( この写真は、28年前にユミさんが使っていた古デスクです。秋山プロのアシスタント用デスクは
8つありますが、今はその内の3つしか使用していません・・・・。《2006年2月撮影》 )
【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】
その31 ・・・・・・・・・ 2006年03月05日 03時44分 (公開)
インベーダーゲームが流行った1979年昭和54年、春・・・・・・。
私がジョージ秋山プロに入ってから1年後に新しいアシスタントが来る事にな
りました。
ジョージ先生の大ファンだった彼の名はA君( 栃木県出身、22歳 )。背景画の
技術は、秋山プロの画風とかなり違う、児童漫画的なレベルでした。
ジョージ先生が彼と同じ栃木県出身なので、気が合ったのか、すぐに弟子入
りが認められました。
A君は、藤子不二雄などの児童漫画や、童話の世界に憧れていたのだと思いま
すが、ドロ臭い油じみた秋山プロへ入って来た事がはたして彼にとって、幸
せな事だったのかどうか・・・・・
こっちにしようか、あっちにしようか、そんなちょっとした選択で人生の航
路が決まってしまうものです。
彼の出勤初日・・・・・・
とんでもない事が起きたのです・・・・・・
その日の朝、まだアシスタントが誰も出勤していない時・・・・・・
ジョージ先生はA君の席を、作画の参考になる様に画力№1のカンさん( 仮名:
菅原 浩二、神戸出身、26歳 )の隣に決めたのですが・・・・・・
この席は元々ユミさんの席なので、彼女の荷物を全て仕事部屋のスミの席に移
してしまったのです・・・・・・・。
( あくまで、技術的な事をカンさんの隣りで勉強させようと先生は考えた
のです )
アシスタントたちが出勤してきます・・・・・・
この時間、私はまだアパートで寝ています。
A君は仕事場へ来て、自分の席( 前日まではユミさんの席! )に座り、他のス
タッフとあいさつをしょうとしていました。
そこへ、何も知らないユミさんがやって来ます・・・・・。
ユミさんは自分の席に見知らぬ男( 1週間ほど前に秋山プロに面接に来た時
に案内しているので、初対面ではないのです )が当たり前の様に座っている
のを見つけます・・・・・
はじめは理解出来なかった彼女ですが、すぐにその意味を悟りました。
自分の作画道具一式が・・・・漫画の資料が・・・・雑誌が・・・・私物が・・・・ゴミ箱さ
え・・・・雑然とスミの席に置かれていたからです・・・・・・!
ユミさんは、口を少し歪めながら目を見開き・・・・ 一瞬、固まります・・・・・・・。
「 えェーーーツ? 何でェエエーーーッ?! 」
顔面蒼白のユミさんは、そのまま一言もなく仕事場を飛び出し・・・・・・・・・
( この写真は、現在の秋山プロの玄関ドアを外側から撮影したものです・・・・ 意味不明の札『 まことに
勝手ながら本日は遊んではいませー 』(先生直筆)がかかっています。《2006年3月撮影》 )
その32 ・・・・・・・・ 2006年03月11日 03時48分 (公開)
ドアを開けて飛び出して行ったユミさん( 仮名:吉村由美子、?出身、自称
24歳。本当は27歳だった )・・・・・。 ( 1979年 冬 )
何が起こったのか他のアシスタントには事情がよく分らなかったのですが・・
・・・すぐにテラさん( 仮名:寺山 新一、博多出身、当時27歳 )が後を追いか
けました・・・・・・
しかし・・・・ ユミさんは戻りませんでした・・・・・・。
ホントに、糸の切れた・・・・・ユミさん・・・・・・・・
それきり、連絡もなくなりました・・・・・・
自分のデスクが勝手に移動された事が相当なショックだったのは確かだと思
うのですが、それ以外にも色々な事が重なったのかもしれません・・・・・・。
性的潔癖症のユミさんに性的なジョーク( 当時の世相にセクハラなんて概念
はありませんでした )はまったく通じませんでした・・・・・・
たとえばカンさん( 仮名:菅原 浩二、神戸出身、当時26歳 )のこんな思い出
があります・・・・・・
仕事場でユミさんが先生にお茶を運んだ時の事です・・・・・
カンさんが冗談半分でユミさんのおしりをちょっと(!)さわったのです・・・・
その瞬間、彼女は手に持っていた木製のお盆でカンさんの頭を一撃!
