正しい神様は
奇異を起こさない
これは正しいと思う。
私は周りの人に話せないようなことがたくさんあって、何回か死にかけたけど神様はそこにいた。
というか、各々の自分の中にいる。
すでに鎮座しており、あとは個人が岩戸開きができるかできないか。
神様は奇異を起こさないけれど、動物をお使いにするのはあると思う。
白山系の田舎の小さな神社を訪ねた時、カラスが1匹木に止まってきて、枝を上から落としてアピールをしてくれたり。
伊勢神宮外宮に参拝した際には、白蛇様と遭遇したり。(畏れ多くてごめんなさいと謝った)
伊雑宮では小さな子蛇ちゃんにも会った。(こちらもごめんなさいと謝った。下を向いて歩いていなければ踏んでしまっていた…)
あとは、キジや虫、ザリガニなんかも。
カラスが真っ白に見えた瞬間もあった。見間違いではないと思う…でも、そこに意味を求めてはいけない。
神社参拝の折に心に浮かんできた言葉は、感応として刻んでいる。
「愛しています」とか
「良い子(玉のような子、と響いてきた)を産みなされよ」とか
いずれも己の奥から湧き出るような、自燈明の言葉である。
あと、気候も神様とダイレクトに繋がっているので…
参拝時に太陽が照ったり、雨が降ったり止んだり、虹が出たり。
白山ひめ神社に参拝した際に、
「さっきまで雨だったんですけどねぇ、急に止みましたね」と駅員さんのお話も聞いた。駅から歩いて向かうつもりだったので、その時はとても助かった…もちろん、神様へ感謝の気持ちを伝えた。
と、色々な事が起こっても決して驕ってはいけない。
わたしにはお役目があるとか、特別だとか、神様に愛されているとか、そんな風に染まってしまったら二度と開かれない気がしている。
神様がわたしへ伝えたいのは、そんなことではなくて、
自らを見つめる事、向き合うこと
己の中の神様に気づく事、開く事
奇異を求めるなかれ。平穏の中に、真実はある
などなど、律することを第一にと浮かんでくる。
色んな摩訶不思議の中で生きてきたけれど、決して中道から逸れてはならぬのだ。
私は、わたし。
こうして文章にした事もなかったので、このブログを通して今一度背筋が正される想いである。
なんだか固くなってしまった。
アホ〜で生きてます。
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