DAY by DAY

日々の出来事、覚書

10月31日-2

2023-10-31 22:00:02 | 日記

今日10月31日Part2 “マルティン・ルターの宗教改革”について

 

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1517 - マルティン・ルターが、ローマ教会の贖宥状の販売を糾弾する

95ヶ条の論題」を教会の壁に貼り出す。

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95か条の論題

1517年10月31日にマルティン・ルターが発表したとされる文書である。

 

一般的には、ルターがこの文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたのが

宗教改革の発端になったとされており、カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判

したものだとされている。内容は序文と95か条の提題(テーゼン)から構成されてお

り、本来はラテン語で書かれていた。すぐに活版印刷によるドイツ語訳版がつくられ

て印刷され、ドイツ中に知れ渡ったとするのが定説である。

 

「95か条の論題」は、中近世のヨーロッパ史における重大事件である宗教改革の

契機になった文書として知られている。この文書はマルティン・ルターが1517年

10月31日に、自身が神学教授を務めているヴィッテンベルクの教会の門に貼り

だしたとされている。

 

文書は主に贖宥状の販売を糾弾する内容になっていたとされているが、実際には

ラテン語で書かれているために、一般市民には全く内容はわからないものだった。

通説では、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動で

あり、すぐさまドイツ語に印刷されて出回り、ドイツ中に大きな論争を巻き起こした

と説明される。しかし歴史家たちは、ルターがやったことは当時の学術界における

所定の手続きに則って討論会の告知を行っただけであったと指摘している。

 

この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考え

ていなかっただろうというのが現代の学術界の定説である。しかも、「門扉に文書

を貼った」という伝承が歴史的事実であるかどうかも結論が出ていない。

 

にもかかわらず、この文書が、突如として宗教改革を引き起こし、カトリックとプロ

テスタントを分裂させた端緒になったというイメージは、今も一般的である。

10月31日は宗教改革記念日となっており、ドイツのプロテスタント地方では休日

になっている。

 

通説による簡単な経緯と評価

一般的に、世界史の教科書では、「宗教改革」は1517年にマルティン・ルターが

「95か条の論題」をヴィッテンベルクの城教会の門に貼りだすことで始まった、と

されている。そしてその背景として、中世以来のカトリック教会の腐敗があり、贖宥

状の販売が引き金になったと説明される。

 

往々にして、このルターの行為は、一介の聖職者の身でありながら教会の組織と

権威に敢然と挑戦した雄渾な行動であったとして描かれる。

この「ルターによる教会批判」は瞬く間にドイツ中の知るところとなり、大きな論争

を巻き起こし、1560年頃のカトリックとプロテスタントの分裂や、イングランド国教

会の独立をもたらしたとされる。

 

すなわち、「宗教改革」は1517年に始まり、1560年頃に終わった、とするのが

世界史の教科書における一般的な解説である。

 

ルターが95か条の論題を掲示した日時は、1517年10月31日の夜中とされて

いる。翌11月1日はカトリック教会の万聖節という祝日であると共に、ヴィッテン

ベルク城教会の献堂記念日でもあった。

 

歴史学上の評価

しかしながら現代の歴史家や宗教史家は、こうした通説は宗教改革にまつわる

「神話」であり、後世に作られた見方ではないかと指摘している。この指摘に

よれば、「宗教改革」という用語が使われるようになったのは17世紀以降の

ことである。

 

この術語を用いたドイツの政治家ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ

(1626 - 1692)は、「ルターの教会批判」「ルターの宗教改革」などと表現し、

あくまでもルター個人の行動の範囲に限定する用語として用いた。

95ヶ条の論題によって始まったのは「ドイツの」宗教改革だとする文献もある。

 

ドイツ史研究家の松田智雄は、『世界の名著23 ルター』(中央公論社)のなか

で、「どの面から言っても、これが世界史の新しい時期を開くような、はなばなし

い開幕でなかったことだけは確かである」と評している。実際にはルター以外に

も宗教改革家は大勢いて、ルターと同時代の人々は「改革」の総てをルターに

帰すようには考えていなかった。改革は多元的に発生しており、多くの人物や

都市が関わっていた。

 

教会史家のベルント・メラー(1931 - )は、ルターを「偉大な賢人」「宗教改革の

指導者」と描写する「よくある記述」は、完全に作り上げられたものであると

批判した。この見解は多くの歴史家に支持されている。

 

しかしながら「ルター生誕500周年」を迎えた1983年には、ルターを「歴史上の

英雄の一人」「宗教改革を一人で成し遂げた人物」と扱う見方が依然として広汎

に存在していることが実証されてしまった。

 

文書の内容について

多くの研究者は、この文書の具体的な中身については詳しく述べていない。

ドイツの歴史家でルターの伝記を書いたリヒャルト・フリーデンタールによれば、

95か条は全体として「教理でも、体系でもなく、また、そのようなものではありえ

なかった」。これは議論をするためのメモ書き程度のものであり、「多くの提題は

ほとんど独り言」のようなものだった。ところによっては標語のようなものであっ

たり、形になっていないものもあった。

 

ルターは、多くの民衆が言っていたことを1枚の紙にとりまとめただけであり、

その最初と最後にルターの名前があるという以外に、文書全体を貫く思想とい

えるほどのものは無かった。しかしそのことがかえって、多くの階層の様々な

人物に、自由な解釈を可能にしたとも考えられている。与えた影響として重要

だったのは、論題の中身というよりは、ルターの意図には反していたかもしれ

ないが、教会に対する批判を公言してもよいのだ、ということだった。後述す

るように問題が大きくなっていった頃には、既にこの文書の中身や文言が

問題ではなくなっており、ルターの当初の意図とは全くかけはなれた状況と

なっていったのである。

 

これとは異なる見解を示す者もいる。

松田智雄によれば、「論旨は純粋に教義の問題としてとりあげられ、論じられて

いる」。中には現実的な提題も含まれているものの、全体としては教会法や教義

を論じたもので、とくに「許し」は教会法や贖宥状では得られるものではなく神の

意志によるものだ、という考えが貫かれているとしている。

 

『宗教改革小史』の著者K.G.アッポルドは、「贖宥の商業化を真正面から攻撃」

するものだった、としている。

しかしルターは、この「95ヶ条の論題」の中では、贖宥状そのものを完全否定した

わけではなく、一定の範囲では肯定している。贖宥状を購入して贖宥を受けられ

る事自体は認めているし、教皇を批判しているわけでもない。その贖宥が適用で

きる範囲が限定的であることを確認しているだけである。

 

「95ヶ条の論題」で書かれた内容は、のちにルター自身が考えを変えたものも

少なくない。たとえば「95ヶ条の論題」では煉獄そのものは否定されておらず、

贖宥状の効果が煉獄までは及ばないとしているだけであるが、後にルターは

煉獄そのものの存在を否定するようになった。

 

ルターの著作のうち、内容面で宗教改革運動の理論に影響をあたえたのは、

のちに著した「宗教改革三大論文」と呼ばれる『ドイツ国民のキリスト教貴族に

与える』『教会のバビロン捕囚について』『キリスト者の自由』である。

 

「掲示」の意味と意義

(『世界の歴史12ルネサンス』による日本語訳(大意))
真理に対する愛から、

私は以下の箇条について
討論することを求めたい。
それに出席することができない人は
書面でもって論じてもらいたい。
我らが主イエス・キリストの聖名において、アーメン。

 

教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった

ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に「95か条の論題」を貼りだしたのは

1517年10月31日の夜中である。翌11月1日はカトリック教会の万聖節と

城教会の献堂記念日とにあたっており、この貼り紙は祭りに集まる人々の目に

留まることになる。

 

このように、公の場で、壁新聞のように多くの人の目に触れるようなやり方で教会

を告発してみせたというのは、現代の読者には果敢な行動であるという印象を与

える。しかし実際には、これは当時としては極めて一般的な出来事だった。

 

当時のヴィッテンベルクの人口は2000人程度である。

人口規模は大きくないが、ザクセン選帝侯の本城であると共に、1502年に開設

されたばかりのヴィッテンベルク大学があった。町の西端にある選帝侯の居城に

隣接して城教会があり、その門は日常的に大学の掲示板として利用されていた。

 

ヴィッテンベルク大学の神学博士だったルターが掲示した文書は、全編にわたっ

てラテン語で書かれており、一般市民には読めないものであった。つまり、ルター

はこの文書を以って一般市民に問題提起しようという意図は全く無かった。

 

掲示板にこうした文書を貼りだすのは、当時の神学者が公開討論を申し入れる際

の所定の手続きであり、その決め事に沿った定型的な行動に過ぎない。

こうした公開討論は、当時の神学者が修練の一環として日常的に行っていたもの

で、特別なものではない。

 

討論を行いたい者は、議論のテーマをラテン語でまとめ、討論の希望日時や場所

を明記して掲示板に貼るというのが、決められた手順だった。

そしてこの手順では、討論を申し入れた者は、掲出したのと同じ文書を聖職者とし

ての上司・関係者に対して送付する義務がある。写しを複数必要とするがゆえに、

この文書は当時普及し始めたばかりの活字を用いて紙に印刷されたものだった。

ルターは手順にしたがって、この文書を当時のドイツの首座司教であるマインツ

大司教にも送っている。

 

ところが当時のマインツ大司教アルブレヒトこそ、ローマ教皇やフッガー家と結託し、

問題となっている贖宥状を売って利益をあげている張本人だった。これは偶然であ

り、ルター本人も自分が批判しようとしている贖宥状の利益がマインツ大司教アル

ブレヒトの懐に入る仕組みになっているとは知らないままに文書を送付したと考えら

れている。ルターはマインツ大司教にこの文書を送るにあたり、「私の最良の父、

私の牧者」と呼びかけている。これについて、19世紀のイギリス女王ヴィクトリアが

「アルブレヒトはさぞや面白くないことだったであろう」と評したと伝わっている。

 

宗教界は当初、あまり問題視しなかった

ルターが95か条の論題を貼りだしたのは、多くの一般市民に教会の不正を周知

する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかった。ルターはアウグ

スティヌス修道会に属しており、ルターが討論を呼びかけた相手方はドミニコ修道

会だった。ドミニコ修道会こそ、贖宥状の販売を請け負ってドイツ中で売りさばいて

いた張本人だったからである。

 

しかしルターによる呼びかけにもかかわらず、ドミニコ修道会との討論会は実現し

なかった。当時のヴィッテンベルクの支配者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリード

リヒは、領内での贖宥状を禁じる目的でドミニコ会修道士を領地から全員追放して

いた。ドミニコ会修道士はそもそもヴィッテンベルクに立ち入ることができなかった

のである。

 

ルターから「論題」の写しを受け取ったマインツ大司教アルブレヒトは、これをマイン

ツ大学に委ね、周囲にはこの件について一切の言及を禁じた。そのうえで自分の

上席にあたる人物、すなわちローマ教皇レオ10世へ文書を回送した。アルブレヒト

はこれによって、この件についての自己の責任を免れると考えた。そしてレオ10世

こそ問題の贖宥状の販売の総元締めである。

 

そのレオ10世は、当時の大多数の人々と同じように、これをアウグスティヌス修道

会とドミニコ修道会の小競り合いに過ぎず、「修道士どもの口喧嘩」程度のことと考え

ていた。ルターは「酔っぱらいのドイツ人」であり、しらふに戻れば違うことを言うだろ

うと評したとも伝えられている。

 

この時点でのルターの主張は要するに、誤りを犯しているドミニコ修道会に対し、

正しいカトリックの教義を説こうとしているものだった。レオ10世はアウグスティヌス

修道会のドイツの長ヨハン・フォン・シュタウピッツにこの件を委ねることにした。

シュタウピッツはルターの主張に理解を示し、1518年4月25日に開かれる修道会

の総会で議題にするように提案した。

 

そのほかの聖職者たちも、表立った反応はさし控えた。

ブランデンブルク司教のシュルツのところにもルターから文書が届いたが、シュルツ

は読みさえしなかった。それでいてルターに自筆で親切な返事を書き、ルターの主張

にはカトリックの教義に反するものは見受けられないし、贖宥状の販売は自分も嘆か

わしいと感じるが、今は口を噤んでおいたほうがいいだろう、と伝えている。

 

シュルツには、とにかくルターのいるザクセンとマインツ大司教の本拠であるブラン

デンブルクの対立に発展するのを避けたいという思いしか無かったと考えられている。

 

活版印刷術とドイツへの拡散

ところが、何者かがこの文書をドイツ語に翻訳した。

ヴィッテンベルク大学の学生の仕業だとも言われている。それがバーゼル、ニュル

ンベルク、ライプツィヒの印刷業者のもとへ持ち込まれ、当時普及し始めた活版印

刷によって複製された。これが短い間にドイツの各地に広がっていき、さらにドイツ

語以外にも翻訳されてヨーロッパ中に伝えられた。ルターはこれを「天使ご自身が

飛脚であったかのごとくに、14日間のうちに早くも全キリスト教界を一巡した」と

評した。なお、このとき3箇所で印刷されたラテン語の文書はそれぞれ300部ほ

どが出回ったと考えられているが、そのほとんどは現存しない。

 

ニュルンベルク版は1891年にベルリンの学芸員がロンドンの古本屋で発見し、

現在はベルリンに収蔵されている。このニュルンベルク版には、冒頭部に「真理に

対する愛から、」で始まる長い題名が付けられている。バーゼル版では文書にラテ

ン語で「Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(贖宥の効力を明らか

にするための討論)」という題名が付け加えられている。各地の文書はいずれも無

記名であり、出版者は不詳である。

 

このように、新技術である活版印刷術がルターの主張の普及に重要な役割を果た

した、という見方は多くの歴史家たちが支持している。とは言っても、当時のドイツ

の識字率は平均して4パーセントから5パーセント程度だった。当時の人口とル

ターの出版物の出版数の推計から逆算すると、実際にルターの著作物を手にした

のは43人に1人程度に過ぎなかった。当時活躍したのは、図像や平易な韻文入

りの木版画によるパンフレットと、説教師である。印刷物が果たした役割はそうした

説教師を感化するところにあった。

 

各界の反応とルターの対応

この結果として、ルターの言説は大反響を巻き起こした。

しかし、純粋に学問的な討論を呼びかけたに過ぎないルターにとっては、これは

予想外のことだった。しかし肝心の神学者たちからはほとんど無視された格好に

なり、ルターが望んだ学術的討論は実現しなかった。

 

ルターが名指しで批判したドミニコ修道会だけは敏感に反応した。

ルターには関係無いのだが、ドミニコ修道会には以前から敵がいて、自分たちは

攻撃を受けて迫害されていると考えていた。そこへ新たにルターという敵が増え

たという格好になっており、深刻な事態だと受け止めたのである。



1518年1月20日、オーデル川のフランクフルトで開かれた修道士の総会で、

ドミニコ修道会士で異端審問官でもあるヨハン・テッツェルがルターに反発して

贖宥を認める論文を発表し、ルターを火刑にすべきだと気勢をあげた。

一方のアウグスティヌス修道会では4月25日の総会でルターが演説した。

この総会にはブツァーやブレンツも出席しており、ルターに感銘を受けた彼らは

のちに宗教改革の指導者となる。

 

当時の人々は、これを単なるドミニコ修道会とアウグスティヌス修道会のいつも

の小競り合いだとみなして、面白おかしく眺めていた。修道会そのものをよく思わ

ない人々は、「修道会同士の喧嘩」を煽り立て、嘲笑し、対立の火が燃え上がる

のを愉快に見物していた。

 

この間、肝心の神学者たちからほとんど反応がなかったことに立腹したルターは、

贖宥状の売り手を追撃するような小論『贖宥と恩恵とについての説教』を刊行した。

「95ヵ条の論題」と大きく違うのは、これがドイツ語で書かれたということである。

このことはこの『説教』が、「論題」のように学者向けのものではなく、一般庶民向け

に書かれたことを意味している。『説教』は20ヵ条に絞られていて、表現はより鮮

明で過激になっていた。この中でルターは、相手方を「聖書の匂いをかいだことも

ない(中略)鈍い頭脳の持ち主」と攻撃した。

この『説教』は20種類以上の版が作られたことがわかっている。

 

贖宥状批判の背景

贖宥状の歴史

一般的に贖宥状の発行は十字軍のときに遡るとされている。

当初、贖宥状の発行は、十字軍のときか、100年に1度、とかなり限定されていた。

その効能も限定的であり、「教会が定めた罰」をいくらか減免させるというものだった。

 

ところがそのうち贖宥状の発行は50年に一度、33年に一度、25年に一度というふ

うに間隔が短くなっていき、やがて頻繁に発行されるようになった。特に15世紀後

半のシクストゥス4世は、贖宥状を乱発すると同時に、その効能を現世での罰の減

免だけでなく、煉獄にいるぶんにまで対象であると拡大した。

 

こうした贖宥状を批判したのはルターが初めてではない。

14世紀にはウィクリフ、15世紀にはフスが贖宥状の販売を批判している。

 

レオ10世の贖宥状のからくり

ルターの批判の対象になったレオ10世による贖宥状は「聖ペテロ大聖堂の再建

費用を集める」という名目で発行されていた。が、実はその本当の使途は違って

いた。この贖宥状の売上は、最終的にはフッガー家という金貸しのところに入るこ

とになっていた。

 

これはローマ教皇レオ10世と、マインツ大司教アルブレヒトの借金返済のための

ものだった。ただし、当のルターはそのような仕組みは全く知らなかった。

一般庶民と同じように、「大聖堂の再建」に使われると考えていた。

 

ザクセン選帝侯と贖宥状

当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、レオ10世とドミニコ修道会の贖宥状販

売には異を唱え、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した。と言っても、ザクセン

選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのはルターのような敬虔さからくる動機ではなく、

領内の経済を慮ってのことだったと考えられている。

 

ザクセン選帝侯自身、以前はさかんに贖宥状を販売していて、その売上で聖遺物を

収集していた。ザクセン選帝侯の聖遺物コレクションは当時のヨーロッパを代表する

ものであり、聖遺物を拝むことは、それだけで贖宥になるとされていたので、各地か

ら参拝のために巡礼者が集まってきていた。

 

巡礼者が領内で費やす金はザクセン選帝侯領内の経済を潤していたのだが、贖宥

状の販売はこれを妨げる危険性があった。また、領民が稼いだ金が、贖宥状の売上

としてローマに送られるということは、ザクセン選帝侯領の富がローマへ流失してい

ることにほかならなかった。当時のドイツは「ローマの雌牛」(乳を絞られる存在)と蔑

まれており、ドイツ諸侯はこれを苦々しく思っていた。

 

この贖宥状はドミニコ修道会の修道士が販売を請け負っていたので、ザクセン選帝

侯はドミニコ会の修道士を全員領内から追放したのだった。しかしテッツェルはザク

セン領地のギリギリまで行って贖宥状販売を行ったので、ザクセンの領民の中から

も数多くの者が贖宥状を買いに行った。

 

贖宥状批判を突然始めたわけではない

ルターは、アウグスティヌス修道会出身で、ヴィッテンベルク大学に招かれ、そこ

で神学博士号を取得した人物である。自身の体験に基づく一風変わった授業を

行い、ヴィッテンベルク大学の神学講義の改革を行っており、学内では有名な

人物だった。しかしこの時点ではドイツ全体としてはまだ無名の存在だった。

 

ルターは掲示を貼りだす以前から、贖宥状批判を繰り返していた。

記録の残るところでは、1516年7月27日の説教で贖宥状の有効性に疑問を呈し、

これが招く倫理の退廃を指摘している。これはちょうどテッツェル一行がザクセン領

にもっとも近づいた時期である。

 

ザクセン領を出て贖宥状を買い求めてきた庶民たちは、贖宥状売りの様子をルター

に話して聞かせた。それはルターを怒らせるものだったという。

ルターが「掲示」を行ったのは、それから1年3か月後のことである。

10月31日当日の昼間の説教でも、ルターはこの問題を発言していたという。

 

本当に「掲示」されたのか?

