長い石畳を歩いていくと、やがて大神山神社奥宮が見えてきました。
大神山とは大山の古名で、大国主命が祭ってあります。
社殿は文化2年(1805年)建立と言われ、神仏混淆時代の社殿の特徴である権現づくりという形式で、中国地方でも大きい方の神社だそうです。明治8年の神仏分離令により大神山神社奥宮となり、元のように純然たる神社となったそうです。
夏山開きのたいまつ行列は、ここから出発します。

正面の社号額は、明治維新政府の総裁であった有栖川宮熾仁親王の揮毫です・・・と説明書きにありました(^^)。
以下、社殿の内外をごらんください。




大神山神社奥宮の裏にある下山神社です。
津和野藩主亀井氏が文化2年(1805年)に寄進したもの。
下段は、鳥取県の木・ダイセンキャラボクです。

この神門は、門の表裏が反対になっているので、「後向き門」と言われています。
上段の写真をごらんください。手前が社殿のある内側ですが、扉の取っ手が、門を閉めたときに外側になるようについています。
下段を見るとよくおわかりでしょう。向こうが外側になります。
元本坊であった西楽院の表門を移築したもので、設置するときに位置を変えなかったため向きが逆になり、後向き門と言われるようになったそうです。また、取っ手が外側についているので逆門とも呼ばれています。
明日は、金門と大山まきばみるくの里を紹介します。
大神山とは大山の古名で、大国主命が祭ってあります。
社殿は文化2年(1805年)建立と言われ、神仏混淆時代の社殿の特徴である権現づくりという形式で、中国地方でも大きい方の神社だそうです。明治8年の神仏分離令により大神山神社奥宮となり、元のように純然たる神社となったそうです。
夏山開きのたいまつ行列は、ここから出発します。

正面の社号額は、明治維新政府の総裁であった有栖川宮熾仁親王の揮毫です・・・と説明書きにありました(^^)。
以下、社殿の内外をごらんください。




大神山神社奥宮の裏にある下山神社です。
津和野藩主亀井氏が文化2年(1805年)に寄進したもの。
下段は、鳥取県の木・ダイセンキャラボクです。

この神門は、門の表裏が反対になっているので、「後向き門」と言われています。
上段の写真をごらんください。手前が社殿のある内側ですが、扉の取っ手が、門を閉めたときに外側になるようについています。
下段を見るとよくおわかりでしょう。向こうが外側になります。
元本坊であった西楽院の表門を移築したもので、設置するときに位置を変えなかったため向きが逆になり、後向き門と言われるようになったそうです。また、取っ手が外側についているので逆門とも呼ばれています。
明日は、金門と大山まきばみるくの里を紹介します。
駐車場が有料なので、まだ行った事がありません(^^;
でもヲアニーさんの詳しい写真で、だいたいの事が
分かるので、非常に参考になります(^^)
大神山神社の後向き門は、今回案内していただいた方の解説で初めて知りました。何回か行っているのですが、地元にいても知らないことがまだまだ多いですね。
昨年から、博労座の駐車場は3月下旬から12月下旬までのシーズンは無料化されたようです。先日行ったときも無料でした。
↓参考までに、地元新聞社の記事を。
http://www.nnn.co.jp/news/050705/20050705001.html
さすがに雪の壁ができるとそれでなくても
道が狭いのに顰蹙を買います。。
ミルクの里はまだかなぁ~?(ワクワク)
単純で分かりやすいからほった老人向き(笑)
先ほどUPしましたよ^^
イナバウアー木もあるよ。金門のところだったから、行ったらすぐわかりますよ。