今日9月30日は、年始から273日目、年末まであと92日。
画像は、オットー・フォン・ビスマルク。
489年
ローマ・ゲルマン戦争。ヴェローナの戦い。
※ヴェローナの戦い※
ヴェローナで行われた戦闘。
東ゴート族の王テオドリックが自ら軍を率い、イタリア領主オドアケルに勝利した。
オドアケルはラヴェンナへの逃亡を余儀なくされ、テオドリックはそのまま進軍し
てパヴィーアとミラノを占領した後、ラヴェンナ包囲戦にとりかかった。
※ラヴェンナ包囲戦※
490年から493年まで、東ゴート族の王テオドリックがイタリア領主オドアケルの
いるラヴェンナを包囲した戦闘。
包囲が3年間続いたのち、和平が成立するが、493年3月15日に行われた
祝宴においてテオドリックがオドアケルを殺害した。
1399年
イングランド議会がリチャード2世の廃位とヘンリー4世の王位継承を議決。
ランカスター朝が始まる。
※リチャード2世※
(1367年1月6日- 1400年2月14日)
プランタジネット朝最後のイングランド王。
(在位:1377年6月22日-1399年9月29日)。
父はイングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの長男
エドワード黒太子、母はその妃ジョーン・オブ・ケント。
幼少で即位したため治世初期は貴族たちの補佐を受け、成長してからは専制
のため側近を重用したことが周囲の反発を招き、1388年に反対派の訴追派
貴族たちに側近たちを非情議会に訴追されて失い、一度挫折した。
1397年に訴追派貴族を排除して再び専制に乗り出したことが一層の反感を
買い、従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)ら貴族層のクー
デターによって王位から追放・幽閉された末に死去。
プランタジネット朝は断絶した。
※ランカスター朝※
中世イングランドの王朝。1399年から1461年まで、および1470年から
1471年までの間、イングランドを統治した。
ランカスター家(House of Lancaster)は、エドワード3世の四男ジョン・オブ・
ゴーントに始まる、ブランタジネット家の分家の一つである。
家名はこの家系がジョン・オブ・ゴーント以来ランカスター公位を継承していた
ことによるものであるが、ジョンがこの公位を獲得したのは最初の結婚によって
であり、その創設は1267年にヘンリー3世の次男エドマンド(「クラウチバック」
の異名で知られる)がランカスター伯に叙せられたことに始まる。
エドマンドの長男トマスは6つの伯を兼ね、イングランド最大の諸侯として影響
力を強めたが、従弟のエドワード2世と対立した結果、所領を没収され刑死した。
しかしトマスの弟ヘンリーの息子ヘンリー・オブ・グロスモントはエドワード3世の
下、百年戦争で活躍し、1351年にランカスター公の称号を得た。
ヘンリーには息子がなかったが、娘のブランシュがジョン・オブ・ゴーントと結婚し、
ジョンがランカスター公となった。
1399年にジョンが没すると、甥のイングランド王リチャード2世はランカスター
公領を没収した。これに対しジョンの息子のヘンリー・ボリングブルックが反乱を
起こし、同年にリチャード2世を廃位しヘンリー4世として即位、ランカスター朝
を創始した。
これに先立つ1385年、ジョンの弟エドマンド・オブ・ラングリーがヨーク公の称号
を得てヨーク家を起こし、ランカスター家に対抗する勢力となった。
第2代のヘンリー5世は百年戦争で華々しい戦果を得たが、ヘンリー6世の
時代にそれらは失われ、ヨーク家との間に薔薇戦争が勃発(1455年)、1461年
にヘンリー6世はヨーク朝のエドワード4世に王位を奪われ、幽閉された。
ヨーク朝の内紛によりヘンリー6世は1470年に復位したが、翌1471年に反撃
に出たエドワード4世に捕らえられ、殺害された。
その後ランカスター家は復活できず、1485年までヨーク朝がイングランドを支配
した。
ヘンリー7世は母マーガレット・ボーフォートがランカスター家傍系のボーフォート
家の出身であったことから王位継承権を主張し、ヨーク家のリチャード3世を攻
め滅ぼしてテューダー朝を興した。
1520年
壮麗王スレイマン1世がオスマン帝国のスルタンに即位。
※スレイマン1世※
(1494年11月6日-1566年9月6日)
オスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年-1566年)。
9代皇帝セリム1世の子。
46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的
成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。
英語では「壮麗帝(the Magnificent)」のあだ名で呼ばれ、日本ではしばしば
