今日10月31日Part2 “マルティン・ルターの宗教改革”について
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1517年 - マルティン・ルターが、ローマ教会の贖宥状の販売を糾弾する
「95ヶ条の論題」を教会の壁に貼り出す。
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95か条の論題
1517年10月31日にマルティン・ルターが発表したとされる文書である。
一般的には、ルターがこの文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたのが
宗教改革の発端になったとされており、カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判
したものだとされている。内容は序文と95か条の提題(テーゼン)から構成されてお
り、本来はラテン語で書かれていた。すぐに活版印刷によるドイツ語訳版がつくられ
て印刷され、ドイツ中に知れ渡ったとするのが定説である。
「95か条の論題」は、中近世のヨーロッパ史における重大事件である宗教改革の
契機になった文書として知られている。この文書はマルティン・ルターが1517年
10月31日に、自身が神学教授を務めているヴィッテンベルクの教会の門に貼り
だしたとされている。
文書は主に贖宥状の販売を糾弾する内容になっていたとされているが、実際には
ラテン語で書かれているために、一般市民には全く内容はわからないものだった。
通説では、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動で
あり、すぐさまドイツ語に印刷されて出回り、ドイツ中に大きな論争を巻き起こした
と説明される。しかし歴史家たちは、ルターがやったことは当時の学術界における
所定の手続きに則って討論会の告知を行っただけであったと指摘している。
この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考え
ていなかっただろうというのが現代の学術界の定説である。しかも、「門扉に文書
を貼った」という伝承が歴史的事実であるかどうかも結論が出ていない。
にもかかわらず、この文書が、突如として宗教改革を引き起こし、カトリックとプロ
テスタントを分裂させた端緒になったというイメージは、今も一般的である。
10月31日は宗教改革記念日となっており、ドイツのプロテスタント地方では休日
になっている。
通説による簡単な経緯と評価
一般的に、世界史の教科書では、「宗教改革」は1517年にマルティン・ルターが
「95か条の論題」をヴィッテンベルクの城教会の門に貼りだすことで始まった、と
されている。そしてその背景として、中世以来のカトリック教会の腐敗があり、贖宥
状の販売が引き金になったと説明される。
往々にして、このルターの行為は、一介の聖職者の身でありながら教会の組織と
権威に敢然と挑戦した雄渾な行動であったとして描かれる。
この「ルターによる教会批判」は瞬く間にドイツ中の知るところとなり、大きな論争
を巻き起こし、1560年頃のカトリックとプロテスタントの分裂や、イングランド国教
会の独立をもたらしたとされる。
すなわち、「宗教改革」は1517年に始まり、1560年頃に終わった、とするのが
世界史の教科書における一般的な解説である。
ルターが95か条の論題を掲示した日時は、1517年10月31日の夜中とされて
いる。翌11月1日はカトリック教会の万聖節という祝日であると共に、ヴィッテン
ベルク城教会の献堂記念日でもあった。
歴史学上の評価
しかしながら現代の歴史家や宗教史家は、こうした通説は宗教改革にまつわる
「神話」であり、後世に作られた見方ではないかと指摘している。この指摘に
よれば、「宗教改革」という用語が使われるようになったのは17世紀以降の
ことである。
この術語を用いたドイツの政治家ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ
(1626 - 1692)は、「ルターの教会批判」「ルターの宗教改革」などと表現し、
あくまでもルター個人の行動の範囲に限定する用語として用いた。
95ヶ条の論題によって始まったのは「ドイツの」宗教改革だとする文献もある。
ドイツ史研究家の松田智雄は、『世界の名著23 ルター』(中央公論社)のなか
で、「どの面から言っても、これが世界史の新しい時期を開くような、はなばなし
