ICUのFreshmanの時には当時の呼び名としてELP:English Freshman Programと言うものがあり、あの日もいつも通りELPのあるクラスに行った。
夏休みのFreshman SEA ProgramでUKに2か月弱留学した後にカテゴリーがBに上がったために語学クラスのメンバーが変わったのだが、その中の女子で兵庫県出身の子が居た。自宅で朝食を食べ新聞を読んだだけでそのまま大学に行ったおいらは、講義が始まるの会話の意味が全く分からなかった。その子曰く、「うちは大丈夫だったみたいで一安心」と。はて、何かあったらしく、どうやら地震があったみたいだ、程度にしか知らなかった。どんな講義をその日一日受講したのかなんて今更全く覚えていないが、学内にいると外部メディアとの接触なんてものはまず全くない。当時は残念ながらICUの図書館にもネットの繋がるPCはあったかどうかも分からない。いやあったかも知れないが図書館に行った記憶はゼロで少なくとも外部情報が得られるメディアに接触してはいない。
真面目に履修していた講義に出席しそのままサッカー部の練習に行った。
以前のエントリーにも書いたが、折悪くGKだったおいらはその日のサッカー部の練習中にFWと空中でぶつかられて頭からグランドに落ちてしまいそのまま救急車で運ばれてしまった。意識が朦朧としている中、救急車の担架で運ばれている最中、クラブハウスの中にあるテレビから何かの数が報道されていた。夕方18時前くらいの事だったから3000だったか4000だったかと言う数値がテレビから聞こえていたが、その時も何のことなのか分からずに武蔵境駅前の日赤病院に運ばれた。脳震盪と言う診断でその後程無くして入院もせずに帰宅してから夜のニュースで初めて知った…。
発生したのが午前6時前。。
知ったのが午後10時くらいか…。
今だったら有り得ないことなのだが情報感度が当時は低かったのか、それともメディアの発達度の問題なのか。。。いずれにしても、あれほど未曾有の大震災の事を発生から半日以上経ってからしか知りえなかったのがとても恥ずかしい…。今となっては奥さんの両親の実家が両方とも神戸と言うことで年に一度程度神戸には行くし、実際御影公会堂と言うテレビ中継で何度も出てきた場所のホントに目の前のマンションにお住まいの祖母に訪問する度に本当に現時点で復興してきていて良かったなと思う次第。
逆に今となっては報道によると阪神大震災を経験していない市民が40%に上ると言う。
当然、それ以後に生まれた子たちは知らないだろうし、当時の年齢が1つや2つであれば揺れたことは覚えているかも微妙だろうし。風化と言うのは意外と早く来るのかも知れない。今の神戸の風景を見てどこでどう建物が倒壊したのか、等を想像できるか…。それほど様変わりしているし今はより新しい建物が多くなっているのだと思う。3.11にしたってもうすぐ3年が経過するが、結構日常生活で忘れがちなのも事実なんだと思う。少なくとも都内に住んでいて毎日ニュースで報道されている事実はないのではないかと思う。19年たっても阪神大震災のことは忘れてはいけないと思うし、3.11のことも都内で被災した者としては一生忘れてはいけないと思う。図らずも結婚後に家族となったものが阪神大震災の被災者だったこともあるし、そうでなくても被災した方への思いを忘れてはいけないと思う次第。
1月17日が来るたびに毎年少なくともこの日だけはきっちりと手を合わせたいものですな。
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