スレイマン大帝と称される。トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備した
ことから「立法帝(カーヌーニー)」のあだ名で知られている。
名前のスレイマン(Süleyman)とは、ユダヤ教やキリスト教と共にイスラム教
でも聖典とされる旧約聖書に記録された古代イスラエルの王、「ソロモン王」
のアラビア語形である「スライマーン」のトルコ語発音である。
またオスマン帝国の歴史において「スレイマン」の名を持つ最初の皇帝である
ことから「スレイマン1世」と呼ばれるが、まれにバヤズィト1世がアンカラの
戦いでティムールに敗れた直後にエディルネで君臨したバヤズィト1世の長男
スレイマン・チェレビーを1世に数えることがあるので、その場合は「スレイマン
2世」と呼ばれることもある。
※オスマン帝国※
かつて存在したテュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主
(皇帝)を戴く多民族帝国である。英語圏ではオットマン帝国
(Ottoman Empire) と表記される。
15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティ
ノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都と
した。17世紀のの最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大した。
東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクラ
イナ、ハンガリーに至る広大な領域に及んだ。
1551年
大寧寺の変。(天文20年9月1日)
大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられる。
1571年
織田信長が延暦寺を焼き討ち。(元亀2年9月12日)
1744年
オーストリア継承戦争。マドンナ・デル・オルモの戦い。
※オーストリア継承戦争(1740年-1748年)※
神聖ローマ皇帝位およびオーストリア大公国(ハプスブルグ帝国)の
継承問題を発端にヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。
カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した。
※マドンナ・デル・オルモの戦い※
またはクーネオの戦い。
オーストリア継承戦争中の1744年の今日、クーネオ近郊にて行われた
戦闘で、スペイン王国とフランス王国軍がサルデーニャ王国軍軍に勝利
したが、戦況を大きく変えることはなかった。
1791年
モーツァルトの最後のオペラ『魔笛』が初演。
1862年
プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクが議会で「鉄血演説」
を行う。
1862年9月、プロイセン議会は政府提出の軍備拡張を進める予算案を
否決、この窮状を打開するため国王ヴィルヘルム1世はビスマルクを
首相兼外相に任命、数日後ビスマルクは、下院予算委員会で議員を前
に軍備の必要性を訴える演説を行い、次のような言葉で締めくくった。
「ドイツが注目しているのは、プロイセンの、自由主義ではなく力なの
です。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは、それぞれの自由
主義を認めるでしょうが、それ故に、自身にプロイセンの役割を割り
当てることはないでしょう。
プロイセンは、その力を結集し、好機のために保持しなければなりません。
好機はすでに幾度も逃してきました。ウィーン条約後のプロイセンの国境
は、健全な国家生活にはふさわしくありません。
現下の大問題の解決は、演説や多数決によってではなく―これは1848年
および1849年の大きな欠陥でした―鉄と血によってなされるのです。」
これが後に「鉄血演説」と呼ばれることになり、この演説は小ドイツ主義自由
主義者が思い描く外交目標を代弁したものであったが、議会を軽視するもの
として大きな反発を招いた。
結果として議会は予算を承認しなかったが、ビスマルクは「予算不成立の場
合の措置は憲法に規定されていないが、予算不成立だからといって政府が
国家運営を停止させることは政府の職責上 不可能であり、それゆえに政府
は主権者であるプロイセン国王の負託に基づき国家運営を行うべきである」
とする空隙説を唱えて無予算統治に踏み切った。
以後、ビスマルクは「鉄血政策」と呼ばれる富国強兵・対外強硬策を推進して、
ドイツ統一へと邁進することになる。
※空隙説(くうげきせつ)※
プロイセンの法学者・政治家であるフリードリヒ・ユリウス・シュタール
が提唱したもので、プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクが軍制