木製とはいえ、固いお盆でで思い切り叩いたのです!
カンさんは落雷に撃たれた様な頭頂部の激痛の中で・・・・・・
『 痛ッテ~~ッ こ・・・・この娘には、冗談が通じねェ~! 』
歯を食いしばりながらそう思ったのです・・・・。
そして、これ以外にも・・・・・・・
実はこのブログの「 第3章 その29 」で、「 ある先輩アシスタント 」が
ユミさんのスカートの中を覗こうとする話を書きましたが、初稿では当人を
仮名で表記したのですが・・・・・
その当人から「 事実誤認だ! 」との指摘を受け、すぐ( 公開から3日後 )改
稿しました。
その話が、ユミさんが秋山プロを辞める原因の一つになっていたかも知れま
せん・・・・・・。
その「 ある先輩アシスタント 」氏が語るには・・・・
「 あれは××のホラよ! 確かに消しゴムを落とした事はあるけど 」
笑ながらも、目は真剣に氏は訴えます・・・・・
「 のぞきなんかしね~っつ~のッ! だいたいユミさんはミニスカ
ートなんかはいてたかァ?」
そういえば・・・・・・いつもGパンだったような・・・・・
「 俺は、この事をユミちゃんに弁解する機会がないままユミちゃん
が辞めて行った事が、悔しくてならねェ~んだよなァ・・・・ 」
私はさっそく××氏に真偽を確かめると・・・・・
××氏 「 じょ・・・冗談じゃ~冗談ッ! 」
・・・・と、ユミさんにホラ話をした事を認めた・・・・・。
しかし・・・・・ ユミさんに「 覗かれてるでェ! 」などと言う冗談が通じる
わけもなく・・・・・・。
確かに色々と不愉快な事があったのかもしれません・・・・・。
これは、私の推測ですが・・・・・
結局の所、ユミさんが一番好きだった( 惚れていた )のは、ジョージ先生ひ
とりであり、その先生に自分の席を隅に押しやられた事が、やはり大きな
原因なのではないか・・・・・と、思うのです。
( この写真は、27年前に住んでいた東京都豊島区南長崎のアパートの窓から見た隣の「トキワ荘」
である。《1979年昭和54年 撮影》 )
その33 ・・・・・・・・・ 2006年03月17日 03時21分 (公開)
ジョージ秋山先生のアシスタントになった1978年( 昭和53年 )・・・・・・。
その年の秋に高円寺( 杉並区堀の内 )から秋山プロの近く豊島区南長崎へ引
っ越しました。
私の父方の親戚が南長崎に住んでいたので、その紹介があって引越したの
です。
6畳一間に小さな流しが付いた木造アパートの名は「 うさぎ荘 」。その2
階の一番奥。
高円寺のボロアパートが「 銀嶺荘 」と言い4畳半でしたから、少し広い所
へ出世(?)したわけです。
木造のボロアパート、ドロドロの共同便所・・・・・・もう、すっかり慣れまし
た。
でも、その新居で一番驚いたのは、お隣のアパートが、あの有名な「 トキ
ワ荘 」だった事です!
