5月4日、7月7日、8月15日、9月3日、9月18日、12月13日
この日は何の日かご存知でしょうか?
中国ビジネスに携わる方はぜひ知っておきた6つの日です。
下記は詳細な解説です。ご覧ください。
■5月4日→1919年5月4日「五四運動」
「五四運動」とは1919年5月4日に中国の学生や知識人が起こした「反日」、「反帝国主義」を掲げる大衆運動。第一次世界大戦の「ベルサイユ講和条約」の結果に不満を抱き、中華民国時の北京の天安門広場でデモをきっかけに全国に広がった。1919年の「5月4日」に発生したので、「五四運動」とも呼ばれる。
「ベルサイユ講和条約」とは1914年に始まった第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称である。最終的には1919年6月28日にフランスのベルサイユ調印された。調印に先立ち中国では反日運動、反帝国主義運動の機運が盛り上がる。
袁の後継者である北京の軍閥政権は学生を逮捕し運動を弾圧したが、反日運動として各地に波及した。労働者によるストライキが全国的な広がりを見せ、最終的に学生を釈放せざるをえなくなった。また、6月28日には中国政府はベルサイユ条約を拒否。この運動は広がっていく過程で日貨排斥運動としての性質を強くし、全国的に広がっていく。アメリカでも華僑が中心となって誘導による日本製品の不買運動がみられた。(以下、ウィキペディアを参考に筆者による要約)ウィキペディア
■7月7日→1937年7月7日「盧溝橋事件」(ろこうきょうじけん)
「盧溝橋」とは北京の南西15kmに位置する豊台区を流れる盧溝河(現在は永定河)に架かる石造りのアーチ橋である。1937年7月7日(昭和12年)にここで起きた発砲事件がきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入した。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった事件である。中国では「七七事変」ともいう。
事件の詳細とは、7月7日22時40分頃、永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。
23時00分頃、行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり)
■8月15日→1945年8月15日「終戦記念日」(日本)
ポスダム宣言を受託し、天皇の玉音放送が行われた日である。日本では8月15日を終戦の基準とし、1963年5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1982年4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。中国では首相の靖国参拝がこの日に行われるかどうかという点で8月15日に注目している。
「戦争終結」に至るまでを厳密に言えば、天皇が御前会議によってポツダム宣言の受諾を決定して中立国を通して連合国に通告したのが8月10日、ポツダム宣言受諾が確定して受諾の詔勅が発せられたのは8月14日、玉音放送が放送されたのが8月15日である。
さらに、軍への正式な停戦命令が行われたのは8月16日、そして、休戦が発効し日本陸海軍が連合国軍に対して正式に降伏を行ったのはポツダム宣言受諾の休戦文書に調印した1945年9月2日である。国際法上の最終的な戦争終結は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が発効した1952年4月28日をもって正式の日付とするという見方もできる。
8月15日は、国民がポツダム宣言の受諾を天皇の玉音放送という形で受け入れ、事実上の「戦争終結」の日として広く認知されたことになる。日本国民にとっての「戦争が終わった日」であると言えるだろう。
■9月3日→1945年9月3日「抗日戦争勝利記念日」
中国では9月3日が「抗日戦争勝利記念日」となる。日本国民にとって「終戦記念日」は8月15日にであるが、中国にとっての記念日は9月3日である。戦勝国である中国では「抗日戦争勝利記念日」と言う。
日本はポスダム宣言を受諾して連合国に降伏した。9月2日に戦艦ミズーリ号艦上で日本側重光葵外務大臣を政府全権とする代表団が降伏文書に調印した。これをもって正式な「戦争終結」とし、トルーマンはラジオ演説を行い、日本が正式に降伏したこの日をVJ Day (Victory over Japan Day)と宣言した。
連合国の一員だった中華民国(当時の国民党政府)は日本政府が降伏文書に調印した9月2日の翌9月3日から3日間を抗日戦争勝利記念の休暇としたことをで「対日戦勝記念日」を9月3日としている。1949年に成立した中華人民共和国も、中華民国と同じく9月3日を「抗日戦争勝利記念日」とした。中国や台湾では8月15日ではなく9月3日が戦争終結の日となっている。
また、台湾では10月25日を「日本の統治からの解放記念日」(台湾光復節)としている。1045年10月25日に台湾光復式典が開かれ、日清戦争で結ばれた下関条約(1895年〕から50年間に及ぶ日本統治から解放され、「祖国復帰」を祝った。
■9月18日→1931年 9月18日「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)
1931年9月18日(昭和6年)、現在の中国東北部である満州の奉天(現在の瀋陽市)の近郊にある柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本が所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破されたとされる事件。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用した。
これによって関東軍は軍事行動を起こして中国東北部を占領する。その後、現地の抗日運動との衝突が徐々に激化し、日本側は軍部の発言力が強まり、日本は日中戦争(支那事変)の道を進んでいった。中国側の呼称は「九一八事変」、満州での事変拡大は中国民衆のはげしい反日感情を生み、いたるところで「抗日救国」の活動が広まった。
■12月13日→1937年12月13日「南京大虐殺」
1937年日中戦争で日本軍が当時の中華民国の首都である南京市を攻撃、12月10日より総攻撃を開始され、12月13日に南京は陥落した。日本軍はこの一連の戦闘と12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の「掃討作戦」で、大規模な残虐行為を行ったとされている。中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件を南京大虐殺と呼ぶ。
中国での呼称は「南京大」、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれることもある。(※この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている。事件の概要と経緯、論争のポイントにについて詳細はウィキペディアを参照)
この日は何の日かご存知でしょうか?