改革を巡る無予算統治を正当化する論拠に用いたことで知られる。
シュタールとビスマルクは、「憲法は3つの立法権(国王、衆議院、貴族院)の同
格性を規定しており、いずれの立法権も他の立法権に譲歩を強制することはでき
ない。それゆえに憲法は三者が妥協して協調することを求めているのである。
立法権者の1つが妥協を崩した場合には争議が生じるが、争議は権力問題で
あり、一方で国家運営は一瞬たりとも停止するわけにはいかないので、その際
に立法権者は自己の意志で行動できるべきである。」として、主権者たる国王
には、憲法に明確な規定がないために起こるこのような空隙を埋める権力が
あると主張した。
ビスマルクは、憲法に国王と両議院のいずれもが予算に同意できない場合の
取り扱いが規定されておらず、だからといって予算不成立を理由に国家運営
を停止させるわけにはいかない以上、首相は主権者たる国王からの負託に
基づいて国家運営を行うべきと解釈していた。
ビスマルクは普墺戦争(ふおうせんそう、1866年に起こったプロイセン王国と
オーストリア帝国との戦争)中の1866年7月3日 (ケーニヒグレーツの戦い
があった日) に総選挙を行って議会を保守派勢力中心に塗り替えた。
ビスマルクを支持する自由保守党が最有力勢力となったこともあり、議会に
1862年から続けてきた無予算統治の事後承認を求める事後承認法を提出・
可決させて議会との和解を演出した。
事後承認法の採択は、ビスマルクと議会の間の妥協でもあった。
すなわち、ビスマルクは自らが築き上げたドイツの新たな国家体制について
議会の承認を得る代わりに、暗黙のうちに予算に関する議会の主権を認め
ることになったのである。
1863年
八月十八日の政変が起き、 7人の公家が京都から追放される。
(七卿落ち、文久3年8月18日)
1888年
切り裂きジャックが第3・第4の殺人。
1903年
アメリカの富豪ジョージ・モルガンが祇園の芸妓・加藤雪を身請け。
※加藤雪※
モルガンお雪。
明治14年(1881年)11月 - 昭和38年(1963年5月18日)
日本の芸妓。アメリカの大富豪、J.P.モルガンの甥と結婚したことで知ら
れる。芸妓名は「雪香」、洗礼名テレジア。
京都寺町の刀剣商・平助の娘と言われる。姉は祇園でお茶屋兼置屋『加藤楼』
を経営しており、その縁で14歳で芸妓となる。
店は京都の縄手新橋上ルにある外人専用の 「小野亭」で、当時外人用は格下
だった。歌舞に優れており、特に胡弓を得意とした。
1901年(明治34年)、当時30歳のアメリカ人の富豪ジョージ・デニソン・モル
ガン(George Denison Morgan. J・P・モルガンの甥)と出会い、求婚された。
モルガンは恋人と別れたばかりの失意の旅行中に日本に立ち寄り、お雪が
結婚に承諾するまでの4年間に3度来日した。
当時20歳のお雪には当時京都帝大に10歳年上の川上俊介(のち浪速
銀行東京支店長)という恋人がいたが、この騒動が新聞に掲載されたため
に破局、1904年(明治37年)1月20日、当時4万円(2018年現在の
8億円相当)という莫大な身請け金によりモルガンに引き取られ、横浜で
結婚。結婚は小林米珂(日本に帰化したイギリス人法律家)を媒酌人に
横浜領事館で行なわれ、「日本のシンデレラ」と呼ばれた。
ジョージとアメリカに渡るが、排日法によりアメリカへの帰化は許可され
なかった。1905年(明治38年)、モルガンとともに一時帰国するが、
「金に目がくらんだ女」などとマスコミに囃し立てられ、世間の好奇の目
は変わらなかった。
南禅寺橋にモルガンの別荘があり、日米の旗を掲げて滞在した。
2年ほど日本で暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社
交界で大変な評判を呼ぶ。
1915年(大正4年)、34歳のとき、夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。
その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)と
いう莫大な資産を得るが、米国籍を剥奪され、無国籍者となる。
欧州に渡り、フランスで悠々自適の生活を送る。
1916年(大正5年)、新しい恋人の陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・
タンダールとマルセイユに移り、同棲する。
結婚はせず、ジョージから受け継いだ莫大な遺産を、タンダールの学問援
助に費やす。タンダールと再婚しなかったのは、再婚すると遺産をモルガ
ン家に没収される可能性があったためではないかと言われている。
1931年(昭和6年)、タンダールが心臓麻痺で死去。
ニースの別荘で暮らす。
1938年(昭和13年)、第二次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化。
