私事ですが、今日11月11日で30歳になりました。
もうおっさんの仲間入りです。
(ちなみに1日違いでオリックスのラロッカ、西勇輝、そして後藤光尊の娘さんが誕生日です。
みんな惜しい!)
ちょうど30年前の11月というと、近鉄と広島が日シリやってた頃です。
(11月4日に江夏の21球があり、近鉄がもっとも日本一に手が届きそうな瞬間だったといわれてます)
その年の夏は、私の伯父や母親の出身校の明石南高校が甲子園に初めて行った年でもありました。
同じ出身といえば、審判員の林さん(現在嘱託審判)や元オリックス藤本博史選手もです。
明石南高校は2年連続でゴールデングラブ賞を受賞したオリックス坂口選手の実家の近くでもあります。
(伯父も母親もグッチと同じ中学校出身だったりします。JR西明石駅近く。電車からも見える学校です)
その1979年、私は西宮の鳴尾というところの小さな個人病院で生まれました。
生まれた次の日、糖尿病を発病したらしく、体中が紫色に変色し、その次の日は緑っぽくなったといいます。
親から聞いた話ですが。
生まれてすぐ、人生の岐路に立ち、とは言っても自分で選ぶはずもなく、
人生最大の博打というか、ただ成り行きに任せ、幸い何の不自由もない今があります。
(新生児一過性糖尿病っていうやつだったらしい)
20年前。
1989年は、オリックス1年目の年でした。
西宮でオリックス・ブレーブスだった頃。
私はその頃少年野球やって、勝ち進めばグリーンスタジアムで野球できるんやって!
ていう大会を目指していたんですが、ボロクソに弱かったです。ひがまい野球部。
6年生になって珍しく勝った試合、私が3ランホームラン打ったのが決勝点だったのは覚えてます。
当時の自分は今の浜ちゃんみたいなバッターでした。
(相川、と言ったほうがええんかな。チャンスに弱くて故障もよくしてたし。
この秋もアピール禁止や!言うのに張り切ってたんでしょうかねぇ。)
その後、中学では野球部がなかったので、そこから陸上で明け暮れてました。
陸上部は男女共同ってところが特徴でしたね。
いろいろあった?そらそうよ。
中学生の女子の後輩の指導というと、うまくいけばそりゃ良いものですが、
嫌われると最悪ですからね。
私はそんな嫌われることなかったんですが、顧問の先生が嫌われて退職してしまいました。
今思い返すと、先生も今の自分とちょうど同じ年でしたね。
せっかく冬の県合同合宿に推薦されたので、よかったな、厳しいけどがんばれよと話して、
うちの中学校から自分とその先生だけが参加するはずやったのに、
なぜか先生が合宿に来ずに、えらい寂しい思いをさせられましたわ。
そのまま先生は学校にも現れず退職。
その前の顧問も校長とケンカして(練習が厳しすぎたらしく)顧問クビになってましたし。
いろいろ揉めたことは覚えてます。
中学生のときに、大人でもそういう弱い部分がある、ていうのを見て
陸上は個人競技やし自分のためにとりあえずやっとこう、と冷めた考え方で1人で練習メニュー作って自分でこなす日々。
それが高校に入ってからも続いたものです。
その後、ビーフジャーキー君たちに出会ったりして、
まーそこでも問題あったりした(今度はうちらが悪い)。
(自分が部長になった年に限って、てーがくとか、休部になったりとか、
奉仕活動やって公式戦出場復帰とか)
10代は振り返るとアホなことばかりですが、それが大変でした。
野球の名門校でも、一筋縄ではいかないこといっぱいありますもんね。
そういえば、中学のときからやっていた自分で作ったメニューが功を成したというか、
それでそこそこの成績を収めはしましたが、腰を痛めて長い間治療もしました。
最後は現役引退して手術もしましたし。
そして10年前。
20歳になったときは、神戸の実家に住んでました。
その次の年から、20代はいろんな町を移り住んだものです。
その次の年、広島県東広島市へ。(大学生になる)
その2年後、宮城県石巻市へ。(社会人になる)
その1年後、青森県八戸市へ。
その1年後、宮城県多賀城市へ。(職場は名取市)
その3ヵ月後、青森県むつ市へ。(職場は東通村)
その3ヵ月後、宮城県多賀城市へ。(職場は名取市)
その1年9ヵ月後、東京都三鷹市へ。
その1年3ヵ月後、青森県六ヶ所村へ。
その4ヵ月後、東京都三鷹市へ。
そして2年が過ぎる。
数ヶ月程度の異動は引越しもせず、荷物も置いたままでしたが、
ひたすら北上・南下を繰り返したてところです。(青森を行ったりきたり)
二十代で一番長くいたのは、実は東京だったりするんですよね。
まーこのまま永遠に今の状態が続くはずもなく、
自分もこの先どうしていくか考えていく時に来ているとも思います。
そんな自分を振り替えったりするのも、今日だからなのかも。
別にブログで公開する必要もないのかもしれないんですけど、なんか共感することってあります?
