聖書と共に

一粒の麦

 時は、過ぎ越しの祭(pass over;神の怒りが
ぎ越す)の時期でした。ユダヤ人だけでなく
多くの異邦人(外国人)も、この祭に来ていまし
た。その中のギリシャ人数人が、イエス様に
面会を申し込んで来ます。

その時、イエスは言われた。
「人の子の栄光を受ける時が来ました。
一粒の麦、地に落ちて死ななければ、唯一つの
ままです。死ねば多くの実を結びます。自分の
命を愛する者は、これを失い、この世にて、
その命を憎む者は、これを保って永遠の命に
至ります。」       (ヨハネ12-23~)

ここから「ヨハネ福音書講義」(バックストン)です
 主は、栄光を受ける前に十字架を負わなけれ
ばなりません。
一粒の麦の言葉は、実に深い真理です。
けれども、これは最初から自然界という書籍に
記されている事です。神は私達に二つの書籍を
与えて下さいました。一つは啓示の書籍、すな
わち聖書です。もう一つは自然の書籍、すなわ
ち目に見える自然界です。

 主は、死ぬ事によって、多くの実を結ぶと
言うのです。小さい種を見て下さい。この小さ
い種の中には、大きな木の生命力が、ことごと
く入っています。ちょうど主は神の種の様です「神は、みこころによって、満ち満ちた神の
本質を御子の内に宿らせ」 (コロサイ1-19)
キリストは神の種でした。キリストの内に神の
全ての性質が含まれています。
 
 今この「一粒の麦」について考えますと、
主は、肉をおとりになった時に、地に落ちて下
さいました。主の生涯を見ますならば、人間に
捨てられ、神に捨てられたかの様です。
主は、地に落ちて、罪人の怒り、迫害、反対に
遭われました。一粒の種は、地に留まる事によ
って死んでいきます。主の生涯は死の生涯でし
た。

地に落ちるだけではありません。死ぬのです。
「死ななければ」とあります。これは十字架を
指す言葉です。主は、十字架と、よみがえりに
よって、多くの実を結ぶ事がお出来になりま

一粒の種が死ぬなら、次第に生え出でて、多く
の実を結ぶ事ができます。死ぬなら新しい栄光
ある形を得ます。
 主も、死と、よみがえりによって、新たに輝
く形と、新たな栄光を、お受けになりました。
「ご自分を無にして仕える者の姿をとり人間と
同じ様になられました」これは地に落ちる事。
「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架
の死にまでも従われました」 (ピりピ2-7、8)
これは、まさに死ぬ事です。

「それゆえ神は、この方を高く上げて、全ての
名に優る、名をお与えになったのです」(同-9)
これは、新しい形を得て、多くの実を結ぶ事を
指します。
 主は、よみがえりと昇天によって、どの様な
形を得られたのでしょうか。
それは、教会です。教会はその形です。

 洗礼式は、この事の小さな、ひな型です。
神のうちに、葬られる事です。キリスト者は、
そのうちに、神から栄養を摂ります。
種は地に落ちるなら、地から栄養を摂ります。

死ぬ事を惜しんでいるならば、麦は実を結ぶ事
が出来ません。死ななければ無益です。





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