中国ビジネスに携わる方はぜひ知っておきた6つの日です。
下記は詳細な解説です。ご覧ください。
■5月4日→1919年5月4日「五四運動」
「五四運動」とは1919年5月4日に中国の学生や知識人が起こした「反日」、「反帝国主義」を掲げる大衆運動。第一次世界大戦の「ベルサイユ講和条約」の結果に不満を抱き、中華民国時の北京の天安門広場でデモをきっかけに全国に広がった。1919年の「5月4日」に発生したので、「五四運動」とも呼ばれる。
「ベルサイユ講和条約」とは1914年に始まった第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称である。最終的には1919年6月28日にフランスのベルサイユ調印された。調印に先立ち中国では反日運動、反帝国主義運動の機運が盛り上がる。
袁の後継者である北京の軍閥政権は学生を逮捕し運動を弾圧したが、反日運動として各地に波及した。労働者によるストライキが全国的な広がりを見せ、最終的に学生を釈放せざるをえなくなった。また、6月28日には中国政府はベルサイユ条約を拒否。この運動は広がっていく過程で日貨排斥運動としての性質を強くし、全国的に広がっていく。アメリカでも華僑が中心となって誘導による日本製品の不買運動がみられた。(以下、ウィキペディアを参考に筆者による要約)ウィキペディア
■7月7日→1937年7月7日「盧溝橋事件」(ろこうきょうじけん)
「盧溝橋」とは北京の南西15kmに位置する豊台区を流れる盧溝河(現在は永定河)に架かる石造りのアーチ橋である。1937年7月7日(昭和12年)にここで起きた発砲事件がきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入した。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった事件である。中国では「七七事変」ともいう。
事件の詳細とは、7月7日22時40分頃、永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。
23時00分頃、行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり)
■8月15日→1945年8月15日「終戦記念日」(日本)
ポスダム宣言を受託し、天皇の玉音放送が行われた日である。日本では8月15日を終戦の基準とし、1963年5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1982年4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。中国では首相の靖国参拝がこの日に行われるかどうかという点で8月15日に注目している。
「戦争終結」に至るまでを厳密に言えば、天皇が御前会議によってポツダム宣言の受諾を決定して中立国を通して連合国に通告したのが8月10日、ポツダム宣言受諾が確定して受諾の詔勅が発せられたのは8月14日、玉音放送が放送されたのが8月15日である。
さらに、軍への正式な停戦命令が行われたのは8月16日、そして、休戦が発効し日本陸海軍が連合国軍に対して正式に降伏を行ったのはポツダム宣言受諾の休戦文書に調印した1945年9月2日である。国際法上の最終的な戦争終結は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が発効した1952年4月28日をもって正式の日付とするという見方もできる。
8月15日は、国民がポツダム宣言の受諾を天皇の玉音放送という形で受け入れ、事実上の「戦争終結」の日として広く認知されたことになる。日本国民にとっての「戦争が終わった日」であると言えるだろう。
■9月3日→1945年9月3日「抗日戦争勝利記念日」
中国では9月3日が「抗日戦争勝利記念日」となる。日本国民にとって「終戦記念日」は8月15日にであるが、中国にとっての記念日は9月3日である。戦勝国である中国では「抗日戦争勝利記念日」と言う。
日本はポスダム宣言を受諾して連合国に降伏した。9月2日に戦艦ミズーリ号艦上で日本側重光葵外務大臣を政府全権とする代表団が降伏文書に調印した。これをもって正式な「戦争終結」とし、トルーマンはラジオ演説を行い、日本が正式に降伏したこの日をVJ Day (Victory over Japan Day)と宣言した。
連合国の一員だった中華民国(当時の国民党政府)は日本政府が降伏文書に調印した9月2日の翌9月3日から3日間を抗日戦争勝利記念の休暇としたことをで「対日戦勝記念日」を9月3日としている。1949年に成立した中華人民共和国も、中華民国と同じく9月3日を「抗日戦争勝利記念日」とした。中国や台湾では8月15日ではなく9月3日が戦争終結の日となっている。
また、台湾では10月25日を「日本の統治からの解放記念日」(台湾光復節)としている。1045年10月25日に台湾光復式典が開かれ、日清戦争で結ばれた下関条約(1895年〕から50年間に及ぶ日本統治から解放され、「祖国復帰」を祝った。
■9月18日→1931年 9月18日「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)
1931年9月18日(昭和6年)、現在の中国東北部である満州の奉天(現在の瀋陽市)の近郊にある柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本が所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破されたとされる事件。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用した。
これによって関東軍は軍事行動を起こして中国東北部を占領する。その後、現地の抗日運動との衝突が徐々に激化し、日本側は軍部の発言力が強まり、日本は日中戦争(支那事変)の道を進んでいった。中国側の呼称は「九一八事変」、満州での事変拡大は中国民衆のはげしい反日感情を生み、いたるところで「抗日救国」の活動が広まった。
■12月13日→1937年12月13日「南京大虐殺」
1937年日中戦争で日本軍が当時の中華民国の首都である南京市を攻撃、12月10日より総攻撃を開始され、12月13日に南京は陥落した。日本軍はこの一連の戦闘と12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の「掃討作戦」で、大規模な残虐行為を行ったとされている。中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件を南京大虐殺と呼ぶ。
中国での呼称は「南京大」、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれることもある。(※この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている。事件の概要と経緯、論争のポイントにについて詳細はウィキペディアを参照)
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