保証書の期限すぎればそののちは壊れてもよい電気製品

この電車は三宮まで停まりません。パニックとなりし各駅停車 (ああびっくりしたぁ所収)

記憶の中の南海岸ノ里駅

2020年09月28日 | 日記
南海の難波駅からは本線と高野線が出ている。かつて本線と高野線は岸里駅でX字上に交差していた。
高野線が上である。これだけなら単純な構造だが南海の場合
交差の両側に渡り線があったから話はややこしい。高速道路の接続点のようだ。
渡り線は大正15年にでき高野線は難波への運行が主となり、この難波までの路線を高野線と呼んでいる。

高校に入学した1970年当時、土曜日は午前の授業だけあり4時限目の授業は正午過ぎに終わった。
大抵は真っ直ぐ帰ったが、たまには南街劇場や千日前セントラルで外国の映画を見ようと
高校最寄りの堺東から難波行きに乗ったものである。

堺東駅は高野線にある主要駅で駅ビルには百貨店の高島屋が入っていた。
駅の大きい方の改札は2階にあり改札と切符売り場の間に高島屋の入口があった。
大きなガラス扉を入ってきれいな店で買い物をする。
学校の帰りに百貨店で買い物をするなんて都会人のすることだと思った。

それまで通っていた浜寺中学の周囲には敷島のパン屋しかなかった。
何という違いだろうか。堺東は立派な街に思えた。

高島屋には何でもあった。私は堺東に慣れてくると時々高島屋に寄り道して
PPMやサイモンとガーファンクルのレコードを買ったり
改札向かいにあった旅行社併設の航空パーラーに入り
広い店内を見渡しながら120円のコーヒーを飲んで休んだが
どれも勉強と違ってとても気の晴れる行為であった。

土曜日、難波へ出かけるときはいつも急行に乗る。待避していた各停は急行のあとに発車する。
急行は帝塚山を過ぎると間もなく右にカーブしながら下っていき本線に合流する。
難波へは新今宮に停車するだけで所用時間は10分少しだった。

私は元々、高野線より本線に馴染みがあった。
父に連れて行かれる南海ホークスの試合観戦は小学生にとってこの上ない楽しみだった。
野村や広瀬の全盛期、ホークスは強かった。グランド照らす太陽の・・。応援歌を聞くだけで心が躍った。
本線の急行は岸ノ里を通過するが駅の存在は知っていた。

高校生になると本線に乗る機会は減った。通学は阪和線と高野線を三国ヶ丘で乗り換えて利用した。
1970年入学当時は堺東から難波への路線には岸ノ里駅はなかった。
難波行き急行は帝塚山を通り過ぎると本線に合流するため右カーブして降りて行く。
その時、左窓の正面には人気のないプラットフォームが現れる。
岸ノ里という駅名表示が見えたのだろう。私はこれが本線の岸ノ里駅とぼんやり思っていた。

その年は大阪吹田で万博が開催された。クラスメイトとよく行ったが平日は割安な夜間入場券で入場した。
万博が終わった晩秋、渡り線への分岐直前に新しいプラットフォームができ、
これにより難波行き各停が岸ノ里に停車することとなった。

それまで私が本線と思っていたプラットフォームは汐見橋へ行く元々の高野線上にあったプラットフォームだった。
高野線が本線を跨いで交差するX字上のすぐ南に本線と高野線のプラットフォームがそれぞれあった。

だから1970年に出来たプラットフォームはいわば高野線の新プラットフォームだ。
旧プラットフォームとの距離は相当ある。X字交差点と渡りへの分岐点だから当然そうなる。
この間は汐見橋方面への上り線に沿って長い通路が作られた。
以降乗客の少ない汐見橋からの電車は旧プラットフォームまでの折り返し運転となり
2つの運行は重なることはなくなった。

運行上、安全上すっきり良くなったがこれで困るのはそれまで高野線で汐見橋方面に直通乗車していた利用者と
旧プラットフォームで本線に乗り換えていた利用者だ。
かれらは長い連絡通路を歩かされることとなった。
以上が1990年代に完了する本線の高架工事までの変遷であるがこれらはすべて最近ネットで調べて知ったことである。
私は汐見橋に行く必要はなく難波に行ければそれでよかった。

新プラットフォームができたことを当時は知っていたのかどうか。
各停に乗っていたら覚えているだろう。しかし急行にしか乗らない。
それでも通過する新プラットフォームを見たはずだ。
そして少し考えれば旧プラットフォームを今のように正しく理解できたはずである。

当時の私は果たしてその勘違いに気づいたのか。それともそのままであったのか。すべては記憶の彼方だ。
自分がどう思っていたかなど一切蘇って来ない。
ただ私の脳裏では誰もいないプラットフォームがじっとしている。
その寂しげなプラットフォームは朧気な夢の中にずうっといるようだ。

安倍総理が辞任を決めた細かすぎるが切実な理由

2020年09月04日 | 日記
大腸の病気が関係していると思う。早い話、下痢や。これがすべて。
夏にこの病気が再発した。となると急な下痢がある。
国会ではトイレを我慢しないといけない。

経験から言うが腹痛に襲われると急がないといけないが慌てると返って漏れる。
お腹を押さえ辛抱しながらゆっくり半歩ずつ歩いていきます。トイレが遠い。
総理は国会でこんなことでけへんと思うたのやろう。下痢はいつ来るかわからない。
かと言って大人用おむつを履いて漏らすのもいかがか。

私も病気ではないが急な下痢に悩まされた期間があった。2年ほど。
紙おむつも購入した。これは精神的にもつらい。車で出かける時に携帯。
ついに使うことはなかった。総理の場合はもっとひどい症状。
安部さんの気持ちはようわかる。オリンピックを前にして無念であったろう。こんなことで。
かわいそう。