カサカサの感想ハダで備忘を保てるか

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ニュースから

2007-12-27 23:55:46 | 研究と教育
教育再生会議3次報告 徳育教科化、再び盛る (産経新聞) - goo ニュース

ニュースの注目点から気になった点。

○教員免許を持たない社会人教員の増員

外部の風を入れて教員の意識改革などにも役立てる意見があるようである。
不適教員を排除する目的での教免の更新制との兼ね合いが気になる。

教免を持ちながら教職には就かず、
それ以外の分野で社会経験を積んだ人材は数多いはずである。

教免を持っていない前提の議論は
こうした問題を想定しているのであろうか、とすぐさま考えた。


○教科としての「徳育」

道徳の形骸化は、自分が小中学校のときのことを振り返れば、
再生会議の視点も理解できる。
自分はやや斜めに物事を見る性質が早くからあったのか、
道徳の時間が「退屈」ではなく「寒かった」ことを記憶している。

どうも、その日のテーマに対して教員の求める模範解答がうっすらと見え隠れし、
児童・生徒はそれを腹で探って「玉虫色の答申」をやっていたように、
私には映った。

それが実は紋切り型であっても、そうした繰り返しによって、
子供たちに悪い方向へ向かわせないことを認識させる方法であるのかもしれない。
ただ、もっとよい方法論はないものかと思うわないではない。
私によい解決策があるわけでもない。

>八木秀次理事長は「実現すれば道徳の時間におかしな平和や人権などを教えることができなくなる」と歓迎。

「おかしな平和や人権」とは、何を指しているのかがよくわからない。
戦後、アメリカの主導で「民主化教育」が行われ、
その第一世代も定年を迎えるほど長く続いている。
当時から今に続く「論法」と、
今般教育再生に盛り込みたい「徳育」の内容とが一致を見なければ意味がない。

そこがクリアできなければ、
すぐに、絵に描いたようなヘーゲル的「矛盾」をきたすような気がする。

>一方で河上氏は「徳育を教科にするのなら、自分のためだけでなく、人のために尽くすことは大切だということを社会の共通認識にする努力が必要だが、現実的には難しい」と教科化には懐疑的だ。

との意見もあるが、ほかにも教科書にすることで、
どうしても教育の意図と言うものがはっきりしてしまう。

それが良いのか悪いのかが極めて未知数で、
賛成派にも反対派にも、よくわからないという人にも、
不安感だけが前面に出でてくるような気がする。

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