テレビとうさん

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「科学」 と 「確率」

2020年11月22日 | ニュース
 「モノ」と「モノ」は衝突できますが、「ヒカリ」同士は「透明」な為に衝突できません。しかし、「ヒカリ」は「モノ」に当たると反射したり吸収され、これは衝突と言えます。また、「ヒカリ」は「大気」を抵抗無しに通り抜けているようにも見えますが、空が青く見えたり赤く見えたりする事から、「ヒカリ」も大気に衝突していると言えます。

 少し前までは、「ニュートリノ」の質量は0で、あらゆる「モノ」を通り抜けると言われていましたが、スーパーカミオカンデで実験しているのは「ニュートリノ」が50万トンの水に対し、1日に30ヶほど「衝突」している現象を利用しています。この時の「衝突」は、通常の「衝突」ではなく「チェレンコフ放射」のことで、「荷電粒子が(媒質の中を)光速以上で通過する時の発光現象」で、ここでは「相互作用」を確認できる場合を「衝突」と定義しています。

 「衝突後」に、外見上何も変化が見られなくても「衝突時」に何かを観測できれば「衝突」と言えます。例えば、ビリアードで「同じ色の球」を2ヶ直線状に衝突させると、外見上は「球が通り抜けたように」見えますが、実際には、球の動静は入れ替わっています。

 壁に頭をぶつけると痛いので、確かに衝突しているように感じますが、衝突時の現象を「電子顕微鏡」で見ても、実際には接触すらしていません。原子同士がある程度の距離を保って反発しているだけです。

 鏡を使えば自分の姿を見る事が出来るような気もしますが、実際には「自分に当たった光が反射して鏡に当たり、入射角と反対側に同じ角度で反射した光が自分の目に入って来る」だけであり、決して「自分の姿」を見ている訳では有りません。化粧をした場合は尚更の事、自分の顔に付着した顔料の反射光を見ているに過ぎません。

 人間からあらゆる(知覚)神経を取り除いた場合、壁にぶつかっても、それ以上進めない事は「認識」出来ても、衝突したかどうかは「認識」出来ません。第三者に確認してもらっても、その人にも視覚や聴覚がないので「衝突」しているかどうかは判りません。

 最初に「ヒカリ」同士は衝突できないと書きましたが、実際にはビリアードの球の様に「光子が衝突」して互いにその特性を入れ替えて「鏡面反射」しているのかも知れません。但し、光子には質量が無いと(定義)されているので、確認は出来ないと思います。

 人間は「認識」出来ない事は知ることは出来ないのですが、「科学」では推論する事が可能で、実験によって「推論」を否定する事だけは出来ます。例え実験で肯定的な結果が出ても、それは「確率的に正しい」だけであり「普遍性を証明した事にはなりません。

 「文学」では妄想する事が可能ですが、その妄想を確実に否定する事が難しく、その特性を利用して、しばしば反論する人を「無知」と結論付ける人を見ます。それは、科学とは逆に「非常に小さな確率でも、有り得ないとは言えない」ことに起因します。

 言論でも時々「衝突」は起きますが、「科学」と「文学」の組み合わせでの「衝突」は、互いに透明なので「認識」する事は出来ません。「科学」は「文学」ではないし、「文学」は「科学」とは言えません。「人文科学」や「社会科学」は「科学」の名を借りて、如何にも「科学的な学問」の様に見せていますが、実際にはその要素が多様で煩雑な為に各事象の「確率」が非常に小さくなり「科学的」に証明する事が困難な事を利用して「科学」と言い募っているだけです。それは、「経済学」と同様に、特定の人間の行動でしかない「株式投資」ですら、確実に利益を出す事が困難である事からも理解できます。

 地球上でたった一人の特殊な病人を探し出し、「人道的な心で」莫大な犠牲を払うのは「科学的」には困難ですが、「文系学者」なら妄想で解決できるかもしれません。AIで解決できない問題は、「文系学者」の多い学術会議の会員にお願いするのが良いと思います。

 「理系」は確率の高い方から解決しようとしますが、「文系」は特殊な例を持ち出して解決を迫ります。ダム建設は、自然の驚異から人命を救う確率はかなり高いのですが、人工物による自然破壊の問題点を際立たせて工事を止めます。

 確率の上では、明らかに「ダム建設」の方に分がありますが、「文系」の人は結果が出ても反対し続けます。球磨川が氾濫し、死者・行方不明者67人を出しても「川辺川ダム建設」に反対する人もいます。「理系」と「文系」の議論は、いつまでも透明な空を行きかうだけです。

--- 偽音生者の金の声 諸行無常の響きあり ---




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