装置に肩代わりさせて体内に戻したり、希釈させたり有害成分を除去して体内に戻す等の医療行為は、良心に沿って決定することとされています。エホバの証人は手術も禁止されていると思っている人もいるようですが、そんなことも全くありません。輸血を伴わない医療行為は全て受け入れています。命を何より大切にしているからです。あくまで、数多ある医療行為の中の1つを受け入れていないだけです。

輸血をすることによって助かる命があるのは確かですが、当然リスクもあります。日本医学臨床検査研究所のホームページにある輸血副作用のページを見ると、最も頻度が高い副作用であるアレルギー反応や、輸血関連死の主な原因である肺障害、感染症等、調べればたくさん出てきます。もちろん医療行為にはリスクや副作用が付き物ですから、輸血をする際も患者本人や患者のご家族に対して十分説明をして、納得したうえで行われるものです。納得できなければ他の治療法を選んだり、他の病院を選ぶこともあるでしょう。それは宗教に関係なく誰もが持つ、自分が望む医療を受ける権利です。生きるための手段として輸血しか選択肢を提示しない医師は、輸血に頼らない治療方法の知識や経験がないだけかもしれませんね。

 

聖書に輸血禁止は書かれていません。そう言ってエホバの証人の教義を否定する人はたくさんいます。それはエホバの証人も当然知っています。この記事では、なぜエホバの証人がそれでも輸血を拒否するのかを解説しました。これを読んだ上で到底理解できないという人もたくさんいるでしょう。

輸血用血液が足りないと献血が呼びかけられていますが、献血はあくまで善意によるものです。輸血は善意に頼るしかありませんが、今後医療技術が発展して輸血に代わる医療が確立されれば、輸血用血液が足りないというリスクも回避できます。無輸血治療と言えばエホバの証人のための治療方法と考える人もいるようですが、宗教上の理由以外で輸血を避ける人もいるので、今後の医療が発展して医療の選択肢が増えるといいですね。

 

参考文献

・「聖書から論じる」-血

・「神にずっと愛されるために」-7章 神と同じように命を大切にする

・「神にずっと愛されるために」-補足情報21 血液分画と医療処置

・「血はあなたの命をどのように救うことができますか」


エホバの証人と神の名

2023-10-15 15:56:43 | 日記

みなさん、お久しぶりです。

とある王国の冒険も落ち着いたため、久しぶりに投稿します。

今回は神の名前についてです。

 

聖書には唯一神が出てきます。その神の名前は、広く普及されている新共同訳や聖書協会共同訳の聖書には出てきませんが、エホバの証人が使用している新世界訳では、「エホバ」と翻訳されて出てきます。日本語ではエホバの他に「ヤハウェ」と翻訳されることもあります。旧約聖書の原文には、約7,000回神の名前が出てくるそうです。

イザヤ書42章8節には次のように書かれています。

「私は主、これが私の名。(以下略)」

ここに出てくる「主」とは、原文ではヘブライ語で神の名前を意味する[יהוה‎]が書かれています。神の名前を伝える聖句なのに、神の名前が使われていないのは不思議ですね。新世界訳では次のように翻訳しています。

「私はエホバ。それが私の名。(以下略)」

この翻訳だと、文章として意味が通りますね。新世界訳は間違っている、エホバの証人の教義に合わせて改ざんしている、という批判もあります。私も含め多くの人がヘブライ語原文を読むことができないので、どの翻訳が正しいかを見極めるのは難しいです。このブログでは、新世界訳こそが正しい翻訳だ、という主張もしません。聖書の翻訳についてどう考えるかは、読者自身が考えるところです。

 

多くの翻訳・宗派で神の名前が使われない中、エホバの証人が神の名前を使う理由について解説していきます。

イエス・キリストは祈りの中で「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。」(マタイによる福音書6章9節)と述べています。つまり、イエス・キリストの父である神の名前が聖なるものとされるように祈っています。また、先に示したイザヤ書42章8節では、神自ら名前を言っています。

神の名前を使うように呼びかけられている聖句をいくつか紹介します。

「(前略)主に感謝せよ、御名を呼べ。(以下略)」(イザヤ書12章4節)

「すべて主の名を呼ぶ者は救われる。(以下略)」(ヨエル書2章32節、口語訳)

「私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。(以下略)」(ヨハネによる福音書17章26節)

「しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2章21節)

