伯耆町の小野~坂長~長者原を流れる佐野川用水を探索してみました。
佐野川は、伯耆町中祖(なかそ)地内で日野川から取水し、日野川左岸の断崖絶壁に水路を開き、伯耆町長者原台地に達しています。
長さは8.8キロメートルにわたり、主に伯耆町の坂長や岩屋谷、長者原地区の灌漑、生活用水として利用されています。
佐野川の歴史を簡単に紹介します。
佐野川開削は、幕末文久元年(1861)に藩の直轄事業として完成を見るものの、南部町田住(会見郡石田村)の豪農吉持(よしもち)家十一代243年の大志によって成し遂げられた偉業である。
佐野川井手開削によって新田二百数十町歩が開発され、石高増は5千石に及ぶ。「岩をきり山をうち抜き 佐野川の 清き流れそ 田村栄えぬる」は地方民の喜びの歌と伝えられている。
佐野川井手開削の歴史は、元和4年(1618)、初代吉持五郎左衛門が長者原開発を藩に願い出、累代の大事業と遺言し同年没する。
寛永8年(1631)、五郎左衛門宛に開発許可が出るも、翌年お国替えによる財政難を理由に工事中止命令が出る。金三千両米六百石を献納し工事に着手するも、島原の乱により再び中断。(二代甚四郎)
以後、四代~十一代の間には、大洪水による中断や隧道掘削の難工事に伴う工事遅延などがあったが、十一代吉十郎の代の文久元年(1861)6月、佐野川井手工事が完成した。
(伯耆町教育委員会発行「伯耆町の文化財」から抜粋)
TOP画像から3枚までは、伯耆町中祖にある佐野川用水取水口です。
日野川から引かれた水は、中祖から下流へと流れていきます。
では、下流方面へ行ってみましょう。
伯耆町宇代付近の日野川に架かる橋を渡ります。
伯耆町小野地区付近です。
上の方に見える家が小野地区です。
ここも高台ですが、佐野川の恩恵に浴し、耕作が行われています。
この近辺は今は暗渠になっているのか、佐野川の流れは見えません。
鳥取県企業局が管理している新幡郷発電所です。(伯耆町金廻付近)
右下の流れは日野川です。中祖の取水地点と比べると、日野川の流れは下へ下がっています。
一間に五分(120分の1)=120mで1mの勾配で川を掘削していったそうです。
佐野川から水を利用している水力発電所です。
落水は日野川と、更に佐野川の次の流れに注いでいます。
新幡郷発電所でいったん集水された水は、再び佐野川下流へと流れていきます。
次回は、更に佐野川の先(下流)へと進みます。
続く・・・
あの辺りの川は、佐野川って言うんですか~~!
日野川から取水した用水路って、たくさんありますね~~
まさに命の川ですね!
秋晴れで綺麗ですね。
こちらはもう朝は毎日10度以下で、寒いです。
確かに、nasukaさんは花回廊方面やこの周辺も出没しておられるようですね(笑)
ポタリングされる坂長や長者原あたりに流れているのは佐野川です。
この川がなかったら、恐らく不毛の台地になっていたでしょう。
小学校のときに、先生から先人の苦労を紙芝居で聞いたりしました。
nasukaさんがポタリングされる観音寺付近にも、法勝寺川から取水した米川がありますね。
佐野川より早く竣工したようですが、米子の皆生方面や弓浜半島を潤している、命の水ですね。
子どものころに聞いたことを、大人になって訪ねてみると、温故知新の精神に改めて浸ったりします。
農業用水路は、あって当たり前の風景ですね。
土地改良区や水利組合などが管理していると思いますが、
土木機械などなかった時代に、よくこれだけのことができたと思います。
あれ、オランダはもうサミかや。
山陰は、先日サミ日があっただぁもん、ヒーマはキョも暑かったじぇ。(笑)
改めて、自分の住む地域を再認識できますね。
読んでて、懐かしい気分になりましたよ。
ヲアニーさんの記事では珍しい事です(爆)
佐野川というのは知りませんでした
川の名前ってなかなかネットで調べても分からないので
教えてもらえると大変ありがたいですね^^
なんでもそうですが名前が分かると大変親近感が湧きます
何だか、前段は腹(黒)怪長らしくないコメントだなと思いつつ読んだら、
最後はやっぱりほめ殺しコメントだったか(爆)
いやぁ、ゆるポタさんが一緒でなかったからこそ、珍しい記事になったかもだが(爆)
米川は県西部の人たちも知っているでしょうが、佐野川はメジャーではないかもですね(笑)
でも、岩盤を掘削して隧道を掘った大事業は、総延長は米川より短いですが、
それに匹敵する偉業でしょうね。
私も小学校時代に先生からこの話を聞きましたが、今でも小学校ではこの偉業を児童たちに教えているそうです。