🇹🇷山根基之が世界一詳しくトルコの魅力を配信するブログ
📘イントロ
山根基之がトルコに魅了され、現地を100回に渡り訪れ、発見したオススメの観光地をユーザーにお届けします。
今回は、カッパドキアを特集します。
🗺カッパドキアの地図
🇹🇷山根基之のトルコ旅『カッパドキア編』
●目次
①複合遺産カッパドキアの発掘の歴史的背景
②地下都市ギョレメ
③チャヴシン
④ギュルデレ・クズルチュクル
⑤パシャバー
⑥ゼルヴェ屋外博物館
⑦アヴァノス
⑧ウチヒサル
⑨オルタヒサル
⑩ウルギュプ
🎈山根基之がカッパドキアを深掘り解説
① 複合遺産カッパドキアの発掘の歴史的背景
カッパドキアは、アナトリア中央部の四方を山に囲まれた高原地帯です。今からおよそ1500万年前までこのあたりは広大な内海でした。
この内海が干上がった頃、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めました。
カッパドキア近郊のチャタル・ヒュユクの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものです。
その出土品によって先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきました。
出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されています。
出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画です。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられます。
この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサン火山と思われます。
一つの山の上方に赤い点々が見えますが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山でした。そうしたことから、この壁画はこれまでのところ最古の地図だといえます。
遺跡発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事が分かってきました。
メソポタミア地方以外で私たちが知っている国々の中では、古代の民族ハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきました。ヒッタイトの首都「ハットゥシャ」という名には “ハッティの住むところ”という意味があります。
ハットゥシャから遠くない、アラジャホユックにある歴代のハッティ人の王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されています。
紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスポラスとダーダネルスの両海峡を越えやって来て、アナトリア諸国に支配力を振るうようになりました。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットはまだ断片的にしか解読されていませんが、古代世界史上においてヒッタイトが極めて特殊な位置を占めていたことを示しています。
ヒッタイトがアナトリアヘやって来た頃、カッパドキアにはいくつかの小国とアッシリアの交易都市がありました。カイセリに近いキュルテペは交易都市の中でも最も重要な町でした。
紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどありません。
紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失いました。
紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代でした。
この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものと言われています。
ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしませんでした。なぜなら彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に使う事にしかなかったからです。その後、支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていきます。コラマ(Korama)~現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)~現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達していきました。
この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいました。
石を利用し、あるいは自然の岩を穿って、山の上や谷、深い峡谷の岸辺に家を作りそこに住んでいました。
穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいた事から、10世紀のビザンティンの歴史家は、カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれたと言いました。
住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事でしたが農地や牧草地は町に住む地主のものでした。
住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていました。2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。初期のキリスト教徒は、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。
住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。 11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには既に1000を越える宗数的施設がありましたが、13世紀までに、アナトリアを宗教的な建造物で更に飾り立てたのです。
②地下都市ギョレメ
古代にマチャンと呼ばれた現在のギョレメは7世紀に遡る歴史をもつ地方一帯の最古の集落で、「聖ヒエロンの勤め」と題される資料に「ギョレメ」の名で登場しています。
他の集落の様に目につきにくい場所にあるとは言い難く、特にアラブの襲撃では村人の多くを失いました。
初期に於いては村を流れる川の近くに集落があったと思われ、支柱のある二つの墓もこの事実を裏付けると言えます。
ギョレメ村と近郊には五つの教会があり、これらのうち最大のものは6世紀、もしくは7世紀に建設されたと思われるドゥルムシカディル教会で、大きな柱と説教壇を備えて保存状態も非常に良いです。
それ以外、アラブの襲撃後にあたる10~11世紀の造りと考えられる教会の内で最も新しいものは11世紀、マチャンに司祭館が置かれていた時期に建設されたユスフ・コチ教会であり、最も離れた場所にあるのは、約30分から40分程度の距離にある11世紀のカラブルット教会です。自然の作りあげた岩層と、人間が手を加えた造りの素晴らしいハーモニーと言えるギョレメ村は一帯で最も注目されている地区です。
今日もなお岩を掘って造った家に住む人々がいて、彼等は岩を住まいとすると同時に、これを倉庫としても利用し、過去からの生活様式を何ら変える事なく岩と共に暮らしています。ギョレメ村では岩の家の他、岩を刳り貫いた洞窟レストランやホテルも観光客に人気が高いです。村を包囲して直立する妖精煙突と共に、ギョレメの美しさは強いインパクトをもって人々の心に焼き付くに違いありません。
感想:
山根基之のトルコを旅するシリーズにて、トルコの世界遺産カッパドキア遺跡の素晴らしさを配信しましたが、楽しんで頂けたかと思います。
執筆者:山根基之、2001年、トルコ在住
トルコを世界一熟知し、ユーザーエクスペリエンスに資するトルコ紀行を収筆。
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