そんなことで昔から野球とオリックスは好きでしたが、10代は自分の部活を優先し、
20代前半は実家を離れて、ひたすら仕事と地元から離れた土地に慣れるのに精一杯だったもの。
宮城県在住2年目の少し生活に慣れてきた頃、新生オリックス・バファローズが楽天戦に現れ、
そこで仰木野球に出会い、さらに東京に異動になって本格的に野球観戦に打ち込む、という生活になりました。
この先も、自分の生活を磨くために、
仕事も凝る。
趣味にも凝る。
これからもそういう生活を続けていけたらいいな、そう思います。
オリックスのために生きてるわけじゃないですけど、
オリックスがあると日々張り合いが出る、そういうもんかもしれないです。
そう思うと、負け試合でも、精一杯応援歌うたって、
好きなチームを応援したり、選手の写真撮ったりして、楽しめたらそれはそれでいいんです。
幸い一緒に観戦してくれる人もいてますし。
あの采配はどうだこうだ、いろいろ言い合ったりすると余計楽しいですし。
そういうことで、これからも、楽しみながらやっていこう、というのが私のテーマ。
そら日々思うことはありますけどね。
どんでん監督の本も読んだし、これから時下に野球見て私もなじんでいきますよ。
ひとつ思ってるのは、野球を見ててもいい年もあれば悪い年もある。
去年はうまく思い通りに事が運びすぎたし、今年は何もかもがうまくいかなかった。
オリックスの場合、その振り幅が大きかった、て感じたところです。
(どんでんはんは、前の年4位だと、悪かった戦力は入れ替えもできるし、
そこそこチームの状態もいいから次の年優勝狙いやすいって言ってる)
やり方は同じでも結果が異なることもあるもんです。
過度な練習がいいのか悪いのか、結果的にどうなるかもわかりません。
私も部活の練習をやっていくうちに、疲労で腰を痛めました。
ダルが故障を打ち明けなかったことが良かったのかどうかもわかりません。
この先、またどんなところに異動になるかわかりませんし、
そろそろ自分から動き出さないといけないのかな、という気にもなっています。
毎日ネットができるとか、野球観戦に気軽に行ける環境じゃなくなっても、
それなりに楽しみを見つけていきたいと思います。
そしてまたこのブログで報告する、ということができれば。
(青森の六ヶ所村に住んでいるときも、それなりに更新はできたので)
ということで、毎年11月11日は自分とこのブログの区切りの日にしてます。
(このブログ、立ち上げてからすでに4年経ってたりする)
そんなわけで、
これからもよろしくお願いします。
男は30からや!
にほんブログ村
ランキングに参加してます。お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
もうおっさんの仲間入りです。
(ちなみに1日違いでオリックスのラロッカ、西勇輝、そして後藤光尊の娘さんが誕生日です。
みんな惜しい!)
ちょうど30年前の11月というと、近鉄と広島が日シリやってた頃です。
(11月4日に江夏の21球があり、近鉄がもっとも日本一に手が届きそうな瞬間だったといわれてます)
その年の夏は、私の伯父や母親の出身校の明石南高校が甲子園に初めて行った年でもありました。
同じ出身といえば、審判員の林さん(現在嘱託審判)や元オリックス藤本博史選手もです。
明石南高校は2年連続でゴールデングラブ賞を受賞したオリックス坂口選手の実家の近くでもあります。
(伯父も母親もグッチと同じ中学校出身だったりします。JR西明石駅近く。電車からも見える学校です)
その1979年、私は西宮の鳴尾というところの小さな個人病院で生まれました。
生まれた次の日、糖尿病を発病したらしく、体中が紫色に変色し、その次の日は緑っぽくなったといいます。
親から聞いた話ですが。
生まれてすぐ、人生の岐路に立ち、とは言っても自分で選ぶはずもなく、
人生最大の博打というか、ただ成り行きに任せ、幸い何の不自由もない今があります。
(新生児一過性糖尿病っていうやつだったらしい)
20年前。
1989年は、オリックス1年目の年でした。
西宮でオリックス・ブレーブスだった頃。
私はその頃少年野球やって、勝ち進めばグリーンスタジアムで野球できるんやって!