い開幕でなかったことだけは確かである」と評している。実際にはルター以外に
も宗教改革家は大勢いて、ルターと同時代の人々は「改革」の総てをルターに
帰すようには考えていなかった。改革は多元的に発生しており、多くの人物や
都市が関わっていた。
教会史家のベルント・メラー(1931 - )は、ルターを「偉大な賢人」「宗教改革の
指導者」と描写する「よくある記述」は、完全に作り上げられたものであると
批判した。この見解は多くの歴史家に支持されている。
しかしながら「ルター生誕500周年」を迎えた1983年には、ルターを「歴史上の
英雄の一人」「宗教改革を一人で成し遂げた人物」と扱う見方が依然として広汎
に存在していることが実証されてしまった。
文書の内容について
多くの研究者は、この文書の具体的な中身については詳しく述べていない。
ドイツの歴史家でルターの伝記を書いたリヒャルト・フリーデンタールによれば、
95か条は全体として「教理でも、体系でもなく、また、そのようなものではありえ
なかった」。これは議論をするためのメモ書き程度のものであり、「多くの提題は
ほとんど独り言」のようなものだった。ところによっては標語のようなものであっ
たり、形になっていないものもあった。
ルターは、多くの民衆が言っていたことを1枚の紙にとりまとめただけであり、
その最初と最後にルターの名前があるという以外に、文書全体を貫く思想とい
えるほどのものは無かった。しかしそのことがかえって、多くの階層の様々な
人物に、自由な解釈を可能にしたとも考えられている。与えた影響として重要
だったのは、論題の中身というよりは、ルターの意図には反していたかもしれ
ないが、教会に対する批判を公言してもよいのだ、ということだった。後述す
るように問題が大きくなっていった頃には、既にこの文書の中身や文言が
問題ではなくなっており、ルターの当初の意図とは全くかけはなれた状況と
なっていったのである。
これとは異なる見解を示す者もいる。
松田智雄によれば、「論旨は純粋に教義の問題としてとりあげられ、論じられて
いる」。中には現実的な提題も含まれているものの、全体としては教会法や教義
を論じたもので、とくに「許し」は教会法や贖宥状では得られるものではなく神の
意志によるものだ、という考えが貫かれているとしている。
『宗教改革小史』の著者K.G.アッポルドは、「贖宥の商業化を真正面から攻撃」
するものだった、としている。
しかしルターは、この「95ヶ条の論題」の中では、贖宥状そのものを完全否定した
わけではなく、一定の範囲では肯定している。贖宥状を購入して贖宥を受けられ
る事自体は認めているし、教皇を批判しているわけでもない。その贖宥が適用で
きる範囲が限定的であることを確認しているだけである。
「95ヶ条の論題」で書かれた内容は、のちにルター自身が考えを変えたものも
少なくない。たとえば「95ヶ条の論題」では煉獄そのものは否定されておらず、
贖宥状の効果が煉獄までは及ばないとしているだけであるが、後にルターは
煉獄そのものの存在を否定するようになった。
ルターの著作のうち、内容面で宗教改革運動の理論に影響をあたえたのは、
のちに著した「宗教改革三大論文」と呼ばれる『ドイツ国民のキリスト教貴族に
与える』『教会のバビロン捕囚について』『キリスト者の自由』である。
「掲示」の意味と意義
(『世界の歴史12ルネサンス』による日本語訳(大意))
真理に対する愛から、
私は以下の箇条について
討論することを求めたい。
それに出席することができない人は
書面でもって論じてもらいたい。
我らが主イエス・キリストの聖名において、アーメン。
教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった
ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に「95か条の論題」を貼りだしたのは
1517年10月31日の夜中である。翌11月1日はカトリック教会の万聖節と
城教会の献堂記念日とにあたっており、この貼り紙は祭りに集まる人々の目に
留まることになる。
このように、公の場で、壁新聞のように多くの人の目に触れるようなやり方で教会
を告発してみせたというのは、現代の読者には果敢な行動であるという印象を与
える。しかし実際には、これは当時としては極めて一般的な出来事だった。
当時のヴィッテンベルクの人口は2000人程度である。
人口規模は大きくないが、ザクセン選帝侯の本城であると共に、1502年に開設
されたばかりのヴィッテンベルク大学があった。町の西端にある選帝侯の居城に