京都の家族の世話をするためニースを離れて帰国を決断。
同年4月24日に長崎港に到着した際には記者会見も行われた。
この時点では日本語が書けなくなっており、三味線の調子も小唄も忘
れたと語っている。 戦局が逼迫するとモルガン家からの送金も途絶え、
さらに国籍の無くなったままのお雪は特高警察に目を着けられて、
軍政下で財産を差し押さえられる。
日本敗戦後、遺産相続権を回復。71歳でキリスト教の洗礼を受け、
敬愛するリジュ―のテレジアにちなみ洗礼名をテレジアとする。
以後は一カトリック信者として紫野(京都市北区)の大徳寺門前の
小家に隠棲。ジョージの遺産のほとんどを衣笠の教会に寄附し、
のちに養女とした加藤なみゑとひっそりと暮らした。
1963年(昭和38年)、急性肺炎により死去。81歳。
三回忌の1965年にパリ市から姉妹都市である京都市へ「ユキサン」
と名付けられた新品種の白いバラが贈られた。
※※リジュ―のテレジア(1873年1月2日- 1897年9月30日)※※
あるいは幼きイエスの聖テレジア、小さき花のテレジアは、19世紀フランス
のカルメル会修道女。本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン。
修道名は「幼きイエスと尊き面影のテレーズ」。
カトリック教会の聖人にして教会博士の一人。若くして世を去ったが、その
著作は今日でも世界中で広く読まれ、日本でも人気のある聖人の一人。
マザーテレサ(コルコタの聖テレジア)の「テレサ」という修道名はテレーズ
の名からとられている。
※※※レオ1世の所でも出てきたが、教会博士とは、“キリスト教ローマ・
カトリック教会において、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解
において偉大な業績を残した人に送られる称号“だそうである。
若くしてこれを送られたという事は、相当頭良かったんだろう※※※
1917年
大正6年の高潮災害。台風通過と満潮の時刻が重なり、東京湾一帯の
住宅街が水没。東京府の溺死者500人以上。
1939年
ヴワディスワフ・シコルスキがポーランド亡命政府の初代首相に就任。
※ヴワディスワフ・エウゲニウシュ・シコルスキ※
(1881年5月20日-1943年7月4日)
ポーランドの政治家、軍人。ポーランド・ソビエト戦争時の「ヴィスワ川の奇跡」
の立役者。戦前と第二次世界大戦中の亡命政権で首相を務める。
ソ連を撃退し世界中に名を馳せた名将でありながら、いっぽうで一貫した
民主主義者かつ社会的な自由主義者で、あらゆる急進主義に反対した。
ピウスツキとも対立し、他の穏健主義者と共にモルジュ戦線を立ち上げ、
ポーランドの民主主義と穏健主義の伝統を守ろうと奔走した。
NBCが初めてアメフトの試合をテレビ放送する
1943年
第二次世界大戦。御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定。
絶対国防圏を定める。
1946年
財閥解体。三井、三菱、安田の3財閥が正式解散を決定。
1948年
昭和電工事件。栗栖ツネオ経済安定本部総務長官が逮捕。
水俣病でも出てきたよな、この会社・・・。
1950年
伊藤律会見報道事件。同年9月27日に掲載した伊藤律会見が虚偽報道で
あった事を朝日新聞が認める。
1954年
アメリカ海軍が建造した世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」が就役。
1962年
ジェームズ・メレディスがミシシッピ大学初の黒人学生として入学を果たす。
1969年
総武本線の無煙化達成。関東地方から蒸気機関車が消える。
1975年
昭和天皇が史上初めてアメリカ合衆国を公式訪問。10月14日まで。
AH-64、通称“アパッチ”が初飛行。
1984年
阪急のブーマー・ウェルズが日本プロ野球における外国人選手初の三冠王になる。
1985年
埼京線が開業、川越線が電化。両線の直通運転を開始。
1986年
イスラエルの元核兵器開発技術者で、核兵器開発の実態を内部告発した
モルデハイ・ヴァヌヌが、ローマでイスラエル諜報特務庁に拉致される。
※モルデハイ・ヴァヌヌ(1954年10月13日- )※
イスラエルの元核兵器開発技術者。モロッコ出身のユダヤ人。
ユダヤ教を棄教してキリスト教に改宗している。
1986年にイスラエルの核兵器開発の実態の詳細をイギリスの『サンデー・タイ
ムズ』紙に内部告発した。
彼はその後、紙面にて発表される数日前、アメリカ国籍のイスラエル諜報特務庁
の女性要員に色仕掛けでローマへ誘い出された後、同地で拉致されイスラエル
に秘密裏に連行され、裁判の末、反逆罪により有罪を宣告された。
イスラエル政府はヴァヌヌを連行した経路を明かさなかったが、ヴァヌヌは留置所
から裁判所への護送途中、取材陣に向かって、ペンで「私はローマから連行され