数百年にわたる無数の研究にもかかわらず、1517年10月31日にルターが本当

にこのような文書を掲示したのか、その事実性には論争があって解決していない。

日付が違うという説もあれば、ルター自身が自分で門に打ち付けたのか、人にやら

せたのかという議論もある。

 

同時代の史料で、この出来事を伝える唯一の情報源は、ルターの同僚だったフィリ

ップ・メランヒトン(1497-1560)によるものである。ルターが1546年2月に死去して

から3か月後に刊行されたルターの著作集第2巻(1546年)の序文の中で、メラ

ンヒトンは、ルターが門扉に95か条の論題を掲示したと述べている。

しかし他の証拠はない。

 

ルターが1517年10月31日に張り出したとされる文書が印刷されたものであった

と伝えられているが、実際にそうであったのか、手書きのものだったのかもわかって

いない。一般に当時の大学の掲示板に貼りだされる文書は、手書き、印刷どちらの

可能性もある。いずれにせよその原本も、印刷前の版も現存しない。

 

現存するのは、マインツ大司教アルブレヒトを経由してローマ教皇レオ10世に送ら

れたものだけである。ただしその中身は、1517年末にライプツィヒで印刷されたコピ

ーと同じである。

 

実際に門に貼りだしたかどうかや正確な日付はわからないが、いずれにせよこの時

期にルターがこの文書を公表したことは確からしい。

 

ルターの意図は?

上述の通り、ルターはそもそも公に教会を攻撃することを意図していたわけではなか

った。ルターは神学者との討論を呼びかけただけであり、その討論を通じて、教会の

枠内での穏やかな改革を意図していた。だから、意図とは違う形で一般庶民を中心

に大騒ぎになってしまった直後、ルターはブランデンブルク司教に対して、主張の訂

正を行い、全面的な撤回すらほのめかしている。

 

しかしルターの意図とは裏腹に、「贖宥状批判」はドイツ中に知れ渡ったとされる。

現代でも一般的には「ルターが贖宥状批判を行った」とされている。しかし、ルターが

95ヵ条の提題を通じて論じようとしたのは、純粋な神学上の教理であった。

 

95ヵ条は全体として体系的でもないし、大半はルターの「独り言」のような文言だった。

贖宥状販売の問題はその中のほんの一部にすぎなかった。

ルターが特に議論を望んだのは、贖宥状の販売そのものではなく、救済と良心の

概念についてだった。教理では、告解、悔悛の後に罰が与えられ、その罰が贖宥

されるという手順であって、告解や悔悛を省いて贖宥にたどり着くはずはない。

だからルターは贖宥状を販売する教会を批判しただけではなく、贖宥状を購入す

る民衆も批判した。

 

しかし実際には、ルター自身は贖宥状について直接見聞きしたことはなく、すべて

贖宥状を買った庶民からの又聞きでしかなかった。贖宥状を売りまわったドミニコ

会修道士テッツェルが謳い文句にしていたという「グルデン金貨がチャリンと言えば

たちまち魂は天国へポンと飛び上がる」という口上は、実際にテッツェルが言ったも

のではなく、ルターが「テッツェルはこう言っているらしい」として述べたものだった。

 

そしてルターはこの贖宥状のからくりまでは知らなかった。

マインツ大司教アルブレヒトのこともよく知らなかったし、まして教皇レオ10世のこ

とは知らず、彼らがこの贖宥状の販売を企画した張本人であることは知らなかった。

ルターは、レオ10世は善良なる聖職者であり、無垢な教皇が悪い部下に騙されて

いるのだと信じきっていた。

 

実際のところ、マインツ大司教もローマ教皇も、神学者として教理に通じた人物では

なかった。マインツ大司教アルブレヒトはホーエンツォレルン家の王子で金で地位を

買っただけであり、メディチ家の人物であるローマ教皇レオ10世は外交に長けてい

たが神学者ではなかった。

 

だから彼らのところに文書が回ってきても自力で判断することはできず、専門の神学

者に回して意見を聞くしかなかった。

当時はそもそも「贖宥」については神学の中でしっかりと位置づけられてはいなかった。

アウグスティヌス修道院でルターに神学を教えた聖職者たちも贖宥については知識

をもっていなかった。

 

「贖宥」と「免罪」

ルターは、贖宥の概念について学術的な討議を求めていた。

本来「贖宥」というのは、人が犯した「罪」に応じて、教会が人に与えた「罰」のうち、

そのいくらかを免除するというものだった。ルターの考えでは、カトリックの教理の

なかでは、贖宥によって免じられるのは「罰」であって、「罪」自体が免れるわけで

はない。しかも教会が免じることができるのは、あくまでも教会が定めた「罰」のみ

であって、神が与えた「罰」は免じることができないはずである。

 

ところが、この贖宥状を売っている連中は、ありとあらゆる罪が無くなるかのような

ことを言っており、ひどいものでは「あらかじめ贖宥状を買っておくと、そのあと悪事

を行っても大丈夫」というような売り口上すらあったという。これはカトリックの教理

に反しているはずであり、そこを議論ではっきりさせたい、というのがルターの主張

だった。

 

贖宥状の有効な対象が適切な部分に留まっているならば、それは教理に適合して

いるのであり、ルターは贖宥状が全て不適切だと批判したわけではなかった。

ただし実際問題としては、贖宥の概念についてそこまで詳しく理解している聖職者

は当時ほとんどおらず、修道会におけるルターの師はもちろん、大司教や教皇で

さえも、こうした教理を精確に知っているものはほとんどいなかった。

 

大衆は「罪」と「罰」の区別もついておらず、贖宥状売りの口上を鵜呑みにしている

だけだった。

 

その後

1518年の秋、教皇庁やザクセン選帝侯のとりなしで、カトリック教会とルターの

討論が内々で行われた(アウクスブルク審問)。

しかし両者の主張は並行のままに終わった。

 

この話し合いの後、アウグスティヌス修道会のシュタウピッツはルターを修道会

から退会させることにした。これによってアウグスティヌス修道会に対する責任

問題を回避するとともに、ルターが自由に活動できるようにしたのである。

 

翌1519年にはライプツィヒ討論が行われる。

この討論会は決裂に終わったが、カトリック側はルターを異端とする言質をとる

ことに成功した。ルターは教会批判の急先鋒とみなされるようになり、ローマ教

皇はルターを異端として破門した。この観点では、討論会はルター側の敗北と

みられたが、その後の影響を考えると、かえってルターにドイツの注目が集まる

ことになった。

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10月31日

2023-10-31 21:56:12 | 日記

今日10月31日は、年始から304日目、年末まであと61日。

 

画像は”95か条の論題”を教会の門扉に貼るマルティン・ルター(1517年)

 

以下、今日の出来事一覧と、その後にメモを記す。

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475 - 最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが即位。

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1471(文明3年9月18日) - 伯耆国守護の山名豊之が家中の謀叛

により殺害される。

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1517 - マルティン・ルターが、ローマ教会の贖宥状の販売を糾弾する

「95ヶ条の論題」を教会の壁に貼り出す。

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1864 - ネバダ準州が州に昇格してアメリカ合衆国36番目の州・ネバダ州

となる。

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1884 - 秩父事件。

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1898 - 第1次大隈内閣が総辞職。

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1913 - 初のアメリカ合衆国横断自動車道路・リンカーン・ハイウェイが開通。

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1914 - 第一次世界大戦: 青島の戦いが始まる。

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1917 - 第一次世界大戦: ベエルシェバの戦い

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1924 - 西表島北北東海底火山が噴火。その後大量の軽石が漂流し、

日本各地の海岸に漂着。

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1940 - 第二次世界大戦: バトル・オブ・ブリテンが終結。

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1941 - ガットスン・ボーグラムによるラシュモア山の4つの大統領像が完成。

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1941 - 第二次世界大戦: アメリカ海軍の駆逐艦「ルーベン・ジェームズ」

がドイツのUボートの雷撃を受け沈没。115人死亡。

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1951 - 沖縄社会大衆党結成。

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1961 - ハリケーン・ハティがイギリス領ホンジュラス

(現在のベリーズ)に上陸。死者275名

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1961 - 第二次スターリン批判を受けヨシフ・スターリンの遺体が

レーニン廟から撤去。

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1964 - 国鉄関門連絡船がこの日限りで廃止。

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1967 - 日本武道館で吉田茂の国葬。戦後初の国葬。

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1968 - ベトナム戦争: リンドン・ジョンソン米大統領が翌日からの

北爆停止を言明。

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1968 - 文化大革命: 中国共産党第8期12中全会で劉少奇の中国共産党

からの永久追放と全ての職務の解任が決議される。

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1969 - 日本記者クラブ結成。

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1969 - 北海道の定山渓鉄道、滋賀県の江若鉄道がこの日限りで廃止。

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1970 - 埼玉県和光市が市制施行。

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1973 - この日限りで、日本国内の放送局は一斉免許更新(再免許)、

財団法人 日本科学技術振興財団テレビ事業本部によるテレビ放送の

運営を終了。翌日から東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に

テレビ放送事業の運営を引き継ぎ。また、琉球放送の英語放送が停波。

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1976 - 日本ビクターが世界初の家庭用VHS方式ビデオテープレコーダ

「HR-3300」を発売。

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1977 - 自然環境における天然痘の最後の感染事例が報告される。

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1979 - ウェスタン航空2605便着陸失敗事故。73人が死亡。

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1984 - インドのインディラ・ガンジー首相がシーク教徒の

警護警官により暗殺される。

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1984 - 文部省宇宙科学研究所 (ISAS) の臼田宇宙空間観測所が開設。

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1986 - 日本鉄道創業の地である汐留貨物駅(旧新橋駅)がこの日限りで廃止。

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1988 - エフエム埼玉(現・NACK5)開局。

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1989 - 三菱地所がニューヨークのロックフェラー・センターを買収。

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1992 - ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ガリレオ・ガリレイに対する

裁判の誤りを認め、破門を解く。ガリレオの死後350年目。

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1994 - アメリカン・イーグル4184便墜落事故。68名全員死亡。

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1994 - 神奈川県平塚市で湘南自動車検査登録事務所が業務開始。

「湘南ナンバー」が誕生。

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1998 - イラク武装解除問題:

イラク革命指導評議会が国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会 (UNSCOM)

 との協力を全面的に停止することを決定。

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1999 - エジプト航空990便墜落事故。203名死亡。

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2000 - シンガポール航空006便離陸失敗事故。乗員乗客83名が死亡。

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2000 - 国際宇宙ステーションの最初の滞在者を乗せた

ソユーズTM-31が打ち上げ。

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2000 - 超党派野党、参議院に選択的夫婦別姓制度を求める民法改正案を提出。

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2001 - 神奈川県湯河原町に「西村京太郎記念館」が開館。

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2003 - マハティール・ビン・モハマドがマレーシアの首相を辞任。

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2003 - 国際連合腐敗防止条約が採択される。

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2004 - イラク日本人青年殺害事件: 

イラクの聖戦アルカーイダ組織に殺害された日本人男性の遺体が発見される。

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2005 - 第3次小泉改造内閣発足。

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2007 - 任天堂がこの日をもってファミリーコンピュータ、

スーパーファミコン、NINTENDO64などの旧世代ハードの

修理サポートを打ち切り。

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2011 - 世界人口が70億人を突破[2]

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2011 - 外国為替市場で戦後最高値の円高となる1ドル=75円31銭をつけた。

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2014 - 試験飛行中のスペースシップツー一号機「VSSエンタープライズ」

が墜落し、1名死亡。

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2017 - 神奈川県座間市のアパートで座間9人殺害事件が発覚。

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2019 - 首里城で火災が発生。正殿、北殿、南殿など7棟の建屋が焼失。

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2021 - 第49回衆議院議員総選挙の投票日。自由民主党は改選議席を15

減らしたものの絶対安定多数を確保。立憲民主党は改選議席を13減らす

など振るわなかった一方で日本維新の会が30議席伸ばす躍進となった。

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2021 - 京王線刺傷事件が発生。

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===メモ===============================

下線部分情報ソース不確定、以前の日記に記載の件は再記せず。

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475 - 最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが即位。

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ロムルス・アウグストゥルス

460年 - 511年~536年。西ローマ帝国の皇帝(在位:475年 - 476年)。

 

ロムルス・アウグストゥルスの名で知られているが、本名は『ロムルス・アウグストゥス』

アウグストゥルスは、小アウグストゥスという意味のニックネームである。

彼は西ローマ帝国最後の皇帝であるが、その名は奇しくも、伝説上の王政ローマ建国

の初代王ロムルスと帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスの名を合わせたものだった。

 

即位と退位

ロムルス・アウグストゥルスは、父フラウィウス・オレステスによって475年10月31日

に西ローマ皇帝として擁立された。しかし、それから一年も経たない476年9月4日に

ゲルマン人の将軍オドアケルによって退位に追い込まれた。

 

ロムルス・アウグストゥルスを廃したオドアケルは、西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノ

ンに返上してローマ帝国のイタリア領主に任命され、全ローマ帝国唯一の皇帝となった

ゼノンの代理としてイタリアを統治した。 通俗的に、この出来事をもって西ローマ帝国の

「滅亡」とみなされている。しかし、すでにそれ以前から西ローマ皇帝は一切の権威を失

っており、実権はオドアケルに代表されるゲルマン人の将軍たちが握っていた。

 

西ローマ皇帝の廃止を西ローマ帝国の「滅亡」と結びつける表現については「誤解を

招く不正確で不適切な表現」として歴史学者より問題が指摘されている。

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===Part2に記載============================

1517年 - マルティン・ルターが、ローマ教会の贖宥状の販売を糾弾する

「95ヶ条の論題」を教会の壁に貼り出す。

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1884 - 秩父事件

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秩父事件

1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の

農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税[1]の減少などを求めて起こした

武装蜂起事件。

隣接する群馬県・長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。

自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例とも

されてきた。

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1914 - 第一次世界大戦青島の戦いが始まる。

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青島の戦い

1914年(大正3年)10月31日 - 11月7日。

第一次世界大戦中の1914年に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス

の連合軍が攻略した戦闘である。

 

日本の戦争で最初に航空機が投入された戦いであり、航空機同士の空中戦や都市へ

の爆撃も実施され、飛行機に対抗する高射砲も運用された。しかし、大量の装備の上

陸や輸送路の確保に慎重を期し、山東半島上陸から青島砲撃までに2か月もの時間

を要したものの、砲撃後1週間で決着がついた戦いは、国民に「弱いドイツ軍相手に

だらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからは「神尾の慎重作

戦」と揶揄されたが、結果的にこの戦いを短期間で決着に持ち込めたのは、補給路や

装備の十分な確保により断続的な飽和攻撃を敵に与える事が出来た事によるもので

ある。

 

この戦争で日本は満洲 - 大連 - 芝罘間通信線の所有/運用権を譲り受けた。

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1940 - 第二次世界大戦バトル・オブ・ブリテンが終結。

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バトル・オブ・ブリテン

第二次世界大戦におけるドイツ空軍とイギリス空軍の戦いのうちで、ドイツによる

イギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた

一連の航空戦を指す。

戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止された。

 

ドイツ語ではイングランド航空戦という。日本語では英国本土航空戦または、

英国の戦いなどとも表記される。

 

1940年7月10日から10月31日までイギリス上空とドーバー海峡でドイツ空軍

とイギリス空軍の間で戦われた航空戦であり、史上最大の航空戦と呼ばれる。

 

緒戦でドイツ空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。

ロッテ戦術を使った戦法と軍用機の保有数において、ドイツ空軍が優位に立った。

数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援した。

レーダーにおいて当時世界で群を抜いていたイギリスは近代的なレーダー網を活

用した要撃体制を構築し、イギリス連邦諸国から人的支援、中立国(当時)アメリカ

合衆国からは経済支援を得ることができた。

 

ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍

に打撃を与えた。しかし、目標選定の失敗や必要な軍用機の整備不足、途中で主

要な空襲目標をロンドンに変えたことなどにより、ドイツ空軍も大きな被害を受けた。

 

10月になってイギリス空軍はドイツのイギリス上陸作戦を断念させることに成功した。

その意味でバトル・オブ・ブリテンの結果は第二次世界大戦の重大な転機となった。

イタリア空軍はドイツ空軍から航空機の派遣を少数受けたものの、効果なくイギリス

軍に撃退された。ドイツ空軍の攻撃は翌1941年5月頃まで継続された。

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1941 - 第二次世界大戦アメリカ海軍駆逐艦ルーベン・ジェームズ