隣接して城教会があり、その門は日常的に大学の掲示板として利用されていた。
ヴィッテンベルク大学の神学博士だったルターが掲示した文書は、全編にわたっ
てラテン語で書かれており、一般市民には読めないものであった。つまり、ルター
はこの文書を以って一般市民に問題提起しようという意図は全く無かった。
掲示板にこうした文書を貼りだすのは、当時の神学者が公開討論を申し入れる際
の所定の手続きであり、その決め事に沿った定型的な行動に過ぎない。
こうした公開討論は、当時の神学者が修練の一環として日常的に行っていたもの
で、特別なものではない。
討論を行いたい者は、議論のテーマをラテン語でまとめ、討論の希望日時や場所
を明記して掲示板に貼るというのが、決められた手順だった。
そしてこの手順では、討論を申し入れた者は、掲出したのと同じ文書を聖職者とし
ての上司・関係者に対して送付する義務がある。写しを複数必要とするがゆえに、
この文書は当時普及し始めたばかりの活字を用いて紙に印刷されたものだった。
ルターは手順にしたがって、この文書を当時のドイツの首座司教であるマインツ
大司教にも送っている。
ところが当時のマインツ大司教アルブレヒトこそ、ローマ教皇やフッガー家と結託し、
問題となっている贖宥状を売って利益をあげている張本人だった。これは偶然であ
り、ルター本人も自分が批判しようとしている贖宥状の利益がマインツ大司教アル
ブレヒトの懐に入る仕組みになっているとは知らないままに文書を送付したと考えら
れている。ルターはマインツ大司教にこの文書を送るにあたり、「私の最良の父、
私の牧者」と呼びかけている。これについて、19世紀のイギリス女王ヴィクトリアが
「アルブレヒトはさぞや面白くないことだったであろう」と評したと伝わっている。
宗教界は当初、あまり問題視しなかった
ルターが95か条の論題を貼りだしたのは、多くの一般市民に教会の不正を周知
する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかった。ルターはアウグ
スティヌス修道会に属しており、ルターが討論を呼びかけた相手方はドミニコ修道
会だった。ドミニコ修道会こそ、贖宥状の販売を請け負ってドイツ中で売りさばいて
いた張本人だったからである。
しかしルターによる呼びかけにもかかわらず、ドミニコ修道会との討論会は実現し
なかった。当時のヴィッテンベルクの支配者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリード
リヒは、領内での贖宥状を禁じる目的でドミニコ会修道士を領地から全員追放して
いた。ドミニコ会修道士はそもそもヴィッテンベルクに立ち入ることができなかった
のである。
ルターから「論題」の写しを受け取ったマインツ大司教アルブレヒトは、これをマイン
ツ大学に委ね、周囲にはこの件について一切の言及を禁じた。そのうえで自分の
上席にあたる人物、すなわちローマ教皇レオ10世へ文書を回送した。アルブレヒト
はこれによって、この件についての自己の責任を免れると考えた。そしてレオ10世
こそ問題の贖宥状の販売の総元締めである。
そのレオ10世は、当時の大多数の人々と同じように、これをアウグスティヌス修道
会とドミニコ修道会の小競り合いに過ぎず、「修道士どもの口喧嘩」程度のことと考え
ていた。ルターは「酔っぱらいのドイツ人」であり、しらふに戻れば違うことを言うだろ
うと評したとも伝えられている。
この時点でのルターの主張は要するに、誤りを犯しているドミニコ修道会に対し、
正しいカトリックの教義を説こうとしているものだった。レオ10世はアウグスティヌス
修道会のドイツの長ヨハン・フォン・シュタウピッツにこの件を委ねることにした。
シュタウピッツはルターの主張に理解を示し、1518年4月25日に開かれる修道会
の総会で議題にするように提案した。
そのほかの聖職者たちも、表立った反応はさし控えた。
ブランデンブルク司教のシュルツのところにもルターから文書が届いたが、シュルツ
は読みさえしなかった。それでいてルターに自筆で親切な返事を書き、ルターの主張
にはカトリックの教義に反するものは見受けられないし、贖宥状の販売は自分も嘆か
わしいと感じるが、今は口を噤んでおいたほうがいいだろう、と伝えている。
シュルツには、とにかくルターのいるザクセンとマインツ大司教の本拠であるブラン
デンブルクの対立に発展するのを避けたいという思いしか無かったと考えられている。
活版印刷術とドイツへの拡散
ところが、何者かがこの文書をドイツ語に翻訳した。