入居してずいぶん経ってからそれを知りました。
私の角部屋の西側に「 トキワ荘 」があったのですが、ここの西日が強いの
で、いつもカーテンを閉め切っていました。
窓を開けると、かつて手塚治虫先生や石ノ森章太郎先生がいた2階の部屋が
真向かいに見えるわけです。
その当時は、すでに「 トキワ荘 」の屋根瓦はその重みで中央部に歪みがで
きていました。 外壁も汚れ、全体にそうとう痛んでいました。
世の中は、空前のマンガブーム( 「 がきデカ 」「 ベルばら 」「 ドラえも
ん 」 )。
それなのに、漫画の原点( 聖地と呼ぶ人もいる )でもある「 トキワ荘 」が目
の前で崩れ落ちそうになっている・・・・・。
漫画のヒットで出版社の社屋がボコボコと新築されたり、週刊マンガ誌の
発行部数が何百万部になったとかでマスコミに騒がれているのに・・・・・
あの「 トキワ荘 」が、見捨てられた様に崩れていく・・・・・・。
私は毎日複雑な気持ちで、窓の「 トキワ荘 」を眺めていました。
近所には「 トキワ荘 」で暮らした諸先生方の胃袋を満たしたラーメン屋さ
んが健在でした。私もよくラーメンやギョーザを食べに行ったものです。
現在( ‘06年 )でも、お店が有りますが・・・・・・
店の内外にベタベタと漫画や色紙を貼ってアピールに勤めているのですが・・
・・・・残念なことに・・・・・・
当時の味も雰囲気も今ではすっかり消え失せてしまいました・・・・・・・・・・。
トキワ荘のある南長崎の商店街( 当時はとても賑やかだったのです )や、目
白通りの二又交番・・・・・・
私は胸までかかる長髪とちびたゲタをはいて、この町をクラゲの様にフワ
リフワリと浮いていたのです・・・・・・・・・・。
( この写真は、27年前・・・「トキワ荘」正面玄関前から撮影した「うさぎ荘」2階の我が部屋の窓
である。今は・・・もうない。《1979年昭和54年 撮影》 )
その34 ・・・・・・・・・ 2006年03月25日 21時27分 (公開)
私が東京豊島区南長崎の「 うさぎ荘 」に越してきたのは1978年 秋・・・・23
歳の時でした・・・・・・。
部屋は2階の角、隣は無口な学生さんが住んでいました。 夜中に喜多郎や
イーグルスをガンガンかけて随分、不愉快な思いをさせてしまったのではな
いかと思います・・・・・・。
私は完全に夜型の人間でしたので、昼間はカーテンをしっかり閉めきって、
薄暗い部屋の中でウジウジと過ごしていました。
たまにその薄汚れた青いカーテンを開けると・・・・・目の前にボロボロの「 ト
キワ荘 」があったわけです。
『 トキワ荘の2階・・・・この部屋だったのだろうか・・・・・石ノ森先生が酔っ
払って窓から小便をしたのは・・・・・ 』
ボンヤリと視線をトキワ荘の内庭の地面に落とす・・・・・
その黒い地面に浸み込む石ノ森先生や赤塚先生の小便のシミ・・・・・今頃、
そんなものがあるわけないけど・・・・・・
誰もいない、寒々としたトキワ荘の内庭を眺めつつ、ふと・・・・想像したもの
です・・・・・。
『 冬だったら、湯気がたっていたかもしれないなァ・・・ 』
毎日、お昼過ぎからの仕事に必ず遅刻して来る私に、先輩アシスタントは誰
一人として、文句を言ったりしませんでした。
しかし・・・・・ ある晩、仕事帰りに初めてリョウさん( 仮名:内海遼一、岡山
出身、25歳 )のアパートに行った時・・・・・
リョウさん「 小池君(私)・・・ ちょっとヤバいかもしれないよ・・・・
気を付けた方がいいよ・・・・。」
私 「 え・・・・・??? 」
リョウさん「 ジョージ先生はしばらく様子を見るんだよね・・・・。 そし
て・・・・急に来るから・・・・ 」
私 「 え・・・・・? 何が来るんですかァ? 」
リョウさん「 小池君、危ないよ・・・。 」
この時、私はリョウさんの忠告をまったく理解していませんでした。
ただ、ジョージ先生が私の事を相当怒っているらしい・・・・ってな事くらいは
理解したのですが、私は相変わらずノー天気に過ごしていました・・・・・・。
いつもの様に夜更かしして、床についたのが早朝5時・・・・・朝の7時頃まで寝
付けずにモンモンとしてから、やっと眠ったと思ったら時計は午後2時を指
している・・・・・!
午後の日差しは、トキワ荘の汚い屋根瓦に反射して、その西日と共に私の部
屋へ差し込みます。
私は寝汗をグッショリかきながらあわてて飛び起きる・・・・・・
その時・・・・
りりりりりッ・・・・! 電話が鳴る・・・・・
また・・・ 私はやってしまった・・・・。
「 小池君~ン、仕事ですよォ~ッ! 」( おカミさ~ん、時間ですヨ~!
みたいな・・・ )
ユミさん( 仮名:吉村由美子、?出身、自称24歳。本当は27歳。 )からの( 明
るい! )電話。
これは、彼女が秋山プロを去る数日前の出来事でした・・・・・・。
私 「 すいませ~ん。すぐ行きますから~ッ!」
いつもは20~30分の遅れが、今日は2時間近い遅刻になってしまう・・・・・
額にビッシリとこびりついた汗をぬぐうヒマもなく、大急ぎで服を着て外へ飛
び出して行く・・・・・・。
頭の中に真っ白な蒸気がズッシリと詰っている様な・・・・・・吐きそうな気分で自
転車をこぐ・・・・・・。
この時、私は2~3日前にリョウさんから言われた忠告などは、完全に忘れ去っ
ていた・・・・・
いや! 忘れようとしていた!
