MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



1990年の3月に東京に引っ越してくる予定で、東京の高校の転校試験を受けた。

然し乍ら、推定で軽く200人以上の転校希望者が居たと思う。にもかかわらず、私立は2校、公立は5校くらいの受け入れしかない。そして日程的に公立、私立をあわせて5校しか受けられないと言う状況。。それに各校の受け入れは2名ずつ程度。7校x2名で14名。200人以上の希望者が14名の枠を争う。。。前年に普通に名古屋で壮絶な高校入試を終えていたのに、2年連続してそれ以上に壮絶な転校試験を受けざるを得なかった・・・。倍率が15倍前後と言う高校入試は多分他にはないと思われるw。当時は都立高校は居住地域ごとの学区があったのだけれども、そんな学区など関係なく試験を受けるしかなかった。当時の実家は三鷹だったが、杉並区や渋谷区、小平市の高校を受験。私立は比較的家から近い吉祥寺近辺の高校だったけど、もう大変な競争を受けさせられた訳ですな。偏差値順で言えば、杉並区の都立高校と吉祥寺の私立は落ちて、おいらはその他3つの高校に受かりましたんで無事東京残留決定。必死だったので受けられる機会は全部受けるしかないんですよねぇ。

数日後に結果が分かったので全部受けるしか無いと言う・・・。

結果的には最も偏差値の高い高校だけは本当に合格者2名でしたが、あとは6人から7人くらいの合格者が出た筈。延べ人数としてはそれでも40人くらいの合格者が無事に東京の高校に転校出来た筈。その中でおいらは3名分を確保してしまったので、他の人の機会を奪ってしまったのだけれども、それは結果論でしてね。。皆、偏差値落としてでも受験をしてなんとか東京の高校に転校すべく必死だった訳ですなぁ。因みに、おいらが行った広尾高校と言う都立高校では6名分転校生の受け入れをした筈ですが、そのうちなんと3人が名古屋の同じ高校からの転校生でした。合格後のオリエンには名古屋の時の高校の制服を着て行ったらなんと制服が同じと言う。。。不思議な縁でしたね。その後残念ながら全く接点ないけれども。。

そんなこんなで1990年からおいらの東京生活は始まった訳でした。

そこから丸2年、渋谷から徒歩すぐの場所で遊びまくりましたんでその分2年間河合塾でエクストラの高校生活もしましたねw。特段、誰かと仲が良いとか悪いとかもなく、東京の高校時代は淡々と過ごしたかな。卒業後の予備校生活の方が余程友達付き合いが濃かった感じは正直否めないかなぁ。その後の付き合いと言う意味ではね。大学に行っても特に高校時代の友達とは会ったりしていなくてそのまま月日が流れたものの、その後MixiやらFacebookで復活した人も中には居て。

そこからまた懐かしき日々を手繰り寄せて思い出していく。。。
 
大人になるとそう言うことをしたがるものですよね。同じときに同じ高校に居たと言うことはとても大きな話なのだから。中には超ビッグアイドルと付き合ってるような有名人も居たりしてね。それ聞いた時はビックリしたけど。そんなこんなで19時から23時まで4時間もみっちり懐かしい話を男二人で近江牛のホルモンを食べながら。 非常に美味しいお店でした。



















@近江やWabisuke
 



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