ヴィッテンベルク大学の学生の仕業だとも言われている。それがバーゼル、ニュル
ンベルク、ライプツィヒの印刷業者のもとへ持ち込まれ、当時普及し始めた活版印
刷によって複製された。これが短い間にドイツの各地に広がっていき、さらにドイツ
語以外にも翻訳されてヨーロッパ中に伝えられた。ルターはこれを「天使ご自身が
飛脚であったかのごとくに、14日間のうちに早くも全キリスト教界を一巡した」と
評した。なお、このとき3箇所で印刷されたラテン語の文書はそれぞれ300部ほ
どが出回ったと考えられているが、そのほとんどは現存しない。
ニュルンベルク版は1891年にベルリンの学芸員がロンドンの古本屋で発見し、
現在はベルリンに収蔵されている。このニュルンベルク版には、冒頭部に「真理に
対する愛から、」で始まる長い題名が付けられている。バーゼル版では文書にラテ
ン語で「Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(贖宥の効力を明らか
にするための討論)」という題名が付け加えられている。各地の文書はいずれも無
記名であり、出版者は不詳である。
このように、新技術である活版印刷術がルターの主張の普及に重要な役割を果た
した、という見方は多くの歴史家たちが支持している。とは言っても、当時のドイツ
の識字率は平均して4パーセントから5パーセント程度だった。当時の人口とル
ターの出版物の出版数の推計から逆算すると、実際にルターの著作物を手にした
のは43人に1人程度に過ぎなかった。当時活躍したのは、図像や平易な韻文入
りの木版画によるパンフレットと、説教師である。印刷物が果たした役割はそうした
説教師を感化するところにあった。
各界の反応とルターの対応
この結果として、ルターの言説は大反響を巻き起こした。
しかし、純粋に学問的な討論を呼びかけたに過ぎないルターにとっては、これは
予想外のことだった。しかし肝心の神学者たちからはほとんど無視された格好に
なり、ルターが望んだ学術的討論は実現しなかった。
ルターが名指しで批判したドミニコ修道会だけは敏感に反応した。
ルターには関係無いのだが、ドミニコ修道会には以前から敵がいて、自分たちは
攻撃を受けて迫害されていると考えていた。そこへ新たにルターという敵が増え
たという格好になっており、深刻な事態だと受け止めたのである。
1518年1月20日、オーデル川のフランクフルトで開かれた修道士の総会で、
ドミニコ修道会士で異端審問官でもあるヨハン・テッツェルがルターに反発して
贖宥を認める論文を発表し、ルターを火刑にすべきだと気勢をあげた。
一方のアウグスティヌス修道会では4月25日の総会でルターが演説した。
この総会にはブツァーやブレンツも出席しており、ルターに感銘を受けた彼らは
のちに宗教改革の指導者となる。
当時の人々は、これを単なるドミニコ修道会とアウグスティヌス修道会のいつも
の小競り合いだとみなして、面白おかしく眺めていた。修道会そのものをよく思わ
ない人々は、「修道会同士の喧嘩」を煽り立て、嘲笑し、対立の火が燃え上がる
のを愉快に見物していた。
この間、肝心の神学者たちからほとんど反応がなかったことに立腹したルターは、
贖宥状の売り手を追撃するような小論『贖宥と恩恵とについての説教』を刊行した。
「95ヵ条の論題」と大きく違うのは、これがドイツ語で書かれたということである。
このことはこの『説教』が、「論題」のように学者向けのものではなく、一般庶民向け
に書かれたことを意味している。『説教』は20ヵ条に絞られていて、表現はより鮮
明で過激になっていた。この中でルターは、相手方を「聖書の匂いをかいだことも
ない(中略)鈍い頭脳の持ち主」と攻撃した。
この『説教』は20種類以上の版が作られたことがわかっている。
贖宥状批判の背景
贖宥状の歴史
一般的に贖宥状の発行は十字軍のときに遡るとされている。
当初、贖宥状の発行は、十字軍のときか、100年に1度、とかなり限定されていた。
その効能も限定的であり、「教会が定めた罰」をいくらか減免させるというものだった。
ところがそのうち贖宥状の発行は50年に一度、33年に一度、25年に一度というふ
うに間隔が短くなっていき、やがて頻繁に発行されるようになった。特に15世紀後
半のシクストゥス4世は、贖宥状を乱発すると同時に、その効能を現世での罰の減
免だけでなく、煉獄にいるぶんにまで対象であると拡大した。
こうした贖宥状を批判したのはルターが初めてではない。
14世紀にはウィクリフ、15世紀にはフスが贖宥状の販売を批判している。
レオ10世の贖宥状のからくり