ここに出てくる「主」も神を意味します。つまり、神の名前を呼ぶよう呼びかけられています。これらを含む多くの聖句から、神は自分の名前を知ってほしい、大事に使ってほしいと考えています。旧約聖書の中で約7,000回神の名前が出てくることも、その主張の根拠となっています。

 

次に、エホバの証人を除くほぼ全てのキリスト教系宗派が神の名前を使用しない理由について、エホバの証人はどう解釈しているのかを解説します。

まず、一般的に言われている理由の一つとして、モーセの十戒と呼ばれる神から与えられた10の戒律の中で、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」(出エジプト記20章7節)というおきてがあるからと言われています。つまり、神の名前を使ってはいけない、発音してはならない、という解釈ですね。そのため、多くのキリスト教系宗派では神の名前を使わず、聖書でも発音できる表現(=エホバ、ヤハウェ等)を用いていないのです。エホバの証人ではこのおきてを、神の名前を使ってはいけないと言っているのではなく、不適切・不敬な使い方をしてはいけない、と解釈しています。この解釈だと、先に述べた神の名前を使う理由とも整合性が取れますね。「主の名をみだりに唱えてはならない」とあるものの、十戒の中で神の名前が8回も使われていることから、単に使ってはいけないという意味ではないと考えています。そもそも、神の名前を単純に文字通り「唱えてはならない」のであれば、旧約聖書の中で7,000回も神の名前が出てくることはないでしょう。

他に挙げられる理由として、ヘブライ語で神の名前を意味する[יהוה]の正しい発音が分からないため、その名前を用いるべきではない、と考える人もいるようです。この言葉はアルファベットで表記すると「YHWH」「JHVH」等と翻字されます。ヘブライ語では母音の表記がないため、発音が分かるような文字として残ることはありませんでした。エホバの証人では、正しい発音かどうかは重要ではなく、神に名前があり、それを広めることが大事だと考えています。そもそも正しい発音が大事なのであれば、一般的なキリスト教において信仰の対象となっている「イエス・キリスト」は英語では「ジーザス・クライスト」と発音している等、言語によって異なる発音で使われているのは、神の名前の正しい発音が分からないから使わないという主張と矛盾しているようにも感じますね。

 

ちなみに、[יהוה]は右から「ヨード」「ヘイ」「ワウ」「ヘイ」と読み、この4文字のことは「テトラグラマトン」と呼ばれています。この名前の意味は聖書の中で「私はいる、という者」(出エジプト記3章14節)「わたしはある。わたしはあるという者」(同、新共同訳)と書かれています。エホバの証人ではこの意味について、神がご自分の目的を果たすために必要であればどんな者にでもなる、と解説しています。

ハレルヤ(Hallelujah)という言葉は皆さんも聞かれたことがあるかと思います。この言葉の「ヤ」(jah)は「ヤハウェ」の短縮形です。ただのマメ知識。

 

今回は、神の名前についてエホバの証人の考えを解説しました。

最初の頃のように毎週更新ができるかは分かりませんが、自分のペースでまたいろいろ解説できたらなと思うので、次回もよろしくお願いします。

 

 

参考文献

・「ものみの塔」2014年12月号-神の名前を知っていますか

・「ものみの塔」2012年6月号-神の名前を使うべきなのはなぜですか

・「ものみの塔」2010年7月号-神の名前を覆い隠す試み

・「ものみの塔」1989年11月15日号-十戒はあなたにとってどんな意味がありますか

・「聖書に対する洞察」第2巻-十の言葉(とおのことば)


エホバの証人の教え⑤

2023-05-21 13:46:00 | 日記

みさなん、こんにちは。

今回は教えシリーズに戻り、シリーズ最後となります。

 

多くの宗教に共通すると思いますが、エホバの証人は自分たちの宗教だけが正しいのだと主張しています。そして、正しい宗教のみがハルマゲドンで滅びることなく生き延び、偽りの宗教は滅びると教えています。この偽りの宗教とは、エホバの証人から見れば他の宗教全てを指し、「大いなるバビロン」と呼んでいます。聖書に出てくる言葉ですが、聖書協会共同訳では、「大バビロン」(ヨハネの黙示録17章5節)と訳されています。偽りの宗教の特徴の一つとして、三位一体が教理の中心になっていることを挙げています。「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネによる福音書17章3節)という聖句から、神とイエス・キリストは別々の存在であると教えています。また、霊魂不滅を信条としていることも、特徴の一つとしています。死に関するエホバの証人の主張は以前の記事をご覧ください。

