制作好房

初志貫徹 ~志無くして進歩なし

平成24年奉納曳山(第拾六號 幕洗川二区 ~ 第弐拾弐號 将軍野四区)

2012年07月31日 21時01分02秒 | 土崎港曳山祭り
つづきです。

第拾六號 幕洗川二区
外題
「天見据え 蹶起鼓舞す 又左の長槍」
解 説
 戦国乱世、前田又左衛門利家は織田信長の天下取りに仕えた。
槍術に長けた若武者は幾多の戦で武勲を挙げ、「槍の又左」と名を馳せた。
一五六一年織田軍の美濃斎藤龍興攻めに、実弟藤八郎と参陣、
森部の戦で美濃国一の豪傑者「頸取足立」と恐れられていた足立六兵衛を、三間半柄の十字槍で仕留めた。

見返し
「天空へ 復興祈願の 電波塔(スカイツリー)」



第拾七號 将軍野二区
外題
「忠臣楠子 はためく菊水」
解 説
 建武三年、後醍醐天皇より菊紋を賜った楠木正成と反旗を翻した足利尊氏。両雄は湊川を決戦の地とした。
足利軍直義三万余、対する正成軍僅か七百。激闘の末、正成は最期の時を迎える。
後に尊氏は「誠に賢才武略な勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまんぞなかりける」と忠臣正成を惜しんだのである。

見返し
「市長さん!! ゴミ有料化で パンダ誘致は優良か?」



第拾八號 将軍野三区
外題
「豪槍断ち切る 鬼の一閃」
解 説
 慶長20年(1615年)5月6日、大阪夏の陣片倉小十郎重綱は病床の父景綱に代わり、一千の軍勢を率いて伊達家の先鋒を務める。
大阪道明寺口に集結した片倉隊は、攻め寄った大阪方の後藤又兵衛勢を迎え撃ち、これを撃破。
この日片倉隊は九十を超える兜首を揚げ、重綱自身も四騎を討ち取る。
これにより重綱の武功は天下に轟き、父に劣らぬ知勇兼備の名将として『鬼の小十郎』と称された。

見返し
「復興(みらい)への 光に影さす 原子力」



第弐拾號 将軍野一区
外題
「巨星が放つ 三方ヶ原 最後の攻防」
解 説
 元亀三年(1,572年)悲願の上洛を果たすべく、信玄甲府をあとにした。目指すは念願の京都へ。
上洛の道筋、浜松城主家康それを拒み、三方ヶ原に鶴翼の陣形を形成する。
合戦と成るや、武田軍の先陣小山田信茂の飛礫隊が得意の投石を始めた。後、無敵の騎馬軍団が怒涛の突撃をして撃破。
だが、途中巨星が墜ち、京都は遠かった。

見返し
「反原発 民主に頼るも ダメな野田(ノダ) 」



第弐拾壱號 鉄道社宅
外題
「鎧袖一触 伊達者の撫斬」
解 説
 天正13年(1585年)、伊達政宗は大内定綱攻撃のため、小手森城へ総攻撃をかけ、その日のうちに落城させた。
このとき、正宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供さらには、
牛や馬に至るまで全て撫で斬りにし、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。

見返し
「ロンドンで メダルをねらう 湊っ娘」 最優秀賞



第弐拾弐號 将軍野四区
外題
「忠義貫く 紅蓮の魂」
解 説
 天正十年六月二日早暁、明智光秀の軍一万五千の兵が、主君織田信長の寝床、本能寺を取り囲んだ。
宿泊していた信長主従総勢わずか百名足らず、家来たちは寝巻き姿で懸命に主を守って戦う。
勝ち目の無いところを最後まで戦い抜いた家来たちは後世【忠義の鑑】とたたえられ、中でも小姓の森成利(蘭丸)の奮戦が有名になった。

見返し
「ごみ有料 せめて祭りの 後にして」



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当方HP↓(写真の人形と関係ございません)


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