ていう大会を目指していたんですが、ボロクソに弱かったです。ひがまい野球部。
6年生になって珍しく勝った試合、私が3ランホームラン打ったのが決勝点だったのは覚えてます。
当時の自分は今の浜ちゃんみたいなバッターでした。
(相川、と言ったほうがええんかな。チャンスに弱くて故障もよくしてたし。
この秋もアピール禁止や!言うのに張り切ってたんでしょうかねぇ。)
その後、中学では野球部がなかったので、そこから陸上で明け暮れてました。
陸上部は男女共同ってところが特徴でしたね。
いろいろあった?そらそうよ。
中学生の女子の後輩の指導というと、うまくいけばそりゃ良いものですが、
嫌われると最悪ですからね。
私はそんな嫌われることなかったんですが、顧問の先生が嫌われて退職してしまいました。
今思い返すと、先生も今の自分とちょうど同じ年でしたね。
せっかく冬の県合同合宿に推薦されたので、よかったな、厳しいけどがんばれよと話して、
うちの中学校から自分とその先生だけが参加するはずやったのに、
なぜか先生が合宿に来ずに、えらい寂しい思いをさせられましたわ。
そのまま先生は学校にも現れず退職。
その前の顧問も校長とケンカして(練習が厳しすぎたらしく)顧問クビになってましたし。
いろいろ揉めたことは覚えてます。
中学生のときに、大人でもそういう弱い部分がある、ていうのを見て
陸上は個人競技やし自分のためにとりあえずやっとこう、と冷めた考え方で1人で練習メニュー作って自分でこなす日々。
それが高校に入ってからも続いたものです。
その後、ビーフジャーキー君たちに出会ったりして、
まーそこでも問題あったりした(今度はうちらが悪い)。
(自分が部長になった年に限って、てーがくとか、休部になったりとか、
奉仕活動やって公式戦出場復帰とか)
10代は振り返るとアホなことばかりですが、それが大変でした。
野球の名門校でも、一筋縄ではいかないこといっぱいありますもんね。
そういえば、中学のときからやっていた自分で作ったメニューが功を成したというか、
それでそこそこの成績を収めはしましたが、腰を痛めて長い間治療もしました。
最後は現役引退して手術もしましたし。
そして10年前。
20歳になったときは、神戸の実家に住んでました。
その次の年から、20代はいろんな町を移り住んだものです。
その次の年、広島県東広島市へ。(大学生になる)
その2年後、宮城県石巻市へ。(社会人になる)
その1年後、青森県八戸市へ。
その1年後、宮城県多賀城市へ。(職場は名取市)
その3ヵ月後、青森県むつ市へ。(職場は東通村)
その3ヵ月後、宮城県多賀城市へ。(職場は名取市)
その1年9ヵ月後、東京都三鷹市へ。
その1年3ヵ月後、青森県六ヶ所村へ。
その4ヵ月後、東京都三鷹市へ。
そして2年が過ぎる。
数ヶ月程度の異動は引越しもせず、荷物も置いたままでしたが、
ひたすら北上・南下を繰り返したてところです。(青森を行ったりきたり)
二十代で一番長くいたのは、実は東京だったりするんですよね。
まーこのまま永遠に今の状態が続くはずもなく、
自分もこの先どうしていくか考えていく時に来ているとも思います。
そんな自分を振り替えったりするのも、今日だからなのかも。
別にブログで公開する必要もないのかもしれないんですけど、なんか共感することってあります?
そんなことで昔から野球とオリックスは好きでしたが、10代は自分の部活を優先し、
20代前半は実家を離れて、ひたすら仕事と地元から離れた土地に慣れるのに精一杯だったもの。
宮城県在住2年目の少し生活に慣れてきた頃、新生オリックス・バファローズが楽天戦に現れ、
そこで仰木野球に出会い、さらに東京に異動になって本格的に野球観戦に打ち込む、という生活になりました。
この先も、自分の生活を磨くために、
仕事も凝る。
趣味にも凝る。
これからもそういう生活を続けていけたらいいな、そう思います。
オリックスのために生きてるわけじゃないですけど、
オリックスがあると日々張り合いが出る、そういうもんかもしれないです。
そう思うと、負け試合でも、精一杯応援歌うたって、
好きなチームを応援したり、選手の写真撮ったりして、楽しめたらそれはそれでいいんです。
幸い一緒に観戦してくれる人もいてますし。
あの采配はどうだこうだ、いろいろ言い合ったりすると余計楽しいですし。
そういうことで、これからも、楽しみながらやっていこう、というのが私のテーマ。
そら日々思うことはありますけどね。
どんでん監督の本も読んだし、これから時下に野球見て私もなじんでいきますよ。
ひとつ思ってるのは、野球を見ててもいい年もあれば悪い年もある。
去年はうまく思い通りに事が運びすぎたし、今年は何もかもがうまくいかなかった。
オリックスの場合、その振り幅が大きかった、て感じたところです。
(どんでんはんは、前の年4位だと、悪かった戦力は入れ替えもできるし、
そこそこチームの状態もいいから次の年優勝狙いやすいって言ってる)
やり方は同じでも結果が異なることもあるもんです。
過度な練習がいいのか悪いのか、結果的にどうなるかもわかりません。
私も部活の練習をやっていくうちに、疲労で腰を痛めました。
ダルが故障を打ち明けなかったことが良かったのかどうかもわかりません。
この先、またどんなところに異動になるかわかりませんし、
そろそろ自分から動き出さないといけないのかな、という気にもなっています。
毎日ネットができるとか、野球観戦に気軽に行ける環境じゃなくなっても、
それなりに楽しみを見つけていきたいと思います。
そしてまたこのブログで報告する、ということができれば。
(青森の六ヶ所村に住んでいるときも、それなりに更新はできたので)
ということで、毎年11月11日は自分とこのブログの区切りの日にしてます。
(このブログ、立ち上げてからすでに4年経ってたりする)
そんなわけで、
これからもよろしくお願いします。
男は30からや!