エホバの証人であるならば、偽りの宗教とのつながりを絶つよう教えています。そのために必要なこととして、その宗教の名残を残さないこととしています。以前の記事で書いたように、エホバの証人は偶像礼拝を避けています。そのため、例えば仏壇や神棚などがあれば、処分するように教えられています。ただし、信者でない家族が同意しなければ、家にあっても問われることはないでしょう。物品だけでなく、祝祭日関連のイベントも偽りの宗教と関係していると見ています。日本の場合、伝統的な行事・文化は多くの場合、神道に関係しています。初詣や七五三などです。エホバの証人はそれらに関わっていません。他にはクリスマスや誕生日祝いをしないのもこの理由があるからです。エホバの証人のクリスマスや誕生日に対する主張は別の記事で取り上げます。

 

エホバの証人では、祈りを通して神との関係を強めるよう教えています。宗教によっては、祈るときの姿勢や場所が決められているものもありますが、エホバの証人の場合は姿勢や場所は問われていません。ただ一般的には、立っていても座っていても、目を瞑って少しうつむいた姿勢で祈っています。複数人を代表して祈るのであれば声を出しますが、一人の場合は声に出しても出さなくても構いません。

1日のうちの回数や時間も定めていません。ただし、祈りが必要としている場面はあります。エホバの証人の活動の一つである集会をするとき、個人で聖書について勉強するとき、そして食事の前です。「イエスは杯を取り、感謝の祈りを献げて言われた。」(ルカによる福音書22章17節)という聖句で、イエスが食事の前に祈りを捧げていたことから、エホバの証人ではイエスに倣って食事の前に神に対して祈るよう教えています。これはキリスト教系全般で共通しているかもしれませんね。(「ものみの塔」誌2010年10月1日号も一部参考にしています。)

祈りの最後に「アーメン」と言うのは、これもキリスト教系で共通していることなので、知っている人も多いでしょう。この言葉には、「確かに」とか「そうなるように」という意味があります。つまり、祈りの内容について同意していることを示しています。「イスラエルの神、主をたたえよ、いにしえからとこしえまで。アーメン、アーメン。」(詩編41編14節)と聖書に書かれていることから、これに倣って祈りの最後にアーメンと言っています。

 

エホバの証人にとって大事な儀式の一つとして、バプテスマというものがあります。この儀式は、みんなの前で神に献身してエホバの証人として生きていくことを公に表すものです。言わば入学式のようなものです。神に献身すると言っても意味が分からないですよね。バプテスマがみんなの前で公に表すものに対して、献身するとは、神と自分の1対1の間で、神に仕えると神に対して祈りを通して約束することです。

バプテスマは、キリスト教会では「洗礼」という言葉が使われています。こちらの方が聞き覚えがあるでしょうか。また、ネットスラングでは「水没」という表現もあります。これはエホバの証人2世が使っているようですね。この儀式はどのように行われるのかというと、水没と表現されているように、水の中に全身浸かります。一般的に、エホバの証人の大会中に実施され、一人で水中に入るのではなく、担当の人の手によって実施されます。この儀式は、自分の以前の生き方に関して死んだことを象徴し、生まれ変わったことを意味しています。

バプテスマを受けてエホバの証人になったからと言って、ハルマゲドンで滅ぼされることなく救われるわけではない、とも教えています。最終的に救われるためには、エホバの証人の解釈による聖書の教えを守り行うことが必要としています。個人研究をして聖書を学び、祈りを通して神とコミュニケーションを取り、集会に出席して仲間の信者と励ましあい、奉仕活動をしてエホバの証人の教えを多くの人に広めるよう教えています。

 

全5回に渡って教えの本に書かれているエホバの証人の教えを紹介してきました。

何度も言っていますが、布教のために書いているわけではありません。エホバの証人ってどういう宗教なのかを知るために情報源の一つとして活用していただけたらと思います。

今後も、エホバの証人による聖書の解釈やらあれこれを書いていこうと思います。

ただ、とある王国での冒険を始めたので、しばらく更新は止まると思います(笑)

冒険が落ち着いたらまた更新しようと思うので、これからもよろしくお願いします。


エホバの証人と鞭

2023-05-14 13:32:10 | 日記

エホバの証人の教えシリーズはまだ続きますが、前回の記事で懲らしめについて少し触れたため、今回は教えシリーズから離れて、エホバの証人関連で一番世の中の関心が高いであろう、懲らしめと称する鞭による虐待行為について解説します。

 