ルターの批判の対象になったレオ10世による贖宥状は「聖ペテロ大聖堂の再建
費用を集める」という名目で発行されていた。が、実はその本当の使途は違って
いた。この贖宥状の売上は、最終的にはフッガー家という金貸しのところに入るこ
とになっていた。
これはローマ教皇レオ10世と、マインツ大司教アルブレヒトの借金返済のための
ものだった。ただし、当のルターはそのような仕組みは全く知らなかった。
一般庶民と同じように、「大聖堂の再建」に使われると考えていた。
ザクセン選帝侯と贖宥状
当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、レオ10世とドミニコ修道会の贖宥状販
売には異を唱え、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した。と言っても、ザクセン
選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのはルターのような敬虔さからくる動機ではなく、
領内の経済を慮ってのことだったと考えられている。
ザクセン選帝侯自身、以前はさかんに贖宥状を販売していて、その売上で聖遺物を
収集していた。ザクセン選帝侯の聖遺物コレクションは当時のヨーロッパを代表する
ものであり、聖遺物を拝むことは、それだけで贖宥になるとされていたので、各地か
ら参拝のために巡礼者が集まってきていた。
巡礼者が領内で費やす金はザクセン選帝侯領内の経済を潤していたのだが、贖宥
状の販売はこれを妨げる危険性があった。また、領民が稼いだ金が、贖宥状の売上
としてローマに送られるということは、ザクセン選帝侯領の富がローマへ流失してい
ることにほかならなかった。当時のドイツは「ローマの雌牛」(乳を絞られる存在)と蔑
まれており、ドイツ諸侯はこれを苦々しく思っていた。
この贖宥状はドミニコ修道会の修道士が販売を請け負っていたので、ザクセン選帝
侯はドミニコ会の修道士を全員領内から追放したのだった。しかしテッツェルはザク
セン領地のギリギリまで行って贖宥状販売を行ったので、ザクセンの領民の中から
も数多くの者が贖宥状を買いに行った。
贖宥状批判を突然始めたわけではない
ルターは、アウグスティヌス修道会出身で、ヴィッテンベルク大学に招かれ、そこ
で神学博士号を取得した人物である。自身の体験に基づく一風変わった授業を
行い、ヴィッテンベルク大学の神学講義の改革を行っており、学内では有名な
人物だった。しかしこの時点ではドイツ全体としてはまだ無名の存在だった。
ルターは掲示を貼りだす以前から、贖宥状批判を繰り返していた。
記録の残るところでは、1516年7月27日の説教で贖宥状の有効性に疑問を呈し、
これが招く倫理の退廃を指摘している。これはちょうどテッツェル一行がザクセン領
にもっとも近づいた時期である。
ザクセン領を出て贖宥状を買い求めてきた庶民たちは、贖宥状売りの様子をルター
に話して聞かせた。それはルターを怒らせるものだったという。
ルターが「掲示」を行ったのは、それから1年3か月後のことである。
10月31日当日の昼間の説教でも、ルターはこの問題を発言していたという。
本当に「掲示」されたのか?
数百年にわたる無数の研究にもかかわらず、1517年10月31日にルターが本当
にこのような文書を掲示したのか、その事実性には論争があって解決していない。
日付が違うという説もあれば、ルター自身が自分で門に打ち付けたのか、人にやら
せたのかという議論もある。
同時代の史料で、この出来事を伝える唯一の情報源は、ルターの同僚だったフィリ
ップ・メランヒトン(1497-1560)によるものである。ルターが1546年2月に死去して
から3か月後に刊行されたルターの著作集第2巻(1546年)の序文の中で、メラ
ンヒトンは、ルターが門扉に95か条の論題を掲示したと述べている。
しかし他の証拠はない。
ルターが1517年10月31日に張り出したとされる文書が印刷されたものであった
と伝えられているが、実際にそうであったのか、手書きのものだったのかもわかって
いない。一般に当時の大学の掲示板に貼りだされる文書は、手書き、印刷どちらの
可能性もある。いずれにせよその原本も、印刷前の版も現存しない。
現存するのは、マインツ大司教アルブレヒトを経由してローマ教皇レオ10世に送ら
れたものだけである。ただしその中身は、1517年末にライプツィヒで印刷されたコピ
ーと同じである。
実際に門に貼りだしたかどうかや正確な日付はわからないが、いずれにせよこの時
期にルターがこの文書を公表したことは確からしい。
ルターの意図は?
