聖書と共に

弟子の足を洗う

 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って
父のみ元に行くべき自分の時が来たことを知り
、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後
まで愛し通された。 …イエスは父が全てのも
のを自分の手にお与えになった事、又、自分は
神から出てきて、神に帰ろうとしている事を
思い、

夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬ
ぐいをとって腰に巻き、水にをたらいに入れ、
弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始められ
た。こうして、シモン・ペテロの番になった。
すると彼はイエスに「主よ、あなたが、私の足
を洗われるのですか」と言った。

イエスは「私のしている事は、今あなたには分
からないが、後で分かるようになるだろう」
ぺテロはイエスに言った「私の足を洗わないで
下さい」イエスは彼に答えられた。
「もし私があなたの足を洗わないなら、あなた
は私と何んの係わりもなくなる」(ヨハネ13-1~)

 弟子たちは、日頃、彼らの間で誰が偉いのか
という論争をし、ユダは主を売ろうとしていた
時です。当事は足を洗う事は、奴隷の仕事でし
た。
「静まりと黙想の朝に」では、人々は、最初、
教会に来るときに、何か道徳的、倫理的に正し
い人に成らなければならない、と思う。それは
自然であろう。しかし、キリストに洗って頂け
なければ、神の前に正しく、神に喜ばれる者に
なる事はできない。主に罪を洗い潔めて頂いた
ので、神の前に正しい者と言えるのである。

ここから「ヨハネ福音書講義下」からです。
万物の王、栄光の神は、ご自身を低くして、
不信仰な弟子達の汚れた足を洗って下さいます
主の奇蹟の中で、この事より高尚な事は見られ
ません。
今でも、主は、私達を洗いきよめて下さいます
私達の罪を洗って下さる事は、弟子達の足を
洗って下さったのと同じ様に、ご自分を低く
する事です。卑しい者の、汚れたら足を洗い潔
める事は煩わしい事です。

「夕食の席から立ち上がって」。主は、天の
     御座を出立なさいました。
「上着を脱ぎ」ご自分の栄光を脱がれます。
「手ぬぐいをとって、腰にまとえわれ」この
    卑しい人間の体をお取りになりました
「たらいに水を入れ」聖なる御血を流されまし
    た
「手ぬぐいでふき始められた」今、私達に贖罪
    の結果を告げて下さいます。

今でも主は、私達の為に、奴隷となって下さい
ます。主は、喜んで、その事をして下さいます

今、主は、昇天の後でも、やはり、ご自身を低
くして、私達の為に、務めをなして下さいます
これは、絶えない謙遜です。
母は、子供のために、様々な卑しい事もします
愛のために、子供の奴隷の様になります。

「互いに足を洗い合うべきです」私達は、そう
いう心を持っているでしょうか。私達には、
兄弟姉妹の足を洗うほどの愛と謙遜があるで
ょうか。自分を高くしようとする心がありま
せんか。
けれども主の恵みを悟るなら、かえって兄弟姉
妹の足を洗いたいという心が起こって来ます。

謙遜はどこから起こるのでしょうか。愛から起
こる事が1節から、わかります。






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