がドイツのUボートの雷撃を受け沈没。115人死亡。

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Uボート

ドイツ海軍の保有する潜水艦の総称。

一般的には特に第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期のものをいう。

 

ドイツ潜水艦隊の華々しい活躍により、Uボートの名はドイツ潜水艦の代名詞として

広く普及した。第一次大戦では約300隻が建造され、商船約5,300戦艦10

ほかを撃沈する戦果を上げたが、178隻が戦闘で失われた。

 

第二次大戦では1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000空母2

戦艦2を撃沈する戦果をあげた。しかし、大戦中に連合国が有効な対策を編み

出した事から849隻もの損失を出し、全ドイツ軍の他のあらゆる部隊よりも高い

死亡率であった。

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1961 - ハリケーン・ハティがイギリス領ホンジュラス

(現在のベリーズ)に上陸。死者275

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ハリケーン・ハティ

1961年の10月31日(ハロウィーン)に中央アメリカを直撃したハリケーンである。

 

勢力は一時、サファ・シンプソン・ハリケーン・スケール(SSHS)でカテゴリー5

達した。このハリケーンによって275人が犠牲となり、経済的被害は6千万ドル

(1961年当時)にのぼった。

 

ハティは中央アメリカを二度横切り、大西洋→太平洋→大西洋という、とても珍しい

経路をとったので、三つの名称(Hattieハティ、Simoneシモーネ、Ingaインガ)を

持つ唯一のハリケーンとして記録されている。

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1968文化大革命中国共産党第812中全会劉少奇中国共産党

からの永久追放と全ての職務の解任が決議される。

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少奇

リウ・シャオチー、1898年11月24日 - 1969年11月12日。

中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用した。

 

第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東

党主席に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。

 

失脚

大躍進政策の失敗で影響力を喪失しつつあった毛沢東は、文化大革命を発動して

権力の奪回を図った。劉少奇は鄧小平とともに「資本主義の道を歩む実権派」の中心

とされ、毛によって打倒の標的とされた。

 

1966年8月の第8期11中全会において、毛は「司令部を砲撃せよ」と題する、実

権派の党幹部打倒を指示する論文を配布した。名指しこそされなかったが、参会者

はこの「司令部」は劉少奇を示すものと察知した。同会議では党中央政治局および

中央政治局常務委員会の改選が行われ、劉は政治局常務委員に残留したものの、

副主席の任は解かれ、党内の序列も従来の第2位から第8位に下げられた。

 

しかしこの段階では、劉はまだ自らが打倒される標的だと気づいていなかった。

同年10月の中央工作会議で名指しの批判を受けると、これに対して劉は自己批

判をおこなった。この自己批判書は事前に毛に提出され、毛は「よく書けている」と

評価したものの、その評価を隠されたままリークされ、それがさらなる批判の材料

にされた。また、会議ではこの自己批判は承認されなかった。

 

1966年末には劉を名指しで批判する大字報が北京市内に貼られた。

1967年に入ると党の内外から公然と劉を批判する文書が出回り始め、「実権派

(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者」とし

て徹底的な非難にさらされる。

 

劉も自らの置かれた立場に気づき、1月に毛沢東と会って「すべての国家と党の

役職から辞任し、国の混乱を終わらせ、農業をして暮らしたい」という意向を伝えた。

これに対して毛沢東は明確な返答を示さなかった。同じ月に、中南海の造反(文革)

派が劉の自宅の執務室に乱入するようになる。劉は造反派に屈することはなく、

論戦を吹っかけてきた彼らに対しその論理の矛盾をついて黙らせるなどしたが、

造反派はその後執務室の電話線を切断した。

 

これにより、劉は外部との連絡を絶たれてしまう。

ある日、毛派に指示された紅衛兵が劉の自宅に乱入し、劉とその家族に暴行を加え

たとき、劉は中華人民共和国憲法を手にして「私はこの憲法に書いてある国家主席

だ。あなたたちは今、国を侮辱している」と叫んだが、リンチから逃れることはできな

かった。

 

1967年4月1日、中央文化革命小組の戚本禹が共産党の理論誌『紅旗』1966年

第5期号に発表した評論「愛国主義か売国主義か? - 歴史映画『清宮秘史』を評す」

が、『人民日報』に掲載された。この評論では劉を「中国のフルシチョフ」とそれとわか

るかたちで非難、これをきっかけに劉に対する攻撃が激化し、大衆の前での批判大

会に連れ出され、夫人とともに何度も執拗な吊し上げを受けた。

 

同年7月18日には、中南海の自宅が造反派に襲撃される。

表に連れ出された劉は、造反派の批判大会で2時間余りにわたって暴行を受け、

批判を浴びた(この批判大会は戚本禹が主催したものであった)。

7月18日の批判大会の後、夫人とは別の部屋に隔離され、事実上幽閉された状態

になった。9月には夫人が逮捕され、子供も自宅から追い出されて、劉一人が自宅

に取り残された。

 

この頃、劉が国民党との闘争期に逮捕されながら法廷闘争で出獄したことや抗日戦

争の時期に指揮した「偽装転向による党員の釈放」(六十一人叛徒集団事件)などが

スパイ行為であるという罪状がでっち上げられた。これらに基づき、1968年10月に

開催された第8期拡大12中全会において、劉を「党内に潜んでいた敵の回し者、

裏切り者、労働貴族」として永久に中国共産党から除名し、党内外の一切の職務を

解任する処分が決議され、劉は失脚した。

 

最期

自宅監禁状態であった劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、警備員から

も執拗な暴行や暴言を受けた。劉の部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が

壁中に貼り付けられた。治療する医師からは、病状の回復のためにはがす提案もさ

れたが受け入れられなかった。上記の党からの除名は劉の誕生日にラジオで放送さ

れ、劉はそれを聞くことを強要された。

 

それ以降、劉は言葉を発しなくなった。

過去の病歴のため劉はいくつかの薬を常用していたが、それも取り上げられた。

多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかった。

1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となったが、身のまわりの

世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態であった。

 

1969年10月17日、河南省開封市に移送。

寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの

倉庫部屋に幽閉された。受け持った地元の医師が求めた高度な治療に対し、

上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示した。

 

限られた治療の中で病状は悪化し、11月12日に没した。享年70。

白布で全身を包まれた遺体は、開封の火葬場にて「劇症伝染病患者」という扱い

で、死の約2日後の深夜に火葬に付された。遺骨は火葬場の納骨堂に保管され、

その保管証には死亡者氏名「劉衛黄」(この名前は劉少奇の幼名だったという)と

記されていた。

 

劉の死は当初は高級幹部以外の国民や国外にはほぼ秘匿され、外部からは生死

不明の状態が続いた。その間、生存説が海外のメディアで報じられたこともあった。

 

名誉回復

毛沢東の死後、鄧小平が実権を掌握していた1980年2月、第11期5中全会に

おいて除名処分が取り消され、名誉回復を果たした。劉が1969年に開封で病死

していた事実はこのとき初めて内外に広く知られることになった。

 

四人組逮捕後になされた文革期の迫害者に対する名誉回復としては遅い部類に

属する。かつてきわめて激しい断罪とともになされた党からの永久追放・除名処分

の取り消しには時間を要したためである。

 

同年5月に追悼大会が開催された。この席で鄧小平は追悼の辞を述べたが、その

中には「劉少奇同志も活動において若干の欠点と誤りがあった」という一節が含まれ、

その真意が議論を呼んだ。しかし、詳しい説明はなされなかった。

この追悼大会後、遺言(1967年4月、夫人の王光美が批判大会に連行される前日

に家族に伝えた)に従い、王光美らによって遺骨は中国海軍の艦艇から海に散骨

された。

 

文革前後の劉少奇

批判の渦中にあった1967年1月、憔悴しきった劉少奇は毛沢東に面会し、辞職し

て隠遁したいと申し出た。毛は終始同情的な態度で接し、ゆっくり休んで自身を再

教育せよ。ヘーゲルともう一人の本を読んではどうかと答えた。その直後、毛は劉

が迫害されている報を受けたが、黙殺した。さらに、劉が最悪の環境の中で病に

倒れると「政治的に一線を画すとも、生活水準を下げてはならぬ。」と厳命し、寛大

さを示して自身が迫害に関係していないポーズをとろうとした。

  

幽閉中の劉は病気となり、家族に会うことも叶わず、手足も不自由となり着替えや

食堂に移動するのにも1時間近くかかるほど衰弱していた。それにも関わらず、

監視する兵士は助けようとしなかった。やがて劉は危篤に陥ったが、党中央は迅速

に対応して治療を行ったため、一命を取り留めた。だがそれは、生きているうちに

劉少奇を党から除名して、恥辱を与えよという江青の指示によるものであった。

 

その他

2016年2月、NHKの海外放送でNHKスペシャル「新・映像の世紀」が放映され

たが、中国国内では劉少奇が映った場面などで突然と画面が真っ暗になり音声も

聞こえなくなるなど番組が断続的に中断される事象が発生した。

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1977 - 自然環境における天然痘の最後の感染事例が報告される。

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天然痘

天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。

疱瘡痘瘡ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。

 

疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の

医師の文書が初出である。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱

を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢

痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。

 

1980年、世界保健機関(WHO)により根絶が宣言された。

人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症の例である。

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1984 - インドのインディラ・ガンジー首相がシーク教徒

警護警官により暗殺される。

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インディラ・プリヤダルシニー・ガンディー

1917年11月19日 - 1984年10月31日。

インドの政治家で第5代、8代首相。日本語ではガンジーとも表記される。

インド初の女性首相。

 

父はインドの初代首相であるジャワハルラール・ネルー。

息子に第9代首相を務めたラジーヴ・ガンディー、及びサンジャイ・ガンディーが

おり、この政治家一族は「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれるようになった。

なお、マハトマ・ガンディーとの血縁関係はない。

 

下野

ジャナタ党政権が発足すると一時は政界引退を表明したが、1978年10月にカル

ナータカ州チッカマガルール県で行われた下院補欠選挙に立候補するなど、政権

時代に政策面で優遇した南インドを基盤に復権を目指した。

 

インディラは次男のサンジャイ・ガンディーとともに逮捕されてしまうが、インディラ

に対する同情心を生むことになった。また、ジャナタ党政権は「反・インディラ」の旗

印だけで団結していたため、政権運営が続くにつれ党が分裂し、政権が崩壊した。

これらの要因はインディラにとって追い風となり、1980年の総選挙でインド国民

会議は政権を奪還し、インディラは再び首相に就任した。

 

暗殺

1984年6月、インディラはシク教分離主義者の殲滅を目的とするブルースター作

戦の実行を軍に指令し、シク教の聖地、黄金寺院を攻撃させた。この攻撃ではシク

教分離主義運動の指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが死亡し、作戦

は成功裏に終わったが、シク教徒からの激しい反発を招くことになった。

 

同年10月31日、インディラは俳優のピーター・ユスティノフからインタビューを受け

ながら歩いている途中、2人のシク教徒の警護警官により銃撃を受け、病院に搬送

される途中で死亡し暗殺された。犯人のうち一人はその場で射殺され、もう一人は

逮捕されて共犯者と共に1989年に絞首刑に処されている。

 

インディラの死後、インド国民会議の政治家の煽動によって反シク教暴動が発生し

ている。インディラの後任の首相には長男のラジーヴが就いたが、彼もまた1991

年に暗殺されたため、「ガンディー家の悲劇」と呼ばれた。

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1989 - 三菱地所ニューヨークロックフェラー・センターを買収。

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ロックフェラー・センター

アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ミッドタウンマンハッタンの

5番街および6番街にある超高層ビルを含む複数のビルからなる複合施設。

設計はレイモンド・フッドほかによる。

 

三菱地所による買収劇

1989年10月、三菱地所はロックフェラーセンターを所有するロックフェラーグル

ープ(RGI)の株式51%を取得しておよそ8億4600万ドル(当時のレートで日本

円にして約1200億円)で買収した。これはバブル期の成金的な「ジャパンマネー」

による海外資産買いあさりの象徴的な例であり、アメリカ国民、特にニューヨーク

市民の大きな反感を買い、ジャパン・バッシングの火に油を注いだ。

 

しかし、後に不動産不況(バブル崩壊)で莫大な赤字を出すことになり、1995年

5月に連邦倒産法第11章を申請し、運営会社は破産。三菱地所が買収した

14棟のうち12棟は売却され、現在は「タイムライフ・ビル」と「マグロウ=ヒル・

ビル」の2棟のみが三菱地所の所有となっている。

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2017 - 神奈川県座間市のアパートで座間9人殺害事件が発覚。

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座間9人殺害事件

2017年(平成29年)10月30日に行方不明になっていた女性(当時23歳)を捜査

する過程で発覚し、翌31日までに9人の遺体が見つかった死体遺棄事件であり、

その後、犯人のS(逮捕当時27歳)の逮捕後尋問にてSが単独実行したことが

発覚した連続殺人事件である。

 

報道などでは座間9遺体事件座間アパート9遺体事件座間9人遺体事件

座間アパート9遺体事件座間事件などと呼称される場合もある。

 

Sが住んでいた神奈川県座間市緑ケ丘六丁目のアパート室内で、若い女性8人・

男性1人の計9人の遺体が発見された。殺害、遺体損壊を行った期間は8月22

日から10月30日までの期間で、全て遺体が発見された室内で行われたとみられ

ている。

 

2017年10月31日にSは逮捕され、以降、S自身の供述および司法解剖の結果、

さらに複数人の殺人・死体遺棄容疑で再逮捕された後、9人に対する強盗・強制性

交等罪、強盗殺人罪、死体損壊・遺棄罪で起訴された。そして刑事裁判では、被害

者9人全員への承諾なき殺害行為(女性8人への強盗・強制性交等殺人罪+男

性1人への強盗殺人罪)などが認定され、被告人Sは2020年(令和2年)12月

15日に東京地方裁判所立川支部で死刑判決を受けた。

 

いったんはSの弁護人が控訴したが、Sは自ら控訴を取り下げたため、控訴期限

が切れた2021年(令和3年)1月5日に死刑が確定した。

事件は日本国政府の関係閣僚会議や海外メディアにも大きな影響を与えた。

事件に利用されたSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス) のTwitter(ツイ

ッター)では事件後に利用規約変更がなされた。

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2021京王線刺傷事件が発生。

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京王線刺傷事件

2021年(令和3年)10月31日に東京都調布市を走行中の京王電鉄京王線車内

で発生した殺人未遂事件。

 

2021年10月31日20時頃、東京都調布市を走行中の特急列車の車内で、乗客

の24歳の男が刃物で他の乗客を切りつけた上、液体を撒いて放火し、18人が重

軽傷を負った。刺された1名は、一時意識不明の重体に陥ったがのちに回復した。

 

16名は、火災による煙を吸って喉の痛みを訴えた。その後、1名が負傷者に追加

された。犯人の男は殺人未遂で警視庁に現行犯逮捕された。

男は、2021年8月6日に発生した小田急線刺傷事件を参考にしたと供述している。

 

これら一連の事件を受け、国土交通省は鉄道事業者に対し、新規の全車両におい

て防犯カメラの設置を義務付け、既存の車両についても追加で設置することを推奨

する方針を固めた。

 

事件の余波・対策

国土交通省は2021年11月2日に、JR各社や大手私鉄の安全統括管理者との

緊急会議をオンラインで開催し、再発防止対策を話し合った。会議では「車内で複数

の非常通報装置が作動した場合は、通話なしでも最寄り駅などで停車する」「列車の

ドアとホームドアの位置にずれがあっても、緊急時はドアを開けて乗客の避難誘導を

する」ことなどの原則が示された。

 

警備の強化

本事件を受けて京王電鉄は、「京王ライナー」で警備員1人を配置して、巡回に当た

ることとした。また、小田急電鉄やJR東日本、ゆりかもめなどでは防刃手袋や盾の

車内配備を急ぐこととし、社員や警備会社の警備員による警戒強化に取り組むこと

が明らかにされた。手荷物検査の導入も検討されたが、乗車までに時間がかかって

しまうことから見送られた。

 

また犯人がハロウィンの夜に仮装をして起こした事件であったことを踏まえ、翌年

10月にコスプレ乗車を控えるよう乗客に求めた。

また、京成電鉄についても事件が相次いでいることを鑑みて、テロ対策も兼ねる形

で特急「スカイライナー」「モーニング・イブニングライナー」に警備員を常備すること

を決定、人件費の関係で特別料金が1250円から1300円に値上がりした。

 

併結編成の廃止

京王電鉄は非貫通編成を2026年度までに全廃する方針を固めた。

これに伴い、5000系の増備を進め、非貫通部分のある7000系を順次廃車する

方針である。

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2023年、今日。

眠い。8時間は寝ているにも関わらず、昼間非常に眠い。

春みたいだ。秋なのに。

 


10月30日

2023-10-30 21:50:53 | 日記

 

今日10月30日は、年始から303日目、年末まであと62日。

 

画像は、尚古集成館所蔵の島津義弘像。

 

以下、今日の出来事一覧と、その後にメモを記す。

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1270年 - 第8回十字軍とチュニスの包囲が終了。

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1485年 - イングランド王ヘンリー7世が戴冠。

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1598年(慶長3年10月1日) - 慶長の役・泗川の戦い:

島津義弘、泗川城で明・朝鮮軍を大破する。

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1863年 - 3月30日にギリシャ国王に選出されたゲオルギオス1世が

アテネに到着。

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1864年 - 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終結。

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1890年 - 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布。

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1905年(ユリウス暦10月17日) - ロシア第一革命:

ロシア皇帝ニコライ2世が十月詔書に署名。

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1918年 - 第一次世界大戦: オスマン帝国が連合国に降伏。

(ムドロス休戦協定)

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1922年 - 首相に指名されたムッソリーニがファシスト党員とともに