2022年7月に発生した安倍元首相襲撃事件で、犯人の親が旧統一教会信者であり、宗教に対して恨みを持ったいわゆる宗教2世による犯行という事件の背景から、宗教2世が世間の注目を集めました。旧統一教会だけでなく、エホバの証人2世も辛い経験をしてきたと声を上げ、その中の一つである鞭による虐待が、一時期大きく取り上げられました。

そこで、なぜエホバの証人の中で鞭による虐待が行われているのか、エホバの証人は子供の教育についてどのように教えているのかを解説していきます。

 

筆者自身もエホバの証人2世として子供の頃育てられましたが、鞭などを使った虐待行為は受けていません。自分の周りでもそういう話を聞いたことがありませんでした。また、自分自身が今まで聞いてきたエホバの証人の教えの中に、懲らしめのために鞭で子どもを叩くという話はありませんでした。そのため、エホバの証人関係で鞭の話を聞いたときは信じられず、何を言っているのか分からない状態でした。インターネットで調べてみると、かつて鞭で虐待を受けたという人の声がたくさんあったため、そういう事実があったのは本当なんだと知りました。そこで、なぜ鞭で自分の子どもを叩くエホバの証人がいるのか、自分なりに調べてみました。

 

聖書には親が子どもを鞭で懲らしめるという記述があります。「父はお前たちを鞭で懲らしめたが、私はさそりで懲らしめる。」(歴代誌下10章11節)

エホバの証人の用語集である【聖書に対する洞察2巻】には、[棒、杖、むち棒]という項目があり、その中でむち棒は子供に対する親の権威の象徴として用いられるという記述があります。下記は解説のために引用されている聖句(新世界訳と世界協会共同訳)です。

「少年を懲らしめるのを控えてはならない。むちで打つ場合、彼は死なない。彼をむちで打つべきである。彼を墓から救うためである。」(格言23章13,14節、新世界訳)

「若者を諭すことをためらってはならない。杖で打っても死にはしない。あなたが彼を杖で打てば、その魂は陰府から助け出される。」(箴言23章13,14節、世界協会共同訳)

「むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。」(格言13章24節、新世界訳)

「自分の子を憎む者は杖を控え、子を愛する人は努めてこれを諭す。」(箴言13章24節、世界協会共同訳)

 

続いて、エホバの証人が発行する出版物の中で、懲らしめや鞭に関する記事を紹介します。

まずは、【目ざめよ!】誌に書かれている記事を紹介します。1984年12月22日号です。

ここには、「改心を促した、愛のむち棒」というタイトルで、日本人の経験が載せられています。内容を要約すると、エホバの証人でもある中学校教諭が、非行に走る生徒を改心させたという話です。どうやって改心させたかというと、先述した聖句にある、「むちを控える人は子供を憎んでいる」という言葉を引き合いにして、喫煙や学校の公共物を破壊することなどの違反に対して厳しい懲らしめを与えるべきであると提案しました。そして、暴力に対しては背中を叩くという行動を取ったようです。何か物で叩いたのか、手で叩いたのかは記述がありません。非行に対して、背中を叩くという行動を続けた結果、生徒を改心させたという経験です。新聞にも取り上げられたと書かれています。

これだけを読むと、懲らしめのために叩く=暴力をふるうことが必要であり、エホバの証人の中で推奨されているようにも見えます。

 

次に、同じく【目ざめよ!】誌の1992年9月8日号です。

「聖書の見方「懲らしめのむち棒」-それは時代後れですか」というタイトルの記事です。

毎年、親の身体的な虐待により死亡している子供たちが多数いることから、聖書に出てくる「懲らしめのむち棒」について激しい論争があることを認めています。

「愚かさが少年の心に深く根差している。こらしめのむちがそれを取り除く」(格言(箴言)22章15節、新世界訳)

「体罰はいかなるものであれ感情的な虐待であり、認められるべきではない」(エホバの証人に寄せられた匿名の親による言葉)

この匿名の親の言葉に対して、同意するのではなく論争が生じていると言っていることと、この記事の中で「聖書で認められている体罰」と書かれていることから、エホバの証人はある程度の体罰は認めているということになります。ではどの程度の体罰なら認めているのでしょうか。具体的なことは書かれていません。ただし、このような助言があります。

  • 「あなた方の子供たちを決して憤怒させてはなりません」。
  • 「あなた方の子供を矯正しすぎてはなりません。さもないと、彼らをすっかり落胆させてしまうことになります」。

上記の言葉は、それぞれ下記の聖句を基にした助言となっています。

  • 「父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。」(エフェソの信徒への手紙6章4節)
  • 「父親たち、子どもたちをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです。」(コロサイの信徒への手紙3章21節)