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30才ですか~。
まだまだ若いですよ。
30年前の日本シリーズ,中学生でみてましたよ。
その前年は,有名な上田監督の抗議事件がありましたよね。
あれもリアルタイムでみてました。
どう見ても大杉選手のホームランせいの辺りはファールに見えたんだけどな~。
なんて,懐かしいことも思い出しました。
江夏の投球もしびれましたね。
これからのストーブリーグ,どんな動向があるか見物ですね。
全然おっさん世代ではないと思います。
僕も20代前半は年間10試合も野球を見に行ってないので、当時では考えられないこの5年間を送ってる気がします。
いつの間にか、職場でもプロ野球選手でも年下が増えた、そう思う年です。
当時のパリーグでしたら、日本シリーズは本当に特別な雰囲気だったことと思います。
普段の球場を知っていれば余計に特別な試合と思えるのかもしれないですね。
そんな時代を見られたこと、とてもうらやましく思います。
今年のストーブリーグも、いろいろ動きはあるんでしょうね。
じっくり見ていきたいです。
周りの同期たちも、そんな老け込んではいませんし
大きく変わるわけじゃないんですけどね。
今では「関東・週末・オリックス戦⇒見に行くのが当たり前」ですが、
確かに数年前は考えられなかったです。
いろいろ球界再編騒動があったからてのもありますが、
今は観戦仲間がいるからこそ!ですね。
来季、まずはナゴヤリベンジいきましょう!
30代になりKazmaさんのあらゆる点において更に磨きがかかることでしょう。。
今後ともオリックスを応援する同志としてお付き合いさせて頂きたいと思ってますので、よろしくお願いします。
江夏の21球時は既に社会人でした(爆)。そうですか。あの時はまだお母様のおなかの中でいらっしゃいましたか。
六ヶ所村とお聞きしたのが昨日のことのようですが、もう2年も経つんですね?
9月に久しぶりに仙台に行った時、ライトビジ席には結構な数のオリファンさんがいて、以前かずまさまが、確か極寒吹雪の中観戦されたことを書かれた記事のこと思い出して、オリファンも増えたのね~ってちょっと感動していました。
お会いする機会は少ないかと思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
だいたい中学入学のときぐらいに僕が生まれたのですね。
今高校生活を送っていますが、学校内では無難に過ごしています。
ですが野球に関しては行動的になっているので、こちらには力を入れすぎています。
社会人となったとき仕事によりますが、野球観戦も少なくなる可能性が多いにあるので、今のうちにたくさん行動しておきたいです。
30代は20代より大変よ、そう先輩から言われてきました。
まだまだ上り坂が続くのかもしれません。
これからも頑張ります。
これからもよろしくお願いします。
いろいろ気遣っていただいてありがとうございます。
こちらからはなぁ~んにもしてないのに・・。
大石前監督が辞めさせられたとき、
今年はなんだか同じ目標を持っていても、違う考えってのがあるのを実感させられました。
自分は自分の道を貫きとおそうと思ったものです。
その原点が、当時のフルスタで数人でオリックスを応援していたあの頃ですね。
そういう考えを持つのも、あらためて年が増えた証拠かもしれません。
まだまだ年上の人が多いのは確かですが。
またよろしくお願いします。
自分が部活を打ち込んでいたように、
航平0857さんが野球観戦に打ち込んでいる、てことなんでしょうか。
19歳までなら多少のムチャ(ただし親が許す範囲で)をして、自分の伝説を作っといてください。
私の場合、それで今も話の種にしてますので。(それだけですが)
またこれからも宜しくお願いします。
今度は席取りしますんで。