( この写真は、秋山プロのアシスタントの仕事場から見たジョージ先生の個室入り口である。
《 2006年3月 撮影 》 )
その35 ・・・・・・・・・・ 2006年03月31日 21時34分 (公開)
1979年( 昭和54年 ) 冬。
ユミさん( 自称24歳。本当は27歳。)が秋山プロを辞める少し前・・・・・・
私( 当時、24歳 )は2時間ほど遅刻して仕事場に入った・・・・・。
いつもユミさんは、30分ほど遅刻して来る私のために店屋物のうどんなどを
取っておいてくれていました。
そのうどんが2時間近くたつと・・・・・・のびて、乾いて、とても人の食べ物とは
思えない変わり方をしていました・・・・・。
いつもの様にのっそりと仕事場へ入った私は、もう下書きを終えてペン入れを
始めている先輩たちに・・・・・。
私 「 すいませんでした~ 」
いつもの様に先輩アシスタントたちに謝って、いつもの様に自分の席に行こう
とした時・・・・・・
ユミさん 「 先生が呼んでますよォ・・・ 」
寝ぼけ頭の私には「 ただ呼ばれた 」という認識しかありませんでした。
寝ぼけ頭についた二つのド遠視の目玉には、ただボンヤリと・・・・・・7階の窓か
ら、遠く新宿新都心が霞んでいる・・・・・・
『 ちょっとヤバいかな・・・・ 』
私は恐る恐る先生の部屋へ・・・・
古い応接セットにはゴミと雑誌が散らばっている。
ジョージ先生は6畳ほど洋間の窓際に机を置き、こちらに背を向けて「 浮浪雲 」
の下書き中だ・・・・・・
足元には何年も( ? )掃除をしていないゴミがどっさり溜まっている・・・・・・
暗い部屋の中で、窓明かりによってシルエットになった先生の丸い背中がとて
も大きい・・・・
ゴクッ・・・・ 私は蚊の鳴くような声で・・・・・・・・
私 「 セ・・・ ン・・・・・ セ・・・・・・・・ 」
振り返った先生の顔は、赤黒くまるで仁王像の様な顔だった・・・!
先生 「 おみィ~は、何、考ェ~てんだァ! 」
とても小さな声だが、その声はまさに地獄の底から響いてくる様な迫力が・・・・
私 「 す・・・・・ すいませ・・・・・・ ]
先生 「 もう陽が傾いてっだろォオ! みんな時間通りに来てんのによォ!
おみィ~だけだよなァ~! 」
私 「 す・・・・ すい・・・・ ま・・・・・・・・・ 」
先生 「 今まで一度もちゃんと来てにィ~よなァ~ッ! 」
私 「 す・・・ す・・・・・・・・・・ 」
赤黒い先生の顔が・・・・窓明かりの逆光の中で恐ろしい圧力で私に迫る。
先生 「 おみィ~はよォ 何、考ェ~てっだよォ! 」
私 「 ・・・・・・・・・・・・・ 」
精神の根本的な所から・・・・私は崩壊しつつあった・・・・・・・。
何も考えられなかった・・・・・・
考えられるわけもなかった・・・・・・・・!