そして、「体罰は必ずしも最も効果的な教え方とは言えないということが認められています。」と記事にあるように、体罰を推奨しているわけではありません。何気ない普段のコミュニケーションの中で、道徳観を教えるよう勧めています。

続いて「むち棒」についての解釈も書かれています。「むち棒」という言葉は、原文では[シェーベト]というヘブライ語が使われており、それは羊飼いが羊たちを誘導するために用いる棒または杖を意味していました。つまり、厳しく残虐な使い方をするものではなく、正しい方向に導くための道具です。聖書の中で使われる「むち棒」という言葉は、文字通りの意味の時もあれば、親の権威を意味する象徴的な意味で使われることもあると書かれています。そして、懲らしめが必要な場面でも、大抵の場合、体罰は必要ないともあります。身体的な懲らしめが必要な場面は、その他の方法が効かなかった場合と書かれています。つまり、口で言ったり、親自身の行動で手本を見せたりしても効果がなかった場合ということです。その場合は、ただ痛めつけたらいいのではなく、子供自身がなぜ懲らしめを受けているのか、つまりなぜ怒られているのかを理解していなければなりません。

エホバの証人自身、この記事の中で「むち棒」を誤用している人が多いのは嘆かわしいと書いていることから、聖書の教え(エホバの証人の教え)に反したむち棒の使い方をする人がいることを認めています。さらにこの記事の脚注では、「怪我をさせるほどの力で手加減することなく叩いた場合は児童虐待となり得る。叩くための道具を使ったり、傷つきやすい部分(顔、頭、おなか、背中、陰部)を叩くと児童虐待になる可能性は大きい。」というように警告もしており、「聖書は虐待を勧めてはいない」と断言しています。

 

次に、同じく【目ざめよ!】誌の1983年10月8日号です。

「懲らしめのむち棒が折られるとき」という記事の一部を紹介します。

懲らしめのために多少の体罰は容認されていることが先述の記事で分かります。この記事でも、「体罰を与えることにはそれなりの価値のある場合があります。」と書かれています。ですが、「懲らしめは必ずしも、皮ひもの先端で行なうべきものではありません。」とも書かれています。

同じく【目ざめよ!】誌の1979年8月8日号です。

「子供に体罰を与えるのは正しいことですか」という記事の一部を紹介します。

親は子供たちを訓練するために体罰を与える権威を神から与えられていると書かれています。しかし、「怒りに駆られてむちを加えたり、打ちつけたりすることを容認していません。そうした体罰は幼い子供に傷を負わせ、ある場合には子供をかたわにすることさえあるのです。それは愛ある懲らしめではなく、子供の虐待です。」とも書かれています。

インターネット上で、親から皮ベルト等で虐待を受けたと声を上げている人がいますが、これは完全にエホバの証人の教えに反していることがわかります。この親はエホバの証人の教えに沿って懲らしめをしたと思っているのでしょう。しかし、40年前の記事で、そのやり方を否定しているのです。この記事では、体罰よりも話し合いで諭すほうが効果的としています。

※かたわ・・・片端、片輪。身体障害者を意味する。現在では差別用語として扱われている。

 

今日紹介したように、エホバの証人は体罰を全否定しているわけではありません。ただし、道具を使った体罰は否定しており、また身体に傷跡が残るような体罰は虐待となるため勧めていません。それなのに皮ベルト等を使って身体に跡が残るほどの虐待をしたエホバの証人がいるのは非常におかしい話ですね。恐らく、数十年前は現代と比べると比較的体罰に対する見方が緩かった時代だったと思います。学校教育の中でも、竹刀で叩かれたり、げんこつを食らうことがたくさんあったでしょう。懲らしめとして体罰をしたエホバの証人も、そういった社会の影響を受けたのだと思います。また、日本人は礼を重んじる国民性があるため、懲らしめとして叩く前に「お願いします」と言わせたり、叩かれた後は「ありがとうございました」と言わせたりしたのでしょう。

 

エホバの証人は聖書に出てくる言葉をそのまま用いているので「懲らしめ」という言葉が出てきますが、平たく言うと「躾け」のことです。

子供をどのように育てるのか、躾けるのかは、親の責任です。躾けのために体罰をするのかしないのかも、親の責任です。エホバの証人は体罰を容認している部分はあるものの推奨していません。懲らしめと称して鞭でたたく行為はエホバの証人の教えでは否定されています。実際に鞭で叩かれたという事例もありますが、それはエホバの証人の教えに反した行為であり、個人の問題です。多くの人が、そういった事例を耳にすることにより、エホバの証人は体罰をする宗教だと思っているでしょう。ただ、このブログで紹介したように、行き過ぎた行為を否定しています。