上述の通り、ルターはそもそも公に教会を攻撃することを意図していたわけではなか
った。ルターは神学者との討論を呼びかけただけであり、その討論を通じて、教会の
枠内での穏やかな改革を意図していた。だから、意図とは違う形で一般庶民を中心
に大騒ぎになってしまった直後、ルターはブランデンブルク司教に対して、主張の訂
正を行い、全面的な撤回すらほのめかしている。
しかしルターの意図とは裏腹に、「贖宥状批判」はドイツ中に知れ渡ったとされる。
現代でも一般的には「ルターが贖宥状批判を行った」とされている。しかし、ルターが
95ヵ条の提題を通じて論じようとしたのは、純粋な神学上の教理であった。
95ヵ条は全体として体系的でもないし、大半はルターの「独り言」のような文言だった。
贖宥状販売の問題はその中のほんの一部にすぎなかった。
ルターが特に議論を望んだのは、贖宥状の販売そのものではなく、救済と良心の
概念についてだった。教理では、告解、悔悛の後に罰が与えられ、その罰が贖宥
されるという手順であって、告解や悔悛を省いて贖宥にたどり着くはずはない。
だからルターは贖宥状を販売する教会を批判しただけではなく、贖宥状を購入す
る民衆も批判した。
しかし実際には、ルター自身は贖宥状について直接見聞きしたことはなく、すべて
贖宥状を買った庶民からの又聞きでしかなかった。贖宥状を売りまわったドミニコ
会修道士テッツェルが謳い文句にしていたという「グルデン金貨がチャリンと言えば
たちまち魂は天国へポンと飛び上がる」という口上は、実際にテッツェルが言ったも
のではなく、ルターが「テッツェルはこう言っているらしい」として述べたものだった。
そしてルターはこの贖宥状のからくりまでは知らなかった。
マインツ大司教アルブレヒトのこともよく知らなかったし、まして教皇レオ10世のこ
とは知らず、彼らがこの贖宥状の販売を企画した張本人であることは知らなかった。
ルターは、レオ10世は善良なる聖職者であり、無垢な教皇が悪い部下に騙されて
いるのだと信じきっていた。
実際のところ、マインツ大司教もローマ教皇も、神学者として教理に通じた人物では
なかった。マインツ大司教アルブレヒトはホーエンツォレルン家の王子で金で地位を
買っただけであり、メディチ家の人物であるローマ教皇レオ10世は外交に長けてい
たが神学者ではなかった。
だから彼らのところに文書が回ってきても自力で判断することはできず、専門の神学
者に回して意見を聞くしかなかった。
当時はそもそも「贖宥」については神学の中でしっかりと位置づけられてはいなかった。
アウグスティヌス修道院でルターに神学を教えた聖職者たちも贖宥については知識
をもっていなかった。
「贖宥」と「免罪」
ルターは、贖宥の概念について学術的な討議を求めていた。
本来「贖宥」というのは、人が犯した「罪」に応じて、教会が人に与えた「罰」のうち、
そのいくらかを免除するというものだった。ルターの考えでは、カトリックの教理の
なかでは、贖宥によって免じられるのは「罰」であって、「罪」自体が免れるわけで
はない。しかも教会が免じることができるのは、あくまでも教会が定めた「罰」のみ
であって、神が与えた「罰」は免じることができないはずである。
ところが、この贖宥状を売っている連中は、ありとあらゆる罪が無くなるかのような
ことを言っており、ひどいものでは「あらかじめ贖宥状を買っておくと、そのあと悪事
を行っても大丈夫」というような売り口上すらあったという。これはカトリックの教理
に反しているはずであり、そこを議論ではっきりさせたい、というのがルターの主張
だった。
贖宥状の有効な対象が適切な部分に留まっているならば、それは教理に適合して
いるのであり、ルターは贖宥状が全て不適切だと批判したわけではなかった。
ただし実際問題としては、贖宥の概念についてそこまで詳しく理解している聖職者
は当時ほとんどおらず、修道会におけるルターの師はもちろん、大司教や教皇で
さえも、こうした教理を精確に知っているものはほとんどいなかった。
大衆は「罪」と「罰」の区別もついておらず、贖宥状売りの口上を鵜呑みにしている
だけだった。
その後
1518年の秋、教皇庁やザクセン選帝侯のとりなしで、カトリック教会とルターの
討論が内々で行われた(アウクスブルク審問)。
しかし両者の主張は並行のままに終わった。
この話し合いの後、アウグスティヌス修道会のシュタウピッツはルターを修道会
から退会させることにした。これによってアウグスティヌス修道会に対する責任
問題を回避するとともに、ルターが自由に活動できるようにしたのである。
翌1519年にはライプツィヒ討論が行われる。
この討論会は決裂に終わったが、カトリック側はルターを異端とする言質をとる
ことに成功した。ルターは教会批判の急先鋒とみなされるようになり、ローマ教
皇はルターを異端として破門した。この観点では、討論会はルター側の敗北と
みられたが、その後の影響を考えると、かえってルターにドイツの注目が集まる
ことになった。
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