この当時、日本最年少の「日本泳法直伝のライフセーバー」が東京都足立区千住元町2番1号で誕生いたしました。
その時の記念にいただいた書画です。
大の字に水に浮きながら、筆を持って書いていただいた特別な書画です。
私は小学校&中学校と学校で1~2番を争う水泳選手でした。
ちなみに小学校時代は学校にプールが無かったので、北島康介で有名になる前の東京スイミングクラブの選手コースで交通費以外費用が掛からないクラスで泳いでいました。
バタフライでは中学校時代に東京都で6位入賞位までは行きました。
多分、中学卒業(足立区立第三中)から高校(早稲田実業学校高等部)に入学する時に盲腸虫垂炎の手術をしていなかったらそのままショボイ水泳の選手として、スイミングスクールのコーチになっていたかもしれません。
当時の手術では切開する部分が多くて1年間、水に入ったままトレーニングする事が禁じられていました。
高校生の1年間は1/16(16分の1)ですので相当密度が濃い事もあって水泳部に入る事は断念致しました。
当時は体重別に階級の有るボクシングに興味があったのですが、タコ八郎さんのようなパンチドランカーになっては困ると言う事で両親が許してくれず、仕方がなくラーメン屋でラーメンを池袋の雀荘やトルコ(ソープランド)に配達し、学費を稼ぎながら池袋にある極真会館の本部道場に通っていました。
極真会館の当時は体重別の階級が作られていなく、体が大きいもの勝ちと言う状況でした。
その中で「もんたよしのり」に似た川畑さんと言う小さい方がいて、大きい人に上段回し蹴りを入れているところに憧れていたものでした。
その後に知るウイリーウイリアムスに挑むオリバー選手のような感じの選手でした。
川畑先輩の顔面に外回し蹴りを入れられた時には、メチャクチャ嬉しかったです。
倒す事は全く無理でしたが、褒められたので「押忍!失礼いたしました!」と言った後も自分のボディーをわざと開けてくれて正拳突きが出来るようにして下さった素晴らしい先輩でした。
少し年上?に松井と言う中段から上段に蹴り返す、今でいうブラジリアンキックみたいな蹴りを出す天才的な高校生がいた事も覚えています。
学ラン姿も見たような気がします。
確か内弟子の様でした。
今現在、彼は二派に分かれてしまった極真空手の一方の館長です。
当時の極真空手は世界大会を控えていて中村誠さんや遠くから三瓶啓二さんが遠征に本部道場に来たりしていました。
二人は顔を合わせない様にしていたことを微かに覚えております。
私は夜の第三部に出ると必ずサンドバックにされていました。
特に中村さん達にサンドバックにされていた黒帯の連中が質が悪く弱い者いじめ状態でした。
みぞおちにパンチが入ると呼吸が出来ないのですが、「押忍まいりました!」と言わなければ、立ち上がるたびと言うか倒れても蹴りを見えない様に入れられていました。
呼吸が出来なくても立てば同じところを殴られたものでした。
仕舞いには立てなくなり、道場の隅に引きずられて転がされていた記憶があります。
ウィリーウィリアムズ VS アントニオ猪木 時代には、同級生から茶化されて高校の援部(応援部)の先輩から呼び出しがかかっているぞ!お前が行かないと俺らがシバかれるから必ず行けよ!と言われたので、両手に石を持って校舎裏に行ったのでした。
結局、先輩の中で誰かが止めたのか?誰も来ませんでしたが、、、。
当時は荒木大輔が高校野球の投手として活躍していた時でしたので、出場停止にならない様にと言う配慮があったのかもしれません。
そんなこんなに嫌気がさして、高校三年生の時には極真空手を辞めて学園祭で「大輔弁当」を売っていた軟派君なのでした。
同じクラスに「原大輔君」がいたので嘘ではないです。
そんな思い出深い高校の3年間でした。
学校での思い出は、オギューと羽賀君が廊下でキャッチボールをしていたり、授業をボイコットしてサテンでたむろったり、路上や電車の中でヤンキーとチョメチョメしていた思い出の方が色濃く残っています。
で、元に戻りますが、3年生時代は帰宅部でしたので、足立区で募集していた水難救助員の募集があったので、家に帰るとすぐそばのスーパーヤオシチに行って角ばったチーズを1本買ってバスに乗り込んで域に半分、帰りに半分食べながら夕食として資格取得の為に勉強していたのです。
そこで、高校3年生の前半の間に資格を取ってしまったので(潜水75m以上とか簡単にクリアしていました。50mで良かったんですけれどもね。)「龍」の称号を頂いたのでした。
思いっきり話は飛びますが、私が高校生の時には母校の小学校には屋上にプールが出来上がっていて、高校3年生の時には母校に監視員&指導員として夏休みの間、足立区の臨時職員として働いていたのでした。
そこで知り合ったのが初めの嫁さんで、結婚するまで(社会人になるまで)5年ほど付き合ってから、出来ちゃった結婚をしたので、女遊びは全然していなかったのです。
これ本当の話です。
22or23歳~59歳まで婚姻関係にあったのでした。
離婚の原因は私に寄ってくる女に手をと言うか「あそこ」を出してと言うかだされたあそこに何を入れてしまった為です。
まあ、本能のままに生きてきたのでしょうがない話ではあります。
TIMEの売り上げ世界一とか(世界限定車300台のうち76台販売するとか)仕事も頑張ったし、4時間30分睡眠で毎日150㎞走りに入ったりで走る方でもそこそこ名前が知れるようになったのが良かったのか?悪かったのか?
そんなこんなで色々とあり沖縄の宜野湾の最上階のマンションは手放すは、駐車場は手放すは、鉄骨3階建ての5LDKの自宅は手放すは、横浜のマンションは手放すは、唯一の見方だと思っていた次女の真美に預けた¥20,000,000はパクられるは(結婚してからご祝儀にもらったと言い張っています。多分旦那が悪い。)で、運転資金がほとんど無くなりどん底を見させていただきました。
今は、社会人まで育て上げた4人の子供達との交流は全くありません。
中学から予備校に通い、高校から私立に通いながら予備校にもお金がかかり、4人の子供達にはおそらく1億円以上は優にかかったと思います。
2人はダブっているので、余計にお金ばかりかかりました。
しかも長男はホストの売掛金の回収の為傷害罪を起こして警察に捕まりました。
相手との示談は私がやりました。(喧嘩両成敗で示談金ZEROと言う奇跡!)
末っ子は薬学部でダブったので、7年目は離婚調停中に彼女の授業料を払っていました、、、。
国家試験に受かったかどうかの連絡は西川がネットで調べてくれました!
「親父を殺してくれるならば¥5,000,000位払ってもいいけど誰か知らない?」
とか家族ラインを垣間見るにあたって、除籍は出来ないが、相続できない様に排除と言う手続きができると言う事で弁護士さんとは話が付いています。
と言う事で61歳で自転車しかやってこなかった訳ではありませんが、水泳からトライアスロン~自転車の繋がりでかれこれ41年ぐらい自転車業界で生きている訳です。
一応、独身子供なしです。
で身軽になった矢先に、とんでもない事が起こったのでした!
今の私には自転車しかありません!
そんな私に何と言う事でしょう!
神様が試練を与えてくれたのでした!
鯉よ、もう一度「龍」になれと!
意味なく続くかも、、、。
m(__)m⇩