 

この内容は、あくまで筆者が自分なりに調べた結果です。実際に自分の子供を鞭で叩いたという人から直接話を聞いたわけではないので、この考察が正しいのかどうかは分かりません。

鞭等の道具で子どもが叩かれたという事例があるのは事実です。エホバの証人の出版物に体罰を推奨していないと書かれているのも事実です。どう判断するかは、皆さん次第です。

インターネット上に色々な情報がある中、皆さんが判断する助けになれていたら幸いです。


エホバの証人の教え④

2023-05-06 16:05:47 | 日記

今回もまた、教えの本からエホバの証人が信じていることについて紹介します。

自分で書いておきながらまるで伝道活動しているようにも感じますが。。。

私自身エホバの証人ではないし、ブログの冒頭にも書いてあるように布教が目的ではありません。

 

さて、本題です。命についての教えです。聖書によると、人間を含む全ての命あるものは神によって創造されたとされています。「あなたは万物を造られ、万物はあなたの御心によって存在し、また造られました。」(ヨハネの黙示録4章11節)、「命の泉はあなたのもとにあ(る)」(詩編36編10節)という聖句から読み取られています。そのため、自分の命も他の人の命も大事にするよう教えています。殺人はもちろんのこと、堕胎についても間違った行為としています。「きょうだいを憎む者は皆、人殺しです。」(ヨハネの手紙一3章15節)という聖句から、仲間の人間に対する憎しみの感情も持たないよう教えています。

自分の命を大切にするために、体に悪影響のあるたばこや有害な薬物も禁止しています。また、危険なスポーツや暴力的なスポーツも禁止しています。武道などの格闘技をしないのは、この教えがあるからです。動物の命については、食物や衣服のため、また人間を危険から守るためであれば殺すことを許されています。ただし、動物を残酷に扱ったり、ただ楽しみのために殺すことは間違っていると教えています。

 

次に家族に関する教えです。幸福な家庭を築くためには、家族の一人一人が神に倣った愛を示すことが必要と教えています。夫には、「自分の体のように、妻を愛さなくてはなりません。」(エフェソの信徒への手紙5章28節)、「妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません。」(コロサイの信徒への手紙3章19節)と教えています。妻には、「夫を敬いなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章33節)、「夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うように」(テトスの手紙2章4、5節)と教えています。

夫婦関係になると、「二人ではなく、一体である。」(マタイによる福音書19章6節)とあるので、お互いに性的な関心の対象を自分の配偶者に限るべきと教えています。夫婦のどちらかが淫行、つまり不倫をした場合は再婚が可能な離婚が許されています。しかし、他の理由、例えば配偶者の収入をギャンブルや薬物に使ったり、DVなどが理由で離婚する場合は、再婚を目的とした異性との交際は許されていません。ただし、そのように家庭をないがしろにされる場合、別居は許されています。(「幸せな家庭を築く秘訣」という別の出版物も一部参考にしています。)

子を持つ親に対しては、「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。」(マルコによる福音書10章14節)というイエスの行動を模範にし、多くの時間を一緒に過ごし、教えることが必要と書かれています。この本の中で「懲らしめ」についても記述があります。そのまま引用すると、「懲らしめは、「適度に」与えるべきであって、決して怒って与えてはなりません。「剣で突き刺すかのように」無思慮に話すべきではありません。(エレミヤ30:11。箴言12:18)懲らしめを与えるときは、子どもが後で、あの時に懲らしめてもらって本当に良かったと思えるようなものにする必要があります。―エフェソス6:4。ヘブライ12:9-11。」ここでは、むちなど道具を使うことは書かれていません。これについては、別の記事で深く書こうと思います。

子どもに対しては、「子どもたち、主にあって両親に従いなさい。」(エフェソの信徒への手紙6章1節)とあることから、親に従順であるよう教えています。子どもが親に従うべきでない場面は、親の言うことが聖書の教えに反していた時だけと書かれています。また、サタンがイエスを誘惑したように、若い人に対しても誘惑をしてくると警告しています。

家庭の中でも、聖書に書かれている神の教えを当てはめるなら、幸福な家庭生活を送ることができるとしています。

 

今回は少し短いですが、この辺で終わります。

また次回もよろしくお願いします。