( この写真は、東京目白にある秋山プロ玄関から見たアシスタントの仕事場である。正面のガラス
窓の向こう側が先生の個室。《 2006年4月 撮影 》 )
その36 ・・・・・・・・ 2006年04月07日 21時17分 (公開)
1979年の冬、万年遅刻男の私は、ジョージ先生の怒りの洗礼を受けたわけで
す・・・・・・。
その後、ずいぶん時間が経ってから先輩アシスタントに・・・・・・
「 小池君・・・ あの頃、先生は小池君をクビにしようかどうしようか迷って
たらしいよ・・・・・・・。」
つまり私は、まさに首の皮一枚を残して助かったわけです・・・・・・。
遅刻ぐせ、不眠、中途半端な人生・・・・・ 自己嫌悪と自信喪失の毎日・・・・・・
20歳代の上昇志向は、自己改革への強い欲求を生むものですが、私も例外で
はなく自分の暗さや無気力な性格から脱却したいと思っていました。
ジョージ先生と話し合っていて、よく言われたのが、
「 明るくなれ 」( 何度も、何度も、私の顔を見るたびに言われました )
そして、私の漫画に対する芸術的な憧れや小難しい理屈を全否定しつつ・・・・
「 漫画はエンターティメントだぜ! 」と・・・・
さらに、暗く黙り込んでいる私に・・・・・
「 おみィ~は、コツコツ暗い世界を下に向かって穴を掘っている様なモン
だぜ・・・・。 その内、下からガスが噴出しておみィ~はガスを吸って
くたばる! 」
先生は、薄笑いを浮かべて私の顔をのぞき込む。 最後に声を大きくしてキ
ッパリと・・・・
「 上を見ンかい、上を! でっかい空を! 明るい世界があるんだぜ! 」
まったくその通りだし、反抗するつもりもなかったのですが、ただどうすれ
ばいいのか・・・・・・?
具体的にどうすれば良いのか・・・・・・
まったく、チンプンカンプンだったわけです。
とにかく、積極的に何かしなくてはいけない・・・・・・行動を起こさなくてはダ
メだ・・・・・・
この頃から・・・・・・
暗いエゴの泥沼を進みながら、少しだけ・・・・スタートラインが見えて来て
いました・・・・・。
1979年( 24歳 )頃の私はまだ同人誌に関わっていました。
ジョージ先生からは『 同人誌なんかやめちまェ! 』と、バカにされていました
が・・・・。
しかし、辞める事にためらっていました。
ささやかに自分の漫画を発表できる場を失いたくなかったのです・・・・ ( それに、
同人誌で女の子と知り合う機会を失いたくなかった・・・ )
自分の意識を変える・・・・ 自己改革・・・・・
その機会はユミさんが秋山プロを辞めた時にやって来ました・・・。
その頃は、まだハッキリとは意識していませんでしたが・・・・ 今から思い起こ
すとまさに、この時、この機会に、自分の中でなにかが変わりました・・・・・・・。
この事は次回に・・・・・・・・・。
( この写真は、東京、目白の秋山プロのドア前から見た池袋方面の遠景である。《'06年4月 撮影》 )
その37 ・・・・・・・・・ 2006年04月14日 00時38分 (公開)
ユミさんが秋山プロにいた時は、仕事場の雑用は全て彼女がこなしていました
・・・・・・掃除、買い物、電話番・・・・・。
しかし、ユミさんが辞めるとこれらの雑用を新しく入ったA君がやらされる事
になりました・・・・。
私は自分を変えたい、積極的に何かやりたいと思っていましたので、トイレ掃
除を自分から申し出ました、
「 先生、トイレ掃除をやらせて下さい! 」と・・・・・。
ジョージ先生は冗談半分で・・・・・・
先生 「 困ったにィ・・・・オリがやろうと思ってたんだよなァ・・・・・・・。 」
私 「 え~? 」
先生 「 おみィ~に取られちゃうのか・・・・・まあ・・・・・いいか・・・・・。 」
妙な会話ですが、私はこうしてトイレ掃除係りになったわけです・・・・・。
1~2年の修行のつもりで・・・・・・ そう・・・精神修行のつもりで自分から進んで
トイレ掃除をする・・・・・・。
この事が自分という人間を変える大きな一歩になりました・・・・・。
たぶん・・・・・。
・・・・しかし・・・・・・・私の目論見はあくまで、1~2年の修行・・・・そして・・・・華々
しく漫画家デビューする・・・・・・という甘いものでした。
まさか20年以上も秋山プロの便器を雑巾がけすることになろうとは・・・・・・こ
の時は想像だにしていませんでした・・・・・。
この頃から私は同人誌に見切りをつけ、デビューのために商業誌向けの本格的
な漫画制作に入ります。
不思議と遅刻の回数も減っていきました。
「 明るく 」なる事を目指す事が、不眠に苦しむ時間も減らしていきますが、こ
うした生理的変化は、とてもゆっくりしたもので、ハッキリとその変化を自覚
できるまでには2~3年かかりました。
