MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



もらっている給料に見合ったバリューを出しているか、多分考えられないの人って多くいる。

全くもって周りから白い目で見られる状況を自分では認識出来ないこととか、後生大事に昔仕事でしたことを延々と語るとか、諸々バリューが出せていないことに気付けないのは不幸の極みである。この気付けないと言うのが一番痛いな。ある意味一番痛いKYである。どこそこの会社ではこれが当たり前、なんてことが会話の中に自然と入ってくるような人物には個人的には絶対なりたくないな。昔語りのコンテクストなんて大概良いことない訳で。。そして世の中に当たり前なことなぞない訳で。。時代の移り変わりと共に人も、人の考え方もまた淘汰されるべき。いや、淘汰と言うと言い過ぎか。考えを改められないような人物は淘汰されるべきだ。


淘汰と言えば、余りにも諸々勘案しすぎると斯様な除去すべき異物のバリューと、その他大勢のバリューを見定められなくなる可能性がある。実は企業運営面で一番これが一番怖いな。何故ならばどのような企業も人で運営されているのだから。先日何かで読んだが、エレベーターに先に入り、開くのボタンを押し、そこに当たり前のように目上と言うか、役職が上の人間が入ってくる企業はヤバいことに気付けていなく、不正が起きやすく、崩壊に進みやすいとあった。まさにそうであろう。これは日本的なのかな。日本は大概どう言う場でも上司は上司たる行動を取りがちだ。しかし、アメリカなんかはホームパーティーを開けば上司が料理を作り、振る舞ってなんぼ、と言うことをよくやる。日本より余程飲みニュケーションをよく分かっているかな。代理店等にチヤホヤされ、飲むときは案件成立後、なんて言う飲み方しか知らないようなのは不幸だな。建設的に話を進める仕事の仕方を知らない訳だから。つまり、人と人との繋がりを持つための会食とかね。やっぱり人間関係を構築するためのものは重要だからな。そもそも除去すべき異物のような輩はのみかいに呼ばれないか、自ら拒否る事が多かったりするしね。。残念な話だ。大学で先生と呼ばれるような仕事をすると、学生と相対していくが、飲み方知らなかったりするのとかは気になる。空気感と言うのは読み過ぎてもろくな事にならない。空気が読めないのも痛い話になってしまうが…。

学生の話は兎も角、身の程知らずを前にしたとしたら、身の処し方を考え直すよなぁ、やっぱり…。仕事は誠実にこなしていくのは当たり前だが、バリューが出せていない事に気付けないような人間にはなりたくないな。


なんだったら別にもう切り捨てたり、捨て去る。。。


断捨離と言う境地に陥れるか?人間だから尊ぶべき尊厳はあるし、ゴミではないからポイッと捨てる訳にはいかな個人的に感情論なぞどうでもよろしいのだが、義理と言うところだけは依拠して良いか…。最近の課題である。あとは仁義。これは絶対に捨てられない。

仁義と義理…。
昔の東映映画みたいだなw。

ヤクザな世界と言うことですか・・・・(笑)。


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