MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



スポーツ仲裁裁判所(CAS)で、2007年我那覇に対してJが下したドーピング違反は間違いだったとの裁定が出た。

事実としては、2007年4月、ビタミン入り生理食塩水の静脈内注入(点滴)を受け、これが違反だとして、6試合の出場停止などJは制裁をくだした。しかしながら、当時から明らかに我那覇に対しての処分の前提となっているこの問題の認識は間違っていた。世界反ドーピング機関(WADA)の規定に沿った形での医療行為であったことは間違いなく。

いや、仮に間違いであったとしてもそれはそれで仕方ない。人間、誰しも間違いを犯す。しかし、その後のフォローのプロセスが重要だ。

今回、気の毒にも日本代表の親善試合の日程と重なったが、チェアマンの発言はどうかと思う。このようなJリーグ始まっての汚点に際して、危機管理体制やメディアに対しての発言が適切ではないと言うことだ。CASの裁定に対して、彼らには協議する必要はない。間違いでなければこれは最終決定であり、そのことを素直に真摯に受け止める姿勢を示すべきであり、この件に付いて協議する余地などない筈だ。先ず最初にその姿勢を示し、状況を鑑み我那覇に対して謝罪をすべきだったと考える。謝罪と言うのは、早ければ早いほど良い。その間に余計なことを言えば言うほど後の謝罪の意味が薄れる。

また、日本サッカー協会・小倉純二副会長の発言、

「Jリーグのルールは『疑わしきは罰する』という立場だったが、今回のような件をどう扱うかがはっきりした。今後のリーグ運営にとってはよかった」

と言うのは、本当にどうにもいただけない。「疑わしきは罰する」、などと言う発言は公に対してすべきではないのではないか。通常は「疑わしきは罰せず」であることは、別に法学部の学生で刑法を習ったことがなくともどこかで聞いたことがある筈だ。そう言った世間一般でまかり通っている通念に対して、明らかにダブルスタンダードの論理を用い、部分社会論的な論拠を用いるのは(部分社会の法理とも言われる)明らかに間違っている。これは解釈の問題でもあり、方法論の問題であるのだが、そもそも依拠する法の一元主義的考え方からして、間違っている。また、仮に法一元主義に対しての概念の法多元主義に依拠した形でこの状況、組織が認められたとしても、前提となるのはその手続に一定の合理性がある限りその手続を承認して団体に入ったものはその適用を受けると言う考え方で、合理性がなければ最早何主義もへったくれもない。

部分社会論は、Wikipediaによると(一部抜粋)

部分社会論を正当化する根拠の一つとしては当該個人がその団体すなわち部分社会に入るか否かの自由を有していることが挙げられる。

すなわち、その団体が独自の処分権限を有することを事前に承認した上でその団体に入り、その承認した手続に基づき処分されたのであるから、その点においては事前の同意があるといえるからである。

また、同時に部分社会として認知される団体は人的集合体であるから、その団体内で規律を保つために規定や手続を定める必要がある。そこで、その手続に一定の合理性がある限りその手続を承認して団体に入ったものはその適用を受ける、という考えに基づく。

なお、部分社会論を肯定することは法多元主義の考えを肯定することになり、法一元主義の考え方からこの理論を肯定することは困難であると考えられる。


と書かれている。

Jリーグは決して万能ではない。だから間違いは犯す。しかし、それが社会通念上許容される合理性に基づいて運営されていることを示さない限り、そもそものレゾンデートルが否定されたも同然だ。間違いの上塗りにならぬよう、自分たちが無能であることを示すようなことはして欲しくないと思っている。

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