漫画を趣味的な夢ととらえて、中途半端な「 芸術 」表現と気取っていた事から
・・・・・・商業主義の世界へ、その方向性を大きく変える・・・・・
この事が、それまでのマンガの画風さえ完全に変えて行きます。
秋山プロに入る前にいた、村野守美先生の所で受けた背景画法をそのまま未熟
な画力で実験していました。
私は、その誤りにもようやく気づき・・・・先輩たちの背景画法から学ぶべきは学
ぶ姿勢をとるようになりました。
次回は、具体的なアシスタントの背景画法について、書いてみたいと思います。
( この写真は、東京、豊島区南長崎の『トキワ荘』とその隣の『うさぎ荘』があった辺りである。《'06年2月 撮影》 )
その38 ・・・・・・・・・・・・ 2006年04月21日 19時43分 (公開)
1978年、春。 秋山プロで私がはじめて描いた背景は、1ページ断ち切りの川
ぞいの古い町並みでした・・・・。
この背景が漫画雑誌ビックコミックオリジナルの「 浮浪雲 」に掲載されたのは
絵を完成させてから3~4ヶ月たってからでした。 ( この背景はコピーされて、
この後15年位の間に何回か使用されました )
漫画背景は漫画家先生やそのアシスタントの個性によって多種多様なバリエー
ションがあります。
私の場合は、かわぐちかいじ先生( 『第2章22年改訂版その7』~『その17』参
照 )の影響を強く受けていたので、かなり劇画調でした。
資料写真に忠実に丸ペンを使ってカリコリ細かく描いていくといった感じで・・・
・・・・・。
秋山プロに入った当時( 1978年春 )、アシスタントの仕事をナメきっていた私は、
ジョージ先生の背景を描くこの仕事を自分の漫画背景のための実験の場として
考えていました。
村野守美先生( 『第2章22年改訂版その18~23』参照 )の所で見聞きした斬新な
画法。迫力のある構図や大胆なタッチ。
その芸術的な背景世界にあこがれ、事もあろうにジョージ先生の背景にそれを試
していたのです・・・・!
私に画力が備わっていればまだしも、まるで実力の伴わない「 芸術的背景 」は、
まさに「 奇妙な凡作 」と成り果て、それはジョージ先生をして『 あいつはクビ
だ! 』と決断させかねない、危険極まりない大チョンボでした・・・・・・・。
背景技法で試したかった事は、ペンを使わずに筆とスクリーントーン処理だけで
絵を完成させる事や、奇抜で( 粗雑な )実験的な構図を考え出す事でした。
しかし・・・・・・・そんなお気楽な期間は1年足らずで終わります。
前回、書きました様にジョージ先生の「 一喝 」(まさに雷撃)で全て変わって
しまいました・・・・・。
筆を使って、個性を出そうとか・・・・・奇をてらった構図で目立とうなどと考えた
りした事・・・・・・・それらの事が全て『 嘘の絵 』になっていたのです・・・・・・
自分の絵も人生そのものも『 嘘の絵 』を塗りたくっていたのです・・・・・
まるで、泥沼に頭から突き落とされて、そのドロドロの中でもがいているとい
った感じでした・・・・・
「 しかし・・・ 」と言うべきか「 だからこそ 」と言うべきか・・・・・・その内に手
の中に何か手ごたえのあるモノをつかんでいたのです・・・・・・
まったく人生とは不思議なものです・・・・・・。
自分の絵の『 嘘 』に向かい合った時、私の中で新しい自分が生まれるのです
が・・・・・・・・
古い自我が崩壊し、頭が真っ白になっていく経験は「 とてもいい経験でした 」
などと言えるものではなく・・・・・・・
それは・・・・・・単にゲロ吐きそうな苦痛でしかありませんでした・・・・・・。
秋山プロでの1年目がこうして終わろうとしていました・・・・・・・・。
(持ち込みのための習作)
その39 ・・・・・・・・・・・・ 2006年04月29日 02時29分 (公開)
上の漫画は、私が秋山プロに入って最初に描いた持ち込み用( の、つもりの! )
原稿の一部です。( 実は・・・持ち込み以前にボツを予想し、お蔵入りに・・・! )
1979年、春・・・・ 24歳・・・・
この頃は、なぜかベタ筆で背景を処理したり、自分のキャラクターをペンでは
なく
筆で描いたりする事にこだわっていました・・・・・。
しかし、それは前回の「 その38 」で書きました様に、ちょっと姑息な( 個性
を演出したいが為の )描き方に過ぎませんでした。
ジョージ先生の「 一喝 」や自主的に仕事場のトイレ掃除を始めた事で、改めて
全てを「 はじめの一歩 」からやり直そうと覚悟を決めたわけです。
全てを「 はじめの一歩 」から・・・・・
当然アシスタントの背景の仕事も初心に帰って先輩たちのマネをする事から始め
ました。 独りよがりの絵ではなく、あくまで素直に先輩たちの背景から学ぶ・・