た」と走り書きした自らの掌を見せ、それが写真に撮影されたために拉致のルート
が明らかになった。
18年の獄中生活のうち独房での重禁固は11年超に及んだ後(これはギネスに
認定されている)、ヴァヌヌは2004年に釈放されたが、広範な言論および移動の
制限下にある。2007年にはアムネスティ・インターナショナルより「良心の囚人」
として認定されている。
これら制限に違反した容疑でその後も数回にわたり逮捕されており、その中には
複数回に及ぶ外国人ジャーナリストとの会見、またイスラエルからの国外逃亡の
企てが含まれる。
2005年3月には21件の「法的指令に対する違犯行為」により告訴されており、
それぞれの罪状ごとに最大2年の刑が科せられる可能性がある。
公判準備期間として釈放中ではあるものの、言論および移動制限は従前通り科せ
られている。
1988年から2004年までジョセフ・ロートブラットがノーベル平和賞の候補に推薦
していたほか、1987年のライト・ライブリフッド賞を初め様々な市民団体や個人か
らの平和賞を受けている。
2004年、アル・ハヤト紙紙において、ケネディ大統領暗殺事件にイスラエルが深く
関与していたこと、ディモナ原子力発電所の視察を恐れたダヴィド・ベン=グリオン
政権の「ほぼ確実な指示」の下で暗殺が行われたことを告発した。
1999年
東海村JCO臨界事故発生。
ドイツの作家ギュンター・グラスがノーベル文学賞を受賞。
(1927年10月16日 - 2015年4月13日、ドイツの小説家、劇作家、版画家、
彫刻家。代表作に『ブリキの太鼓』など)
2000年
第2次インティファーダ。
12歳だったムハンマド・アルデュッラーの殺害事件が起こる。
※ 第2次インティファーダ※
イスラエルに対するパレスチナの蜂起である。
イスラエルとパレスチナの和平を目指した2000年7月の会談で最終合意に失敗
したことが引き金とされ、イスラエルのアリエル・シャロンが神殿の丘に挑発
的に訪問したことで同年9月に勃発した。
訪問自体は平和的なものだったが、予想された通り、抗議や暴動が起こり、
イスラエル警察がゴム弾や催涙ガスで鎮圧した。
戦闘員だけでなく民間人にも多数の死傷者が出た。
イスラエルは銃撃、標的殺害、戦車攻撃と爆撃で戦い、パレスチナは自爆攻撃、
投石、銃撃、ロケット攻撃で対抗した。
非暴力的だった第1次インティファーダと対照的に、パレスチナの自爆攻撃が
際立った特徴だった。
戦闘員と民間人を含めた死者数は推定でパレスチナ3,000人、イスラエル
1,000人、外国人64人とされる。
2006年
日本の戦後初の国産旅客機YS-11が航空会社の定期便におけるラストフライトを行う。
2007年
日本で衛星アナログハイビジョンテレビの放送が終了。
2009年
スマトラ島沖地震が発生。
2009年9月30日10時16分9秒(UTC)にインドネシア、スマトラ島沖で発生
したモーメントマグニチュード7.5の地震である。
地震の種類としては2004年や2005年、2007年のスマトラ島沖地震(プレート
境界型)と異なり、海洋プレート内地震(スラブ内地震)となっている。
震源はスマトラ島パダン西北西60kmの海底で、深さは81km。
2009年10月2日現在、少なくとも1100人が死亡したとされ、1000人を超える
人々が建造物の下敷きになっていると考えられている。
また、本震翌日(現地時間10月1日午前8時52分25秒)には、スマトラ中央
部、ジャンビ州、スンガイペヌーの南東46kmの地点でマグニチュード6.6の地震
が起きている。震源の深さは15km。
地震動はインドネシア首都ジャカルタや、マレーシア、シンガポールでも感じられ
たという。
建物の倒壊と炎上が報告されていて、パダンでは複数のホテルが倒壊し、交通・
通信手段が麻痺し、倒壊した建物のため、延焼が起こり、地震によって市内90
万人の住民はパニックに陥り道路へ殺到したとされている。
AFP通信によると、高層ビルも地震の影響によって倒壊し、水道管が破壊され
街路に流れ出しているとされている。
2棟以上の病院、複数の学校施設が倒壊し、道路、橋なども損壊し、交通が遮
断されている。また、地すべりによって電線が切断され、炎上例も見られる。
パダンのミナンカバウ国際空港の屋根が崩落し、州の操縦士は空港に近づく
ことについて「難しい」と述べている。
空港は10月1日には復旧され、運航を再開した。
太平洋津波警報センターは津波警戒警報を発表したが、数時間後には解除され、
津波の報告や被害は伝えられていない。
2015年
シリア内戦にロシアが軍事介入
2022年
ロシアの大統領、ウラジーミル・プーチンによってウクライナの東部および
南部4州(ザボリージャ州、ドネツク州、ルハンシク州、ヘルソン州)の併合
が宣言される。
2023年、今日。
キムチで納豆卵かけご飯を食べる予定だったが、なぜかピザが食いたくなった。
よって昼、ピザを食べた。うまかった。
従って夜もピザでいく事にする。