ローマに入城。

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1932年 - 熱海事件が発生。

警察と共産党員の銃撃により警官2人が負傷、党員11人が検挙。

非常時共産党が壊滅的打撃を受ける。

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1938年 - アメリカでオーソン・ウェルズが、HGウェルズの小説をもとに、

火星人のニュージャージー侵攻を伝えるフェイクニュース『宇宙戦争』を

放送。本物のニュースと勘違いされ、一部のリスナーが警察、新聞社、

ラジオ局に電話をかける大パニックに。

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1941年 - 駆逐艦ラフィー_(DD-459)進水。

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1944年 - ホロコースト: アンネ・フランクと姉のマルゴット・フランクが

アウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンへ移送される。

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1947年 - 国際貿易会議で23か国が「関税および貿易に関する一般協定」

(GATT) に調印。

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1950年 - 山口県若沖炭鉱(広義の宇部炭鉱)で海水流入事故。

逃げ遅れた35人死亡。

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1952年 - 第4次吉田茂内閣が成立。

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1961年 - ソ連がノヴァヤゼムリャ上空で、史上最大の水爆実験

(ツァーリ・ボンバ)を実施。

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1962年 - 最高裁が吉田岩窟王事件の再審を決定。

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1973年 - ボスポラス海峡に架かるボスポラス橋が完成。

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1977年 - ハワイのアメリカ海兵隊員の宴会の席でトライアスロンが考案される。

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1978年 - 京王新線が開通。

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1987年 - NECホームエレクトロニクスが家庭用ゲーム機・

PCエンジンを発売。

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1993年 - 沖縄県ウリミバエ根絶宣言[6]

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1995年 - カナダ・ケベック州独立の是非を問う州民投票で、

反対派が賛成派に辛勝(50.6%対49.4%)。

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1996年 - 柳川喜郎御嵩町長が襲われ、頭蓋骨骨折の重傷を負う。

(御嵩町長襲撃事件)

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1999年 - 上信越自動車道が全線開通。

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2000年 - シドニーオリンピックで金メダルを獲得した高橋尚子に

国民栄誉賞が贈られる。

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2000年 - 最後のMulticsマシンが停止される。

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2005年 - 第二次大戦中のドレスデン爆撃により崩壊した聖母教会が

再建され、聖別が行われる。

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2013年 - ボストン・レッドソックスが1918年以来、95年ぶりに

地元ボストンでワールドシリーズ優勝を決める。

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2017年 - バクー=トビリシ=カルス鉄道開通[8]

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2018年 - 韓国大法院、新日鉄住金に第2次大戦中の元朝鮮人工員への賠償

を命ずる上告審を支持する判決を下し、賠償が確定。

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2018年 - ケプラー宇宙望遠鏡が燃料枯渇のため運用を終了。

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2020年 - トルコとギリシャの間のエーゲ海を震源とするマグニチュード7.0

の大地震が発生。

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2022年 - プロ野球オリックスバファローズが26年ぶりに日本一になる。

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===メモ===============================

下線部分、情報ソース不確定、以前日記に記載の件は再記せず。

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1270 - 8回十字軍チュニスの包囲が終了。

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8回十字軍

フランス王ルイ9世が主導した十字軍。

イスラム教国であるチュニジアを攻撃したが、飲み水の劣悪さや暑さにより

病気がはびこり、ルイ9世も死去したため撤退した。

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1485 - イングランドヘンリー7が戴冠。

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ヘンリー7

1457年1月28日 - 1509年4月21日

テューダー朝初代のイングランド王(在位:1485年8月22日 - 1509年4月21日)

およびアイルランド卿。

 

ボズワースの戦いでリチャード3世を破って王位を勝ち取り、戦いで王座を得た最後

のイングランド王となった。

 

ランカスター朝の系統のヘンリー7世は、ヨーク朝のエドワード4世の娘にしてリチャ

ード3世の姪にあたるエリザベス・オブ・ヨークと結婚して王位を固め、薔薇戦争によ

る混乱を解決した。

 

テューダー朝を創立して24年間王位に座り、平和裏に息子ヘンリー8世に王位を継

承した。君主の権力を回復し、政治を安定させ、優れた統治、積極的な外交政策と経

済運営を行った。一方で、富裕層に対しては不当な手続きによって財産罰を濫発した。

 

テューダー朝断絶後にイングランド王位を継承したステュアート朝のジェームズ1世

は、ヘンリー7世の長女マーガレットの曾孫であり、そのためヘンリー7世は現在の

イギリス王家の祖先にもあたる。

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1598慶長3101日)慶長の役泗川の戦い:

島津義弘、泗川城で朝鮮軍を大破する。

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泗川の戦い

文禄・慶長の役における合戦の一つ。

日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘

が率いる島津軍2千が明の武将董一元の率いる10万の明・朝鮮連合軍と戦って撃

退した戦いである。

 

絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとし

て知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。

 

慶長3年/万暦26年(1598年)9月末から10月初めにかけて、明と朝鮮の連合軍

は西から順天倭城(小西軍)、泗川倭城(島津軍)、蔚山倭城(加藤軍)、に対して同

時攻勢をかけた。この攻勢は三路の陸軍と一路の水軍が挟撃し、朝鮮半島の南海岸

に散在していた日本軍を一挙に壊滅させ、戦争を終結するという「四路並進策」による

ものだった。

 

このうち総兵の董一元が率いる明・朝鮮連合軍(中路軍)が泗川倭城に攻め

寄せた。泗川は日本軍の策源地であった釜山と日本軍最左翼の順天倭城・

南海倭城の中間に位置するため、ここを落とされると西方にいる軍との連絡

が分断される可能性があった。

 

この泗川に駐屯していたのは、義弘と子の忠恒率いる島津軍1万のみで

あった。

 

宗軍や立花軍が援軍を申し入れるが義弘はそれを断り、島津家の軍勢だけ

で明・朝鮮の大軍を迎え撃つこととなった。

 

泗川古城での前哨戦

明・朝鮮連合軍の大軍の動きを察知した義弘は、配下に守備させていた泗川古城

・永春・昆陽・望晋の将兵に義弘のいる泗川新城に集結するよう命じた。

このうち、泗川古城に配置されていた将兵は撤収することが遅れたため、明・朝鮮

連合軍に包囲された。

 

泗川古城は川上忠実を主将とし、およそ1万石の食糧を置いていたが、兵力はわ

ずか数百にすぎなかった。慶長3年(1598年)9月27日、明軍は泗川古城を強襲、

川上忠実は少数ながら頑強に抵抗し、城から出撃すると明将遊撃李寧・盧得功以下

数百人を討ち取った。

 

しかし、死傷者を多く出し危機的状況に陥っていたため、数の上で圧倒的に不利な

川上忠実の軍勢は明・朝鮮連合軍の囲みを突破して泗川古城を放棄し、泗川新城

への撤退を目指した。包囲を突破する際、忠実は36の矢を受け重傷を負い、150

人余りが戦死したが泗川新城へ撤退することに成功した。

 

泗川古城の危急に対して泗川新城の義弘は、子の忠恒の援軍を派遣すべきだと

する進言を島津軍の兵力が少数であることを理由に退け、泗川新城防備に徹した。

また忠実は、瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した。

 

大兵力の連合軍は食糧が不足していたが、食料庫を焼かれたことでさらに窮地に

陥り、短期決戦を余儀なくされた。明軍は、接収した泗川古城において軍議を行い、

10月1日をもって泗川新城の総攻撃を行うことに決した。

 

泗川新城での戦闘

義弘は泗川新城を背に強固な陣を張り、伏兵を配置した。

連合軍の攻撃に対し、義弘は大量の鉄砲を使用したり、地雷を埋めるなどして対

抗した。また、鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲も使用した。

 

明将茅国器、葉邦栄、彭信古などは泗川新城の大手に、郝三聘、師道立、馬呈文、

藍芳威などが左右に備え、董一元が中軍として泗川新城に攻め寄せた。

篭城戦で立ち向かった島津軍は敵軍を集中射撃してしのぎ、午後まで熾烈な接戦

が繰り広げられた。

 

戦闘が続く中、明軍の火薬庫に引火し爆発、火薬の煙が視野を遮ったことで明・朝

鮮連合軍は混乱に陥った。折から白と赤の2匹の狐が城中より明軍陣営の方へ

走って行った。これを見た島津軍は、稲荷大明神の勝戦の奇瑞を示すものとして

大いに士気が高まったという。

 

この機に乗じて、島津軍は城門を開き打って出た。

義弘は伏兵を出動させて敵の隊列を寸断して混乱させ、義弘本隊も攻勢に転じた。

義弘自ら4人斬り、忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した。

混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。

 

島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、混乱し壊走する連合軍は南江において無数

の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、

戦闘は幕を閉じた。

 

その後、集結して撤退できた連合軍の兵力は1万ほどであったという。

この戦いにより義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ・グイシーマンズ)と恐れられ、その

武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡った。

 

『朝鮮王朝実録』には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)

において明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は

溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている。

 

勝敗の原因

篭城側の島津軍はその戦力差のため、長期戦になれば不利になる恐れがあった。

一方、包囲側の明軍も最低でも数万以上と推測される大軍を長期間展開するだけ

の食糧はなかった上に、島津軍の奇襲によって食料庫を焼失している。

その結果、双方とも短期決戦を選ぶ他なかったと推測される。

 

心理面においては、明・朝鮮軍が連合軍であるために指揮統制が難しく、一度不測

の事態によって混乱すると収拾が難しかったと思われる。そして敵軍がわずか7千

と圧倒的に劣勢だったため、勝利を楽観視していたのではないかと思われる。

これらの要因は、連合軍の弱点となったといえる。

 

一方の島津軍は、この戦いに敗れれば日本軍の連携が崩壊し、多くの味方が逃げ

場を失うことを強く認識していたものと思われる。また島津の伝統的な釣り野伏せの

戦術で劣勢を覆した経験が幾度もあったことで、全軍の意思も統一されていたと考え

られる。さらに味方の援軍を断って島津家の兵だけで戦ったことにより、少数ながら

も軍としてのまとまりが非常にあったものと思われる。

 

上記の要因が複合し、島津軍の奇襲作戦や伏兵などが成功して連合軍が混乱し瓦

解したため、寡兵の島津軍が勝利しえたと推測できる。また島津軍が大量の鉄砲を

防御に使用し、効果を挙げたことも大きな要因である。

 

影響

泗川で明の中路軍が受けた敗北は、西路軍と東路軍も攻勢を断念する契機となった。

本来、明・朝鮮連合軍の目標は水陸にわたって四路軍を一斉に前進させ、順天・泗川

・蔚山の日本軍を各個撃破することだったが、中路軍の敗退により相互協力が不可能

になった。

 

結局、水軍を除く三路軍はすべて退却するに至り、これは四路並進策の構想そのもの

が失敗に終わったことを意味した。

 

泗川の戦いに先立つ8月18日、既に太閤豊臣秀吉は死去していたが、秀吉のその

死は秘匿されており、その後、10月15日付で日本軍に撤退命令が下る。

島津家がこの泗川の戦いで明軍を撃退して味方の組織的な撤退を可能にしたこと、

また直後の露梁海戦で小西軍の脱出を可能にした(その際に朝鮮水軍の大将李舜臣

を討取った)という功績は五大老達から高く評価されており、島津家は文禄・慶長の役

に参加した諸大名で唯一の加増に与った。

 

反面に予想外の大敗で衝撃を受けた明軍は指揮官を厳重に問責した。

董一元は職級が3等級降格され、郝三聘と馬呈文は敵前逃亡したとして斬刑に処した。

泗川戦役以降、戦意を喪失した明軍は交戦を回避するような態度を示し、秀吉の死に

よって撤退し始めた日本軍の意向と相まって講和交渉が公然と行われるようになった。

 

帰国後の慶長4年6月に義弘・忠恒親子の連名で高野山に建立した慶長の役の

供養碑には、南原の戦いの戦果について「慶長二年八月十五日於全羅道南原表

大明國軍兵數千騎被討捕之内至當手前四百廿人伐果畢」と触れた後、泗川の戦い

の戦果として「同十月朔日於慶尚道泗州表大明人八萬餘兵撃亡畢」とある。

 

一方、味方の被害として「右於度々戰場味方士卒當弓箭刀杖被討者三千餘人海埵

之閒 横死病死之輩具難記矣」とある。

現在でも宮崎県小林市にはこの泗川での戦勝を記念して「輪太鼓踊」という舞踊が

今に伝えられている。

 

^ 『島津家文書』 文禄5年(1596)12月5日付けの「唐入軍役人数船数等島津家分覚書」

によれば、慶長の役当時、朝鮮へ出征した島津軍は戦闘要員が5,868人、非戦闘員が6,565

人(夫丸3,900、加子2,000、道具衆665)であり、計は12,433人となっている。

更に島津以久が332人、伊集院忠棟が2,332人で、島津軍の総計は、15,097人であった。

朝鮮上陸から島津が大きく兵力を失うほどの敗戦はなかったため、泗川の戦いの頃にもほと

んどの軍勢を保存していたと推測される。

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1890 - 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布。

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教育ニ関スル勅語または教育勅語

明治天皇が近代日本の教育の基本方針として下した勅語。

1890年(明治23年)10月30日に下され、1948年(昭和23年)6月19日に国会

によって排除または失効確認された。

 

「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、教育の基本方針を示す明治天皇の勅語である。

1890年(明治23年)10月30日に下され、翌31日付の官報などで公表された。

国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するために発布された。

 

その内容は、肇国以来歴代天皇が形成に努めた道徳で、国民が忠義・孝行の道で

一致してきたことを「国体ノ精華」とし、教育の根源はこの点にあるとしている。

つづいて具体的に「父母孝行」「兄弟ニ友」「夫婦相和」「朋友相信」「恭倹(謙遜)」

「博愛」「就学就業」「知能啓発」「徳器成就」「公益世務」「遵法」「義勇」の12の徳目

を列挙し、もって皇室を扶翼すべきとしている。

 

日本国憲法が1947年(昭和22年)5月3日に施行された後、衆議院・参議院の

双方において、「神話的国体観」「主権在君」を標榜する教育勅語は「民主平和国家」

「主権在民」を標榜する日本国憲法に違反しているとされ、衆議院は憲法の最高法

規性を規定した日本国憲法第98条に基づいて、また参議院は日本国憲法の施行

に先行する形で教育基本法が施行された結果、教育勅語は既に失効していることを

明示的に確認し、それぞれ「教育勅語等排除に関する決議」と「教育勅語等の失効

確認に関する決議」を1948年6月19日に行った。

 

その後の日本国憲法下の日本国においては、詔勅に代わる国民国家の法規として

日本国憲法自体が最高法規となり(第98条:憲法の最高法規性)、日本国憲法に

沿った「教育基本法」などの各種法令が国民道徳の指導原理となった。

 

しかしその後も文部大臣天野貞祐の教育勅語擁護発言(1950年)や首相田中角栄

の勅語徳目普遍性発言(1974年)など、教育勅語擁護論は根強く、憲法改正や戦

後天皇制再検討論とも並行して教育勅語再評価の動きも多い。

 

なお、勅語自体に名前がついているわけではない。

「教育ニ関スル勅語」とは様々な勅語の中から区別しやすいように名前が付けられて

いるのであって、正式名称ではなく通称である。

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1922 - 首相に指名されたムッソリーニがファシスト党員とともに

ローマに入城。

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ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ

1883年7月29日 - 1945年4月28日。イタリアの政治家、独裁者。

 

イタリア社会党で活躍した後に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、国家ファ

シスト党による一党独裁制を確立した。

 

王政後期のイタリア政界でイタリア社会党(PSI)の政治家として活躍、第一次世界

大戦従軍後に同じ退役兵を集めてイタリア戦闘者ファッシ及び国家ファシスト党

(PNF)を結党し、そのドゥーチェ(統領)となる。

 

イタリアの政治学者ジョヴァンニ・アメンドラの全体主義、フランスの哲学者ジョル

ジュ・ソレルの革命的サンディカリスムなど複数の政治思想を習合させ、新たな

政治理論としてファシズム(結束主義)を構築した。

 

国家ファシスト党によるローマ進軍によって首相に任命され、1925年1月3日の

議会演説で実質的に独裁体制を宣言し、同年12月24日に従来の首相職より権

限の強い「首席宰相及び国務大臣」を新設し、同時に複数の大臣職を恒久的に

兼務することで独裁体制を確立した。

 

1936年5月5日、ムッソリーニがエチオピア帝国の併合を宣言するとローマの

群衆は「イタリア万歳」「ムッソリーニ万歳」の声で称えた。

征服によりヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王(サヴォイア家)が帝位を兼ねる

と(イタリア植民地帝国)、「帝国の建国者(フォンダトーレ・デッリンペーロ)」という

名誉称号をサヴォイア家から与えられた。

 

サヴォイア家の指導下にあった軍の掌握にも努め、大元帥(帝国元帥首席)に国王

・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任して統帥権を獲得した。

十数年にわたる長期政権を維持していたが、明暗を分けたのは第二次世界大戦に

対する情勢判断であった。

 

当初、第一次世界大戦のような塹壕戦による泥沼化を予想していたことに加え、

世界恐慌による軍備の脆弱化から局外中立を維持していた。だが一ヶ月間という

短期間でフランスが降伏に追い込まれる様子から、準備不足の中で世界大戦へ

の参加を決断した。

 

1943年7月25日、連合国軍の本土上陸に伴う危機感からファシスト党内でクー

デターが発生して失脚し、一時幽閉の身となったが、後にナチス・ドイツのアドルフ・

ヒトラーの命令によって救出された。

 

胃癌により健康状態が悪化していたために一旦は政界から引退したが、ロベルト・

ファリナッチと対立したヒトラーの要請によって表舞台に復帰した。

以後、ドイツの衛星国として建国されたイタリア社会共和国(RSI)及び共和ファシス

ト党(PFR)の指導者を務めるが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚する。

 

1945年4月25日、連合国軍に援助されたパルチザンに拘束され、法的裏付けを

持たない略式裁判によりメッツェグラ市で銃殺された。生存説を退けるために遺体

はミラノ市のロレート広場に吊されたのち、無記名の墓に埋葬された。

 