・・・・
少なくとも私はそのつもりだったのです・・・・・。
秋山プロで一番画力のあったカンさん( 神戸出身、26歳 )の画風をマネする事で
基本を学ぼうと考えました。
カンさんの絵は劇画調というより、ストーリー漫画の正統派といった感じで「 釣
りキチ三平 」の矢口高雄先生の影響を強く受けていました。
正確で丁寧な仕事ぶりは、とても私などがマネできるレベルではありませんでし
たが、当時は真剣にカンさんの絵から学ぼうとしていました・・・・・・。
私としては、一生懸命カンさんの画風に近づく事を毎日心がけたつもりなのです
が・・・・・
ある日、カンさんに意外な事を言われました・・・・・
まったく予想もしなかった事を・・・・・・・・・
カンさん「 小池君・・・・。 最近、ヘタんなったんとちゃうかァ~? 」
私 「 ・・・・えェ・・・・・? そ・・・そうです・・・ かァ? 」
私は、まさか『 カンさんの絵をマネして描いているんですよ! 』とは、とても
言えませんでした・・・・・・・。
カンさんは、私の以前の劇画々々した暗い画風が気に入っていたのです。
この誤解は、100%私の画力が不足しているために起こった事です。 あくまで
「 はじめの一歩 」の通過点に過ぎません。
この頃は、1~2年後に自分流の画風が出来上がるまで・・・・・迷いと我慢の時期で
した・・・・・。
漫画家アシスタント物語、血の教訓
『 アマは、自分の描きたいモノをカッコ良く描こうとする。 プロは、
人( 他者 )が見たいと思っているモノをカッコ良く描こうとする。 』
( この写真は、東京、目白のコ~キュ~住宅街より望むJプロのある某マンションの遠景である。《'06年2月 撮影》 )
その40 ・・・・・・・・・ 2006年05月05日 21時43分 (公開)
自分の画力を上げる事、感性を磨き教養を高める事・・・・・・・それらの事は、自分
のカラに閉じこもっていてはなかなか前に進まないものです。
私は、20代の頃にはいつも自分を変えたいと考えていました。
そして、絵を変える事は自分の人生を変える事につながる・・・・・・その事を、ゆっ
くり時間をかけて理解していきました。
秋山プロでの初めての新年会( 79年1月 )の時です・・・・・
東京、目白の住宅街にあるレンガ塀のオシャレなジョージ先生の自宅・・・・・
奥さんが作ってくれた手料理をご馳走になりながら・・・・・和やかに・・・・・
会食がすすんでいると思っていたら・・・・・・
ジョージ先生とアシスタントのテラさん( 博多出身、27歳 )との間で激しい口論
が起こりました。
それは、テラさんの個人的な恋愛がテラさんの「 まんが道 」に深い影響を及ぼ
すかどうかと言う論争でした・・・・。
先生は、テラさんがどんな女とどう付き合うかは、漫画家に成れるかどうかにも
関わる事だと断言するのですが・・・・・・
テラさんは「 彼女と漫画とは関係ない! 」と、キッパリ反論すると言った感じ
で、新年会に緊迫した空気が流れました・・・・・。
周りで見ている我々( 見物人 )は、興味深い論争をハラハラしながら見ているだ
けでしたが、先生もテラさんも酒が入っていたせいか、かなり熱くなっていた
わけです・・・・・・・
テラさんは、自分の漫画についての話なら素直に聞けもするが、何で先生に自分
の恋人についてとやかく言われ、その上漫画家に成れるの成れないのと言う話に
なってしまうのか・・・・・まったく訳が分らないと腹を立てていました。
テラさんは、顔を真っ赤にしながら言い放ちます・・・・・
「 漫画家に成れないなら、成れないでもかまわないですよ、僕は! 」
決然とした言い方ですが・・・・・・明らかにオーバーヒートです・・・・・
結論的には、漫画制作と実際の恋愛とはジョージ先生の言う通り深く関係してい
ると思うのです。
テラさんは当時を振り返り、先生の言っている事は十分理解できたが、自分の恋
人に対する嘲笑的な評価( かなり年上の女性だったのです )には、どうしても
我慢できなかったそうです。
私が同人誌活動をしていた頃にお世話になった、ある女流漫画家先生( 当時はま
だ無名の新人でした。 )は、こう言いました。
「 漫画と関係が有るとか無いとかじゃなくて、『 全て 』が漫画なのヨ。 」
私は「 はじめの一歩 」から「 まんが道 」をスタートさせるつもりで24歳( 19
79年、秋 )をむかえました。
この年からデビューまでの7年間で、ゆっくり確実に、一歩づつ階段を登って行
きます。( 時々コケますけど・・・ )
その一歩一歩のステップを具体的に書いていきたいと思います・・・・・・・。
「 明日のためのその1 」が、次回「 第4章 」から始まります!
