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昨年12月中旬に、安来市広瀬町布部にある加納美術館に行ってきました。
この美術館は、従軍画家として中国戦線に派遣され、戦争記録画の作成に当たった加納莞蕾(かんらい)の作品が展示されています。
加納莞蕾(本名:辰夫。以下「莞蕾」と言います)は、1904(明治37)年、島根県能義郡布部村(現:安来市広瀬町布部)で出生。1926(大正15)年に上京、本郷の洋画研究所に学び、独立美術協会会友となりました。
1932年から1937年まで島根県浜田市の尋常高等小学校に赴任。1937年3月に教員を辞して朝鮮半島に渡り、従軍画家として中国山西省に赴任、部隊と行動をともにします。
1945(昭和20)年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾、戦争が終わります。
莞蕾はこのとき京城の海軍の任務。海軍で掲げられていた旭日旗を降ろしたとき、「この旗をもう二度と太平洋上にひるがえしてはならない。もし迫りくる敵があるならば、それを追い返す思想を持たなければならない」と誓ったということです。
終戦の1945年9月、莞蕾は家族とともに帰郷、故郷の村にも戦死した人が大勢いました。そのうちの何軒かを訪ねた莞蕾は、描かせてほしいと遺族に頼み、写真をもとに戦死した人の肖像画を描きました。
以下は長くなるので途中省略します。
莞蕾は戦後、フィリピンのモンテンルパのニュービリビッド刑務所に戦犯として収容されていた旧日本兵の釈放助命嘆願を行い、4年間に43通の釈放を訴える嘆願書をフィリピンのキリノ大統領に送り続け、「日本軍によって虐殺された大統領の愛児の名において憎しみが愛に変えることこそ神に帰依する行為である」と嘆願しました。
これによって、1953年7月4日、キリノ大統領は赦免のための声明を発表し、105名の日本人戦犯が全員釈放されたそうです。このほか、恒久平和を求める嘆願書をローマ法王やインドのネール首相らに送り続け、その数は280通に及ぶということです。
1955(昭和30)年6月8日、莞蕾は東京の帝国ホテルで静養のため訪日していたキリノ元大統領と会うことができました。当時、莞蕾は島根県の布部村長を務めていましたが、キリノ元大統領に会うために東京へ駆けつけました。
最初は面会を断られたそうですが、何とか名刺を元大統領に渡すことができると、キリノ自身が「その人には会わなければならない」と答え、奇跡的に会うことができました。フィリピンの大統領に初めての嘆願書を書いてから6年たっていたということです。上の写真は、そのときのものです。
会ったら、キリノから「もっと早く来ればよかったのに」と言われた言葉が嬉しく莞蕾の胸に残り、生涯忘れることのない瞬間となったそうです。
さて、タイトルは「もう一つのモンテンルパ」としています。
20年近く前に、バスツアーで妻と長野県に旅行した際、天竜峡を散策していたら「モンテンルパの碑」の看板が目に入り、私だけコースを外れて矢印の方向へ行ってみました。
渡辺はま子が歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌碑が建っていました。以下は、そのときの記事のリンクです。
私が加納莞蕾のことを知ったのは、一昨年に地元紙にこの美術館のことが掲載され、初めて知りました。いつかは行ってみたいと思っていましたが、漸く実現できました。
最後に、みんな立ち上がっての合唱は、涙を誘います。