終戦後にネオファシストや保守派による正式な埋葬を求める動きが起き、カトリック

教会によって故郷のプレダッピオに改葬された。現代イタリアにおいても影響力を

持ち、共和ファシスト党(PFR)を事実上の前身とするネオファシスト政党「イタリア

社会運動」(MSI)、MSIが合流した国民同盟(AN)、自由の人民(PdL)、イタリア

の同胞(FdI)などが国政で議席を獲得している。

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1938 - アメリカでオーソン・ウェルズが、HGウェルズの小説をもとに、

火星人のニュージャージー侵攻を伝えるフェイクニュース『宇宙戦争』を

放送。本物のニュースと勘違いされ、一部のリスナーが警察、新聞社、

ラジオ局に電話をかける大パニックに。

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宇宙戦争

1938年にアメリカ合衆国で放送されたラジオ番組で、俳優オーソン・ウェルズが

H・G・ウェルズのSF小説『宇宙戦争』を脚色し朗読した。放送をきいた人々が

火星人の襲来を事実と信じこんでパニックが起きたという説は、現在では根拠の

ない都市伝説として否定されている。

 

概要

1938年10月30日、アメリカのラジオ番組『マーキュリー放送劇場』の中でハロ

ウィン前夜の特別番組として放送された。

番組は、音楽中継の途中で火星人襲来の緊急ニュースが報じられるという体裁に

なっており、物語の舞台はアメリカ合衆国に実在する地名に改変されていた。この

生放送があまりに真に迫っていたため、多くのリスナーは火星人侵略が進行中で

あると信じこみ、アメリカ各地でパニックが起こったと長く語られてきた。

 

戦争開始を間近にひかえた当時の緊張した国際情勢がアメリカ国民に「外からの

侵略」を警戒させていたこと、混乱して知人へ電話をかけるなど誤情報を拡散させ

た人々が多数にのぼったこと、などがパニックの原因として説明されてきた。

 

「パニック」説の登場[

この放送が「パニック」を引き起こしたとする唯一の学術的出典は、メディア研究草

創期の研究者ハドリー・キャントリルの『火星からの侵入』(1940) である。

キャントリルは放送直後の新聞報道をもとに、ラジオのリスナーが火星人の襲来を

事実と信じこんで全米で大パニックが起き、大群衆が逃げ回る中で死者まで出る

騒ぎとなったなどと主張した。またキャントリルは、火星人襲来がフィクションである

旨を告げる「お断り」をラジオドラマを聞いていた人々の多くは聞きのがし、これが

パニックにつながったと説明した。

 

キャントリルが後年、アメリカ社会心理学界の重鎮となり世界的に著名な研究者

となったことから、こうした主張は長く検証されないまま受け入れられ、ハリウッド

でも「名優ウェルズ」の実力を裏づける伝説的なエピソードとして扱われてきた。

 

都市伝説としての「パニック」

しかし近年の研究ではパニック現象が起きたとする主張は完全に否定されており、

番組を事実と信じたリスナーはほとんどいなかったことが明らかにされている。

全国の警察に膨大な量の問い合わせの電話があったことは事実であるが、それ

以上の行動が起こったという証拠はほとんどない。

 

ニューヨーク等で放送を聞いたショックにより病院へ運ばれた人がいたとか、ボル

チモアで聴取者が心臓発作を起こした、逃走しようとした市民が交通事故を起こし

たなどという話は事後の検証で全く確認できず、多くの新聞に掲載された「猟銃で

火星人を待ち受けるグローバーズ・ミルの農場主」の写真も放送翌日にカメラマン

の要請で撮られたヤラセ写真であることが判明している。

 

実際のパニックはごく僅かなもので、当時まだ若いメディアであったラジオに対して、

警戒心をあらわにしていた新聞がことさらにバッシングを行ったことが都市伝説化し

たものだとする説も有力である。

ラジオ番組『宇宙戦争』そのものの聴取率もきわめて低く、わずか2%にすぎなかった。

 

「ラジオドラマの放送直後、放送局や関係拠点を州兵が厳重警備した」「オーソン

・ウェルズや放送局を相手に大量の訴訟が起こされた」といったキャントリルが

引用した新聞報道も、まったくの誤報だったことが確認されている。

ウェルズ自身も後年、「パニックが起きたというのは新聞記者たちの思い込み

によるでっちあげだった」と回想している。

 

しかしパニックが起きたとするセンセーショナルな新聞記事があふれ、メディア

の中で事実にもとづかない都市伝説が形成されたこと自体は事実である。

またこの放送をきっかけにオーソン・ウェルズはハリウッドで急速に名声を獲

得してゆく。

 

都市伝説形成の背景

メディア研究者の佐藤卓己は最近の著作において、キャントリルの著作に書か

れた「パニック」説を紹介する自らのかつての記述を批判し、「本書の記述を鵜

呑みにしてきた私自身を含めてメディア研究者の責任は重い。(…)代表的著作

を無批判に信用してきたことは、知的怠慢と言うべきだろう」と反省の弁を述べ

ている。

 

その上で佐藤は、この「火星人襲来パニック」神話がいまも根強いのは、「商業

放送や大衆社会への文化批判、ニューメディアへの不信感など、それなりの需

要がいまもあるからだろう」と指摘している。

 

また佐藤は、放送業界にとっても、この都市伝説が「メディアの力が人々を弾丸

で撃つように強力な影響力を及ぼす」という「弾丸効果」と呼ばれるメディア理論

を補強するものであり、広告スポンサーに自らの力をわかりやすく説得できるた

め、その信憑性が疑われることなく長く受け継がれてきたのではないかと総括し

ている。

 

またラジオの社会的役割を調査したアメリカの社会学者グッドマンは、このパニック

伝説が、アメリカ社会における知識人と大衆との分断を感じる人々が数多くいるか

らこそ、その文化的断絶を裏づけるエピソードとして受容され、都市伝説として定着

してきたのだろうと述べている。

 

番組概要

原作は、19世紀末のイギリスに襲来した火星人の攻撃を描くH・G・ウェルズのSF

小説である。これを脚本家とオーソン・ウェルズ、CBSスタッフらが翻案しドラマに

使用した。放送は1938年10月30日の日曜日、夜8時から9時まで放送された。

放送の冒頭でアナウンサーが「これからH・G・ウェルズ原作のドラマを放送します」

と述べたあとオーソン・ウェルズの朗読が始まり、「地球人はきわめて長期にわたっ

て遠くの星から冷徹に観察されてきた」という原作の冒頭部分が読み上げられる。

 

続いてアナウンサーによるラジオ放送へ移り、天気予報を伝えたあと、「ニューヨー

クのパークプラザ・ホテルからの中継」として音楽番組が開始される(これらはすで

にラジオドラマの一部である)。

音楽が流れている最中にアナウンサーが割って入り、緊急ニュースを伝える。

シカゴ天文台の専門家らが、30分ほど前に火星の表面上でガス爆発のような現象

を確認した、という内容である。

 

再び放送は音楽中継に戻り、しばらく音楽が流れ続けるが、再びアナウンサーが割

り込み、きわめて重大な事件が発生したため予定を変更してニュース番組を放送す

ると述べる。続いてスタジオへ招かれた天文学者らの緊急インタビューが始まる。

(このうち一人をオーソン・ウェルズが演じている)。これら専門家の所属は「プリンス

トン大学」や「シカゴ大学」など実在する名前と架空の名称が巧みに組み合わされて

いた。

 

生中継で放送される専門家らの会話の中で、次々と新しいニュースが報じられる。

まずニュージャージー州の農村地帯に隕石のような物体が多数落下したと伝えら

れ、電話をつないだ現地の一般市民らが、おびえながら街が攻撃されていると

証言する。やがて攻撃が火星から襲来した火星人たちによるものだと断定される

と、放送スタジオは一気に緊迫した空気に包まれ、怒号が飛び交うなか、アナウン

サーや専門家らが混乱した口調で断片的なニュースを伝えつづける。

 

ラジオドラマでは実在するアメリカの村や町の名前がくりかえし使われ、発生中の

事件を現地から生放送するスタイルを取っていたことが番組の緊張感を高めるの

に大きく貢献しているとされる。当時はヨーロッパの戦場から現地リポートするラジ

オ放送が始まったころで、緊張した口調で現地の様子を伝えるリポーターや生放

送中のスタジオの混乱は、すでに多くのアメリカ市民にとってなじみのあるものだ

ったとも言われる。

 

またウェルズは、当時世界的な大事件として広く知られていたヒンデンブルク号爆

発事故のラジオレポートの録音を俳優によって再収録させ、ラジオドラマの中で使

用するなど、ドラマの真実らしさ・緊迫感を高めるため様々な工夫を凝らしている。

 

その他

ただし、1949年2月にレオナルド・パエスとエドゥアルド・アルカラスがエクアドル

のキトにあるラジオ・キトのために制作したスペイン語版では、市内で実際にパニ

ックを引き起こしたと伝えられている。

 

『警察と消防隊がエイリアンの侵略軍と交戦するために町から急いで出た』という

ラジオ放送が流され、のちにその内容が事実でないことが明らかになった後、パ

ニックは暴動へと変わった。

 

何百人もの人々が本放送前から数日間にわたり『エクアドル上空に出現した身元

不明の物体』に関する虚偽の報告をし、結果でっち上げに加担したラジオ局の地

元新聞オーナー、エル・コメルシオとラジオ・キトを攻撃。暴動の結果、パエスの

ガールフレンドと甥を含む少なくとも7人が死亡した。

 

この事件をうけラジオ・キトは1951年までの2年間放送を行わず、パエスはベネ

ズエラに亡命し1991年に亡くなるまでメリダ市に住んでいた。

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1944年 - ホロコースト: アンネ・フランクと姉のマルゴット・フランクが

アウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンへ移送される。

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アンネ・フランク最期の地

1944年11月にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から「回復可能な病人」

として3000人の女性収容者が移送されてきた。その中にアンネ・フランクとその3歳

年上の姉マルゴット・フランク(マルゴー)がいた。

 

彼女たちは数ヶ月間をこの収容所で過ごしたが、1945年2月末から3月下旬頃に

まずマルゴット、その翌日にアンネもチフスによって死亡した。 敷地内にはアンネと

マルゴットの墓碑が建てられている。ただし両者共にこの収容所で死亡したことはわ

かっているものの膨大な遺体、遺骨の中で特定することは難しかったため、墓碑の

下に遺体が埋葬されてはいない。

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1947 - 国際貿易会議で23か国が「関税および貿易に関する一般協定

(GATT) に調印。

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関税及び貿易に関する一般協定

1947年10月30日にジュネーヴにおいて署名開放された条約、またはこれに

基づいて事実上国際組織として活動した締約国団を指す。

GATT(ガット)の略称で呼ばれる。

 

1995年に、GATTの規定を事実上吸収したWTO協定が発効する時点で128

カ国が締約国であったが、正式には発効せず、暫定適用議定書(当初の加盟国

について)及び加入議定書(発足の後の加盟国について)に基づいて適用され

続けた。

 

この、1947年に署名開放されたGATTを改正した1994年の関税及び貿易に

関する一般協定は、WTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2

条第2項)、1947年のGATTと、WTO協定や1994年のGATTとは、別個の

条約である(WTO協定第2条第4項)。

 

改正前のGATTのことを「1947年のGATT」、改正後のGATTのことを「1994

年のGATT」と言い、区別される。

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1962 - 最高裁が吉田岩窟王事件の再審を決定。

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吉田岩窟王事件

大正時代に発生した強盗殺人事件。

この事件は名古屋の小売商が殺されたものであったが、殺人事件そのものよりも、

被疑者の虚偽の供述から吉田石松が警察に主犯として逮捕され、その後、吉田

石松が冤罪を訴え続け、事件発生から半世紀後に再審で無罪を勝ち取った事件

として紹介されることが多い。有名な冤罪事件の一つである。

 

この事件は冤罪事件として、日本弁護士連合会が支援していた。 

なお、本項の事件名は一般的に知られた通称の一つであり、他に昭和の岩窟王

事件日本岩窟王事件吉田翁事件吉田石松老事件など複数の名称で呼ばれる。

岩窟王とは、後述するように黒岩涙香の翻案小説『巌窟王』に由来する。

(原作はデュマの小説『モンテ・クリスト伯』)。

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1977 - ハワイアメリカ海兵隊員の宴会の席でトライアスロンが考案される。

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トライアスロン

水泳・自転車ロードレース・長距離走の3種目を、この順番で連続して行う

耐久競技であり、1974年アメリカで初開催された比較的新しいスポーツで

ある。

 

1977年、ハワイで、アメリカ海軍の軍人達が宴会の席上、「マラソン・遠泳

・サイクルロードレースのどれが最も過酷か」と議論、比較できず、「この

際まとめてやってみよう」と、翌1978年、同地でアイアンマン・トライア

スロンが行われた。

 

これがきっかけとなり、この時のレース距離スイム3.8km・バイク180km・

ラン42.195kmと制限時間17時間でのレースが、アイアンマン世界選手権

大会へと発展し、現在、世界各地でハワイ本戦出場をかけたアイアンマンレ

ースが開催されている。

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1993 - 沖縄県ウリミバエ根絶宣言

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 ウリミバエはミバエ類の一種で、ウリ類やトマトの果実を食い荒らす

害虫です。1919年(大正8)に八重山群島で確認されて以降、沖縄県全

域に広がりました。
 

日本国内での蔓延を防ぐため、沖縄からのウリ類などの出荷は「植物防疫法」

に基づき禁止または制限されていました。1972年(昭和47)の日本復帰を

契機に、沖縄県はミバエ類の根絶防疫事業に着手し、久米島で根絶実験事業

を始めました。

 

薬剤散布だけでは根絶は難しいことから、「不妊虫放飼法」という手法が用い

られました。これは、生殖機能を持たない不妊虫を大量に放ち、発生数を減ら

すというものです。継続的にこの方法を行うことにより、繁殖可能な成虫が

減少し、1978年(昭和53)に久米島でウリミバエの根絶が確認されました。
 

この成果をふまえ、1980年(昭和55)4月、沖縄県農林水産部の出先機関

として沖縄県ミバエ対策事業所が設置されました。同事業所は、国や県、

市町村の関連機関や、農業団体と連携をはかり、1986年(昭和61)年2月

に県内全域のミカンコミバエの根絶、1993年(平成5)10月には県内全域

のウリミバエの根絶を達成しました。

根絶に至るまで20年の月日を要し、約530億匹の不妊虫が放たれました。

(沖縄県公文書館より)

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1996 - 柳川喜郎御嵩町長が襲われ、頭蓋骨骨折の重傷を負う。

御嵩町長襲撃事件

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御嵩町長襲撃事件

1996年10月に岐阜県可児郡御嵩町で当時の御嵩町長が襲われた殺人未遂事件。

犯人が検挙されないまま、2011年10月30日に公訴時効が成立した。

 

1996年10月30日午後6時15分頃、柳川喜郎御嵩町長(当時63歳)が自宅

マンションのエレベーター付近で2人組の犯人に襲われて、頭蓋骨骨折の重傷を

負い、肺には穴が空いた状態で、午後6時半頃同町内の病院に運ばれ、一時重

体となった。その後約1ヵ月間入院した。

 

事件が発生した御嵩町では産業廃棄物処理場の問題があり、被害者の町長は

事件の1年半前に廃棄物処理場建設反対を掲げて当選した。さらに事件が発生

する直前に町長の自宅から盗聴器が見つかり、2グループ計11名が電気通信

事業法違反で逮捕されている。

 

盗聴グループの主犯格らは盗聴の目的を「反対派町長のスキャンダルを探すため」

と供述し、また寿和工業(御嵩町に処分場を計画した産業廃棄物処理業者)から数

千万円の現金を受け取っており(現金の趣旨は「盗聴の報酬ではない」と供述)、

盗聴事件が産業廃棄物処理場であることを見られたが、襲撃事件に結びつく証拠

はでなかった。

 

公訴時効成立までに岐阜県警は延べ15万5000人の捜査員を投入、最大180

人態勢で捜査をした。2011年10月28日に全国的に異例の時効に関する会見

に警察が応じ、被害者に謝罪したが、捜査課題は残ったとしながらも、捜査には

問題がなかったとした。

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2005 - 第二次大戦中のドレスデン爆撃により崩壊した聖母教会

再建され、聖別が行われる。

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ドレスデン爆撃

第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍

(イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって行われたドイツ

東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。

 

4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの

爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、

市の調査結果によれば死者数は25,000人だとされる。

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2023年、今日。

ステーキにわさびはよく合う。

美味であった。

 

 


10月29日

2023-10-29 20:09:09 | 日記

 

今日10月29日は、年始から302日目、年末まであと63日。

 

画像は、1977年3月時点のARPANETの論理マップ。

(1969年 - ARPANETによるコンピューター同士の接続が初めて行われる)

 

 

以下、今日の出来事一覧と、その後にメモを記す。

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437年 - 西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世が東ローマ皇帝

テオドシウス2世の皇女リキニア・エウドクシアと結婚。

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1268年 - シャルル・ダンジューによりシチリア王コッラディーノが斬首刑。

ホーエンシュタウフェン朝の男系が断絶。

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1675年 - ゴットフリート・ライプニッツが初めて積分の記号に

長いs(∫)を使用する。

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1746年 - ペルー中部でマグニチュード8.5の地震、約1万人が死亡。

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1787年 - モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』が

プラハでモーツァルト自身の指揮により初演。

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1859年 - スペイン・モロッコ戦争: スペインがモロッコに宣戦布告。

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1900年 - 龍岩浦事件: 

大韓帝国軍が当地根拠の義兵と韓国籍の義和団余力に弾圧。

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1918年 - 第一次世界大戦: 

ドイツ海軍の大洋艦隊に出撃命令が下されるが、多くの水兵が命令を拒否し、

出撃を断念。ドイツ革命のきっかけとなる。

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1922年 - イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が

ベニート・ムッソリーニに組閣を命じる。

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1923年 - トルコ共和国が成立。

ムスタファ・ケマル・パシャ(後のアタテュルク)が初代大統領に就任。

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1929年 - ウォール街大暴落:

悲劇の火曜日。ニューヨークのウォール街で5日前の「暗黒の木曜日」に

続いて株価が再度大暴落。

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1936年 - イラクでバクル・シドキ将軍によるクーデター。

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1950年 - 千葉県船橋市の船橋競馬場で日本初のオートレース開催。

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1953年 - 英連邦太平洋航空304便墜落事故。

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1955年 - ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が初演。

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1956年 - 第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発。

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1958年 - ソ連の詩人・パステルナークが、共産党からの圧力により

ノーベル文学賞受賞を辞退。

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1969年 - ARPANETによるコンピューター同士の接続が初めて行われる。

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1969年 - ソニー、松下電器、日本ビクター等が家庭用ビデオテープレコーダ

(U規格)の開発を発表。

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1969年 - 厚生省が発癌性の疑いがあるとして人工甘味料チクロの使用を禁止。

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1971年 - 許諾を得ないレコードの複製からのレコード製作者の保護

に関する条約(通称ジュネーブ・レコード条約)署名。

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1976年 - 山形県酒田市で火災発生(酒田大火)。

強風にあおられて約1200戸が焼失。

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1982年 - 東京・吉祥寺に前進座劇場が完成。

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1988年 - セガ・エンタープライゼスがメガドライブ(MEGA DRIVE)

を日本で発売。

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1991年 - アメリカの探査機「ガリレオ」が小惑星ガスプラの近くを通過。

史上初の小惑星の接近観測を行う。

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1998年 - Jリーグ・横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が発表される。

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1998年 - STS-95で77歳のジョン・ハーシェル・グレンが

スペースシャトル・ディスカバリーに搭乗。

最年長の宇宙飛行者となる。

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2005年 - デリーで爆弾テロ。62人が死亡。

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2008年 - アメリカ合衆国のデルタ航空とノースウエスト航空が合併。

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2011年 - 道東自動車道の夕張インターチェンジ - 占冠インターチェンジ間が

開通し、飛び地だった高速道路がつながった。

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2015年 - 中国共産党第十八期中央委員会第五回全体会議において

一人っ子政策の完全廃止を決定する。

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2018年 - 絢子女王と守谷慧との結婚式が明治神宮で挙式される。

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2018年 - インドネシア、スカルノ・ハッタ国際空港発のライオン・エア

610便が離陸直後に墜落(ライオン・エア610便墜落事故)。

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2022年 - 韓国のソウルで梨泰院群衆事故が発生。少なくとも158人が死亡。

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===メモ===============================

下線部分情報ソース不確定、以前日記に記載した件は再記せず。

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437 - 西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3が東ローマ皇帝

テオドシウス2世の皇女リキニア・エウドクシアと結婚。

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ウァレンティニアヌス3世の治世には西ローマ帝国の解体が際立っている。

439年にはアフリカ州がヴァンダル族によって征服され、446年にはブリタンニ

アを最終的に放棄、イスパニアとガリアの大部分を失い、蛮族の割拠に任せた。

 

シチリア島や地中海西岸は、ヴァンダル王ガイセリックの艦船によって掠奪されて

いる。西ローマ帝国の権勢が衰えるにつれて、納税がだんだんと耐え難いものに

なっていき、西ローマの残存する属州の忠誠心も悪化していった。

 

ウァレンティニアヌス3世の宮殿はラヴェンナにあったが、アッティラが現われ、

翌453年に急死するまでイタリア北部を荒らし回ると、ウァレンティニアヌス3

世はローマに逃げ出している。

 

以上の惨状の裏側で、451年にアエティウスがフン族の王アッティラに対して大勝

利を収め、同じくアエティウスによる、ガリア南部における西ゴート族に対する武勲

(426年、429年、436年)や、ライン川やドナウ川への侵入者に対する軍功(428

年 - 431年)も挙げることができる。

 

しかし、453年にアエティウスが主導して自身の息子ガウデンティウスとウァレンテ

ィニアヌス3世の皇女プラキディアの婚約が強引に成立すると、454年にウァレン

ティニアヌス3世は不信感からアエティウスを殺害した。

 

アエティウスを自身の手で殺した皇帝に対し、ある元老院議員が 「私は陛下の御

意思やお怒りについては何も存じません。ただ、私は貴方が御自身の左手で御自

身の右手を切り落としたことは知っています」と言った。

 

翌年3月16日、ウァレンティニアヌスは、アエティウスと同じく蛮族出身だったアエ

ティウスの後任者2名によって暗殺された。聖ジョバンニ・イン・ラテラノ教会前の

広場でウァレンティニアヌスが暗殺されたとき、その場に居合わせた西ローマ帝国

の人々のなかに皇帝を助けようとする者は誰もいなかったという。

35歳での死であった。

 

ウァレンティニアヌス3世は危機における統治能力を欠いていただけでなく、克己

心のなさと僻みやすい性格によって、帝国の危機をいっそう深刻にしたのであった。

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1675 - ゴットフリート・ライプニッツが初めて積分の記号に

長いs(∫)を使用する。

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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日

ドイツの哲学者、数学者。ライプツィヒ出身。

 

ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表

する哲学者である。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』、

『神義論』など。

 

哲学、数学、科学など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、

政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、

神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しよ

うとした。

 

その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微分記号、積分記号の考案、論理計

算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。

 

業績

哲学

「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。

その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、

数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問

として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。

 

学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけ

られるが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神

と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、

世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の

対立を回収しようとしたといえる。

 

モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる

作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較

しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後に

ロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。

これが公刊されるのはライプニッツの死後49年がたった1765年のことであった。

 

ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。

また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め

様々に言及されている。

さらにライプニッツは、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界に

おいて真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解

の先駆者と見なされるようになった。

 

このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後ア

ーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの

様相概念についての通説として定着した感があるほどである。

 

その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、

比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつある。

 

同時代の哲学者との関係

ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよい

くらい活動的であった。

 

特筆されるのは、1676年にバールーフ・デ・スピノザを訪問したことである。

そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題も

あり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といっ

た様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。

 

デカルトやスピノザの他に、マルブランシュの影響を強く受けている。

 

ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1,000人を優に超えると言われ

ている。王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目

されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワ

ーヌ・アルノー、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人と

しても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通

に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス、

最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場

ともなったサミュエル・クラーク(ニュートンの弟子であり友人でもあった)

などが知られている。

 

数学

微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号

法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分や積分の記号は彼

によるところが多い。しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日

の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。

 

ライプニッツによれば、それを用いることで、どんな推論も代数計算のように単純で

機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いることで、誤った推論は原理

的に起こり得ないようにすることができるというものであった。

 

彼は、優秀な人材が何人かかかって取り組めば、それを実現するのに5年もかから

ないと信じていたようであったが、現実にはそれを実現するには300年以上を要した。

彼は記号に取り憑かれていた人物で、論理学以外にも、例えば幾何学について、記号

を用いて機械的に証明をする構想を得ていた(これも後世には現実となった)。

 

上記の事柄に含まれるが、2進法を研究したのもライプニッツの業績である。

彼は中国の古典『易経』に関心をもっており、1703年、イエズス会宣教師ジョアシ

ャン・ブーヴェから六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出して

いた2進法の計算術があることを見いだしている。

 

また、彼は独自の機械式計算機を考案しており、その死まで独自に改良を加え続

けていた

 

ドイツ出身の悲哀

ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲

哀を味わわなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いこ

ろから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するが、当時のドイ

ツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた。

従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。

 

ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウ

グスト妃ゾフィーと、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセン王フリードリヒ1世妃)と、

エルンスト・アウグストとゾフィーの孫ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2

世)の妃のキャロライン(ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、ライプニ

ッツを尊敬した。

 

ライプニッツは、1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創

設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去

すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。

 

ハノーファーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルー

トヴィヒが同年にイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任すると、キャロラ

インも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っ

ていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。

 

ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。

晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分

を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。

その文通者は国内外あわせて千人を超えていた。

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1787 - モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』が

プラハでモーツァルト自身の指揮により初演。

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ドン・ジョヴァンニ

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1787年に作曲したオペラ・ブッファ

(あるいはドラマ・ジョコーソ)である。

 

初演は、作曲を依頼したプラハのエステート劇場(スタヴォフスケー劇場)で同年

10月29日にモーツァルト自身の指揮で行われた。また、ウィーンでの初演は

1788年5月7日であった。

 

『フィガロの結婚』はウィーンではそれほど評判にならなかったが、プラハでは大ヒット

し、作曲家が招かれることになった。モーツァルトは街行く人々が鼻歌にフィガロの

一節を歌うのに接して大いに感激し、父親への手紙にその評判を書き送っている。

その結果、翌シーズンのために新しい作品を依頼された結果できたのがこの作品

である。

 

初演に先立ち、書き掛けの原稿を持ってプラハにやってきたモーツァルトは、友人

のドゥシェク夫妻の別荘に滞在して最終仕上げを急いだが、前夜になっても序曲

だけは未完成であった。彼は眠気を押さえるために妻コンスタンツェの話を聞いた

り飲み物を作ってもらったりしながらほぼ徹夜で総譜を書き上げ、ようやく朝には

写譜屋に草稿を渡せたのだという。

 

台本は『フィガロ』に引き続きロレンツォ・ダ・ポンテによった。

ドン・ジョヴァンニはスペインの伝説の放蕩者ドン・ファンの物語の主人公である。

もっとも古い作品はティルソ・デ・モリーナ(1630年)といわれるが、ダ・ポンテは

オペラ化するにあたり、同時代のベルターティの先行作『ドン・ジョヴァンニまたは

石の客』(1787年)やモリエールの『ドン・ジュアン』(1665年)を参考にしたものと

思われる。特に、ドンナ・エルヴィーラはモリエールの創作と思われ、この作品か

らの影響は明らかである。

 

モーツァルトは、この作品を「ドラマ・ジョコーソ」と呼んだ。

ドラマが正調の悲劇を表すのに対しジョコーソは喜劇的の意味であり、作曲者が

この作品に悲喜劇両方の要素を込めたと解釈する研究者もいる一方、単に喜劇

の意味であるとする解釈もある。

 

このような議論が生ずる理由の一つは、第2幕の最後に置かれたドン・ジョヴァン

ニの地獄落ちに至る場面の強烈な音楽や、執拗に彼を追いかけるエルヴィーラの

行動と彼女に与えられた音楽に、通常のオペラ・ブッファらしからぬ悲劇性を感じ

取ることができるからであろう。

 

ウィーンでの初演にあたり、当地の聴衆の好みや歌手の希望に応じて一部改訂

して上演したが、今日ではプラハ版を元にした上で、ウィーン版で追加されたナン

バーのいくつかを追加して上演することが多い。

 

日本初演は1948年12月14日、東京・帝国劇場における藤原歌劇団の公演、

藤原義江、宮本良平、石津憲一、木下保ほかのソロ、マンフレート・グルリット指揮

東宝交響楽団によって実現した。

 

演奏時間は第1幕90分、第2幕80分で、合計約2時間50分

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1918 - 第一次世界大戦

ドイツ海軍大洋艦隊に出撃命令が下されるが、多くの水兵が命令を拒否し、

出撃を断念。ドイツ革命のきっかけとなる。

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ドイツ革命

第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を

発した大衆的蜂起と、その帰結としてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、

帝政ドイツが打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。

 

これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイ

マル共和国が樹立された。また、革命の指導者のクルト・アイスナー、ローザ・ルクセ

ンブルク、エルンスト・トラー、オイゲン・レヴィーネ、 カール・リープクネヒトらがユダヤ

人であったことから、ドイツ革命に反発した民族主義の右翼は、共産主義者とユダヤ

人による「背後の一突き」でドイツを敗北へと導いたとする見方を広め、革命後のドイ

ツでは反ユダヤ主義が高まっていった。

 

評価

ドイツ革命は、フランス革命より地味で、社会主義者からは「裏切られた革命」と映る

が、ローベルト・ゲルヴァルトは著作『史上最大の革命』で、ほぼ無血革命で、極右も

極左も民衆の支持を得られずに大統領エーベルトらの現実主義が機能し、家父長的

な帝政から女性参政権・検閲廃止・労働者権利拡大などの実現を評価して「史上最大

の革命」と評した。

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1923 - トルコ共和国が成立。

ムスタファ・ケマル・パシャ(後のアタテュルク)が初代大統領に就任。

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ムスタファ・ケマル・アタテュルク

1881年5月19日 - 1938年11月10日。

オスマン帝国軍の将軍、トルコ共和国の元帥、

初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。

 

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を

僚友たちとともに指導してトルコ共和国を樹立。宗教(イスラム教)と政治を分離

しなければトルコ共和国の発展はないと考え、新国家の根幹原理として政教分離

(世俗主義)を断行。

 

憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語表記をアラビア文字から

ラテンアルファベットへ変更、一夫多妻禁止や女性参政権導入、スルタン制を廃止

などトルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する

「アタテュルク」の称号を贈られた。

 

現代トルコの国父(建国の父)とも呼ばれる。

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1956 - 第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発。

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第二次中東戦争

1956年10月から同年11月6日にかけて勃発した中東戦争である。

スエズ戦争」や「シナイ作戦」などとも呼ばれる。

 

この戦争はエジプトがスエズ運河を国有化し、それを妨害しようとした

イギリスとフランスがかねてよりエジプトと対立していたイスラエルと

密約を結んでエジプトに侵攻した事で開戦。当初は軍事力で勝る以英仏側

が有利に戦闘を進めたが、エジプト側が粘り強く応戦した事やその戦争行

為に対して国際社会からの批判が高まった事で国際連合(国連)が介入し

た他、当時冷戦中であったアメリカ合衆国(アメリカ)とソビエト連邦

(ソ連)の思惑が図らずも一致し、英仏などに圧力をかけた事もあり停戦。

 

その後英仏軍は同年11月までに、イスラエル軍は翌1957年の3月までに

撤退。第一次国際連合緊急軍が展開した。またエジプトは強力なイスラエル

や英仏の勢力を撃退したとして他のアラブ世界からの尊敬を集め、アラブ

世界や非同盟諸国内での発言力を高める結果となった。

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1958 - ソ連の詩人・パステルナークが、共産党からの圧力により

ノーベル文学賞受賞を辞退。

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ボリス・レオニードヴィチ・パステルナーク

1890年2月10日 - 1960年5月30日

ロシアおよびソ連の詩人、小説家、文学翻訳者、作曲家。

詩集『我が妹 人生』はロシア語で出版された文学作品で最も影響力を持つ作品の

一つである。また、ゲーテ、シラー、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ、ウィリアム・シ

ェイクスピアの作品のロシア語訳は、長年にわたってロシアの民衆に支持されている。

 

ロシア国外においては、『ドクトル・ジバゴ』の作者として最も名高い。

『ドクトル・ジバゴ』はソ連において発禁処分となり、密かに国外に持ち出され、1957

年にイタリアで刊行された。

 

パステルナークは1958年にノーベル文学賞の受賞が決定したが、『ドクトル・ジバゴ』

の出版とパステルナークのノーベル賞受賞は共にソ連共産党にとって侮辱的で許しが

たい出来事であった。ソ連国家保安委員会(KGB)とソ連作家同盟による反対運動の

末、パステルナークは受賞辞退に渋々同意することとなった。

 

ノーベル委員会への受賞辞退の手紙では、ソ連当局の反応が辞退の唯一の理由

であると述べられていた。パステルナークの受賞に対する反対活動はソ連の国際

的信用を傷つけることとなった。

 

彼は今日までロシア文学界を代表する作家である。

さらに、パステルナークが始めた反体制活動はアレクサンドル・ソルジェニーツィン

やその他の反体制活動家によって引き継がれ、洗練され、拡大していった。

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1969 - ARPANETによるコンピューター同士の接続が初めて行われる。

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ARPANETAdvanced Research Projects Agency NETwork)

(高等研究計画局ネットワーク)

 

世界で初めて運用されたパケット通信コンピュータネットワークであり、インターネット

の起源でもある。

 

アメリカ国防総省の高等研究計画局(略称ARPA、後にDARPA)が資金を提供し、

いくつかの大学と研究機関でプロジェクトが行われた。

ARPANETのパケット交換はイギリスの科学者ドナルド・デービスとリンカーン研究

所のローレンス・ロバーツの設計に基づいていた。

 

歴史

パケット交換は今日データ通信の基盤として世界中で使われているが、ARPANET

の構想が持ち上がった当時は新しい概念だった。パケット交換が登場する以前、

音声通信やデータ通信は回線交換が基本であり、電話の回線網のように電話をか

けるたびに通信局から通信局まで専用の電気的接続がなされていた。

この場合の通信局は電話やコンピュータである。

 

この(一時的な)専用回線は多数の中継局間の回線から構成されており、発信局

から受信局までを結ぶようになっている。パケット交換では、データシステムは単

一の通信リンクを使って複数のマシンと通信する。データはデータグラムに分割

され、パケットとしてそのネットワークのリンク上を転送される。

パケットは小さいので、リンクはすぐに空き状態となり、別のパケットを転送可能と

なる。そのため、郵便ポストが様々な宛先の手紙を出すのに使えるようにリンクを

共有できるだけでなく、各パケットはそれぞれ独自の経路で転送される。

 

概念の提唱

ARPANETに直接影響を及ぼしたコンピュータネットワークの概念の提唱を行った

のはBBNテクノロジーズのJ・C・R・リックライダーによるタイムシェアリングシステ

ムによるネットワークである。

 

リックライダーの1960年の論文、「人間とコンピュータの共生」の中で早くもリソー

スを共有するためのタイムシェアリングシステムのネットワークの可能性について

言及している箇所が見られる。

 

又リックライダーがARPAのIPTO部長に就任した後の1963年にIPTOの助成

機関宛に送ったメモランダム「銀河間コンピュータネットワークメモランダム」の中

ではIPTOの将来的な目標として相互の研究内容の情報を共有するためにコン

ピュータネットワークを構築することの提案を行っている。

これには現在のインターネットを構成するほとんど全てのアイデアが含まれていた。

 

リックライダーは計画が実施される前にARPAを去ったが、その構想はアイバン・

サザランド、ロバート・テイラーといったIPTOに入社した彼の後継者達によって受

け継がれる事になった。

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2022 - 韓国ソウル梨泰院群衆事故が発生。少なくとも158人が死亡

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ソウル梨泰院雑踏事故

2022年10月29日の夜に韓国の首都・ソウル特別市の繁華街・梨泰院でハロ

ウィン時季の混雑の中で発生した群衆雪崩による事故。

 

2023年1月3日時点の行政安全部の統計上では、事故生還後の2022年12

月13日に自殺した1人も含めて159人が死亡している。

日本のマスメディアは、「ソウル雑踏事故」「ソウル群集事故」「イテウォン転倒事故

などとも呼称している。韓国では、梨泰院圧死事故もしくは梨泰院惨事などと呼ば

れている。

 

梨泰院は、ナイトクラブやバーなどが立ち並ぶ韓国では屈指の繁華街であり、日本の

渋谷と同様にハロウィンの時期に仮装した若者が多く訪れる場所として有名である。

ドラマ『梨泰院クラス』の舞台であり、ドラマ上でもハロウィンが描かれている。

 

事故当日はハロウィンを翌々日に控え、また新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)

の流行を受けた規制が3年ぶりに解除されたことから、周辺には10万人以上が訪れ、

複数のパーティーが行われていた。最寄りのソウル交通公社6号線梨泰院駅では事

故当日に下車した客が8万人を超え、前年の2.6倍、COVID-19流行以前の2017 –

2019年に比べても約2万人多い状態だった。

 

韓国の法令では、大人数イベントの主催者には安全管理や安全対策計画の提出が

義務づけられているが、ハロウィン自体に主催者はおらず、各店舗が個別に小規模

のイベントを開く状況だったため、法令に基づいて安全管理を命じるべき民間事業者

はいなかった。

 

地元警察署は群衆事故の発生を懸念していたが、その懸念は事故当日の警備計画

には反映されず、ソウル市内のほかの場所で行われたデモに約6,000人の警察官

を派遣した一方で、梨泰院には130人ほどしか派遣していなかった。

 

梨泰院を管轄する龍山区では、ハロウィンに関する対策会議を開いていたものの、

事故を想定した安全管理対策が議論された記録は無い。区は職員を現場付近に

派遣していたものの、人数が足りず、十分な対応ができなかったとしている。

警備の方法についても、拡声器を用いて警告するばかりで、具体的な指示などが

無かった点を指摘する意見や、さらにはハロウィンということもあり、「多くの人が

警察官に仮装してさらに紛らわしかった」と証言する声もあり、規制緩和とハロウィ

ンによる大規模な混雑を予見できず、当局による警備体制が不十分であったと

指摘されている。

 

発生

現場は幹線道路に沿う梨泰院駅の1番出口付近から、ハミルトンホテルの西側を

通り、「世界料理街」の丁字路へと南北につながる幅3.2メートル、長さ40メートル、

傾斜度10%の狭い坂で10月29日の事故当時、駅から世界料理街に向かう人と

世界料理街から駅に向かう人がひしめき合っていた。数千人の人波があり、周辺も

含めれば数万人が集まっていたとみられる。事故の約1時間前には、周辺は身動

きの取れないほどの大混雑となっていた。

 

目撃者の証言によると22時15分ごろ、突然、坂の上の方から次々と折り重なる

ように人々が倒れたと見られる。人々は押され、坂の中ほどから少し上の部分の

延長5.7 m、幅員3.2 m の面積18.24 m2内の人々が特に強い圧迫を受け、

結果、300人以上が折り重なり、多数が呼吸困難に陥った。

1m2あたり17人がいた計算となる。

 

同じ頃、多数の人が倒れているという事故の通報が消防当局に入った。

現場にいた人は「みんなで『押さないで』と大きな掛け声をあげたが突然、悲鳴に

変わった」「5、6人が折り重なっていた」などと証言している。発生から1時間で

消防には「十数人が下敷きになっている」などの通報がおよそ80件寄せられた。

 

専門家によれば、群集雪崩に巻き込まれた人々が胸や腹を強く圧迫され、立っ

たまま意識を失い死亡した、あるいは長時間にわたり圧迫され、呼吸や血液の

循環不全を起こす人がいた可能性が指摘されている。

 

10月29日23時30分の時点で、梨泰院の中心にあるハミルトンホテルの近く

で数十人が心肺停止状態にあり、駆けつけた救急隊員や市民らが心肺蘇生措

置を行っていた。

 

流言飛語

当時の状況について「下り坂が始まる地点で(仮装をした)誰かが踊り始め、あっという

間に人が集まった」「現場に有名なインフルエンサーが現れたと噂され、人々が集まっ

た」「ウサギのヘアバンドをした男が『押せ』と叫んだ」といった目撃情報が報じられたが、

事故との関連性は明らかでない。

 

ウサギのヘアバンドをした男性については事故とは無関係なことが確認された。

群集事故に詳しい大阪工業大学の吉村英祐特任教授は、当時の状況について「すで

に非常に高密度で、押す人自体が押せるような状態ではない。仮に押したとしても、

その人の力くらいで倒れることはない」と述べ、人が押したから倒れたというのは考え

にくいと指摘した。

 

朝鮮語圏のネット上では特定の人物の行為が原因だとする「犯人捜し」が過熱し、

個人攻撃された人物が事故発生時には現場を離れていたとして「魔女狩りはもう

やめてほしい」と訴える事態にもなっている。

 

過去の群集事故でも、2001年7月に日本で発生した明石花火大会歩道橋事故

では「茶髪の青年が無理に押したので群衆雪崩が発生した」などのデマが拡散さ

れたことがあった。

 

具体的に事故が発生した要因はソウル警察庁に捜査本部を設けて、事故経緯の

究明に努めるとしている。ソウル警察庁は11月1日現在で人々が撮影した動画

や防犯カメラ50台以上の映像を確保したが、犯罪容疑の適用を検討するほどの

対象は見つかっていない。

 

韓国警察庁・サイバー対策状況室は、インターネット上での誹謗中傷に関して11

月1日21時までに15件について犯罪捜査の立件に向けて調査し、また158件

の投稿の削除あるいは遮断を要請している。

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2023年、今日、梨泰院群衆事故の一周忌。

韓国では様々な追悼の催しがあり、現地では厳しい警備体制が敷かれて

いるなどのニュースに混じって、ハロウィンに対する去年までのムーブ

メントがかなり下火になっているというものがあった。グッズなどの販

売区画が無かったり、去年の何分の一程度の狭い区画だけになっている

という。このまま韓国ではハロウィンというイベントそのものが消滅す

るのではないか、と書かれていた。(東洋経済オンライン)

 

 

 

 


10月28日

2023-10-28 23:35:48 | 日記

今日10月28日は、年始から301日目、年末まであと64日。

画像は、アメリカ、自由の女神像。

 

以下、今日の出来事一覧と、その後にメモを記す。

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306 - マクセンティウスがローマ皇帝就任を宣言。

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312 - ミルウィウス橋の戦い

コンスタンティヌス1マクセンティウスを破り、西ローマ帝国の

単独皇帝になる。

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1628 - ユグノーの反乱ラ・ロシェル包囲戦が終結。

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1707(宝永4年10月4日) - 宝永地震

東海道・紀伊半島・四国に被害がおよび、2万人以上が死亡。

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1776 - アメリカ独立戦争: ホワイト・プレインズの戦い。

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1876 - 萩の乱

山口県萩で、不平士族らが、吉田松陰門下生として名高い前原一誠を擁して

反政府反乱を起こす。熊本の神風連の乱秋月の乱に呼応する形で挙兵。

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1882 - 田鎖式速記の考案者・田鎖綱紀が東京日本橋で日本初の

速記講習会を開催。

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1886 - ニューヨーク自由の女神像の除幕式が行われる。

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1891 - マグニチュード8.0の濃尾地震が発生。

死者7273、全壊・焼失家屋142,000戸。

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1893(ユリウス暦10月16日) - サンクトペテルブルクで

チャイコフスキー交響曲第6が作曲者の指揮により初演。

なお、初演から9日後の11月5日、チャイコフスキーは死去した。

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1900 - 1900年パリオリンピックが閉幕。

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1908 - ドイツ皇帝ヴィルヘルム2と英軍大佐エドワード・ワートリー

対談がデイリー・テレグラフ紙に掲載、問題化。デイリー・テレグラフ事件

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1918 - チェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国からの独立を宣言。

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1919 - アメリカ議会でボルステッド法(国家禁酒法)が成立。

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1922 - ベニート・ムッソリーニ率いる黒シャツ隊がローマ進軍を開始。

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1940 - 第二次世界大戦: イタリアがアルバニア経由でギリシャに侵攻。

ギリシャ・イタリア戦争が勃発。(ギリシャの参戦記念日)

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1943 - フィラデルフィア計画:

護衛駆逐艦エルドリッジを用いたステルス化実験が行われたとされる。

(都市伝説)

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1949 - 1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故

パリ発ニューヨーク行きのエールフランス機がアゾレス諸島付近で墜落し、

ヴァイオリニストジネット・ヌヴーとプロボクサーマルセル・セルダン

が死亡。

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1951 - 日本人が参加する初のプロレスの試合・力道山対ボビー・ブランズ戦

が行われる。

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1956 - 戦中に火災で焼失した大阪市の通天閣が開業。

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1962 - キューバ危機: 

ソビエト連邦指導者ニキータ・フルシチョフがキューバからの

ミサイル撤去を発表。

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1965 - 2バチカン公会議でキリスト教以外の諸宗教に関する教会の

態度についての宣言(ノストラ・エターテ)を発表。

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1966 - 集英社から週刊プレイボーイ創刊。

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1967 - 台風34が愛知県に上陸。

1990年11月下旬に台風28号が上陸するまでは、日本への上陸日時が

最も遅い台風であった。

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1971 - イギリスが国産ロケットブラック・アローにより

人工衛星プロスペロを打ち上げ。

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1972 - ジャイアントパンダが日本に初上陸。

中華人民共和国から日本に贈られたパンダ「カンカン」「ランラン」

上野動物園に到着。同年11月5日から一般公開された。

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1979 - これまで噴火の記録がなかった御嶽山で水蒸気爆発。

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1981 - ロッキード事件裁判で榎本敏夫首相秘書官の前夫人が証言。

直後の「ハチの一刺し」発言が流行語に。

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1982 - スペイン総選挙で社会労働党が圧勝し、38年ぶりの革新政権が成立。

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1984 - 天皇賞(秋)ミスターシービーが優勝し、

シンザン以来の四冠馬となる。

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1990 - フジテレビのテレビアニメちびまる子ちゃんの視聴率が

39.9%を記録し、視聴率調査の方式が現在の形に移行されてからの

歴代テレビアニメ番組の1位になる。

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1993 - ドーハの悲劇。1994 FIFAワールドカップアジア最終予選で、

サッカー日本代表はロスタイムでイラクに得点され、引き分けたため

W杯出場を逃す。

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1995 - バクー地下鉄で火災が発生。289人が死亡する惨事となった。

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1999 - 福岡ダイエーホークスが九州移転後、初の日本一。

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2007 - アルゼンチン前大統領ネストル・キルチネルの妻

クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが大統領選挙で当選。

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2008 - 日経平均株価が取引中にバブル崩壊後の最安値699490を記録。

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2009 - コンステレーション計画: 使い捨て型ロケット「アレスI-X」が、

ケネディ宇宙センター39B発射台から打ち上げられた。

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2022 - 自宅でナンシー・ペロシ連邦下院議長とその夫のポール・ペロシ

襲撃を受ける事件が発生ポール・ペロシ襲撃事件)。

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===メモ===============================

下線部分は情報ソース不確定。以前の日記記載の件は再記せず。

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306 - マクセンティウスローマ皇帝就任を宣言。

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コンスタンティヌス帝はマクセンティウスに勝利した後、マクセンティウス

は残酷で無能な暴君だったという中傷を計画的に広めた。ラクタンティウス

の資料のような早い時期の歴史資料では、キリスト教を迫害した皇帝にマク

センティウスは含まれていないが、コンスタンティヌス帝のプロパガンダの

影響で、後の時代にはマクセンティウスをキリスト教の敵と見なす伝統が

生まれた。

 

このイメージが、歴史資料のほとんどに影響して今日まで残っている。

ただし20世紀になってからは、硬貨や碑文など文学資料以外の資料の

調査による中立的な研究も行われている。

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1628 - ユグノーの反乱ラ・ロシェル包囲戦が終結。

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ラ・ロシェル包囲戦

フランス国王ルイ13世とユグノー(フランスのプロテスタント)との内戦においてフラ

ンス西部のラ・ロシェルで1627年から1628年に行われた戦いである。

 

この包囲戦はフランスのカトリックとプロテスタントとの対立の結果引き起こされ、ルイ

13世とカトリックの勝利に終わった。

 

背景

ユグノー戦争の結果、アンリ4世が発したナント勅令によって、ユグノー(フランスの

プロテスタント)には多くの特権が与えられた。ラ・ロシェルはユグノーの自治のもと

で彼らの本拠地となった。この地はユグノーの海上勢力の中心であり、中央政府に

対する抵抗の拠点ともなっていた。

 

1610年にアンリ4世が暗殺され、母后マリー・ド・メディシスの摂政の元でルイ13

世が即位すると親カトリック政策に回帰し、プロテスタントの立場は弱まった。

この為、ロアン公アンリとその弟のスービーズ公はプロテスタントの抵抗勢力を組織

し始め、1621年にユグノーの反乱を引き起こした。

 

ルイ13世はサン=ジャン=ダンジェリを包囲して陥落させ、ラ・ロシェルの封鎖を

図ったが、戦況は膠着しモンペリエ協定が結ばれて終わった。

1625年、ロアン公とスービーズ公は再び武装蜂起を起こすが、国王軍によって

ラ・ロシェル沖合にあるレ島を攻略されてしまう。これらの出来事の後、ルイ13世

はユグノーの制圧を望み、宰相リシュリュー枢機卿はユグノー鎮圧こそが王国の

最優先課題であると宣言する。

 

陥落

イギリスはラ・ロシェルを救援すべく2度に渡り艦隊を派遣している。

デンビー伯爵ウィリアム・フィールディング率いる艦隊が1628年4月に出発したが、

交戦することなくポーツマスに帰還した(第二次ラ・ロシェル派遣軍)。デンビー伯に

ついては「彼は国王の船を戦闘で危険にさらす権限を与えられておらず、不面目に

もポーツマスへ帰港した」と述べてられている。

 

リンジー伯爵ロバート・バーティー率いる軍艦29隻、商船31隻からなる艦隊が、

1628年8月に出発した(第三次ラ・ロシェル派遣軍)。9月にイギリス艦隊はラ・

ロシェルの救援のため、国王軍陣地への砲撃の後に堤防の突破を試みたが

失敗に終わり撤退している。絶望したラ・ロシェルは10月28日に降伏した。

 

戦後

ラ・ロシェルの市民はイギリスからの救援が次第に絶望的になっていく中、ジャン

・ギトン市長の下で14ヶ月間抵抗を続けた。包囲戦の戦闘と飢餓と疫病によって、

ラ・ロシェルの人口は2万7000人から5000人に減少している。

 

降伏は無条件であり、アレス和議によりユグノーは地域的、政治的そして軍事的

諸特権を失ったものの、ナント勅令によって許された信仰の自由だけは残された。

だが、彼らは国王の慈悲の下に残されただけであり、ルイ14世がナント勅令を

撤廃して弾圧を始めた時には抵抗する術はなかった。

 

宗教的な側面の他にラ・ロシェル包囲戦の結果は国王がフランス全土を掌握して、

地方の抵抗を許容しない強力な中央政府をつくる画期となった。

直接的な影響としては、この戦いは絶対王政の確立の顕在化であるが、現在に

続くフランスの国体への長期的な影響もある。

 

フランスの哲学者ルネ・デカルトが1627年に包囲中の戦場を訪れたことが知られ

ている。この包囲戦はジャック・カロなど数多くの画家によって描かれている。

また、ラ・ロシェル包囲戦はアレクサンドル・デュマ・ペールの『三銃士』の歴史的

背景ともなっている。

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1707宝永4104日)宝永地震

東海道紀伊半島四国に被害がおよび、2万人以上が死亡。

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宝永地震

江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖

(北緯33.2度、東経135.9度 )を震源域として発生した巨大地震。南海トラフの

ほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る

日本最大級の地震とされている。

宝永の大地震宝永大地震亥の大変とも呼ばれる。

地震の49日後に起きた宝永大噴火亥の砂降りと呼ばれる。

 

江戸時代の南海トラフ巨大地震

南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、江戸時代には宝永

地震のほか、嘉永7年(1854年)に連発した安政東海地震および安政南海

地震が知られている。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」

へと改元するに至らしめた相模トラフ巨大地震の一つである元禄地震が発生

している。

 

慶長9年(1605年)の慶長地震もかつては宝永地震のように東海道・南海道

に亘り、震源域がほぼ宝永地震に匹敵する津波地震と考えられていた。一方で、

慶長地震の震源域が南海トラフ全域に亘るものならば、僅か100年余の超巨大

地震の再来はエネルギーの蓄積の速さを意味し、今後襲うであろう将来の超巨

大地震の見積もりにも関係する話である。

 

また、これを南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点があり、南海トラ

フ沿いの地震ではないとする見解も出されている。仮に慶長地震が伊豆小笠原

海溝沿いが震源域ならば、地震動が弱い点、歪み蓄積時間の問題は氷解する。

 

また、安政地震までの再来間隔147年は従来の定説では、1361年正平地震

以降の南海トラフ巨大地震の平均再来間隔117年より長いと考えられてきたが、

安政地震については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この

再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になると

の見解もある。

 

本地震について記され現在まで残された古文書は、幕末に発生した安政地震

に比して量・質とも遥かに及ばず、しかも安政地震後に当時の人々が過去を振り

返って記述したものも少なくなく、地震当時に記録された史料は少ない。

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1886年 - ニューヨークの自由の女神像の除幕式が行われる。

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自由の女神像

アメリカ合衆国のニューヨーク港内、リバティ島にある像である。

正式名称は世界を照らす自由 (Liberty Enlightening the World) 。

 

自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援

したフランス人の募金によって贈呈され1886年に完成した。

アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えるこ

となく世界各地から観光客が訪れている。

 

銅製だが、緑青のために緑色になっている。

像の頭の部分までの高さは33.86メートル(111.1フィート)、台座からトーチ

(たいまつ)までの高さは46.05メートル(151.1フィート)、台座の高さは47

メートル(153フィート)、台座部分も含めると93メートル(305.1フィート)、

総重量は225トンである。

 

右手には炎を純金張りで象られたたいまつを空高く掲げ、左手にはアメリカ

合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された

銘板を持っている。

 

足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、全ての弾圧、抑圧からの解放と、

人類は皆自由で平等であることを象徴している。

女神がかぶっている冠には七つの突起がある。これは、七つの大陸と七つ

の海に自由が広がるという意味である。

 

また「女神」である由来は、フランス語で「自由」を表す名詞 "la liberté" が女性

名詞であることにある。

 

台座部分にはエレベータが設置されている。

エレベータの最上階(10階)からは像の中のらせん階段を上がって王冠部分

の展望台に登ることができる。2001年9月11日に発生したアメリカ同時多

発テロ事件後は安全のため、同展望台は閉鎖されていたが、2009年7月

4日、独立記念日に合わせて約8年ぶりに再開された。

 

再開後は、同展望台に入場できる人数が1時間あたり30人まで、1日240

人までと制限されたほか、入場には予約が必要となった。台座部分の内部は

アメリカの移民の歴史について展示する博物館になっており、エマ・ラザラス

が書いた「新しい巨像」という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板

が設置されている。

 

たいまつは灯台とするためのものであったが、雲に反射して船舶運航の妨げ

になるということで中止された。また、像はもともと灯台であったためニューヨ

ーク港を向いている。

 

なお、自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソン

リーの間に交わされた贈り物であった。台座の記念盤にはそれに関連する文

言が刻まれている。

 

歴史

アメリカ合衆国の独立100周年(1876年)を祝い、フランスの法学者で政治家

のエドゥアール・ド・ラブライエが南北戦争後の混乱に苦しんでいたアメリカに対

し、両国の深い友情の証となりうるモニュメントの寄贈を提案し、寄付の募集を

呼びかけた。

 

設計は1874年にラブライエからフレデリク・バルトルディに依頼された。

構造設計にはパリのノートル・ダム大聖堂の修復に関わったヴィオレ・ル・デュク

(1879年没)やエッフェル塔で知られるギュスターヴ・エッフェルが関わった。

 

像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵『民衆を導く自由の女神』とバルトル

ディの母親をモデルにしたものである。資金集めのため記念像建造キャンペー

ンとして、1876年のフィラデルフィア万博にトーチを掲げる右腕の一部、1878年

の万国博覧会であるパリ万博に完成頭部が展示され、大きな反響を得た。

 

宝くじも発行され、約40万ドル相当の寄付金を集めた。

1884年にフランスパリで仮組み完成され、214個に分解してフランス海軍軍用

輸送船イゼール号でアメリカに運ばれた。

 

台座部分の建設資金は、「ニューヨーク・ワールド」紙社主ジョーゼフ・ピューリツ

ァーが資金集めのキャンペーンを行い、アメリカ国民の寄付によってまかなわれ

た。台座部分の設計はアメリカのリチャード・ハントが行った。

 

1886年10月28日に除幕式が行われた。

当日はあいにくの雨であったが、グロバー・クリーブランド大統領をはじめ100

万人以上の観衆が集まり、顔にかけられたフランス国旗を製作者のバルトル

ディが除幕した。

 

その後、像が置かれることになったリバティ島(当時はベドロー島と呼ばれてい

た)の庭園の設計はペイリーパークの設計で知られるランドスケープアーキテ

クトのロバート・ザイオンが担当した。

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1893ユリウス暦1016サンクトペテルブルク

チャイコフスキーの『交響曲第6』が作曲者の指揮により初演。

なお、初演から9日後の115、チャイコフスキーは死去した。

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交響曲第6番ロ短調 

ピョートル・チャイコフスキーが作曲した6番目の番号付き交響曲であり、彼が完成

させた最後の交響曲。『悲愴』という副題で知られる。

 

チャイコフスキー最後の大作であり、その独創的な終楽章をはじめ、彼が切り開いた

独自の境地が示され、19世紀後半の代表的交響曲のひとつとして高く評価されて

いる。

 

副題については、弟モデストが初演の翌日に自身が「悲劇的」という表題を提案

したが、作曲者はこれを否定し、次に弟が口にした「悲愴」という言葉に同意した

と伝えているが、これはモデストの創作で事実ではない

 

実際は自筆譜、楽譜の出版をしていたピョートル・ユルゲンソンがチャイコフスキ

ーに送った手紙で「《第6悲愴交響曲》よりも《交響曲第6番 悲愴》とするべきだ

と思います」と書いているなど、少なくとも曲が完成した9月には作曲者自身が

この題名を命名していたことが分かっている。

 

また初演のプログラムに副題は掲載されていないが、チャイコフスキーがユルゲ

ンソンに初演の2日後に送った手紙で「Simphonie Pathétique」という副題をつ

けて出版することを指示している。

 

モデストはこの曲のテーマとしていくつかの証言を残しているが、作曲者自身は

「人生について」としか語っていない。リムスキー=コルサコフの回想によれば、

初演の際、演奏会の休憩中にチャイコフスキーにその点を確かめてみた時には

「今は言えないな」と答えたと言う。

 

チャイコフスキー自身は世評を気にしがちなタイプだったが、ことこの曲について

は最終楽章にゆっくりとした楽章を置くなどの独創性を自ら讃え、初演後は周り

の人々に「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と語るほどの

自信作だった。

 

コンスタンティン・コンスタティノヴィチ・ロマノフ大公爵に宛てた手紙(1893年9月

21日付)では「私はこの交響曲に魂のすべてを注ぎこみました……。(中略)形式

としては独創性を示しており、フィナーレは普通よくあるアレグロではなく、アダー

ジョのテンポで書いています。」

 

チャイコフスキーの又甥のゲオルギイ・カルツォーフの妻で歌手であり、作品47が

献呈されているアレクサンドラ・V・パナーエワ=カルツォーワの回想録「P・I・チャイ

コフスキイの思い出」には、チャイコフスキーが本作の初演後、従姉妹のアンナ・ペト

ローヴナ・メルクリングを家まで送る道中、アンナ・ペトローヴナに対して「新作の交響

曲が何を表現しているか分かったか」と尋ね、彼女が「あなたは自分の人生を描いた

のではないか」と答えたところ「図星だよ」と言ってチャイコフスキーは喜んだと記して

いる。

 

チャイコフスキーはアンナ・ペトローヴナに対して「第1楽章は幼年時代と音楽への

漠然とした欲求、第2楽章は青春時代と上流社会の楽しい生活、第3楽章は生活

との闘いと名声の獲得、最終楽章は〈De profundis(深淵より)〉さ。人はこれで全て

を終える。でも僕にとってはこれはまだ先のことだ。僕は身のうちに多くのエネルギー、

多くの創造力を感じている。(中略)僕にはもっと良いものを創造できるのがわかる」

と話したと述懐している。

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1900 - 1900年パリオリンピックが閉幕。

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1900年パリオリンピック

1900年5月14日から10月28日まで、フランスのパリで行われたオリンピック

競技大会。

 

オリンピックは自分たちの国技であると主張するギリシャの努力にもかかわらず、

IOCは毎回異なる場所でオリンピックを行うことを決定した。また、この大会は

万国博覧会の附属大会として行われたため、会期が5か月に及ぶことになった。

 

大会運営も混乱をきたし、メダルが与えられたのは、クーベルタンが運営に関わ

った陸上競技のみで、このメダルが実際に選手に届いたのは2年後の1902年

のことであったといわれている。現在ではこの大会の陸上競技のみがオリンピッ

クであったと公式に定められ、歴史の浅いオリンピックの黎明期を物語る大会と

なった。

 

なお、開催年である1900年はグレゴリオ暦の規定により閏年ではなく平年であ

ったため、開催後121年に渡り平年に開催された唯一の夏季オリンピックであった。

2020年(閏年)に開催が予定されていた東京オリンピックが新型コロナウイルス感

染症 (COVID-19) の世界的流行の影響で2021年(平年)に延期された結果、

平年開催の唯一の夏季オリンピックではなくなった。

 

ハイライト

ボート競技舵手付きペア種目では、オランダチームのコックス(舵手)で

あったヘルマナス・ブロックマンが体重が重すぎたため外され、その代役

として、たまたま観客席にいた7歳から10歳くらいと見られるフランス

人の少年が飛び入りで参加し、そのチームは優勝した。

この少年は2021年現在でも史上最年少のオリンピック金メダリストの可能

性があると推定されているが、本人は競技終了後、身元確認を受けることな

く会場から姿を消してしまい、この少年の正確な年齢はおろか名前さえも

分かっていない。

 

この事実は1960年にオランダの歴史家がオランダチームのフランソワ・

ブラントとルロフ・クレインと共に少年が写った白黒写真を発見したこと

で知られるようになった。少年の写真は2016年現在、この1枚しか発見

されていない。2016年にこの少年がフランス人ではなくジョージア人の

ギオルギ・ニコラゼ(1888年 - 1931年)であるという説が国際オリンピ

ック史学会(ISOH)に提出されたが、反論もある。

射撃では鳩を的にして撃つ競技が行われた。(さすがに残虐的だと非難され、

この大会のみの競技となった)。

凧揚げ・魚釣りなどの風変わりな競技もあった。

この大会は陸上競技のみを正式に五輪競技とした一方、他の競技の勝利も

IOCが公式に認めているため運営上矛盾が存在する。

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1919 - アメリカ議会でボルステッド法(国家禁酒法)が成立。

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影響

禁酒法の影響は当初はほとんど予期されていなかった。

製品、輸入とアルコール飲料の流通(合法的な企業のかつての仕事の範囲)は犯罪

のギャングによって支配された。そして、彼らの大半は殺人を伴う暴力による対立を

伴って互いに市場の支配権を得るために争った。

 

主要なギャング、例えばオマハのトム・デニスとシカゴのアル・カポネは大儲けして、

地元で、そして全米で賞賛された。ギャングが低賃金でかつ人員不足の執行職員

に贈賄して、高額な弁護費用を支払うことが出来るほど裕福になったので、法律の

施行は難しかった。多くの市民は、密売者に同情的だった。

 

そして、立派だった市民が「目が見えないブタ」と呼ばれる、不法なもぐり酒場の誘惑

に吸い込まれていった。より高い社会経済グループの間で、カクテルパーティが人気

となり、1920年代の社会は一層、緩みだした。当局に協力する者は、しばしば脅迫

され、時には殺害されたりもした。

 

いくつかの主要な都市、シカゴとデトロイトを含む酒輸入の主要な場所では、密輸入

ギャングは、かなりの政治的影響力を持った。ミシガン州警察が、デトロイトのドイツ

・ハウスを急襲した際には、市長、保安官と地方議員等が一網打尽に逮捕された。

 

ボルステッド法の第29節では、家庭で「酔わないリンゴ酒と果物ジュース」を200

ガロン(75リットル)作ることが許可されている。当初は酒に酔うことは0.5%以上

のアルコールを含むことであると定義された。しかしアメリカ合衆国内国歳入庁は

すぐさま、これを取り消したため、家庭でのワイン醸造は実質的に合法化された。

いくつかのブドウ園は、家庭でワインを作るため、ブドウを大いに販売した。

 

ジンファンデル・ブドウは、ブドウ園の近くで生活している家庭での醸造に一般に

普及していた。しかし東海岸の市場への長旅では、薄い皮は、こすれて腐敗しや

すかった。アリカンテ・ブーシェの厚い皮は腐敗しにくいため、これと類似した品種

が、家庭用ワイン醸造市場のために広く植えられた。

 

この法律に違反した場合、最高で2,000ドルの罰金、1か月から5年の禁錮刑

に処される可能性があった。また、この時、カナダからマフィアを通じて、酒を密輸

入し大きな財産を築いたジョセフ・P・ケネディ(ジョン・F・ケネディの父)の話は有名

であり、一種の語り草になっている。

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1949 - 1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故

パリニューヨーク行きのエールフランス機がアゾレス諸島付近で墜落し、

ヴァイオリニストジネット・ヌヴーとプロボクサーマルセル・セルダン

が死亡。

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1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故

1949年10月28日に発生した事故である。

エールフランスのロッキード L-749A-79-46 コンステレーションがパリ=オルリー

空港発ニューヨーク行き国際定期旅客便として飛行中、経由地のアゾレス諸島

サンタマリア空港へ着陸しようとする間に山に激突した。

この事故で搭乗していた48人全員が死亡した。

 

調査

事故はフランス航空事故調査局により調査された。

調査により事故原因はVFR条件下で飛行中のパイロットの不適切なナビゲー

ションによるCFITであると判明した。パイロットが不正確な位置通報をしており

空港を視認できていなかったことも判明した。

 

マルセル・セルダン

1916年7月22日 - 1949年10月28日。

フランス(旧フランス領アルジェリア)出身の元プロボクサー。

元世界ミドル級王者。

 

名王者トニー・ゼールからタイトルを奪ったボクサーとして知られる。

シャンソンの女王エディット・ピアフの恋人だったことでも知られ、

笑うのが好きで人を惹き付ける性格であったと伝えられている。

 

1948年9月21日に世界初挑戦、“鋼鉄の人”トニー・ゼールの世界ミドル級

王座にアメリカ合衆国・ニュージャージー州ジャージーシティーで挑んだ。

ロッキー・グラジアノとの3度にわたる死闘で疲弊した感のあるゼールをスピー

ドで上回り圧倒、11回左フックでダウンさせ12回開始時点でKO、タイトルをフ

ランスに持ち帰った。大スターの世界奪取を待ち望んでいた祖国の国民はラジオ

の勝利を伝える報に歓喜した。

 

1949年6月16日に“ブロンクスの牡牛”ジェイク・ラモッタとの初防衛戦がデトロ

イト(米国)で行われた。当代切っての名うてのファイター同士の一戦は大きな前

評判を呼んだ。試合は予想に違わぬ大激戦になったが、セルダンは途中で肩を

負傷し左腕を動かせなくなる。それでも戦い続けたが遂に棄権し10回TKO負け

となり王座を明け渡した。

 

セルダンは雪辱を切望し、ラモッタも受け入れニューヨークでの再戦が決定する。

その報らせを聞いたセルダンは狂喜、「勝つか、死ぬかだ」と言い残しパリから空

路で決戦の地へ向かった。だが1949年10月28日、搭乗したエールフランスの

ロッキード コンステレーション L-749機が北大西洋アゾレス諸島付近に墜落、

セルダンも不帰の客となった。

この事故では、ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーも死亡している。

 

1991年に国際ボクシング名誉の殿堂(国際ボクシング名誉の殿堂博物館)入り

をしている。ブレストには名を冠したドーム型施設のSalle Marcel-Cerdan(Stade

Marcel-Cerdan)があり、スポーツを始めとする多目的施設として利用されている。

 

遺児マルセル・セルダン・ジュニアも父の遺志を継ぎボクサーとなった。

世界ランカーにまで登り詰めたが、世界獲りはならなかった。

 

愛の讃歌

1947年10月にフランスのエディット・ピアフがアメリカ初公演の際にセルダンと

出会う。「どうして悲しい歌ばかり歌うの?」とセルダンは聞き、「どうして殴るの?」

とピアフは返した。初めて会った時から惹かれあった2人の仲は大恋愛へと発展

する。ピアフは2日毎にセルダンにラブレターを送ったと言う。

 

ピアフはセルダンのために『愛の讃歌』(Hymne à l'amour)を書いた。

この歌はセルダンの死を哀しんで書かれた物と言われてきたが、セルダンの生前

に書かれた物だと判明している。相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子を

持つセルダンとの恋愛に終止符を打つ為に書いた物だと考えられている。

『ばら色の人生』(La Vie en rose)と並び彼女の代表曲であり、多くの歌手がカバ

ーをしている。

 

セルダンはラモッタとの再戦に向け当初は航路で行く予定だったが、コンサートで

ニューヨークにいたピアフの「早く会いに来て」との言葉により空路で行くことを決め

た。ピアフは女優のマレーネ・ディートリヒとニューヨーク・ラガーディア空港でセルダ

ンを出迎える予定だった。

 

ディートリヒは墜落の報をピアフへ伝えた。

ピアフは激しい悲しみと衝撃に襲われたが、予定の公演を行うことを決めた。

親友を思うディートリヒは「あなたが死ねば、私も死ぬ」という歌詞がある『愛の讃歌』

だけは歌わないように求めたが、ピアフはこの日発表する予定だったこの歌を歌う

ことを決め、舞台で歌った。

 

後年、セルダン・ジュニアのプロデビュー戦でリングサイドにはセルダン未亡人とピア

フが並んで観戦している姿が見られた。

 

セルダン・ジュニアは映画『恋に生きた女ピアフ』(Edith et Marcel)で父マルセルSr

.の役を演じた。セルダンとピアフのストーリーは何度も映画化や劇化されている。

 

通算戦績

123戦119勝(74KO)4敗

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1965 - 2バチカン公会議でキリスト教以外の諸宗教に関する教会の

態度についての宣言(ノストラ・エターテ)を発表。

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2バチカン公会議

1962年-1965年.ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世

によって遂行されたカトリック教会の公会議である。

 

この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者 (公会議教

父) が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。

 

教会の現代化をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるな

ど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であ

り、現代に至るまで大きな影響力をもっている。

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2023年、今日。

鯖の味噌煮なら、結構な回数いただいているが、

さんまの味噌煮というのは、あまり食べた記憶jがない。

という事でさんまの味噌煮にしてみた.。

 

・・・・・別に、まずいというわけではないが。

 

やはりさんまは醤油と大根おろしでいただいた方が

うまいと思った。

そして味噌煮はやっぱりサバがいい。

しかし、今は塩焼きが食べたい。

明日は鯖の塩焼きにしよう。

食欲の方向性が変わらなければ。(多分、変わる・・)