追記 :
拙ブログが出版される時に、登場する漫画家先生方から実名表記の承諾を得て
います。そのため、この「22年改訂版」では、漫画家名や一部の人物、出版社
など、実名表記させていただきました・・・・。
ただ「第4章」からは、以前と同じく「仮名」や伏字などを使用しています。
ちょっと、読みずらいかも・・・・ですが・・・・どうかご了承下さい。
「 漫画家アシスタント 第4章 その1 」 へつづく・・・
【 「漫画家アシスタント第3章 22年改訂版 まとめ3」へ戻る 】
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私(yes)の履歴書
1955年昭和30年 東京生まれ 世田谷区立駒沢小学校卒。 14歳より、映画館
のキップ切り、ビル清掃人、冷凍食品倉庫、等々(10数種)
1974年昭和49年 19歳より、漫画家アシスタントを始める。以降 漫画履歴・・・
1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
3,4ヶ月のお手伝いでした。(19歳)
1975年昭和50年 かわぐちかいじ先生 この当時の氏は今ほど有名ではありま
せんでした。背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)
1976年昭和51年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と噂され、エピソードには事
欠きません。たった1週間しか、勤まりませんでした。(21歳)
1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリジナル
に連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの主演でTV
ドラマ化されていました。(23歳)
1984年昭和59年 あと1年で、30歳! 焦っていた。 漫画制作に没頭。出版社め
ぐりの日々。(29歳)
1985年昭和60年 「ヤングジャンプ新人漫画賞」にて、奨励賞、努力賞、佳作賞、
受賞。
1986年昭和61年 「雨のドモ五郎」が、「ヤングジャンプ」新人漫画賞準入選。本
誌に2色指定で掲載。事実上のデビュー作。これが同誌への
最初で最後の作品となる。(31歳)
1989年平成元年 別冊(!)ヤングジャンプ「ベアーズクラブ」にて、100ページ
読み切りの「蟹工船・覇王の船」(小林多喜二原作)を発表。(34歳)
1992年平成4年 宇都宮病院事件の「悪魔の精神病棟」を原案とした書き下ろし
単行本「サイコホスピダー」製作開始 (37歳)
1995年平成7年 タイ王国チェンマイ郊外の山村にて結婚。(40歳)
1996年平成8年 三一書房より「サイコホスピダー」初版出荷、初版で絶版。(41歳)
2008年平成20年 拙ブログ「漫画家アシスタント物語」がマガジン・マガジン社に
て書籍化、「雨のドモ五郎」収録。(53歳)
2008年平成20年 TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」にゲスト出演、漫画家ア
シスタントについて語る。(53歳)
2008年平成20年 「劇画 蟹工船 覇王の船」宝島社より「覇王の船」が加筆訂正さ
れ完全版として出版。小説「蟹工船」収録。(53歳)
2009年平成21年 新宿の宝塚大学、漫画学科で非常勤講師になり、「背景美術」
を担当する。
2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、43年のアシスタント人生を終え、タイ・
チェンマイにて隠居中。(62歳)
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( 注:不確かな記憶によって記されている個所があります事をご容赦下さい )
【 各章案内 】 「第1章 改訂版」 「第2章 改訂版」 「第3章 改訂版」
「第4章 その1」 「第5章 その1」 「第6章 その1」
「第7章 その1」 「第8章 その1」 「第9章 その1」
「諦めま章 その1」 「古い話で章 その1」
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」
( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )